因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

演劇ユニットてがみ座第4回公演『線のほとりに舞う花を』

2011-04-14 | 舞台

*長田育恵 作 前嶋のの(思考動物) 演出 公式サイトはこちら 王子小劇場 18日まで (1)
 本公演に足を運んだ理由は、昨秋同ユニット上演の『乱歩の恋文』を見逃した残念のあまり、新作だ、それ!の勢いであった。また前嶋ののによる演出に興味をもった点も大きい。初見は2006年夏の横濱リーディングコレクション#1「太宰治を読む!」より『冬の花火』でみせた「音」の使い方である。出演俳優の声で効果音を表現する手法はいまでは特に新鮮なものではないが、『冬の花火』でみせた(聞かせた)手法は音が音だけに留まらず、非常に効果的な印象をもった。しかもあざとくないのだ。演出は、劇作家の存在そのものともいえる戯曲をどう読んだかを立体化するものだ。自分が惹かれたのは前嶋の戯曲に対する距離のとり方であった。とくにリーディング公演においてはそれが如実に表れる。

 当日リーフレット記載の長田育恵の挨拶文は「3月11日を越えて」のタイトルがつく。本公演は震災直後、稽古の真っ最中にあった。前日とは大きく異なる状況下で公演に向けて歩んだことが気負いなく誠実に記されており、さらに終演後は「余震の影響でキャンセルが相次いでおり、上演を続けることがむずかしい状況にある。どうか知り合いにお声がけを」の主宰みずから異例のアナウンスがあり、「そこまで逼迫しているのか」と驚いた。

 ここから先、今回の舞台について自分の印象を率直に書きます。劇団が前述のような厳しい状況にあることには心を痛めますが、そのことが舞台の印象に影響を及ぼすものではありません。拙稿をお読みになってご自分の目で確かめたいと思われたら、是非足を運んでみてくださいませ。

 世界のどこかで起こった物語。東欧のロマ族をモデルにしているが、劇中具体的な地名も年号もまったく出てこない。史実を忠実に描くことが目的ではなく、時代や国を越えた物語を客席と共有しようという試みとみた。
 俳優は生成り色を基調とした素朴な衣装を身につけている。11名の俳優みな違った素敵なデザインで、それだけでも相当に手が込んでおり、舞台美術、小道具、折り込みチラシの束に添えられた「てがみ座からのテガミ」にも、ひとつひとつに愛情を込めて作り上げたことがわかる。
 故郷を持たずに流浪していた民である一家が、ようやく定住した国境近くの村で時の権力に追われて散り散りになり、双子の姉妹のひとりは村に残り、ひとりは地雷の埋まる国境線を抜けて亡命する。双子の流転に伴って舞台はさまざまな場所に変化しながら、結果的に数十年の物語が描かれることになり、はじめは牧歌的で童話的な雰囲気でどこか遠い国の昔のできごとのようにみえていたが、次第に生々しくこちらに迫りくる。

 今回はてがみ座ではじめて音楽を取り入れた舞台とのこと。ジャンベプレイヤーのナリテツが舞台上手に位置し、さまざまな楽器を使って音を出し、俳優たちが歌う場面も多い。ミュージカルというほど歌主導で進行はしないが、本公演が「シリーズ・五線譜 vol.1」と銘打たれたように、音楽劇として新しい挑戦をしたものだ。劇場が小さいこと、前列に席をとって舞台が近すぎたのか、ミュージカル、音楽劇というものに対する「気恥ずかしさ」を久々に抱き、少々居心地が悪かった。では後方に座ればその感覚が薄れたのかというと、そうでもないような気がするのだった。終幕で客席が俳優が演じるあるものに見立てられて舞台から客席への語りかけがあるのだが、それにも同様の印象をもった。

 音楽劇ではないにも関わらず、先月文学座有志による公演『アズ・イズ 今のままの君』に対して、今回の『線のほとりに舞う花を』と非常に似た感覚があったことに気づく。その感覚は「近過ぎる」というのが、もっとも単純な表現になる。戯曲と作り手側(演出、俳優)の距離は表現の強度になり、結果的に舞台と客席の自分の位置とのあいだの距離を息苦しいものにした。舞台で繰り広げられる物語を熱く感じとりたいと思うが、ただでさえ小さな劇場のすぐ目の前で実際に俳優が動いたり歌ったりするのを目の当たりにするのである。あまり強く語りかけられると「よし、受けとめましょう」というより、「困ったなぁ」ともじもじしてしまうのだった。

 客席を舞台の物語に巻き込む、舞台上の設定のひとつに見立てる、客席に語りかけるという指定が戯曲にあって、演出家はそのように作るのだと思う。そういう手法が戯曲や演出にあることを否定はしないし、単に自分の性格に合わないだけかもしれないが、やはりどうしても微妙な違和感をもつのである。2006年秋シアタートラムで上演されたベケットの『エンドゲーム』(佐藤信 演出)のアフタートークにおいて、出演した東京乾電池の柄本明が「お客さんは劇場に来ちゃったんだから」と言っていたことを思い出す。この発言の前後の文脈はすでに記憶に遠く、意味を誤解している可能性もあるが、観客はもう劇場に来てしまっているのである。だからことさらに巻き込む、見立てる、語りかける方法を取らなくても、と思うのだ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 目で読む講演会『わたしの子... | トップ | 新国立劇場『ゴドーを待ちな... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事