以前も書いたと思うが、自分のことで呆れるというか、どうにも性分として困ることがいくつかある。全部は書きたくないので一つとりあえずあげておくと、このブログかもしれない。この文章が上がるのはおそらく2月の15日ころになる予定であるが、現在は7日である。お気づきの人もいると思うが、だいたい映画を二日にいっぺん。その間に何か別のものを交互に入れている。だから映画の分は既に20日までは上がっている。たまに今あげたいタイムリーさを感じると、翌日に繰り上げてあげることもあるが、だいたいにおいてこのような感じで、先んじて何か書いている。別段暇だからということでは無くて、逆に毎日上げるのが難しい可能性がある日に備えて、このようなことをしてしまうのかもしれないと思う。ちょっとした時間の空きに、メモなどを見てまとめる。そうするとすぐに文章にはなる。あとで一度か二度見直して校正することもあるし、そうするとまた別の文が出来上がったりする。いくつかの話を掛け合わせることもあるし、逆にそのように別の考えが浮かんで別枠で書いたりするわけだ。続き物はあまり書かないが、それでもたまにはそれもやる。あれこれ考えていた正体が見える場合もあるし、出来るだけ短くと思いながら舌足らずのような気もすることもあって、前段部分が長くなりすぎている。そうすると最初から別の話になったりする。ストックは最小限でいい気もするのだが、そのようにしてたまりすぎることがある。あんまりたまりすぎたな、と思うとさすがに数日寝かせておく。15日以上先になるとだいたいもう書かないのだが、そうすればそうするで、たいてい書かなければ忘れるので、また何かこしらえて書かなくてはならない。そういう性分なので日記はつけないが、こういうものを書いたという記録はつけている。そうするとその記録をつける行為に何らかの快感のようなものがあるらしく、もっと記録を増やしたいような気もする。書き終えてそういう記録が一行増えると、ちょっと満足である。日頃いくつもの複数の案件を抱えていて、それらが完全に終わるなんてことはそんなに無くて、継続していくつかは絡み合い、そうしてまた次の仕事も舞い込む。おそらくそういう気分の中にあって、ブログで何かを書いて終わるということが、ちょっとした精神安定につながっている可能性がある。ブログにはどれくらいの人がやって来たかということが分かるようになっていて、始めたころにはこれが少し励みになっていた。しかし実際のところ、僕のような無名の人間が雑文を書いたところで、読んでくれる人は簡単に増えない。一時期は少し増えて一日に二三百人ということもあったが、そうするとしばらくして今度は少し減っていく。飽きてしまうということもあるのだろうし、そもそも長文なら読まない人の方が多いのだろうとも思う。実際にフェイスブックなどで友達の人からそういわれたこともあって、見に来ているのに読まないのか、と衝撃を受けた。けれど僕だって他人の長い文章を全部読んでいるのかは怪しい。まあ当然か、と思うと気が楽になるというか、そもそも人数を増やすのが目的で書いていたかも怪しいことで、まあ、気にならなくなった。つまるところ自分の問題であるのだから続いているのであって、書いたらまた、一行何をどれくらい何分で書いた、と記録する。別段それは見返さないのだけど、それだけで書いた甲斐があるような気もするから不思議である。そんなだからいつ止めたっていいし、確かに未練もそんなにない気もするんだけど、文章を書いていると自分の考えも確認できるわけだし、何かちょっとだけすっきりすることもある。そうならないこともあるんだけど、そうなる場合もあるのである。結局それで先に備えてまで書いてしまう。こういう性分の人は僕以外にもいると思うが、やはり少しくらいは困ってはいないだろうか。いや、困らないかもしれないが……。
あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。
昨年はロシヤ・ウクライナ戦争が勃発したり、安倍さんが殺されたり、ワールドカップがあったりしましたが、さて、今年はどんな年になるんでしょうか?
昨年は物価高になることを書いたようですけど、それはまあ確定したことでもありましたんで、予想通りになりました。今年もまた、その物価高の圧力はつづくのでしょうか。
戦争の影響はぬぐえませんが、基本的にはコロナによる供給不足が物価を押し上げる要因であることは、間違いなさそうです。既にポストコロナの時代に入っている国が多くなってきており、独自に重い腰を上げた国が出てきたことから、基本的には供給に関する足かせは無くなっていくように感じられます。どこかで逆転現象が起こるかもしれません。それがいつかは予想が分かれることでしょうが、いつかは来そうです。いやいやそんなことないよ、という圧力とどこで接点が折り合うか、ということでありましょう。
そういうことを考えると、少しはいい年になる可能性はあるかな、という希望も湧いてくるものです。個人的には事業を軌道に乗せて、上乗せもしたいところですし、自分自身の環境も、少し変わるかもしれません。老齢期の始まりということになるんでしょうか。もう始まってましたが、より具体的に残りをどうするか、ということになるんでしょう。
もちろんそれは、やりたいことをやらなくなることと同義ではありません。むしろそれは、新たな自由の始まりかもしれないです。面白いことを考えて、実行できるようになればいいな、と思う次第です。
そんなに肩ひじ張って頑張るタイプではないので、ぼんやり前を向いて行こうと思います。まだ正月なんで、ぼちぼち方向性を決めていきます。僕のモットーは朝令暮改なんですよね。現実修正主義といいますか。ということで、今年も頑張ります。
追記:年末珍しく紅白をゆっくり見ました。なにわ男子、よかったなあ(ウソ)。
習慣的に映画は観ているが、そのほとんどがネットになった。ネットフリックスにアマゾンプライムである。ともに50本くらい見るべきストックがあって、ときどき増える。どのみちそんなに観ることは不可能そうに感じるので、しばらく放置したのち、やっぱり食指が伸びない感じになると消去する。観てないのに減ると、何故か気分がいい。選ぶのが大変なので、選択肢が減るのがいいのである。
