goo

From Shaftesbury, Sensus Communis

アントニー・アシュリー・クーパー、第三代シャフツベリー伯爵
『共感: 自由な思考と楽しい文章について、手紙で友に』より
『本質: 人・道徳・思想・時代』第1巻

(第1部、第2節)
変な言いかたですが、実際、ふざけた言葉が相手を守るという
ことがあります。いろいろな場面で見られます。たとえば、なにかを
しつこく訊かれて、話せる範囲を超えて本当のことをいわなくて
ならなくなった時とか。真理にとっていちばん困るのは、
場合にもよりますが、必要以上に明らかにされてしまうこと
です。頭は目とある意味同じで、つまり受け入れられる
光の質や量に限界があって、それを超えたら駄目なんです。
そうなると逆に目がくらんで見えなくなって、まったく訳が
わからなくなるのです。

本当に人のことを思うのであれば、きつすぎる真理を
か弱い目から隠さなくてはなりません。そんな時、楽しく
笑わせながらそうするほうが楽で、また相手にとっても優しく
感じられるものです。とげとげしく突き放したり意地悪に
拒んだりするのでなく。難しそうなふりをして人を困惑させたり、
はっきりしないことをいって相手を混乱させて優越感に
浸るといういやみな楽しみに耽ったり、というのは
性質(たち)の悪いふざけかたです。本当は違うのに、
大まじめな顔でこのうえなく深刻で重要そうな話をする、
というのも同じです。昔から同じですが、二重の意味をもつ
たとえ話を使うというのはいい方法かもしれません。
敵が聞いても楽しいような、そしてわかる人にだけ本当の
意味がわかる、というような。逆に、すべての人を笑わせつつ、
賢明な人や友達がみなその真意の理解に苦しむような、
そんな冗談は無意味で無駄です。話題がなんであれ。

こういう品のない冗談をいう人がいると、楽しい気分が
台無しです。誠実さ・本当の優しさからくる冗談と
そうじゃないものは明らかに異なります。下品な悪ふざけも
そうです。でも、誰でもいいたいことがいえる環境があれば、
相手に対する思いやりがないような話というのは、自然に
減っていくものです。楽しい話ができる場では、楽しい話しか
生き残れませんから。いわば言葉の自由交易が話の質を保って
くれるのです。いちばんいけないのは禁輸措置です。
もののやりとりと言葉のやりとり、事情はまったく同じで、
上からの強制や制限があるとみな下火になります。
港を開放して自由にすることが発展への近道なのです。

今の時代、趣味の悪い話のしかたのひとつが衰退し、
見向きもされなくなってきています。先の時代の人たちが
大好きだった駄洒落というもので、詩も劇も、説教までも、
かつては駄洒落だらけでした。駄洒落なしでは楽しい話が
できないといわんばかりに。それは宮廷における共通語の
ようにもなっていました。でも、今それは町の楽しい
仲間たちの会話から追放され、その足跡は田舎でもほとんど
見られなくなっています。残っているのは幼稚園や
学校の教員やこどもたちのあいだだけです。このように、
わたしたちのあいだで言葉や考えかたはひとりでに
快方に向かっていきます。話の楽しさ・おもしろさは
自然に洗練されていきます。私たちが余計な手出しを
しないかぎり。無理やり治療しようとして痛い思いを
させたり、まずい薬を飲ませたりしないかぎり。
趣味のよさなどというものは自由でなければ成立しません。
わたしたちはおたがいに磨きあうのです。楽しく
ぶつかりあうことによって荒々しさ、とげとげしさが
なくなるのです。これを妨げると人の知性が錆びついて
しまいます。思いやり、品のよさ、優しさを広めよう
として逆にこれらを滅ぼす、ということになるのです。

(つづく)

*****
Anthony Ashley Cooper, Earl of Shaftesbury
From Sensus Communis: An Essay on the Freedom of
Wit and Humour in a Letter to a Friend
Characteristicks of Men, Manners, Opinions, Times, vol. 1 [1737]

(Part 1, Section 2)
There is indeed a kind of defensive Raillery (if I may so call it) which I am willing enough to allow in Affairs of whatever kind; when the Spirit of Curiosity wou’d force a Discovery of more Truth than can conveniently be told. For we can never do more Injury to Truth, than by discovering too much of it, on some occasions. ’Tis the same with Understandings as with Eyes: To such a certain Size and Make just so much Light is necessary, and no more. Whatever is beyond, brings Darkness and Confusion.

’Tis real Humanity and Kindness, to hide strong Truths from tender Eyes. And to do this by a pleasant Amusement, is easier and civiller, than by a harsh Denial, or remarkable Reserve. But to go about industriously to confound Men, in a mysterious manner, and to make advantage or draw pleasure from that Perplexity they are thrown into, by such uncertain Talk; is as unhandsom in a way of Raillery, as when done with the greatest Seriousness, or in the most solemn way of Deceit. It may be necessary, as well now as heretofore, for wise Men to speak in Parables, and with a double Meaning, that the Enemy may be amus’d, and they only who have Ears to hear, may hear. But ’tis certainly a mean, impotent, and dull sort of Wit, which amuses all alike, and leaves the most sensible Man, and even a Friend, equally in doubt, and at a loss to understand what one’s real Mind is, upon any Subject.

This is that gross sort of Raillery, which is so offensive in good Company. And indeed there is as much difference between one sort and another, as between Fair-dealing and Hypocrisy; or between the genteelest Wit, and the most scurrilous Buffoonery. But by Freedom of Conversation this illiberal kind of Wit will lose its Credit. For Wit is its own Remedy. Liberty and Commerce bring it to its true Standard. The only danger is, the laying an Embargo. The same thing happens here, as in the Case of Trade. Impositions and Restrictions reduce it to a low Ebb: Nothing is so advantageous to it as a Free-Port.

