加東市西垂水の集落から少し南に行ったところに小さな祠があります。圃場整備のために場所が変わり今の地に移された(昭和56年)と聞きましたが、元は西垂水の集落の東にありました。
この祠は立明明神(たちあかしみょうじん)といいます。この名の由来は、社の佐保神社の由来に深い関係があるのです。
佐保大明神は元は加西の鎌倉峰に天降って鎮座していたのですが、小部野(おべの:今の加東市野村)の住人で、鴨国造(かものくにのみやつこ:古代の北播磨にあった鴨国の長官)の子孫である阿部三郎太夫(あべのさぶろうだゆう)が、神託によって佐保大明神を遷すべく、明神を背負い、鎮座の地をさがして一晩立ち明かしたところが、今の西垂水だったということなのです。
一晩立ち明し、夜が明けるころ、東方にうっそうと松がしげる丘が朝の光の中に浮かびあがった。三郎太夫はそこを遷座の地と決めたということなのです。
三郎太夫が加古川に竿をさして釣りをしていたところ、佐保大明神がその竿をつたって川を渡って東にうつってきたという話や洪水の時に竿の先にかかってきたとかいう言い伝えもあります。それで竿先大明神というという話もあります。
確かに西垂水から東を望むと平坦な土地が広がっており、その向こうに社の台地が見えるという、言い伝えの通りの地形になっています。
この祠は立明明神(たちあかしみょうじん)といいます。この名の由来は、社の佐保神社の由来に深い関係があるのです。
佐保大明神は元は加西の鎌倉峰に天降って鎮座していたのですが、小部野(おべの:今の加東市野村)の住人で、鴨国造(かものくにのみやつこ:古代の北播磨にあった鴨国の長官)の子孫である阿部三郎太夫(あべのさぶろうだゆう)が、神託によって佐保大明神を遷すべく、明神を背負い、鎮座の地をさがして一晩立ち明かしたところが、今の西垂水だったということなのです。
一晩立ち明し、夜が明けるころ、東方にうっそうと松がしげる丘が朝の光の中に浮かびあがった。三郎太夫はそこを遷座の地と決めたということなのです。
三郎太夫が加古川に竿をさして釣りをしていたところ、佐保大明神がその竿をつたって川を渡って東にうつってきたという話や洪水の時に竿の先にかかってきたとかいう言い伝えもあります。それで竿先大明神というという話もあります。
確かに西垂水から東を望むと平坦な土地が広がっており、その向こうに社の台地が見えるという、言い伝えの通りの地形になっています。