前にも書いたが、映画を観始めても、途中でやめることも多い。寝てしまったり、気分が乗らないということもあるけれど、多くの場合、他のにしようかな、と切り替えるというのがある。そうやってまた別のを最初から見てしまうと、全部見るには夜遅くになる可能性を感じて、明日の方が大切なので、途中でやっぱり観るのをやめる。そうやって途中までは観ている作品が増えていく。もう観なくなればそれに越したことは無いが、たまに思い出して続きを見る。そのまま観続けられたらそれでもいいし、ダメならそれでいい。
そうやって最後まで観た映画は感想を書くが、実は最初をすでに忘れていたりする。それで感想を書くために、もう一度最初を見直したりする場合がある。そうするとそのまま続きが気になったりして、結構見直すこともある。結局二度観たりすることもある。なんだか効率は悪かったな、と思うが、観てしまったものは仕方がない。
しかし、ネット映画には不満も多い。その最たるものは、エンドロールにある。エンドロールになると、次にお勧めの映画の誘導画面が出てくる。僕はエンドロールで、出ている俳優などの確認をしている。そこにそういう余分な映像が被るので、読めない。この画面が出ると、どういう訳か一時停止ボタンが機能しなかったりする。そうして一定時間で、宣伝の映画に切り替わる。僕はエンドロールを観たいので、またその映画を呼び出して、最初からスタートさせて早送りする。この時間が実にもったいない。アマゾンは消し方のコツがつかめたので何とか対応できるようになったが、ネットフリックスはネットで宣伝を出なくする方法を何度も検索して実行するが、それでもしつこくこれが出る。巻き戻したり、早送りしたりいろいろ操作をやりくりして、なんとか宣伝を消して、とにかくエンドロールを観続ける。この時間が実にもったいない。「ネットフリックスの馬鹿野郎!」と叫びながらの作業なので、つれあいも心配する。ものすごく不機嫌になって、映画を観終わらなければならない。けっこう気分よく楽しんだにもかかわらず、毎回最後は不機嫌になる。なんでこんな会社に付き合わなければならないのか。本当にひどい会社だと思う。しかし映画を観なければならないので、この悪魔のように憎い会社と付き合わざるを得ない。本当にこの会社はバカである。
ということで、ネット映画は実にくだらない。つぶれてくれたらどんなに嬉しいか、と心の底から望んでいるのである。
訳あって、ある会の幹事さんを仰せつかる。今回は皆ラインのグループに入っている。そのラインに入っている日程調整のアプリが使える。他にもそういうアプリはあるんだろうけど、とりあえずそういった面倒なものを探す必要が無い。これでまずは、幹事である僕の都合のいい日を、いくつか選んで送信する。早く返信してね、と申し添えてあるから、すぐに返事が集まる。幸い二日ほど皆の都合のいい日が見つかる。それでは日付の早い日で、店の予約を取ることにする。コメントに希望の店の記入もあったようだから、それから順に連絡すればいい。
そこでふと思い出したのだが、一つの店は一見さんお断りという噂を聞いたことがある。もうずいぶん前になるが、行ったことが無い訳では無いのだが(しかし店内がどんなだったかなど記憶もない)、店の人が僕を覚えているはずはない。でもまあ、この店を行きつけにしているある人を知っている。
それで電話でどういう状況か聞いてみると、特に一見さんお断りを貫いているということではなく、いわゆるコロナが流行っている頃に、近くにあるホテルの客が県外の人ばかりだろうから、警戒してそれらしき客は断っていた、という経緯があったらしい。自分の名前を出していいから、予約してみたら、ということだった。
なーんだ、と思って電話すると、小上がりの半分の部屋に予約が入ってて、僕らの人数ならその日は無理だそうだ。そもそもご縁がありませんでした。
それならということで第二候補にも電話すると、そこもその日は半分に客が埋まっていて、僕らの人数ではダメだそうだ。両方とも人気店だし、ほとんどカウンターって感じだしな。
実は散歩しながら相談したり電話したりしてたんだけど、後ろから「よう」と声を掛けられる。店の駐車場に停まっている車の中に、ある団体でお世話になった先輩が乗っていた。何してるんですか? と聞くと、店が開くまで店の前で待ってるんだそうだ。ここは鳥肉などを別に出す、飲んべでも暇つぶしのできるお好み焼き屋さんで、なるほどここもいいかもな、と思ったが、なんとなく今度集まる団体像と相違があるような気がして、やめた。
散歩のころ合いの時間でつれあいが迎えに来たので、どこにしようかと相談すると、あっさりある店の名前が出た。買い物のときによく顔を合わせることのある、これもある団体の兄弟分の仲間の知り合いの店である。電話すると首尾よく予約が取れた。ここも案外すぐ埋まるので、やはり相性のようなものなのだろう。
しかし考えてみると、だいぶ前にやはり僕が幹事を仰せつかったときも、この店だったような気がする。今回のような流れでは無かったものの、巡り巡ってこうなってしまうものらしい。まあ、単なる偶然であるにしても、縁ということにいたしましょう。
ある会の記念例会だからというので、わざわざ依頼もあったことで、多少の律義さを出して早起きすることになった。前の晩はちょっと早めに映画を観たのだが、これが二時間以上の尺で、結局そんなに早寝はできなかった。休肝日でもあったので導眠剤を飲んで、布団でしばらく格闘したかもしれない。結局は寝ていたので、大した睡眠不足になったはずはないとは考えられるけれど。
でも目覚ましはかけていたし、結局つれあいに起こされ、月並みだが、もう朝か、と思った。そそくさと支度して、いつもなら新聞読んでいたいところだが切り上げ、家を出た。当然ながら外は暗く、しかし車はまだ多くは無い。会場まではスルスルと着いてしまって、駐車も終了後すぐには出ないだろう(と誘導された)という車の前に停めた。会場では知った人と挨拶を交わし、知らない人とは名刺交換をした。実は朝なのでずっと頭はボーっとしている。社交的にふるまっている自分というのは知っているが、こういう状態だからたぶん長時間の記憶には残ることは無い。