We have seen in our own time the Decline and Ruin of a false sort of Wit, which so much delighted our Ancestors, that their Poems and Plays, as well as Sermons, were full of it. All Humour had something of the Quibble. The very Language of the Court was Punning. But ’tis now banish’d the Town, and all good Company: There are only some few Footsteps of it in the Country; and it seems at last confin’d to the Nurserys of Youth, as the chief Entertainment of Pedants and their Pupils. And thus in other respects Wit will mend upon our hands, and Humour will refine it-self; if we take care not to tamper with it, and bring it under Constraint, by severe Usage and rigorous Prescriptions. All Politeness is owing to Liberty. We polish one another, and rub off our Corners and rough Sides by a sort of amicable Collision. To restrain this, is inevitably to bring a Rust upon Mens Understandings. ’Tis a destroying of Civility, Good Breeding, and even Charity it-self, under pretence of maintaining it.

http://oll.libertyfund.org/titles/shaftesbury-characteristicks-of-men-manners-opinions-times-vol-1

*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。

ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。

商用、盗用、悪用などはないようお願いします。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

Wyatt, "A Renouncing of Hardly Escaped Loue"

トマス・ワイアット
「恋からの脱出をあきらめる歌」

さよなら、冷たい人--
といって、痛い思いをしながら、高い
代償を払って自由になった。苦しみながら
恐ろしい悲劇を終わらせた。
でも、そんな安らぎは棄てよう。
それでいい。それが正しい。間違いなく
また痛いことになるけど、同時に
痛みも治るから。
今のぼくは、脱出して、
でもまた見つかって
つかまることを恐れる囚人のよう。
苦痛がなくなったのに意味がない、という。
だから痛みの喜びを楽しもう、ぼくの心。
痛みと喜び、両方を。
この歌を忘れちゃいけない。
突き刺さる痛みを楽しく歌おう。

*****
Thomas Wyatt
"A renouncing of hardly escaped loue"

Farewell the hart of crueltie.
Though that with paine my libertie
Deare haue I bought, and wofully
Finisht my feareful tragedy, (5)
Of force I must forsake such pleasure:
A good cause iust, sins I endure
Therby my wo, which be ye sure,
Shal therwith go me to recure.
I fare as one escapt that fleeth, (10)
Glad he is gone, and yet still feareth
Spied to be caught, and so dredeth
That he for nought his paine leseth.
In ioyfull paine reioice my hart,
Thus to sustaine of ech a part.
Let not this song from thee astart,
Welcome among my pleasant smart.

http://versemiscellaniesonline.bodleian.ox.ac.uk/texts/tottels-miscellany/tottel-sig-fiiiiv/
http://versemiscellaniesonline.bodleian.ox.ac.uk/texts/tottels-miscellany/tottel-sig-gir/

*****
恋から解放されないほうがいい、つらくて幸せな
片思いをしているほうがいい、ということ。

内容よりも形式に工夫がある:
aaaabbbb. . . という脚韻 + 行内韻。

*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。

ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。

商用、盗用、悪用などはないようお願いします。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

From Shaftesbury, "Enthusiasm"

アントニー・アシュリー・クーパー、第三代シャフツベリー伯爵
『熱狂的信仰あるいは神憑りについて: サマーズ卿へ』より
『人・道徳・思想・時代』第1巻

(第1節)
……よく目にされていることと思いますが、今の詩人たちは
かなり無理をして詩神にとり憑かれたふり、のりうつられたふりを
しています。そんな神がかりが古代の詩人たちにとって
自然だったのに、現代の詩人が真似すると急に嘘っぽくなるのは
なぜ? とお考えになるかもしれません。でも、思い出して
いただければと思います。あなたご自身がよくおっしゃっていた
ことですし。つまり、この世で最高の力をもっているのは
嘘のない真理であり、つくり話ですら真理の支配下にあります。
真理に似ているところがないようなつくり話はまったく面白くありません。
どんな感情であっても、うまく表現するには実際に人がもつ感情のように
見せる必要があります。また、人を感動させるには、まず自分が
感動していなければなりません。少なくとも感動しているように
見えなくてはなりません。何かもっともらしい理由で、です。
だから、もはやアポロやその他の神々を詩神として信仰していない
今の人が彼・彼女らを称えても、わたしたちはまったく信じる気に
ならないのです。そんな時代遅れの宗教で熱くなっているふりをしても
説得力がないのです。

(第2節)
……不思議なのですが、なぜ知性ある人たちは自分の意見が嘲笑・
批判されることをあれほど恐れるのでしょう。それではまるで自分の
判断の正しさが信じられないといっているようなものです。
そもそも嘲笑など理性に対抗できるはずないのに? 不当な嘲笑に
傷つくなんて、正しく考えられない人だけなのでは?
これこそ本当に馬鹿らしいことです。知性的でない人は
屑のように嘲られればいいんです。面白おかしい馬鹿みたいに
扱われればいいのです。きちんとした教養と判断力のある人は、
繊細な本物の知性ある人だけを相手にしていればいいのです。
だからおかしな話です。ものを考える際にわたしたちが臆病になり、
嘲笑という試験に立ち向かうことを嫌がるなんて。

