吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

ディア カントリー

2010年02月07日 | Weblog
 うさぎ追いしかの山・・・「ふるさと」は、田舎から出て東京で働く者の集まりのエンディングだ。この東京(正確には東京周辺)に住んで50年、わたしの暮らしや生き様のオリジンは故郷だ。貧しく、不便で、およそ人が暮らしていくには”ふさわしい”とはいえない(昔)中山間地なのだが、周りが山の農山村だ。やや東北福島に近い、茨城県北は常陸太田市のノーザン・カントリーだ。昨年『ディア ドクター』の映画になったあたりだ。

 この50年のわたしのシゴトや汗の源は、いつも故郷。自然と生活やいのちがいっぱいのあの農山村での子供から少年期にかけての暮らしが、いまのわたしを作ってくれた。ふるさとに感謝しかない。わずか5人の男子同級生の分教場暮らしの小学校時代だが、5年生になって約4キロの本校に通うことになった時分が忘れられない。片道一時間づつの歩いての通学のシンドサから急遽憶えた自転車の危なっかしさは、”生きる”原点だ。

 毎日の一里約4キロの自転車の往復を小学5年6年から中学校3年間の5年を過ごし、そして町の高等学校。4倍の16キロを自転車で通学するハメになった。あさの自転車通学は坂道をスイスイの一時間弱、砂利道とはいえお天気の日は50分で着いたのだが、帰りはそれはそれは大変でした。登り坂道は、半分は乗れず押して歩く。毎日2時間以上の通学の帰りなのだ。

 ほとんどの毎日を自転車での移動と往復時のバイトや早朝や暗くなってからの農作業で暮らした自分の少年時代だが、楽しかった。労働で足腰や肩をイタクしながらも、汗することが楽しかった。ほとんど勉強する時間がない中で、時間を拾うようにして勉強したりすることが楽しかった。ときには、明日の試験へ備える勉強時間がとれずナミダが抑えられないこともあったが逃避することなく過ごせたのは、故郷のやさしさやあたたかさゆえだ。

 来年、わたしたちは高等学校卒後50周年のお祝いの行事を迎える。健康で、そのような行事に参加できることを楽しみにしている。年に何回かしか帰郷したり出来ないわたしだが、”ディア カントリー”はわたしの生きる証だ。
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