風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

その日

2005-09-30 | 風屋日記
「その日の前に」重松 清

出張の新幹線の中で読み終わった。
泣けた。
窓際の指定席だったので、窓の方に体を傾けて読んだ。
隣に座った若い女性が途中で降りてくれた時はほっとした。

短編集だが、ひとつひとつのストーリーが最後に繋がる、
身近な家族を亡くす前後の日々の物語。
癌を宣告されたサラリーマンや妻を亡くす夫に自己投影して読んだ。
母を亡くす息子達がうちの子達と名前が似ている偶然も
(家の中での呼び方が同じ)ますます身につまされた。

読み終えて、しばし父や姪が亡くなった瞬間を思い出し、
そして今度は私、あるいは家内が先立つ日を想像してみる。
私が先立つことになった場合(以前和さんに叱られたが)やはり突然は嫌だ。
気持ちの整理をし、家族や親しい人達ときちんとお別れをしたい。

仕事は私ひとりいなくなるぐらいで会社はびくともしない。
ちゃんと誰かが代りを務めてくれるに違いない。
子ども達ももう2人とも高校生、大丈夫だろう。
家内は?
私の想像の中での話だが、彼女も大丈夫だと思う。
仕事もあるし、両親もいる。
なによりもう家内より体が大きくなった息子達がいる。
さばさばした性格なので、必要なことが済むと軽やかに新しい1歩を踏み出しそうだ。
再婚するとしても私は何も言えないな。
息子達が違う名字になったり、
家内が違う男性に抱かれることを想像すると切なくなるが、仕方がない。
(そう考えると、この本に出てくる和美さんはすごいと思う)
少なくとも私の存在は過去のものになるわけだ。
生きている人達はそこで立ち止まっているわけにはいかない。
楽しく、幸せに過ごせるのならそれでいい。

家内に先立たれた場合はどうだろう。
自分が死んだ後というのは、結局見ることができない分だけ
ある意味無責任に想像してみることができるけれども、
現実に自分が体験するだろうことの方が、実は想像が難しい。
これまでも家内が入院したり、妹と2週間程海外旅行に出掛けた時には、
家内のいない何日間かの生活を体験しているが、
それとこれとは違うのだろう。
わからないな。

いずれにせよ、生き物はいつか必ず終わりを迎える。
1日経てば「その日」は確実に1日近付く。
私や家内の「その日」がいつなのかは、今この瞬間はわからないが、
もしかしたら今日中かも知れないし明日かも知れない。
今日や明日が「その日」にはならなくても(この物語のように)
「その日」が間近であることを告げられる日になるかも知れない。
1年後なのか、5年後なのか、あるいは30年後なのかは誰にも分からない。
私は自分の死を怖れたり、恐いとは思わないけれども、
家内は家族や担任する子ども達のために毎日走り回っている。
もう少し自分の楽しみを感じさせてやりたいから
「家内のその日」があまり近いのはかわいそうだな。

先日書いたように、「永遠」なんてものはこの世にはない。
享受しているものは、自分の意志とは関係なくいつかは終わる。
いま手にしているものも、このまま手にしていたければ、
それには能動的な努力が必要なのだろう。
それでもいつかは必ず「終わる」し、それがいつかはわからない。
いま、この一瞬を意識して生きようと思った。
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