「うーん、これは非常に難しい問題だ」、などとわたしたちはいったり
します。でもまず、本当にそれが難しいかどうか考えなくてはなりません。
理解のしかたにもよりますが、その問題が難しく重要に見えるというのは
わたしたちの思いこみにすぎないかもしれなからです。本来、馬鹿らしくて
どうでもいいことかもしれないからです。重要に見せる、というのは、
人を騙すときの基本中の基本です。重要に見えるからといって、
わたしたちはものの価値を見誤ります。のみならず、重要そうなことを
考えている人が本当に重要なことを考えているつもりでいるからから
困ります。よくあることですが、重要そうなことを考えているつもり
でいる人は、たいてい形式的なことにとらわれているだけですから。
本当に重要な問題についてであれば、どれだけ真剣に考えても
考えたりないくらいです。重要な問題を重要視する、特別視する、
当然です。当然すぎることです。もしそれがわたしたちが
考えているとおり本当に重要な問題ならば。だから、大切なのは
本当に重要な問題を重要そうに見える偽物から見わけることです。
そのための方法はある基準を常に適用すること以外にありません。
わたしたちのまわりの問題に対してだけでなく、わたしたち自身に
対しても、忌憚なく、です。わたしたち自身に対する見方を誤れば、
当然他のすべてのものを見誤ることになるからです。その法則・
基準とは他でもない、ものの真の重要性・価値をはかること、真に
重要なものは何か、重要でない馬鹿らしいものは何か見極めることです。
どうすればこれができるかといえば、嘲笑・批判を浴びせてみれば
いいのです。そしてそのものがこれに耐えられるかどうか見れば
いいのです。もし、何に対してであれこの基準の適用を嫌がるなら、
形式的なものの嘘・虚偽・いんちきをわたしたちはどのように見抜けば
いいのでしょう? 一度何かを形式的・儀礼的な理由で重要視してしまう、
すると気がつけばわたしたちはすべてにおいて形式・儀礼に
支配されている、ということになりかねないのです。

(第3節)
明るく優しい心があれば信仰の過熱を防ぐことができます。むしろ
そのような心こそが真の信仰・信心の基盤です。最高の存在である
神についてきちんと正しく考え、理解することが真の信仰や崇拝の
根幹ですが、もしそのように正しく考えられない、理解できない
としたら、その理由は、心が意地悪にひねくれているからということ
以外に考えられません。もとからそうであるにしろ、どこかでそうなって
しまったにしろ、意地悪な心をもつ人だけが、この世を支配する神は
悪魔のように意地悪な存在だと本気で考えることができるのです。
無神論が出てくる原因は意地悪な心以外に考えられないとわたしは
本気で思っています。明るく優しい気分でいれば、人は
すべての人やものが善良で親切であると信じることができます。
そのような人にとって、世界が嫌になるということはありえません。
そのような人は、この世はでたらめだ、立派で賢そうに見えようが
この世には意味も道理も何にもない、などとは絶対に考えません。
だからわたしは確信しています。心が意地悪な時にだけ、
人は、最高の支配者である神が悪く恐ろしい存在だと思うのです。
最高の神は意地悪でひねくれていると考えるとしたら、それは
わたしたちの心が意地悪でひねくれているからに他ならないのです。
もし明るく優しい心で神の教えについて考えてはいけないと
わたしたちが思っているなら、自由に楽しく神について考えては
いけないと思っているなら、それは神を人間のようにとらえすぎて
いるからです。つまり、偉大で立派な存在は偉そうで性格が悪いと
思いこんでいるからなのです。

これとはまさに正反対の、神のように善良といわざるを得ない人が
時々最高権力者のなかに実際いたりします。そのような人は
本当に善良ですから、わたしたちは特に気を使わず自然に
話しかけることができます。当然ですが、それで怒られたり、
ということもありません。そのような人は善良であることで
さらに得をします。なぜなら、人柄を深く吟味されればされるほど、
心の内の内まで調べられるほど、まずますその善良さが表に
出てくるからです。それでまわりの人は、そのような権力者を
ますます評価し、また好きになります。人の上に立ちながら
善良で、しかも心が正直で寛大だからです。サマーズさん、
この不思議な現象について、あなたは誰よりもご存知のはずです。
権力の座にあってあなたはとても愛されていましたし、また
地位を失ってもまだ支持され、かつ以前にもまして愛されている
のですから。

(第4節)
つまり、信仰を悲しみと結びつけるから悲劇的なことに
なるのです。それで多くの流血の悲劇が世界中でくり広げられて
きました。わたしが思うに、信仰を正しく道徳的にとらえるなら、
いくらでもそれは楽しく幸せなものと考えていいもののはずです。
また、いくらでも自由に深く考えていいはずです。信仰が本当に
心からのものであれば、それは当然吟味に耐えうるでしょうし、
むしろ吟味されることによってさらに栄えることになるでしょう。
それが偽物、虚偽や詐欺を含むものであれば、その嘘が
暴かれるだけです。

信仰は悲しみに関係するものとわたしたちは教えられて
きています。だからそれについて楽しく考えることができなく
なってしまっているのです。なにか困っている時、病気の時、
苦しい時、思考や感情が乱れている時、そういう時にばかり
わたしたちは神に助けを求めます。本当はそういう重苦しい
時に神について考える余裕などまったくないはずなんですが。
自分の心のなかを覗きこみ、そこにどんな感情があるか
静かに考える余裕がない時に、自分たちを超える存在について
考えられるわけがありません。神のなかに怒りと狂乱、
復讐と暴虐が見えるのは、まさにわたしたちの心が乱れていて
恐れでいっぱいで、苦しみと不安のなかでいつもの落ちつきと
安らぎを失っている時に他ならないのです。