例会が始まり、いろいろ儀式はあり、挨拶聞いたりお話聞いたりした。いちおう気になるところはメモに取ったりもした。しかしずっとボーっとしている。これは早起きした状態の特徴である。もう少ししたら激しい睡魔に襲われるのだ。
朝食は断り、着替えに帰る。せっかくだから家で朝食を摂り、車に乗り出勤し直す。頭がぼーっとしたままで運転が危険かもしれない。そろそろ眠いという感じもわいている。コーヒーをちょびちょび飲んで、今日の予定などを考える。運転中なので手帳を見ることができない。記憶の中にはたいした用事は無いが、手帳が無ければ本当の予定なんて知りようが無いではないか。
さて、職場に着いてからがさらに問題が顕在化してくる。それというのも、物事の内容が頭に入ってこない感じなのである。文章の理解も遅れるし、人の話も輪郭かボケている感じもある。そうしていつの間にかボーっとするような時間ができる。コーヒーや炭酸水をがぶ飲みし、何度もトイレに行き、ウロウロする。しかしながら、眠気というのは結局寝ないことには解消されない。しかし、睡眠が必ずしもひどく不足していないにもかかわらずこうなるので、ひどい睡魔に襲われているわけでは無いのだ。
おそらくなのだが、夜更かししての睡眠不足と、早起きしての睡眠不足は、何か性質が違うのである。もちろん僕の個人的な体質のようなものがあるとは考えられるが、いつもと違う一日のスタートを切ることで、体の方がその異変に慣れていかないのが一番の原因なのだ。ある程度一定の時間に起きる習慣がついているので、ごくたまにそれより早い時間に起きることで、その異変をずっと抱えたままリセットされることができないのかもしれない。
そういう訳で、僕にとっては早起きは非常にリスクが高い問題である。ずっと早起きし続けると、いくらかそれは改善されるだろうことは分かるが、そうすると今度は、寝る時間の調整をする必要があろう。そうすると今度は帰宅時間を調整する必要があるだろうし、その前の仕事の配分を変える必要があるかもしれない。現実的にそんなことをすることで、もっと体調に異変が起こるかもしれない。可能であるならば、早起きはできるだけしないに越したことは無い。体に悪いだけでなく、無駄の多い一日が増えるだけのことなのである。
今夏、とあるLの会において焼き鳥を焼かせてもらった。三年前は裏方だったうえ、用事があって、フルで活動していない。だからほぼ未経験と同じなのだが、そういう僕が焼いてよかったかどうかというより、人数等の問題があって、そうなってしまったかな、という感じだろうか。ともあれ、うだるような暑さの中焼き鳥を焼く体験というのは、それなりに貴重なものであった。
実は最初から焼き方になるとは思っていなかった。組織なので毎年のことであって、序列があるわけではないものの(しかし長老は比較的裏方が多いのだが)、以前のように下準備をすることになるのかな、とは考えていたのである。さらに初日は準備の時間にさえいけないことは分かっていた。あとからのこのこ参加して、そういうポジションにはならないだろう。
でも何となくやる気はあったのかもしれない。それというのも、事前になんとなく焼き鳥動画を見ていたのである。そういえばもうすぐ祭りで、Lの会では焼き鳥だよな~、とか考えていると、いつの間にか見ていたのである。世の中には焼き鳥動画というものがけっこうたくさんあって、名店の本格炭火焼きの様子だとか、家庭で手軽にグリルで焼くものなど、実にたくさんの焼き鳥を焼く風景の映像がある。僕の職場の祭りでも焼き鳥を焼く場合があって、焼き鳥を焼く道具だって倉庫にあるはずなのである。焼き鳥なのにフライパンで焼くというのだってあるし、世の中には実にたくさんの焼き鳥の焼かれ方がある。そういうもので勉強しようと思っていたのかは定かではないが、なんとなく眺めて予行練習していたのかもしれない。
Lの会の焼き鳥では、基本的に仕入れたものを焼いている。それもモモとバラの2種にフランクフルト(これはシュシュのです)。ビールやジュースやお茶も売っている。モモは甘いタレにつけ込んでいるもので、ちょっとドロッとしているあれである。バラは豚のバラ肉で、関東ならヤキトンである。これは生焼けを防ぐためと時間短縮のために、先にボイルしている。冷凍で仕入れるために、そのような下ごしらえをするようになったと思われる。2日目に準備中でも待っているお客さんのために、生の状態で焼きだしてみてわかったのだが、当たり前だがボイルしないものにはそれなりに時間をかけてじっくり焼かなければならなかった。ちょっと台から高く網をセッティングしたにもかかわらず、やはりそれなりに焦げる感じになった。そこまで焼かなければ、安心できない感じだった。
焼き鳥屋さんの職人さんは、炭火などでも素手で焼いておられるようだが、僕らの場合ガスの焼き台であるが、これは熱くてとても素手で連続して焼き続けることはできない感じだった。僕は軍手をしていたが、それでも少しだけだが火傷した。それにやはり時には熱い思いを何度もする。職人さんも火傷しているはずだと思うが、負傷しても焼き続けておられるのだろうと思う。それだけでも凄いというか、マゾ的である。
実をいうと最初はもう一人の方について補助的に焼いていたので、焼き上がり等の所作はその方の見まねだけでやっていた。所用があってその方が抜けた後、ほぼ一人で焼き続けたのだが、(2日目は一台・二人で焼いた)正直言って、それなりに試行錯誤を重ね、だいぶしてからコツをつかんだ感じだった。
