因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝 『バウンティフルへの旅』

2014-12-06 | 舞台

*ホートン・フート作 丹野郁弓翻訳・演出 公式サイトはこちら 三越劇場 20日まで 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15
 毎年12月に奈良岡朋子が主演する三越劇場の公演に足を運ぶたび、年の瀬の実感が湧く。
 1953年アメリカはテキサス州ヒューストンで、未亡人のキャリー・ワッツ(奈良岡朋子)は、一人息子のルディ(伊東理昭)とその妻ジェシー(細川ひさよ)と暮らす。大変な勢いで発展している都市の暮らしになじめず、嫁との絶え間ないいざこざに耐えかねたワッツ夫人は、年金の小切手を持って、故郷のバウンティフルへ旅立つ。心優しい旅の同道者にも出会い、どうにか旅を続けるが、あと少しで目的地というところで、頼みにしていた旧友がまさに昨日葬儀を済ませたことを知る。それでもたどりついた懐かしい町はすっかり変わり、生まれ育った家も同様であった。ワッツ夫人はそこで何を見つけるのか。

 ワッツ夫人(以下ワッツ)が住むのは二間しかない小さなアパートである。舞台上手がわに息子夫婦の寝室があり、下手にワッツがいるのだが、夜から朝にかけてのいろいろとみていると、まずワッツはソファをベッド代わりにしている。さらにこの部屋にはドアがなく、キッチンにつながっている。朝になると、家族はワッツの部屋のテーブルで食事をとる。つまりここはワッツ専用の寝室ではなく、リビングに間借り状態なのである。これではなかなかゆっくりとはできないであろう。しかし二間しかないのだから、ほかにどうしようもない。

 さらに嫁のジェシーの態度やふるまいがすごいのなんの。相手が夫の母親というのに、まったく遠慮や気兼ねなく、ずけずけとものを言う。息子に免じてワッツは嫁に謝るのだが、姑に頭を下げさせた嫁は、何と「許してやる」と言い放つのである。せめて「許したげるわ」なら、少しは柔らかくなるのに、「許してやる」とは、ほとんど男言葉ではないか。このあたり原文がどうなっているのか、翻訳家が判断の上でこの言い方になったのだとは思うが、あまりの言い草に「これはことばによる老人虐待ではないか」と怒りすらわくのである。

 しかしここで嫁に怒り、息子にいらついて、「何とお気の毒なおばあさん」と思ってしまうと、この作品が伝えようとしていることが見えなくなるだろう。
 地味な話である。物語の展開もそうであるし、登場人物の性格や背景にもことさら特殊なものを負ってはいない。想像の及ぶ範囲である。主人公のワッツ夫人もしかり、日本にでも居そうな老女である。
 この地味な役をよくぞ奈良岡さんに、と思うのだ。これが文学座の杉村春子であったなら、おそらく杉村ファンが黙ってはいない。「杉村先生が、嫁にいびられて家出する役なんて!」と。
 奈良岡朋子とて杉村春子と同じく、老舗の劇団の押しも押されぬ大看板俳優である。パンフレット記載の翻訳・演出の丹野郁弓の「雑記」には、「彼女にこういう役柄は少ない」とある。奈良岡のキャリアには不可思議な経歴や状況、境遇の人物が圧倒的に多く、ドラマティックな役柄が似合うというのである。
 今回は普通のおばあさんだ。それを奈良岡朋子が演じる。人物側からみれば、地味で普通の老女のなかに、こちらに想像のつかない深遠な思想があることであり、俳優奈良岡朋子に視点を合わせれば、演じる自己を強くおもてに出さず、「主役を張る」こともなく、普遍的な老人のすがたをさらりを見せることに、その場ですぐ「さすが奈良岡さん」と思うほどわかりやすくないから、時間が経ってから、「これはすごいことではないか」と地味に驚くのである。

 さらに物語に登場せず、電話のやりとりや、台詞のなかにだけ出てくる人々の存在も重要だ。嫁のジェシーがしょっちゅう電話してはおしゃべりし、いっしょに買い物をしているロゼッタ(正確ではない)は、医者から子どもが出来ないと言われ、たいそう悲しんでいるという。ルディとジェシーにも子どもはいないが、ジェシーはそのことを深く悩んだりはしていない様子だ。ルディの話にしょっちゅう出てくるのが、職場の同僚のビリーである。転職組であるルディに何かと親切にしてくれる男性だが、ルディよりも薄給らしいのに、何と4人めの子どもが生まれるという。「子どもたちのいない人生は考えられない」というビリーを、ルディは素直に称賛している。子どもが持てないことを嘆き悲しむロゼッタと、貧しいながら子宝に恵まれた人生を謳歌するビリー。ルディとジェシーはそのどちらでもない。だからと言って単純にこちらのほうがあちらより幸せだ、あるいは不幸せだなどとは言えないのだ。どちらもひと色ではない。

『バウンティフルの旅』を味わうには、知識や教養といった具体的なあれこれではなく、人物のことばをまず素直に受けとめ、聞きとることが大切ではないだろうか。追いかけて来た息子に、「帰りたくない」と悲壮な面持ちで泣いていたのに、小鳥のさえずりを聞くうち、なぜ「この静けさが今もう一度私に力をくれる。また進んでいく勇気、やらなくてはならないことをやる気力。私はやっと誇りと意地を取り戻したんだわ」と立ち上がれるのか。
 夫を愛していなかったというワッツ。嫁にさんざん言われているのに、毎日アパートのなかをドタバタと走るワッツ。
 2時間あまりの物語のあいだだけでは、ワッツのことをよく理解したとは言えない。けれどおそらくこの女性はずっと長く観客の心のどこかに残り、何かの折に顔を出して、「もしかしてあの場面で彼女が言っていたことは・・・」と思い当たる体験をする。そんな楽しみな予感がする。

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