平常心の時、むしろ最高に明るく優しい気持ちの時こそ、
人生がいちばんうまく行っていて幸せな時にこそ、真の
善良さとはどういうことか考えるべきです。神をほめ称え、
賛美するのはなぜか考えるべきです。そうすればはっきり
わかるでしょう、厳格とされる神の正義、神が与えるという
罰の数々、神が抱くという憎しみ・怒りなどと、善良さの
意味する多くのことがらは完全に矛盾していると。神が、
あるいは神の下にある自然が、善良とはどういうことか、
生まれた時からわたしたちにすでにわかるようにしてくれていて、
だからこそわたしたちは善良な神をほめ称えるのです。
そんな神の正義とか罰とか怒りとか憎しみとか、変な話です。
迷信、おかしな信仰に陥りそうになったら、思い出せば
いいのです、神のなかには神にふさわしいものしかない、と。
神は完璧に善良な存在でしかありえない、そうでなければ
神など存在しない、と。もしわたしたちが理性を駆使して
自由に考えることを恐れ、「神が本当に存在するかどうか」
問うことを控えるとしたら、それは神は悪であるとみなすことと
同じです。善良で偉大という神の属性を否定することと
同じです。神について自由に考えることで、彼の怒りや
憎しみを買うかもしれない、と善良な性格であるはずの
神を疑っていることになりますから。
………………
神の不在を望むような人は性格が悪い人です。なぜなら
神の不在を望むということはまさに人々の不幸を、ひいては
自分の不幸を望むことに他ならないのですから。でも、信仰を
押し殺すような悪意はなくとも、神について不幸な考えかたを
していて、神みずからが示してくれているような優しさを
信じられない人もいます。だから、どんなことについてであれ、
忌憚なく理性を駆使して思考することは危険だと思っていたり
するのです。あるいは、情けないことですが理性を否定して、
よくわからないことについては信じているふりさえすれば
あの世で幸せになれる、と思っていたりするのです。
これでは神に対するおべっか使い、教会の寄生虫にすぎません。
頭のいい乞食が相手の素性がわからない時に使う手を
神に対して使う、ということに他なりません。素人乞食は
なにも考えずに「優しい旦那さま」とか「あなたさま」とか
いいますが、ベテランになると違います。誰であれ馬車に
乗っている人に対しては、「心優しき裁判長閣下!」 とか
「お優しきお館さま!」とか「奥方さま!」と呼びかけます。
本当に相手が貴族の場合、「旦那さまとかいっちゃあ、
そりゃあんたおしめえよ」ということらしいですし、
もし相手が貴族でなくても、もちあげておけば少なくとも
毒にはならないからです。

(第5節)
思うに、わたしたちは神学という高尚なことを考える前に、まず
へりくだって自分たちのなかを覗きこむべきでしょう。そして日々の
暮らしに重要な道徳について、残念ながら足りない頭で少し
考えてみるべきでしょう。心のなかを覗いて自分たちの感情を
ちゃんと整理してみれば、たぶん、完全な存在である神が
もつにふさわしい、あるいはふさわしくない感情について、
もう少ししっかり理解できるようになるでしょうから。
神が愛し称えられるべき存在であることがしっかり理解できれば、
彼をどう愛し称えるべきかわかってくるでしょうから。
この理解なしでは、一生懸命称えても実はまったく
称えることになっていない、ということにもなりえます。
ちょっと考えてみてください、立派なこととはなにかわかっていない人、
優れた人とはどういう人のことかわからないような人が
神を称えても、はたして本当に称えることになっていると
いえるのでしょうか。
…………………
善良さというのは他の性質あるいは能力とは違い、
もっていないのにわかるというものではありません。
歌ったり楽器を弾くことができなくても音楽を聴いて楽しむ
ことはできます。詩が書けない人でも詩が好きだったり、
良し悪しを判断できたりします。でも、ある程度善良な
人でなければ、ある程度であれ善良であるとはどういうことか
わからないでしょう。だから、もし神の善良さを称えることが
信仰の中心にあるのなら、まずわたしたちが善良でなければ
なりません。少なくとも、神を正しく称えたいのであれば。
心ゆがんだ人、嘘をつく人が善良な神を称えても、
この世で最悪の雑音を奏でるだけでしょう。

(第6節)
やはり熱狂・忘我という非日常を完全に否定することは
できません。だからこそ、学識によって全力で迷信・妄信と戦った
あの哲学者、エピクロスでさえ幻想・空想の存在を認め、いわば
間接的に熱狂を容認しているのです。彼ほど宗教的信仰から
遠い人はいないと思いますが、その彼ですら空に浮かぶ城や
軍勢といったありえない現象を認めています。ちょっと足りない
ふつうの人のように本気で信じていたわけではないでしょうけど。
薄い原子膜やら空気の鏡やらというのが、彼なりの解決法だった
わけです。これについてはルクレティウスがいつもの美しい
ラテン語でまとめています。

「いろんなものの薄い幻がたくさん、いろんなかたちで、自由に
あたりを漂っている。それらは空で出会って結びつく、蜘蛛の
巣のように、あるいは金の葉のように。……それでケンタウロスや
スキュラの手足、ケルベロスのような犬が見えたりする。もう
骨になって大地に抱かれている人の幻影が見えたりする。こうして
いろんな幻がいつでもどこでも舞っている。空気によってつくられて、
あるいはものから放たれて。」