ボイルしてあるので基本的にそんなに焼く必要は無いが、ちょっと焦げ目というか、焼き色を付ける必要があるようだ。ボイル後の焼き台では、網も火元にかなり近い。それなりの火力があるので、バラ肉の脂が出るとすぐに火が付くようになる。並べ方によっては火が燃え上がりすぎて、相当に焦がしてしまう。当然だが焦がしすぎると失敗感がかなりある(それでも売るが)。そうならない加減のようなものを、いわゆるタイミング的につかむ感じがあるのだ。よく出来たという瞬間があって、それはよく分からないが、おそらく数秒の間という感じだ。味付けは味塩コショウだからそこまでこだわっていないが、掛けすぎは当然よくない。かかってないと「さぶなか(味が足りない、という感じ)」ということになってしまうが、これはかなり一発勝負的だった。味塩コショウを振る高さと手首の返しのようなものも、だんだんとコツをつかんでいった。これもうまくいくと気持ちがいいのである。
しかしながら二日も焼いていると、夏の暑さと焼き台の熱との板挟みになっていて、これはもう苦行以外のなにものでもない。お仲間の女性会員から冷やした首巻を途中でしてもらったりもして生き返ったが、すぐにまたくらくらする熱地獄に耐えるしかない。今年のお祭りは時間短縮になっていて例年より一時間早く店じまいになっていて(それでも三年ぶりだが)、もしそうでなかったら、本当に倒れていたかもしれない。それというのも店じまいで片づけるときには、体が上手く動かず足がもつれたのである。疲労困憊とはこのことで、以前はお祭り自体を運営していた身としては、これはもう若くなくなったのだと痛感した。もう以前のように働くことは不可能である。あの頃は確かに若かったのだ。
ともかくフラフラになりながらもやり切って、しかしこれはこれで楽しかった。これでも詳細は書けなかったが、実にいろんな人が活躍して盛り立てていた。そういうのが素晴らしい訳で、それでつらくても楽しいということだ。
でもまあ、これは若手にすぐに受け継がせるべきことではあるな、とも思う。ずっとやるのは無理である。
フェイスブックにリールという短い動画をあげてあるヤツがあって、これは別段友達じゃないひとのを見られるようになっているようで、なんだろうと思ってつい見てしまった。よく分からないが、知り合いの娘さんがティックトックにハマっていていろいろ踊っている動画をあげるのを楽しみしていると言って見せてもらったことがあるのだが、おそらくそういうことと似たようなものなのだろうと思う。実際可愛らしい女の子が何やら短い歌に合わせて踊っているというのが多いのは多いのだが、最初のころはそういうことでは無くて、なぜか短いスカートをはいている女性がゴルフをしているなどがあった。あとはオムレツのようなものを作る料理もの、日曜大工のような作業、鉄棒をやっている人、バク転をする人、トランポリン、釣り、動画を美しく撮る方法(のようなもの)、女子高生シリーズ(ダンスのようなもの、たまに靴下を履くとか、要するにエロ)、スケートボード、ヤンキー車、事故動画、美容師が髪を切るヤツ、海の魚たち、等々。
まあいろいろあったのだが、これが特に面白くも感じていない割に、なんとなく手持無沙汰だと見てしまったりする自分がいる。あとでもう少し見たかったな、というのがたまにあるが、もうそういうのはあまり後から見ることはできない。どんどん新しいものに切り替わって、しかしモデルのような女子が出る奴は何度も出たりする。そういう感じで流していたつもりだったが、数日してふと気づくと、どうもエロ動画の割合がだんだんと増してくるような感じなのだ。要するに僕を男として認識していて、それのニーズに合わせてくれているということなのではないか。しかしながらそういうのが完全に嫌いではない正直な気持ちもあるけれど、エロばかりを見たいわけでは断じて違う。むしろそういうのが続くと、ちょっと煩わしい。女子高生が短いスカートのまま踊っていると言っても、僕からすると子供は子供である。マスクしてることもあるので、そういう制服と生足であるというのは分かるが、実際はどんな女の子なのか識別はむつかしい。おそらく同じ子ではない人たちがいろんな形でそういうものをあげているか、たぶんだけどそういうのを好きな男性が、こういうのを集めて撮らせている感じもする。要するにツリのようなものである。確かに見ている僕がいるのでこれらを流しているものと思えるが、ちょっと面倒である。なかには滑り台を滑る女性というのもあって、趣旨は分かるが、だからどうなんだという気もする。犬や猫などもあるし、ネズミや動物というのもあるが、だんだんと女性度が侵食してきて、多様性が失われていくような気がする。完全なヌードというのは無いのだけれど、水着もあるし、薄着もある。そういうプロモーションがあるんだろうか。また人生哲学のような人が現れたり、社長などに短いコメントをもらうものもある。何を言ってるんだかよく分からないけど偉い人というのもいるのだな、とは思うが、やはり需要があるのだろう。ワンポイント英会話などもあるし、外国の事情などもあるし、教養がまったくない訳ではないが、オチがつまらなかったりもする。しかしそういうのに交じって必ずエロである。居酒屋やラーメンなどもあり、キャンプがあって、大自然ものもあるんだが、すぐにエロに戻ってしまう。やっぱり一番の需要と供給網が充実している分野はこれなんだろう。見てしまった後は、なんとなく脱力感があって、要するに時間を無駄にしたような虚無感もある。しかしこれが中毒性が高いのも確かで、数日間何度も見たことは正直に告白する。だからこそそういう変遷があったし、これが多くの場合インスタグラムとも連動していることも知った。そういう具合の顧客の引き合いがなされているのだろうとも思うし、SNSの利用のされ方の変遷そのものなのかもしれない。
元々肩こり症というのはあると思う。パソコンも扱うし、ただでさえ目が疲れる。散歩をする毎日ではあるが、運動不足気味ともいえるかもしれない。散歩以外これと言って何もしないからだ。以前のように腰痛になるようなことはめったにないが、肩の凝りはいつも気が付けばあるような、慢性的なものもあるはずである。
