因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

第十八回みつわ会公演~二人の東京人 万太郎と松太郎~『舵』、『遊女夕霧』

2014-12-10 | 舞台

 *六行会ホール 14日まで 大場正昭演出 
 いつもは春3月に公演を行うみつわ会が(1,2,3,4)、今回は年の瀬である。さらに「二人の東京人 万太郎と松太郎~」と銘打って、「独特の師弟関係にあった浅草生まれの二人の作家が、昭和29年時を同じくして発表した」(公演チラシより)『舵』、『遊女夕霧』 を上演する。

 ☆「遊女夕霧」 川口松太郎作 大場正昭構成
 大正10年ころの深川森下で、酉の市も過ぎた年の暮のこと。講釈師円玉(中野誠也)のもとを、ある女が訪ねてくる。
 冒頭で作者川口松太郎を思わせる「私」が登場し、物語の人々と自分の関わりなどを語る。この場面が思ったより長い。暗転して本編?が始まる前に、録音された音声で「私」の語りが流れるあたり、やや興を削ぐ。なぜ録音した音声なのかは、はじまった本編に「私」を演じた菅野菜保之が二役めの「如燕」を演じているのですぐにわかる。が、音声の質をもう少し高めることは必要だろう。

 それはさておき本編である。告白すると前半で集中が途切れてしまい、意識がもどると舞台には遊女夕霧(大鳥れい)が登場して、円玉に必死で頼みごとをしていた。なぜそのようなことをしているのかは、あとの台詞からでおよそのことはわかるのだが、大ざっぱに言うと、夕霧の好いた男が困ったことになっており、円玉に一筆書いてもらって助けてほしいと頭を下げに来たらしい。円玉はなかなか気難しいひねくれ者で、びっくりするほど冷淡な断り方をする。夕霧もむかっ腹になり、啖呵を切って出て行こうとするのだが、円玉の女房(岡本瑞恵)がとりなして、無事に収まる。
 安堵する夕霧に、女房は「お茶代わりの一杯だよ」と酒をすすめて、それから夕霧のおのろけがはじまるのだが、それほどまでにそいつに惚れているのなら一緒になるのかと聞かれると悲しげに首を振る。けれど、「生きていれば、いつかきっと力になり合えるときがありますですよ」と涙をこぼす。

 この夕霧は新潟の出だという。上背もあって非常に美しいのだが、ことばに強いなまりがあったり、立ち振る舞いがあまり垢抜けてないところなど、「山出し」風なところがある。そこにこの女性の心根の温かさや優しさが滲み出ており、ひねくれ者の円玉もつい折れてしまったのであろう。
 「力になり合える」。いいことばだなと思う。支え合うでもなく、助け合うのでもない。力になり合えるのである。

 ☆「舵」 久保田万太郎作
 終戦から7、8年経った浅草馬道、ときは5月三社祭りの日である。袋物職人・良吉(冷泉公裕)のうちに、姉のおしまがやってきた。証券会社の社長夫人である。良吉が留守中の突然の来訪に、良吉の女房おのぶ(大原真理子)は驚きつつも歓迎し、弟の清治(高.o.k.a.崎拓郎/開幕ペナントレース)は詰将棋に夢中である。良吉に話があるから来たのにと、おしまはぷりぷりと怒っている。おのぶは良吉を探しがてら、買い物をしてくると出てゆき、おしまと清治がふたりで舞台に残る。

 本作が2011年公演で上演されたとき浅香光代が演じたおしまを、今回は歌舞伎俳優の市川春猿がつとめた。前から2列めの席でまぢかにみる春猿は思ったより長身で、あざやかな化粧や装いがよく似合う。しかし不思議なことに歌舞伎役者の女形の風情はほとんどなく、「ちょっとでかいおばさん」といった感じである。おしまと清治のやりとりは結構長いのだが、「鉋っ屑のように」すぐ火がついてかっかと怒ったかと思えばさめざめと泣いたり、おのぶが作ったというおこわと炊きものをおいしいと喜んだり、おしまは振り幅の大きな役である。春猿は決して大仰な演技をせず、現代劇に近い自然な造形であった。そしてこの姉の丁々発止を鷹揚に受けとめ、引くところは引き、返すところは返す高.o.k.a.崎拓郎も声がよく通り、台詞も実に堂々としていて、テンポのよい、生き生きと楽しい場面になった。

 新劇、歌舞伎、新派、それに小劇場の俳優が一堂に会し、それが久保田万太郎作品をつくる。考えてみれば、みつわ会の試みはまことに斬新なのだ。

 おしまと清治の会話で、良吉には以前親が勧めて結婚寸前まで行った許嫁があったこと、破談になったために一時は家庭が崩壊しかけていたこと、けれどおのぶという申し分ない人が女房になってくれたことなどが示される。さらに良吉の別れた許嫁の気の毒な身の上などもあって、それが良吉が祭で出会った若い夫婦を無理やりうちに連れ帰る場面につながっていくのである。
 姉と弟の会話には、いわゆる説明台詞がたくさんでてくる。しかしお芝居の内容を説明している感じはまったくなく、こちらも自然に引き込まれていくのである。久保田万太郎の台詞術であり、それに市川春猿、高.o.k.a.崎拓郎が誠実に応えていることの証左であろう。

 みつわ会の公演には、たいてい春先の昼間、品川から新番場の劇場の往復を歩くのだが、さすがに年の瀬の夜は電車に乗った。2本とも「ああ、よかったな」と思える終幕ではある。しかしそのなかに痛みや悲しみがどうしてもあるとわかるので、どことなく切ない心持ちになるのである。年の瀬はいっそうその切なさが募る。

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