つまりエピクロスは信じていたわけです、本質的に人間には
幻を見る力があると。人が幻を見るということを前向きに
とらえていたからこそ、彼はそれを全否定したりせず、むしろ
自由に扱えるものとしたわけです。本質的に人は神を信じる存在、
ということをエピクロスは認めませんでしたが、それでも彼は
自然界を超えるものに対して人が畏怖・驚嘆することを
認めざるをえませんでした。たとえ幻などというものが
存在しなかったとしても、それでも幻を見ることは人の本質の
一部であると、そのようなものとして人は生まれていると、
幻を見ずに人が生きることはほとんど不可能であると、です。
こういう考えを神学者なら批判するでしょう、神の存在という
点で、また宗教の目的という点で。でも、そういうものなんです。
幻の存在が本当であれ嘘であれ、それが人に及ぼす影響は同じ、
幻にとり憑かれた人の興奮状態も同じです。ラテン語でいう
「パン憑き」、ギリシャ語でいう「ニンフ憑き」ということです。
なにか神のような存在、田園の牧神パンやニンフなどを見た人は
理性も完全に吹っ飛ぶような忘我の状態に陥ったといいます。
たとえばからだがぶるぶる震えたり、頭や手足をぶんぶん
振りまわしたり、落ちつかなくなってあわあわいったり、
(これはリウィウスがいったことですが)狂乱的にからだが
よじれたり痙攣したり、即興で祈り出したり、神の言葉を
語ったり、歌ったり。どんな国でも誰かがなにかにとり憑かれて
きたのです。そして異教の国であれ、キリスト教の国であれ、
教会など日々の暮らしを司る機関で働く人たちが、狂乱する
人々に手を焼いてきたのです。

古代の人たちはこの病が狂犬に噛まれるとかかる水嫌悪症と
関係すると思っていた、という人もいます。古代のパン憑きが
狂犬病のように噛まれてうつるものだったかどうかわたしには
わかりませんが、でもある種の狂った人たちは古代からいた
わけですし、確かにその人たちは噛みつきたいという欲望を
とても効果的に伝染させていました。というのも信仰上の理由なら
噛みついていいということになって以来、すべての教派が
喧嘩しあってきましたから。よくいうように、歯では噛みつき、
爪では引っ掻き、もうめちゃくちゃです。無慈悲に相手を
苦しめている時がいちばん楽しい、とでもいわんばかりです。

より無害な熱狂だって盛りあがることがあります。幻に
とり憑かれた人はそれを誰かに伝染させたい、同じ炎で
他の人の胸も燃やしたい、と思ったりしますので。
この意味で詩人も狂乱しているといえます。あのホラティウス
だってパンにとり憑かれたり、あるいはそういうふりを
したりします。だからこそニンフやバッカスの幻を見て
次のようなことを書いているのです。

「バッカスが遠くの岩山にいて、ニンフに歌を教えていた。
本当なんだ、後の世の人よ。……エーウォイ! ぼくの心は
いつも恐怖に震えている。バッカスに胸を乗っとられてしまって
変なんだ。」

最初に申しあげたことですが、どんな詩人でも自分の力だけ
ではたいした作品をつくれません。神が乗りうつったという
想像あるいは想定があってはじめてここでいっているような
御しがたい感情を歌えるようになります。知的に醒めていた
ルクレティウスだって、神の息吹を受けて神の息吹を否定する
詩を書いたのです。神の姿をした自然の幻によって導かれ、
そして力を与えられ、それで自然の知恵や神性を否定する
詩が書けるようになったのです。

「母なるウェヌスさま、流れゆく天の星の下、あなたは
船の浮かぶ海と実り多き大地を命で満たしてくれます。
この世のものを支配するのはあなた、あなたなくして
聖なる光の世界に芽を出すもの、幸せなもの、愛しあえる
ほどに育つものはありません。お願いです、力を貸して
ください。メンミウス家の子に捧げる歌をつくりたいのです。」

(第7節)
以上からいえるのは、熱狂的に我を忘れる状態というのが
いろんな状況で見られ、そしてきわめて強力ということ、
それから、それがいいものか悪いものかしっかり見極めることは
このうえなく難しい、ということです。たとえば、無神論
ですら熱狂的なものとなりえます。狂信的に神を否定する人も
いますので。それから、創作の時などに見られる、神が
乗りうつったかのような状態も、外見的には熱狂となかなか
区別できません。神憑りとは神が来ていると真に感じている
時のことで、熱狂とはそう勘違いした状態ですから。ただ、
自分を制御できなくなる点では同じなんです。心が幻に
とらわれ、実在のものあるいは実在しない神的霊的な
なにかが目に焼きついて離れなくなる、なにか
尋常ならざるもの、人知を超えるものを見てしまった気がする、
そんな時に人を支配する、怖い、嬉しい、訳がわからない、
恐ろしい、崇めたい、というような強力な感情は、圧倒的に
巨大で、そして(よく画家がいうように)この世のものでは
ないからです。こういう時のこと、幻を見て心に異常を
きたした時のことを指して、古代の人々は神憑りの狂乱と
いったのです。