ところでなんだか首が痛いのである。後ろを振り向くと首から肩にかけて痛みがある。飛び上がるほどでは無いにせよ、思い切って振り向くのが怖いくらいには痛い。肩こりは右肩や右の首筋にも感じてはいるが、振り向いて痛いのは左側である。自分でトントンと叩いてみたり、首筋に指をあててみたりすると、ところどころにピリピリ電気信号が来るような痛みを感じる。しこりのようなものがあるところもある。ゴリゴリ揉んだわけではないが、いくらか揉んだりほぐしたりして、そうして首をすくめたり腕を回したりする。痛いが気持ちがいいという感じもする。首を回して特に痛いところで止めてみたりする。肩甲骨の凝りも相当あるようで、胸を張るように腕を曲げて後ろに持っていったりする運動を何度も繰り返した。血行不良なら、これで強引に血流が回ったはずである。
ところがである。翌日になるとさらに痛いのだ。めったに動かさない運動をしたせいで、揉み返しのようなコリが増してしまったのかもしれない。たまらないので湿布をしてもらって、ちょっと安静にして見た。ひんやりとした湿布はさすがに気持ちよくて、これはいいかもな、とは思っていたが、二三日すると飽きてしまった。確かに最初は気持ちいいが、これで完治するという感じではない。それに時には煩わしい時もあって、匂いもするし、面倒に感じるのかもしれない。
それでまた数日すると、やはり首が痛いのである。あんまり触るのは逆効果のような気もしてきたので、腕だけ回したり肩をすくめたりの運動を再開。これも数日間。しかしよくなる気配はいっこうに感じない。
それで考えてみると、事業所のすぐ近くにも整体院があることを思い出した。うちの職員も以前働いていたとも聞いたことがある。評判どうなの? と聞いてみると、すぐにラインしたらしい。ウーム、それじゃ行かなきゃかな。
ということで行ってみたが、ずいぶん若い青年で懇切丁寧に施術というのをしてくれた。やはり首のところどころに張りがあることと、ずれのようなものがあるというのだった。適当にいろいろあって、首を二度ゴキッといわせて、電気治療をした。劇的に改善したという訳ではないけれど、そうやって二度ほど見てもらった。見てもらったすぐはいくぶん軽さがあるけど、翌朝になるとどうなんだろう。自分でもよく分からない。痛いのにもなんとなく慣れてきたような気もするし、そういうのは改善されている証のようなことになるんだろうか。分からないので、もう少し行ってみることにしよう。
他人に頼まれてボイスレコーダを引っ張り出してみると、電池が切れていた。そういえば持っているだけであんまり使っていなくて、いつのまにか長期間放置していたかもしれない。それで電池が自然に消費されてしまったという感じか。
今年になって、いくつかの電池を交換している。僕はいまだにMDウォークマンをFM電波で飛ばして車で聞いているので、まずこれが一か月ちょっとくらいだかで切れる。単三電池一本。時にはCDも聞くのだけれど、通勤で聞く程度でもそれくらいの頻度で交換しなくてはならない。
置時計の電池も替えた。単四二本。これは電波時計。しかし事業所の部屋の配置関係のためなのか、いつも置いている場所では電波を拾えない。時々窓際においておくと、何やら表示点線のようなものが動き出し、自分で時刻を合わせている。けな気だ。壁掛けの電波時計は電波のアンテナ表示がいつもOKと出ている。これの電池は年に一回くらいではないか。記憶にないくらいあまり交換した覚えがない。これが単二二本だったかな。
腕時計の電池は年に三回くらい替える。ボタン式のリチウムバッテリ、CR2430。この電池が売ってなくて、ネットでまとめ買いしている。しかしときどき電池の置き場所を忘れてしまって、また買ったりする。そういう訳でまだこの電池をたくさん持っている訳で、あと十年くらいは電池の心配がないはずだ。
そうして万歩計が3,4か月に一回交換。CR2032。なぜ電池の持ちが一か月程度違うのかは謎だが、これがランダムに切れる。そういうのが分かるのは、僕がメモ魔だから。目安の時期に手帳に「そろそろ」などと書いてある。でもいつも切れてしまってから交換する。切れてしまった時間帯に歩いた歩数が記録されないのが口惜しいので、今度からは切れる前に交換するんだ、と交換したすぐには思う。そう思って手帳に予定時期を書く。その繰り返しである。こういうところの精神的なせこさが、自分でも好きではない。
万歩計については、もう20年くらい三代にわたって同じものを使っていて、すでに生産中止なのだが、愛着があって変えてない。生産中止なのにネットでは売っているのである。メーカーではもう取り扱ってないのだが、販売店には在庫があるということなのだろうか。ともかくそうだけど、実は何度も別の万歩計に変えようとか、いっそのことアップルウォッチにして、総合的に記録を取るのも面白いかもしれないとずいぶん考えたこともある。しかしこれまでそうしてないのは、今まで記録されたものの蓄積と、この独立して万歩計という潔さのようなものが、考え方としていいというのがまずある。そうしてアップルウォッチだが、これが頻繁に充電する必要がありそうだというのが、なんとなくネックなのだ。携帯電話だって毎日充電しているのだから何の問題もないはずだが、万歩計機能を知りたい腕時計で何が悪いのか、自分でも自分自身に説明しづらい。けれど結局はそんなに魅力を感じないところなのである。基本は万歩計機能であって、あとの記録はプラスαだ。そのための数か月に一度の電池交換のわずらわしさの方が、やっぱり負担がぜんぜん軽いということなのだろうか。
最初は大雪など天気の関係で遅れているのかな、とも考えた。僕はいろいろな雑誌を定期購読しているが、たいていは月刊誌なので、遅配されているのかどうかはあまり気にしていない。気になるのは週刊誌である。以前はニューズウィークもとっていたが、だんだんと西側メディアの考えの偏りが気に入らなくなってやめてしまった。日本の雑誌だって偏りはあるが、その中でもそれなりに偏見が混在しながらも、そんなに左でない大衆紙がいいかも、と思ってとっているのが「週刊文春」であった。表紙も和田誠(死後も続いている)のイラストで、シンプルでいい。
