因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

目で読む講演会『わたしの子役時代』

2011-04-10 | 舞台番外編

 昨年10月14日、東京工業大学の外国語研究教育センター主催で行われた演劇評論家江森盛夫氏の講演『わたしの子役時代』(聞き手:同学准教授谷岡健彦氏)が、同学の刊行物「言語文化論叢第16巻」に掲載された。主催者のご厚意により読むことができ、この場をかりて感謝申し上げます。当日の様子を記したブログ記事はこちら
 
 明石スタジオで芝居をみたあと、前から気になっていた「アール座読書館」に立ち寄る。ここは読書喫茶室で、来た人は店内の蔵書や自分で持ち込んだ本を読んだり水槽をながめたり、手紙を書いたりして静かに過ごす。原則おしゃべり禁止。オーダーもささやき声で。いい香りのするお茶をガラスのカップに注いで本書を開いた。

 活字になったものを読んでみると、いっしょうけんめい聴いていたはずなのだが、記憶から抜け落ちているところがずいぶんある。しかもしばらくは覚えていて、日にちが経ったから忘れたのではなく、お話を伺った帰り道、既に記憶になかった。言いかえると直後の印象に残ったことだけが濃厚に刻みつけられていて、たとえばあの夜、江森氏はいくつか詩を朗読してくださったのだが、自分は中野重治の『雨の降る品川駅』がとても好きになり、それしか覚えていない。まず前半で、父上である江森盛弥氏の『家庭的な歌』を読んでくださったのを、すっかり忘れていたのである。「七つの子が遠くまで使いにいくとゆう」。この七つの子がまさに江森盛夫その人であり、独房にいる父と、帰りを待つ母、子どもたちの情景が思い浮かび、温かいようなさびしいような不思議な気持ちにさせられる詩である。

 記憶の容量には限度や適性がある。一度みた芝居の台詞をすべて記憶することなど『ガラスの仮面』の北島マヤだからできるのであって、芝居をみながら無意識のうちに、自分で覚えられる分量や内容を取捨選択しているのだと思う。自分は観劇中にメモはとらない。書くことに気をとられて舞台に集中できないし、書きものの音で周りの方に迷惑をかけてしまいかねないからだ。今回の講演会当日も、自分はメモらしいメモをとっていない。書くより聴くほうがおもしろかったからである。
 一度みて心に残ったのがその日の自分にとって必要なことであり、むろんそこには記憶違いや思い込みの可能性はじゅうんにあり、自分で自分の記憶を操作してしまうこともありうる。また自分の記憶や意識にかすりもしなかったところにこそ、その舞台の本質が存在するかもしれない。そう思うと不安におののく。

 江森さんの講演録の話でしたね。
 映画や舞台の子役をしていた当時のご自分のことを、「自己顕示欲の塊」「イヤな子役だった」と振り返っておられる。また今井正監督の『山びこ学校』撮影時に経験したいろいろなことで、自分が役者に向いていないと覚悟されたという。少年時代に味わう挫折と諦念はいかばかりかと察するが、現在江森氏が執筆されている劇評からは自己顕示欲やイヤな感じはまったくなく、少年の一時期に味わった濃厚な俳優体験が劇評を書くことに直接間接に影響を及ぼして、おそらく江森氏ご自身も予想しなかった果実を実らせているのではないかと思う。

 アール座読書館には小一時間もいただろうか。『家庭的な歌』を何度も読みかえした。声は出せないので、あの夜の江森さんの声や語り口を思い出しながら。

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