尋常ではない狂乱のような状態がおこるのは、許容範囲を
超えるほど大きな考えや情景が人の頭や心に宿る時です。
この意味で神憑りは聖なる狂気といえます。神憑りとは
神のようななにかの到来をあらわす言葉ですし、だから
初期キリスト教の教父たちが神聖と評価した哲学者プラトンも、
人が特に崇高な感情にとらえられ、支配された時に
この言葉を使っています。たとえば英雄、政治家、
詩人、演説家、哲学者たちについてです。わたしたちに
ついても同じで、これらの人たちが偉大なことを
なし遂げた時にはやはりそこに崇高なる狂乱を
見ずにはいられません。つまり、ほとんどすべての人が
この現象について多少なり感覚的にわかっているといえる
でしょう。ですが、この狂乱を正しく理解すること、わたしたち
自身の場合でも他人の場合でも本物と偽物を見わけること、
これがなかなか大変で、そうしなければ現実を見失って
しまいます。本当にその狂乱が神によるものなのか
判断するためには、まず自分の頭や心について、それが
理性的かどうか、健全な理解力があるのかどうか、
知らなくてはなりません。ものを判断すべく落ちついていて
冷静で公平かどうか、歪んだ感情に支配されていないかどうか、
からだのなかに悪い蒸気が充満していて思考がくらくらして
いないか、憂鬱になっていないか、考えてみなくてはなりません。
最初に知るべきこと、判断すべきことはこういうことなのです。
自分自身を理解しなくては、自分の心の性質を知らなくては
ならないのです。その後ではじめてわたしたちは他の人の
心について判断できるようになります。誰にどんな長所があるか、
どれくらい確かな思考力があってどれくらい信用していいか、
考えられるようになります。こういう過程を経ることで、
悪い種類の熱狂の毒から身を守ることができるのです。
あえて断言しますが、そのためには明るく優しい心を保つことが
いちばんです。でないと、治療が病を悪化するということに
なりかねません。

*****
Anthony Ashley Cooper, Earl of Shaftesbury
From A Letter Concerning Enthusiasm to My Lord Sommers
Characteristicks of Men, Manners, Opinions, Times, vol. 1 [1737]

(Section 1)
. . . You must certainly have observ’d our Poets under a remarkable Constraint, when oblig’d to assume this Character: and you have wonder’d, perhaps, why that Air of Enthusiasm, which fits so gracefully with an Antient, shou’d be so spiritless and aukard in a Modern. But as to this Doubt, your Lordship wou’d have soon resolv’d your-self: and it cou’d only serve to bring a-cross you a Reflection you have often made, on many occasions besides; That Truth is the most powerful thing in the World, since even Fiction *it-self must be govern’d by it, and can only please by its resemblance. The Appearance of Reality is necessary to make any Passion agreeably represented: and to be able to move others, we must first be mov’d ourselves, or at least seem to be so, upon some probable Grounds. Now what possibility is there that a Modern, who is known never to have worship’d Apollo, or own’d any such Deity as the Muses, shou’d persuade us to enter into his pretended Devotion, and move us by his feign’d Zeal in a Religion out of date?

(Section 2)
. . . I have often wonder’d to see Men of Sense so mightily alarm’d at the approach of any thing like Ridicule on certain Subjects; as if they mistrusted their own Judgment. For what Ridicule can lie against Reason? Or how can any one of the least Justness of Thought endure a Ridicule wrong plac’d? Nothing is more ridiculous than this it-self. The Vulgar, indeed, may swallow any sordid Jest, any mere Drollery or Buffoonery; but it must be a finer and truer Wit which takes with the Men of Sense and Breeding. How comes it to pass then, that we appear such Cowards in reasoning, and are so afraid to stand the Test of Ridicule?

—O! say we, the Subjects are too grave.—Perhaps so: but let us see first whether they are really grave or no: for in the manner we may conceive ’em, they may peradventure be very grave and weighty in our Imagination; but very ridiculous and impertinent in their own nature. Gravity is of the very Essence of Imposture. It does not only make us mistake other things, but is apt perpetually almost to mistake it-self. For even in common Behaviour, how hard is it for the grave Character to keep long out of the limits of the formal one? We can never be too grave, if we can be assur’d we are really what we suppose. And we can never too much honour or revere any thing for grave; if we are assur’d the Thing is grave, as we apprehend it. The main Point is to know always true Gravity from the false: and this can only be, by carrying the Rule constantly with us, and freely applying it not only to the Things about us, but to our-selves. For if unhappily we lose the Measure in our-selves, we shall soon lose it in every thing besides. Now what Rule or Measure is there in the World, except in the considering of the real Temper of Things, to find which are truly serious, and which ridiculous? And how can this be done, unless by applying the Ridicule, to see whether it will bear? But if we fear to apply this Rule in any thing, what Security can we have against the Imposture of Formality in all things? We have allow’d our-selves to be Formalists in one Point; and the same Formality may rule us as it pleases in all other.

(Section 3)
Good Humour is not only the best Security against Enthusiasm, but the best Foundation of Piety and true Religion: For if right Thoughts and worthy Apprehensions of the Supreme Being, are fundamental to all true Worship and Adoration; ’tis more than probable, that we shall never miscarry in this respect, except thro’ ill Humour only. Nothing beside ill Humour, either natural or forc’d, can bring a Man to think seriously that the World is govern’d by any devilish or malicious Power. I very much question whether any thing, besides ill Humour, can be the Cause of Atheism. For there are so many Arguments to persuade a Man in Humour, that, in the main, all things are kindly and well dispos’d, that one wou’d think it impossible for him to be so far out of conceit with Affairs, as to imagine they all ran at adventures; and that the World, as venerable and wise a Face as it carry’d, had neither Sense nor Meaning in it. This however I am persuaded of, that nothing beside ill Humour can give us dreadful or ill Thoughts of a Supreme Manager. Nothing can persuade us of Sullenness or Sourness in such a Being, beside the actual fore-feeling of somewhat of this kind within our-selves: and if we are afraid of bringing good Humour into Religion, or thinking with Freedom and Pleasantness on such a Subject as God; ’tis because we conceive the Subject so like our-selves, and can hardly have a Notion of Majesty and Greatness, without Stateliness and Moroseness accompanying it.