九州の田舎町に住んでいるが、金曜の夜には必ず届けられていて、その日の仕事から帰って来た夜からぼちぼち目にして、土日にかけてパラパラめくるのを習慣にしていた。関東あたりだと木曜日発行だろうから一日程度の誤差だし、どのみち早く読まなければならないほど急いではいない。文春などの週刊誌の広告は土曜の新聞でよくみられるようで、朝から新聞を読んでいるときに週刊誌の記事が目に入ったりして、なるほどと思ってまた開いてみたりしていた(週刊誌の目次って、どういう訳だかほとんど見ないのである。なんでだろう?)新聞などのニュースの補完や、何しろ世間知らずなので一般的な世間の流れが分かればいい。と言いながら、いわゆる特集記事などを読むことはほとんどなく、連載コラムとか映画と書評を読むという感じなんだけれど……。
そうしたサイクルが2月から乱れだした。ニュースなどで大雪が報じられているようなので、それで最初は天気の所為なのかな、と思った訳だ。どうやって運搬されているのかは知らないが、トラックである可能性はあるだろう。それとも貨物列車だろうか。またはその両方か。
しかしながら翌週も遅れた。一日遅れるのではなく、月曜の夜に届くようになった。3日も遅れるのは、やっぱり残念な感じがする。それで、配送している取次業者にメールで問い合わせてみた。返答が来たが、お詫びと土日の配送は事情があって遅れる場合がある、ということだった。金曜を逃すと土日が来るので、その間は配送されず月曜になるということなのだろうか。もう一度問い合わせたが、もう返事は来なかった。
運送会社の過酷な労働条件で、大手の会社の労組でもめているという話は聞いたことがあるようだ。でもそれはアマゾンなどの配送の件だと思っていた。料金に見合わない宅配の実態があるらしい。そういう配送料をディスカウントして、大量に注文を取るような業界もあるらしい。大口であるとかの顧客の要望に、配送業者は条件をのまざるを得ない事情があるのかもしれない。
そういうことも想像してみたが、翌々週は、金曜にちゃんと届いた。そうしてつぎの週はまた月曜だ。今週も月曜だった。これは天気ではなさそうで、やっぱり九州あたりの配送業者の問題なのだろう。
他にも困惑している人がいるんじゃないかと考えてネットで検索してみると、どういう訳かそういうのはあまり見かけない。局地的なものなのだろうか。
ところが4月から、週刊誌の発行日が一日程度遅くなるものが増えるのだという。週刊文春もその対象のようだ。そうすると今度は火曜ということがあるんだろうか。木曜発行のものが手元に火曜に届く。なんだかもう利便性がどうだ、というような問題でさえなくなっているようにも思える。日本の労働(サービス)の衰退って、こういう感じで進んでいるものなのではあるまいか。
何度も書いているが、僕はメモ魔のようなところがある。気になったら何でも書いて残すし、読んでいる本にも書きこむ(だから図書館から借りた本を読むときは、本に書けないのでメモやノートを準備する。何もなければ携帯で気になる箇所を写真にとる)。新聞に線も引くし、紙が無ければ手首に書くし、ズボンにも書く。テレビを見てても内容をメモするし、映画だと一時停止してメモする。気になったことをあとで見返したいとその時は思うようだが、見返してみても意味が分からない場合の方が多い。メモを取りすぎているのだ。
そういう癖があるのに、メモを取れない場面がある。風呂に入っているとき(特にシャンプーしてるとき)と、車の運転をしている時だ。車の中で携帯に録音することも何度かチャレンジしたが、うまく定着しなかった。それに携帯をごそごそやっているときに、ちょうど歩道橋で見張っている警官を目にした経験があって、これはちょっと危ないかもしれないと断念した。レコーダーも買ったことがあるが、ある目的の録音を消したくない事件が起こって、封印した。新しいのを買うのも躊躇され、結局もう諦めた。だから信号などの停止を待って(しかし田舎なので、あまり信号機が無い)、覚えていたらメモする。運転中メモすると、字がゆがんで結局読めないのだ。かなり危険だし。
さて、そういう時に限って、何か思いつくことがあるような気がする。気がするというのは、覚えていないのである。シャンプーの時は、もうすぐシャンプーが切れるとか、シェービングクリームが切れそうだとか、そういうことを忘れる。本当に何度も忘れて、とうとう全然なくなってしまうと、これは困るのでやっと記憶を持続させて、風呂から上がってもどかしく体を拭いてパンツを履いてすぐにつれあいに切れたよという。そうすると、この間もそんなこと言ってたので準備しておいたのに、と注意されたりする。覚えていたことを忘れているのである。
それでこれは知っている記憶法を使って覚えなければ、とチャレンジしてみる。体の一部をトントンと指でたたきながらその部分と考えていた単語なりを関連付ける。またはいつも使っている部屋などの配置を思い出して、その家具のある場所に考えていたアイディアなどが関連付けられている想像をする。記憶法としては間違いない。一定時間なら結構これで覚えていられるはずだ。しかしである。風呂から上がると思い出せない。いや、いったん思い出そうとすることを忘れるのである。そうして風呂上りに酒など飲んでいると、あれッと思う。思い出そうとするタイミングを逃して他のことを考えていたので、そもそも風呂で何をとっかかりにしてそんなことを考えていたのかが抜け落ちている。何かを考えていたはずだという記憶しかなくて、肝心の何かは思い出せないのである。
たいへんに口惜しいが、もうそれは仕方がない。どうせたいしたことなかったはずで、悔しがる必要すらなかったかもしれないではないか。そうなのかどうかは検証しようがないのだが……。
三回目のワクチン接種を済ませた。二回目から8ヶ月以上経過したために、いわゆるブースター接種ということになったわけだ。ちょうどオミクロン株の感染拡大という時期でもあり、感染予防とか重症化予防という観点からも、ありがたいものである。病気としての脅威は下がっているとはいえ、いまだに感染者に対する偏見も強いし、感染者数だけを問題視する風潮は収まっていない。病気から守るためのワクチン接種のはずだが、事実上最大の目的は、風潮被害防止、であることは間違いなかろう。そんなことも言いにくい世の中にもなったとしたら、なおさらのことだし。
