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Dowson, "After Paul Verlaine (I)"

アーネスト・ダウスン (1867-1900)
「ポール・ヴェルレーヌをまねて (1)」

「街に静かな涙の雨が降る」--ランボー

心に雨が降る。
街に雨が降るように。
どこから来るのか、けだるさが
ぼくの心にとり憑いて離れない。

ああ、美しい雨が
大地と屋根の上に!
痛む心の上に、
ああ、雨の音楽が!

理由もないのに、涙が、
悲しい心のなか流れる。
なぜ? おかしくない?
この悲しみに理由がないなんて。

そうじゃない! 悲しくてどうしようもないのは、
その理由がわからないから。
(愛じゃない。憎しみでもない。)
悲しくてどうしようもない、その理由がわからないから。

* * *

Ernest Dowson
"After Paul Verlaine (I)"

Il pleut doucement sur la ville.-----RIMBAUD

Tears fall within mine heart,
As rain upon the town:
Whence does this languor start,
Possessing all mine heart?

O sweet fall of the rain
Upon the earth and roofs!
Unto an heart in pain,
O music of the rain!

Tears that have no reason
Fall in my sorry heart:
What! there was no treason?
This grief hath no reason.

Nay! the more desolate,
Because, I know not why,
(Neither for love nor hate)
Mine heart is desolate.

* * *

こういう作品を見ると、いろいろ想像したり、
考えたりしてしまう。

1
バイロン、シェリー、キーツから、テニソン、D・G・ロセッティを通って、
19世紀の詩は一気に感傷的になってきている。

18世紀から、演劇や小説には感傷的なものが
多くあり、またシャーロット・スミスのものなど、詩にも
この手のものがあったが(そして売れていたが)、
19世紀には、それが、何というか、一気に詩の主流の
ような雰囲気になってきている。

20世紀のパウンドやエリオットの作品は、この感傷性に
対する抵抗?

パウンドは、いわゆるモダニズム的な言葉や表現を
使う反面、内容はなかなか(だいぶ、かなり)感傷的。
有名な『詩篇』81番(「君が深く愛したものだけが残る、
あとのものはカス」)など。

エリオットの作品については、感傷的なところが
思い浮かばない。作品における視点は、個人のもの
という感じではなく、上からのもの、知性ある人が
概観する、というようなもの。(ポウプなど、18世紀の
詩人たちのよう。)

2
理由のない悲しみ、というのも、おそらく19世紀的。

近代化が進む以前の社会では、悲しみの理由と
思われるものはいくらでもあったはず。病気、貧困、
いろいろな不自由など。

そんな悲しみの理由が、社会が発展するなかで
解消されて減ってきたのに、なぜかまだ悲しい、
という現実に直面しているかのよう。

3
日常的に使われる「悲しみ」ということばは不正確。

悲しみを感じられるということは、ある意味幸せなこと。
もっと悲しいこと、もっと恐ろしくて避けたいことは、
よろこびなどプラスの感情だけでなく、悲しみなどマイナスの
感情も感じられないような、そういう状態。
上の詩でいえば、languor--けだるさ、心身が疲れて、
生きる力がない状態(OED 4-5)。

人、それから、たぶんすべての生きものは、
これから逃れるためだったらどんなことでもする。
社会的、道義的、健康的に、いいことも、悪いことも。

(だから人には教育や法が必要なわけで。)

* * *

英文テクストは、The Poems and Prose of Ernest Dowson より。
http://www.gutenberg.org/ebooks/8497

* * *

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