20世紀後半から21世紀20年の戦後日本。55年体制が確立するまでの少年時代、20世紀後半の戦後復興期からエコノミック・アニマルで過ごした青年時代。21世紀に入る頃の変化と失敗の繰り返しに、日本と自分を重ねる。
ちょっと時間ができたので、この間の自分史に55年体制日本史を重ねて、ブログしておこうと思う。おそらく、このページ①に収まりきれないだろうと思うので、続きをつぎの②または③にさせてほしい。
① 幼少時代の記憶はない。1942(昭和17)年生まれの自分が小学校に入ったのは1949(昭和24)年。それまで”数え”で数えていた年齢が”満(年齢)”に変わった年だ。自分の記憶にはないが、JIS(日本工業規格)が誕生したり、湯川秀樹教授がノーベル物理学賞を受賞した年だ。”さぁ、これから新しい日本を・・・”というような時代なのだが、わたしにその頃のメモリーはない。
海軍の父が戦地でカラダを壊し、死して長い闘病を終わりにした昭和30年が、いわゆる55年体制確立の年。わたしが、まだ政治などには関心がなかった小学校6年のときだ。自由党+日本民主党が与党の自由民主党になり、左派+右派の統一を果たした社会党が野党第一党の日本社会党になった。55年体制下で、わたしは中学、高校、大学時代を過ごした。
わたしが片道16キロの田舎道を自転車で街の高等学校に通う頃、自分には遠かったカラーテレビが発売された。長嶋や王が活躍していた。なべ底景気を脱し”さぁ、これから高度成長経済を・・・”に向かうキッカケは、昭和39年(1964)の東京オリンピックと東海道新幹線だった。
安保(闘争)やべ平連が下火になりかけた1965(昭和40)年、わたしは社会に出た。ゲゲゲの鬼太郎(少年マガジン)やオロナミンC(発売)と時を同じくしたがこの年、中央公論社の『日本の歴史』がベストセラーになった。その全26巻は、いまもわたしの書棚にある。インスタントラーメン(明星チャルメラやサッポロ一番)、ボンカレー(大塚食品)、パンティストッキング(アツギ)などが、いざなぎ景気を演出した。即席と便利とモーレツに走った時代だ。わたしも、同期した。
(つづきは、あした)
ちょっと時間ができたので、この間の自分史に55年体制日本史を重ねて、ブログしておこうと思う。おそらく、このページ①に収まりきれないだろうと思うので、続きをつぎの②または③にさせてほしい。
① 幼少時代の記憶はない。1942(昭和17)年生まれの自分が小学校に入ったのは1949(昭和24)年。それまで”数え”で数えていた年齢が”満(年齢)”に変わった年だ。自分の記憶にはないが、JIS(日本工業規格)が誕生したり、湯川秀樹教授がノーベル物理学賞を受賞した年だ。”さぁ、これから新しい日本を・・・”というような時代なのだが、わたしにその頃のメモリーはない。
海軍の父が戦地でカラダを壊し、死して長い闘病を終わりにした昭和30年が、いわゆる55年体制確立の年。わたしが、まだ政治などには関心がなかった小学校6年のときだ。自由党+日本民主党が与党の自由民主党になり、左派+右派の統一を果たした社会党が野党第一党の日本社会党になった。55年体制下で、わたしは中学、高校、大学時代を過ごした。
わたしが片道16キロの田舎道を自転車で街の高等学校に通う頃、自分には遠かったカラーテレビが発売された。長嶋や王が活躍していた。なべ底景気を脱し”さぁ、これから高度成長経済を・・・”に向かうキッカケは、昭和39年(1964)の東京オリンピックと東海道新幹線だった。
安保(闘争)やべ平連が下火になりかけた1965(昭和40)年、わたしは社会に出た。ゲゲゲの鬼太郎(少年マガジン)やオロナミンC(発売)と時を同じくしたがこの年、中央公論社の『日本の歴史』がベストセラーになった。その全26巻は、いまもわたしの書棚にある。インスタントラーメン(明星チャルメラやサッポロ一番)、ボンカレー(大塚食品)、パンティストッキング(アツギ)などが、いざなぎ景気を演出した。即席と便利とモーレツに走った時代だ。わたしも、同期した。
(つづきは、あした)