吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

日々、忖度して暮らす

2017年05月28日 | Weblog
日々忖度して暮らしていたのに忖度という言葉を知ったのは、つい最近のことだ。何人かで協同して暮らせば、お互い忖度して暮らすのは自然のことだ。他人の心を推しはかって暮らすのは当たり前のことだと思う。よくよく思えば”忖”も"度”も「はかる」こと。はかることを重ねて使っているから、重々はかることなのかも知れない。

いままでは、「おしはかる」ことを推量や推察と言ってきたが、相手などの事情や心中を推しはかったり、思いやるのは推察の方が近いのかも知れない。家族や職場に暮らすようになって半世紀を過ぎたが、わたしは常々「人のことや物事の道理を考えて暮らす」人のことや物事やその道理に思いをめぐらして、日々を暮らすよう言って来た。文字通り忖度して暮らすよう言ってきたのだが、最近は”言い方”を変えようと考えるようになった。

忖度の対象が、ひとや相手の希望なのか、所望なのか、懇望や宿望なのか、見えない無心や強情なのか解らないからだ。役所や法律や手続きには、申請や請願や訴願などがあるが、忖度の対象は、何なのであろうか。はかる対象が、見えない。ひとや相手の心意や内意、意向や思惑のはかり方が分からないのだ。

「はかる」にもいろいろある。計る、測る、量るなどに加え、図る、謀る、諮るなどあるので、よしなに考えていただこうと”ひらがな”にしている。このような世の中だから、知らない忖度が深耕するのかも知れない。
コメント
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