風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

「在日」

2011-10-18 | 読書
人は人を何らかのカテゴリーに置きたがる。
そしてカテゴリー別に(相手が女性か男性か、日本人か外国人か)
自分の対応を決めようとする。
ある意味、それが「社会生活」なのかもしれない。
しかし、他人から強いられたカテゴリーを
本人が自覚できないとしたら? そこに齟齬が生まれる。
例えば以前話題にしたインターセックスの人々。
そして例えば、いわゆる「在日」の人々。
インターセックスの時にも同じことを書いたが
「在日」の人々も
「どちらでもある」のではなく「どちらでもない」のだ。
周囲からはどちらかに比定されるが、実際はどちらでもない辛さ。
それはわたしたちの想像をはるかに越える。

姜さんは政治学者であり
その思想は、カテゴライズしたがる方々に言わせれば
いわゆる左寄りと見られている。
(都知事は「変な外国人」というカテゴリーに分けてるらしい)
しかし、すべての政治的思想を「右」「左」に分けるというのも
これまたかなり無理のあるコジツケだ。
マックス・ウェーバーを学んできた姜さんは
本書の中で社会主義に対し「肌触りの悪さ」と表現している。

 ウェーバーから学んだことは、自由主義も社会主義も、
 ともに「近代主義」の世界像を共有しあっており、
 その意味で社会主義が自由主義に代わる
 選択肢になりうるわけではないということだった。
 ウェーバーが社会主義との対決を
 意識していたことは明らかだった。

それはもしかしたら「在日」の方々が抱える
ある種のニュートラルさによる理解の仕方なのかもしれない。
でも「どっちか」ってことがどれほどの意味を持つのか。
ニュートラルな立場でバブル期とそれ以後がどう見えるのか
日本人である自分には無い視点で姜さんは描く。

 そこにはそれまで社会のどこかに感じられていた
 戦後という時代の重みが無くなり、
 タガが外れてしまったような無重力状態が現れていたる
 重力感を無くした社会は、
 まるで勝手気ままに浮遊し始めたような感じだった。
 歴史の不遜な忘却が、ポストモダンの華麗な言葉の乱舞とともに、
 浮ついた軽やかさを彩っていた。
 ・・・それに気付いた、あるいは危機を覚えた真面目な人達が
 新たな「タガ」または「重み」として国家に拠り所を覚えた
 というのが現代の新保守主義なのではないかとワタシは睨む。

 「在日」がセーフティネットなき時代を生きながら、
 やがて社会の中に埋め込まれ、
 中流のフツーの「在日」として生きていけるようになった時、
 逆に日本の平均的な国民が、
 あたかも「在日」的な境遇に近づきつつあるとは・・・。
 そのすれ違い、ねじれは、
 新たな問題を創り出しつつあるように思えてならない。
 なぜなら、そうだからこそ、
 「在日」と「日本人」の境界を
 新たに目に見える形で作り直す力が働くようになったからだ。
 そして湾岸戦争以後、それ以前の時代とは異なり、
 国家というものがもろに人々の拠り所として
 急浮上してくるようになった。
 明らかに国家というタブーが解かれ、
 それへの求心力が高まるようになったのである。

また「引き裂かれた民族」として、
あるいは「世界的にニュートラルな立場」として
「国家」への過剰な依存をすること無く
「人間の叡智」である外交の大切さにも触れ、
それは自分の考えを代弁してくれているようで膝を打った。

 ドイツ留学の時に見た
 ハイデルベルグの町はずれにある大きな墓苑の一角にある
 ユダヤ人墓地の墓石のことを思い起こしていた。
 表面はドイツ語だが、裏面にはヘブライ語が刻み込まれていた。
 墓石のひとつには、
 戦争で別れて、亡くなって一緒になったと刻まれていた。
 夫婦の悲劇を物語る墓石だった。

 ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー西ドイツの宥和政策
 「わたしはいつも、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が
  この地上からなくなって欲しいと祈り続けていた。
  しかし、東ドイツは存在する。
  存在する以上、交渉するのが外交である。
  だから、わたしは交渉を続けた」
 この単純明快な発言に、わたしは現実的な外交の真髄を見る思いだった。

 ゲンシャーと金大中
 ふたりに共通しているのは、
 歴史の過酷な現実をくぐり抜けることで鍛え上げられた
 政治的な叡智と意志力、
 そして現実への透徹した洞察力をそなえていることだった。
 そして彼らは、ともにナショナリズムの狭い料簡に閉じこもらず、
 むしろ自分たちの国民の運命を、
 それを取り囲む国々との多様な関係の中に埋め込み、
 国家を越えた地域的協力の可能性に託そうとしたのである。

姜さんのこの考え、スタンスはとても理解できる。
私自身も「右だ」「左だ」ではなく
極力ニュートラルな立場で「人間の叡智」の力を信ずるものだから。

そして本書の底辺を流れる「在日」の立場の苦しさも
そうでない者には想像を超えるものだった。
「どちらでもない」人達の哀しさを私はできる限り理解したい。

 社会はジェンダーや民族的な属性、階層的な出自や学歴、
 身体的な特徴や年齢など
 様々な際を持つ人々や集団から成り立っている。
 ただそれにもかかわらず、
 日本列島で生まれ、そこで一生を終える「日本人」に共通しているのは
 その日本や日本国籍などにまつわる
 自明なものへの素朴なもたれかかりである。
 その結果、民族的少数派や外国人、難民や亡命者などにとって
 そのような自明性から生まれるさまざまな抑圧や排除の強制が、
 どれほど当人達を苦しめることになるのか、
 なかなか了解されることが難しい。
 多数者としての国民への同化や適応への見えない強制力は、
 決して日本だけに見られるものでない。
 どの社会にも見られる現象である。
 ただ「在日」について言えば、
 植民地支配の意識が完全に断ち切れていないため、
 日本人に限りなく近く、しかし「非日本人」にとどまるという
 微妙な距離感が作られているのである。
 その意味で「在日」は他の定住外国人や民族的少数派と違う、
 きわめてデリケートな位置に置かれているとも言える。

とある女子学生が姜さんへ涙ながらに吐露した言葉が胸を打った。

「わたしは、朝鮮でも、韓国でも、日本でもどうでもいいんです。
 ただ、お父さんとお母さんのことを隠すような生き方はしたくないんです。
 だから、朝鮮人で生きていたいんです。
 でも、何でそれが悪いんでしょうか。
 どうしてそれがこんなに辛いんでしょうか」


「在日」姜尚中 著 集英社文庫
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