前にも書いたが、僕は二回目接種でも熱を出して具合が悪くなった。だからといって接種しないという選択をする気はさらさらないので(そういうのは馬鹿げている)、今回もある程度は仕方ないな、という感じであった。頭が痛くなるのだけは嫌なので、一応薬は飲んでいた。その晩は何ともない感じだったが、朝方検温すると微熱がある。その後37.5℃前後が続くことになる。薬は継続して飲んでおり、頭痛は特になし。僕は体が弱いせいか、微熱でも普段はそうとうに具合が悪くなるタイプだが、食欲もあり、雑煮などでホカホカしたりして、体が動かない感じではない。あいにく外が雨だったということもあるので、出歩けなくて残念な感じさえした。
そうやってだらだらとした一日を過ごし、夕食を食べて寝たわけだが、寝ていてすぐに目が覚めた。あ、これは熱があるな、とすぐにわかる感じだ。検温して暗闇で目を凝らしてメモリを見ると、38℃とあるように見える。うーん、弱ったな。確かに暑いのである。トイレに行って水を飲んで寝直す。すぐに目が覚める。38.4℃。布団の隙間を増やして涼しくして、また寝る。今度はなんとなく汗ばんできた。検温、38.6℃。まったく嫌な感じだよ。でもまあ寝られる感じはするので寝てみる。今度は結構汗をかいている。検温39.2℃。うわっ、まいったなこれは。体を起こしてみると、でもそこまで具合悪い気はしない。熱だけなら、乗り切れるぞ、と自分に言い聞かせる。でもまあ汗をかいているので、もうだいじょうぶではないか。着替えて、ウトウトして朝を迎え、検温37℃。やった。
その後36.7℃となり、いつもの36.5℃にもなる。なんとなくすがすがしい気分だ。やっぱり平熱ってありがたいな。誰彼となく感謝したい気分だ。
という顛末であったのだが、やっぱり書いてしまっての一番の懸念は、こういうのを読んで、かえって怖がる人がいるかも、ということかもしれない。今も左腕が腫れて痛いのは確かだが、まあ、そんなもんなんですよ、という感じなんだが、それが伝わるものなのかどうか。熱が出て大変だ、という話だったはずだけど、まあ、そんなもんだ、ということなのである。僕のような弱い人間でこんな感じだったけど、だからそれでよかったと言いたいわけで、それが分かってもらえるのだろうか。本当に感染すると、この安心感ではとても乗り切れませんよ、ということなんである。困りはするけど、何の心配もいらない。何故ならこれは副反応だから。思ったより熱が上がったな、という客観的な自分でいられるのである。そうして、僕以外の誰かも守れるかもしれないのだ。それってやっぱりうれしいことのように思える。具合悪くなって喜んでいるなんて、ちょっと変態めいているわけではあるのだけれど……。
人生の半分以上の時間、ダイエットしているのではないかと思う。それというのも、なかなかうまくいかず失敗続きだからだ。うまくいっていた時期というか、何とか成功と呼べる体験も無かったわけでもないが、その成功体験が継続していかされていなかったと言える。その悲しい現実を前にして、ずいぶん長い間ダイエットばかりしているわけだ。
確かに単純に食べなければ痩せることは明快にわかっているのだが、人間は食べないで平気でいられる生物ではない。少なく食べることが習慣化されて、なおかつそれがつらい体験でなければ、肥満からの脱却は可能となる。以前やっていた同じ方法であったとしても、同じような効果が得られない場合もある。加齢とともに、いくぶんやり方の程度も合わせなくてはならなくなっているのかもしれない。また、入院などの強制的な方法でない限り、荒野での生活は欲望の世界が渦巻いている。現代社会における日本という環境は、人を飢えさせることを許さないのである。
ということで、自分をだます方法として時間制限ダイエットというのを試してみることにした。知らない人のために一応紹介しておくと、一日のうちに12時間から16時間程度食べない時間をもうけて、食べていい時間を12時間から8時間程度に抑えるというものだ。間に寝ている時間を挟むことができるので、比較的に空腹に耐える苦痛が少なく、食事の内容制限もとりあえず考えなくてもいいので、実行が簡単である。もっとも肥満でない人には効果がないという実証試験もあるとされる上に、12週間で1キロ程度減の平均ともいわれていて、それなりに根気がいらないわけではない。でもまあやらないよりはいいだろう。ということで始めてみた。
いわゆるミニ断食ともいわれているが、断食という言葉ほど過酷ではない。世の中には朝ご飯を抜いてしまうと罪悪感を覚える人もいるし、非難する人もいるので、そういう方面の人とは話が合わないということはある。ダイエット目的ではあるが、心臓や血管に異常のある人にも、一定の改善傾向があるという研究もあって、それなりに注目されている方法でもある。僕の高血圧の原因は、肥満そのものであると言えるので、さてそれがどうなるのかも気になるところである。
一定時間食事を抜いても、摂取カロリーが同じでは理論上効果があるはずないじゃないか、という突っ込みがあると思うが、仕組みとしてはこうである。人間の体というのは、12時間程度食事をとらないでいると、体のエネルギーとして蓄えているグルコース(ブドウ糖)が不足するようになって、代わりにケトン体を利用してエネルギー代謝を行うようになるらしい。ケトン体は肝臓に蓄えている中性脂肪を分解した脂肪酸から作られることから、体の脂肪分を減らす効果が期待できるのだ。ただし、このケトン体による代謝状態が続いてしまいすぎると、ケトアドーシスという血液にケトン体が急増する症状をまねく恐れがある。そうなると体が酸性となり臓器の機能が落ちる危険もあるので、長時間すぎる断食は、かえって体に不調をきたすこともあるらしい。
そういうことになったので、夜8時までに食事を済ませてしまうと、翌日の昼まで食事をしないでいると16時間になる。朝を抜くというだけで、実行できそうだ。もっとも朝に薬を飲んでいる習慣があるので、ヤクルトとヨーグルトは摂ることにした。グルコースを不足させる目的なので、それくらいは目をつぶってもらおう。
