風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

8月10日

2022-08-10 | 世界・平和

今年もこの日がやってきた。
昭和20年8月10日、花巻空襲の日。

当時私の父一家は大工町(現双葉町)に住んでいた。
上に4人いた父の兄たちは
みんな亡くなったり、応召していたり、東京に住んでいたり、
花巻の家に住んでいたのは父と祖父母だった。
宮沢賢治さんの家とは庭続き。
賢治さんの御母堂イチさんは私の祖母サキと仲が良かったようで
父が小さかった頃よくお茶を飲みにやってきては
「うちの賢治にも困ったもんだ。家業は継がねし、嫁ももらわね」
とこぼしていたことを覚えていると父が言っていた。

空襲があった当時、宮澤家には高村光太郎が疎開してきていて
旧制高校を目指しての東京での浪人生活を
戦局悪化のために諦めて帰郷し
現桜台小学校のところにあった旧制花巻中学敷地内の
中島飛行機(現スバル)の軍需工場に動員されていたという父も
光太郎さんに恐らくお目にかかっていた。

正午過ぎに始まった空襲は
爆弾と機銃掃射によって市街地と駅前を攻撃。
(他に似内駅停車中の釜石線車両にも攻撃を加えた由)
火を使う昼時だったことで市街地に火災が広がり
花巻のメイン通りだった上町、豊沢町、大工町は焼け野原になった。
たまたま家にいたという父は
賢治さんの弟清六さんを手伝って賢治さんの原稿などを
防空壕から蔵に移す手伝いなどしたと言っていたが
祖父がもらっていたという賢治さん自筆の短冊などは
父の家とともに焼けてしまったという。

花巻駅前では爆弾と機銃掃射。
花巻電鉄職員や駅前のそば屋さん(現いとう屋)でも被害者が出た。
冒頭の写真は花巻駅前に設置されている「やすらぎの像」。
花巻空襲によって犠牲になった人たちの慰霊のために
花巻駅前に立っているのだが
今その前で見上げる人も少なくなった。
それでも知ってる人達が語り継ぐべき日だ。
コメント
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