This, however, is the just Reverse of that Character, which we own to be most divinely Good, when we see it, as we sometimes do, in Men of highest Power among us. If they pass for truly Good, we dare treat them freely, and are sure they will not be displeas’d with this Liberty. They are doubly Gainers by this Goodness of theirs. For the more they are search’d into, and familiarly examin’d, the more their Worth appears; and the Discoverer, charm’d with his Success, esteems and loves more than ever, when he has prov’d this additional Bounty in his Superior, and reflects on that Candor and Generosity he has experienc’d. Your Lordship knows more perhaps of this Mystery than anyone. How else shou’d you have been so belov’d in Power, and out of Power so adher’d to, and still more belov’d?

(Section 4)
In short, my Lord, the melancholy way of treating Religion is that which, according to my apprehension, renders it so tragical, and is the occasion of its acting in reality such dismal Tragedys in the World. And my Notion is, that provided we treat Religion with good Manners, we can never use too much good Humour, or examine it with too much Freedom and Familiarity. For, if it be genuine and sincere, it will not only stand the Proof, but thrive and gain advantage from hence: if it be spurious, or mix’d with any Imposture, it will be detected and expos’d.

The melancholy way in which we have been taught Religion, makes us unapt to think of it in good Humour. ’Tis in Adversity [21] chiefly, or in ill Health, under Affliction, or Disturbance of Mind, or Discomposure of Temper, that we have recourse to it. Tho in reality we are never so unfit to think of it as at such a heavy and dark hour. We can never be fit to contemplate any thing above us, when we are in no condition to look into ourselves, and calmly examine the Temper of our own Mind and Passions. For then it is we see Wrath, and Fury, and Revenge, and Terrors in the Deity; when we are full of Disturbances and Fears within, and have, by Sufferance and Anxiety, lost so much of the natural Calm and Easiness of our Temper.

We must not only be in ordinary good Humour, but in the best of Humours, and in the sweetest, kindest Disposition of our Lives, to understand well what true Goodness is, and what those Attributes imply, which we ascribe with such Applause and Honour to the Deity. We shall then be able to see best, whether those Forms of Justice, those Degrees of Punishment, that Temper of Resentment, and those Measures of Offence and Indignation, which we vulgarly suppose in God, are sutable to those original Ideas of Goodness, which the same Divine Being, or Nature under him, has implanted in us, and which we must necessarily presuppose, in order to give him Praise or Honour in any kind. This, my Lord, is the Security against all Superstition: To remember, that there is nothing in God but what is God-like; and that He is either not at all, or truly and perfectly Good. But when we are afraid to use our Reason freely, even on that very Question, “Whether He really be, or not”; we then actually presume him bad, and flatly contradict that pretended Character of Goodness and Greatness; whilst we discover this Mistrust of his Temper, and fear his Anger and Resentment, in the case of this Freedom of Inquiry.
. . . . . . . . . . . . . . . . .
It is impossible that any besides an ill-natur’d Man can wish against the Being of a God: for this is wishing against the Publick, and even against one’s private Good too, if rightly understood. But if a Man has not any such Ill-will to stifle his Belief, he must have surely an unhappy Opinion of God, and believe him not so good by far as he knows Himself to be, if he imagines that an impartial Use of his Reason, in any matter of Speculation whatsoever, can make him run any risk Hereafter; and that a mean Denial of his Reason, and an Affectation of Belief in any Point too hard for his Understanding, can intitle him to any Favour in another World. This is being Sycophants in Religion, mere Parasites of Devotion. ’Tis using God as the crafty †Beggars use those they address to, when they are ignorant of their Quality. The Novices amongst ’em may innocently come out, perhaps, with a Good Sir, or a Good Forsooth! But with the old Stagers, no matter whom they meet in a Coach, ’tis always Good your Honour! or Good your Lordship! or your Ladyship! For if there shou’d be really a Lord in the case, we shou’d be undone (say they) for want of giving the Title: but if the Party shou’d be no Lord, there wou’d be no Offence; it wou’d not be ill taken.

(Section 5)
Methinks, my Lord, it wou’d be well for us, if before *we ascended into the higher Regions of Divinity, we wou’d vouchsafe to descend a little into our-selves, and bestow some poor Thoughts upon plain honest Morals. When we had once look’d into our-selves, and distinguish’d well the nature of our own Affections, we shou’d probably be fitter Judges of the Divineness of a Character, and discern better what Affections were sutable or unsutable to a perfect Being. We might then understand how to love and praise, when we had acquir’d some consistent Notion of what was laudable or lovely. Otherwise we might chance to do God little Honour, when we intended him the most. For ’tis hard to imagine what Honour can arise to the Deity from the Praises of Creatures, who are unable to discern what is praise-worthy or excellent in their own kind.
. . . . . . . . . . . . . .
’Tis not the same with Goodness as with other Qualitys, which we may understand very well, and yet not possess. We may have an excellent Ear in Musick, without being able to perform in any kind. We may judg well of Poetry, without being Poets, or possessing the least of a Poetick Vein: But we can have no tolerable Notion [27] of Goodness, without being tolerably good. So that if the Praise of a Divine Being be so great a part of his Worship, we shou’d, methinks, learn Goodness, were it for nothing else than that we might learn, in some tolerable manner, how to praise. For the praise of Goodness from an unsound hollow Heart, must certainly make the greatest Dissonance in the world.

(Section 6)
So necessary it is to give way to this Distemper of Enthusiasm, that even that Philosopher who bent the whole Force of his Philosophy against Superstition, appears to have left room for visionary Fancy, and to have indirectly tolerated Enthusiasm. For it is hard to imagine, that one who had so little religious Faith as Epicurus, shou’d have so vulgar a Credulity, as to believe those accounts of Armys and Castles in the Air, and such visionary Phaenomena. Yet he allows them; and then thinks to solve ’em by his Effluvia, and Aerial Looking-glasses, and I know not what other stuff: which his Latin Poet, however, sets off beautifully, as he does all.