それまでは帰宅時間がふだん19:30だったのだけど、これでは夕食に余裕がない。なんとか30分早く帰るように努力することにして、19時帰宅にした。翌日の昼は、何かない限りつれあいが弁当を作ってくれるようになった。毎日の弁当という楽しみが増えたので、朝食を抜く苦痛はほとんど感じなくなった。それに午前中というのはそれなりに忙しいもので、早弁することも無いし、どこかに食べ物が転がっているという経験もない。ああ、もう昼だな、という感じで時間が過ぎてゆく。
まず実感としていいこと。通勤時間に苦しめられてきた便意がほとんどなくなったこと。朝ご飯を食べていると、ちょうどそういうことになるということがあった訳で、これが精神的にかなり楽になった。もっとも最近は出張がないので都合がいいが、飛行機の時間なんかを考えると、そういうライフスタイルが戻ると怖いこともありそうだ。
で、問題のダイエット効果であるが、始めてからすでにふた月ほど経過しているが、最初の二週間で1キロ程度減ってきて喜んでいたが、ちょっと生活習慣が狂う日が続いたのちは、元に戻ってしまった。実のところ数値として改善されたのかどうかは見極めが難しいところだ。
という訳で、つれあいの愚痴は聞こえてこないではないけれど、もう少し継続して考えてみようと思います。(※実際はもう少し基準をあげるべきだとつれあいが主張しているため、量的制限があるかもしれません)
最初のころはお試し期間のようなものがあったのだけど、今はそういうものはないという。でもまあnetflixであれば990円である。いつでも解約できるということなので、それで試してみろ、という意味にもとらえられる。U-nextはお試しがあるが、パック料金になっていて、要らない漫画契約なんかがついている。要らないものが付くのが嫌な性分なので、これはもう選択外である。あと他にも何かあるけどめんどくさいのでそっちはパス。テレビをまた配信して見直すなんてことになると、やっぱり人生短くなるんじゃないか。何しろ映画で人生つぶしそうなんだから。
で、やってみましたnetflix 。契約は簡単だったけど、何か僕の傾向を調べるとかで三作品選択させた結果の所為か、観たいものを調べるのに偏った感じの作品が出てきたりして時間を大きくロスしたけれど、すぐに80作品ほどがマイリストに積み上がってしまった。ちなみにアマゾンのマイリストは201作品あるようだから、まだまだ余裕だ。これはアマゾンと重複が無いように選択したので、そういうチェックにも時間がかかった。さらにDMMでのリストにあって見つからないものも20近くあるようだが、それなりに古かったり、逆にもう少し待てばリスト化しそうなのもあるので、現実にこれでほとんど見られそうにないというのは2~3作品といったところではなかろうか。
ということでやっと結論なんだけど、DMMとの契約は解消することにした。現実的にほとんど必要がないことが分かったわけだし。実をいうと、いったんリストもあるし休止するという選択もあるなと思って実際に休止にしてみたんだけど、そうすると、それを思いとどまらせるようにいろいろとデメリットや続けるメリットなどを提示してくるのである。企業努力としては当たり前かもしれないが、非常にうざい。さらにいったん休止にしたせいで、今度は解約ページに飛ばないシステムになっている。何度か試みたがうまくいかない。なんといったん休止を取りやめたうえで、さらに解約手続きをしなければならないことが分かった。これもめんどくさい。そんなに面倒なら「辞めよう」というのが結論に至った一番の理由だ。長年の愛着もあったし、マニアックだけど見られなくなりそうな作品もあるわけだし、もう少し併用して利用しようかと本音では考えていたが、僕はすぐイライラする性格なので、そうさせられる方が嫌だったので辞めたのである。
ということで、顛末が長くなったので、分けて報告することになりました。お読みくださった方は、ありがとうございました。今はやっぱり画質を少し上げた契約にするべきかな、などと悩みだしてます(結論としては素直に画質をあげる契約にした。それでも1500円弱だったんじゃなかろうか)。こういう商売は、NETの方が一枚上手だね。でもまあ、改めて快適になったもんだよ。そういうことを鑑みると、まちのビデオ屋さん大丈夫なんだろうか? ▲(了)
いわゆるコロナ禍になって、定額制の動画配信サイトの需要がさらに高まっている、というニュースは知っていた。そういう配信によるドラマのブームなどもあるという。また自宅でそのまま映画なども選択できるうえに、以前と比べても通信速度が格段に速くなっており、画質の向上も著しいという。まあ、そういうことは知ってもいたし、実際に僕はアマゾンプライムの会員で、ときどきアマゾンで配信映画なんかも観ていた。これはほとんど以前のまちのビデオ屋の代わりになっているもので、DMMの配達の合間とか、結局ダブルパックになると、ひと月の制約期間内の期日を少し余らせて終了するのが普通になった。アマゾンのプライム見放題で選択できる映画であっても、それなりにタイムリーだとか興味の持てるものも増えてきており、これはこれで充実してきたのである。
で、問題はnetflixなのだ。いや別にU―NEXTでもいいんだけど、これがまた、観られる映画の保有数がそれなりありそうだということがわかってきた。先に書いたようにDMMは機動性に乏しいところがある上に、観たいリストを提示しているにもかかわらず、その番号の早いものは見過ごされて、借りられやすい(不人気ともいえる)中盤以降のリストの作品が選ばれて送られて来ることが常だった。一般のビデオ屋だと準新作程度の新しさにもかかわらず、ちょっとくらい人気作品だと(逆に品薄すぎる作品もだったけど)半年以上順番を待たされる作品なんかがある。もっともリストが8枚区切りで全部見ようと思っても数年はかかるほどには書き込んでいたので、次の作品でも黙ってみてろよ、と言われている風ではあった。そんなにひがんではいないが、観たい順位が1番なのに半年以上って、やっぱりなんだかおかしいとは思いませんか? ▲つづく