Many simulacra of things, thin, manifold in number and form, wander about in all manner of ways, which when in the air they meet, easily conjoin, like cobwebs or gold-leaf. . . . Thus we see Centaurs and limbs of Scylla, and shapes of dogs like Cerberus, and the phantasms of those passed away whose bones the earth enfolds; since everywhere float simulacra of every kind, partly those spontaneously shaped by the air within itself, partly those thrown off by various things.

’Twas a sign this Philosopher believ’d there was a good Stock of Visionary Spirit originally in Human Nature. He was so satisfy’d that Men were inclin’d to see Visions, that rather than they shou’d go without, he chose to make ’em to their hand. Notwithstanding he deny’d the Principles of Religion to be *natural, he was forc’d tacitly to allow there was a wondrous Disposition in Mankind towards Supernatural Objects; and that if these Ideas were vain, they were yet in a manner innate, or such as Men were really born to, and cou’d hardly by any means avoid. From which Concession, a Divine, methinks, might raise a good Argument against him, for the Truth as well as the Usefulness of Religion. But so it is: whether the Matter of Apparition be true or false, the Symptoms are the same, and the Passion of equal force in the Person who is Vision-struck. The Lymphatici of the Latins were the Nympholepti of the Greeks. They were Persons said to have seen some Species of Divinity, as either some rural Deity, or Nymph; which threw them into such Transports as overcame their Reason. The Extasys express’d themselves outwardly in Quakings, Tremblings, Tossings of the Head and Limbs, Agitations, and (as Livy calls them) Fanatical Throws or Convulsions, extemporary Prayer, Prophecy, Singing, and the like. All Nations have their Lymphaticks of some kind or another; and all Churches, Heathen as well as Christian, have had their Complaints against Fanaticism.


One wou’d think the Antients imagin’d this Disease had some relation to that which they call’d Hydrophoby. Whether the antient Lymphaticks had any way like that of biting, to communicate the Rage of their Distemper, I can’t so positively determine. But certain Fanaticks there have been since the time of the Antients, who have had a most prosperous Faculty of communicating the Appetite of the Teeth. For since first the snappish Spirit got up in Religion, all Sects have been at it, as the saying is, Tooth and Nail; and are never better pleas’d, than in worrying one another without mercy.

So far indeed the innocent kind of Fanaticism extends it-self, that when the Party is struck by the Apparition, there follows always an Itch of imparting it, and kindling the same Fire in other Breasts. For thus Poets are Fanaticks too. And thus Horace either is, or feigns himself Lymphatick, and shews what an Effect the Vision of the Nymphs and Bacchus had on him.

Bacchus have I seen in far-off stony places teaching his songs (aftercomers, believe me!) and the nymphs conning them. . . . Evae! my heart trembles with the still-felt fear, and wildly maddens (lymphatur) in a breast filled with Bacchus. [The accepted reading is laetatur, “exults.”]

No Poet (as I ventur’d to say at first to your Lordship) can do any thing great in his own way, without the Imagination or Supposition of a Divine Presence, which may raise him to some degree of this Passion we are speaking of. Even the cold Lucretius makes use of Inspiration, when he writes against it; and is forc’d to raise an Apparition of Nature, in a Divine Form, to animate and conduct him in his very Work of degrading Nature, and despoiling her of all her seeming Wisdom and Divinity.

Nutrient Venus, who under the gliding signs of heaven fillest with life the ship-bearing sea and the fruitful lands. . . . Since thou alone rulest the nature of things, nor without thee ariseth aught to the holy frontiers of light, nor groweth anything joyous or meet for love, thee would I have for helper in framing the song I seek to build for this our son of the Memmian line.

(Section 7)
The only thing, my Lord, I wou’d infer from all this, is, that Enthusiasm is wonderfully powerful and extensive; that it is a matter of nice Judgment, and the hardest thing in the world to know fully and distinctly; since even *Atheism is not exempt from it. For, as some have well remark’d, there have been Enthusiastical Atheists. Nor can Divine Inspiration, by its outward Marks, be easily distinguish’d from it. For Inspiration is a real feeling of the Divine Presence, and Enthusiasm a false one. But the Passion they raise is much alike. For when the Mind is taken up in Vision, and fixes its view either on any real Object, or mere Specter of Divinity; when it sees, or thinks it sees any thing prodigious, and more than human; its Horror, Delight, Confusion, Fear, Admiration, or whatever Passion belongs to it, or is uppermost on this occasion, will have something vast, immane, and (as Painters say) beyond Life. And this is what gave occasion to the name of Fanaticism, as it was us’d by the Antients in its original Sense, for an Apparition transporting the Mind.

Something there will be of Extravagance and Fury, when the Ideas or Images receiv’d are too big for the narrow human Vessel to contain. So that Inspiration may be justly call’d Divine Enthusiasm: For the Word it-self signifies Divine Presence, and was made use of by the Philosopher whom the earliest Christian Fathers call’d Divine, to express whatever was sublime in human Passions.† [35] This was the Spirit he allotted to Heroes, Statesmen, Poets, Orators, Musicians, and even Philosophers themselves. Nor can we, of our own accord, forbear ascribing to a *noble Enthusiasm, whatever is greatly perform’d by any of These. So that almost all of us know something of this Principle. But to know it as we shou’d do, and discern it in its several kinds, both in our-selves, and others; this is the great Work, and by this means alone we can hope to avoid Delusion. For to judg the Spirits whether they are of God, we must antecedently judg our own Spirit; whether it be of Reason and sound Sense; whether it be fit to judg at all, by being sedate, cool, and impartial; free of every biassing Passion, every giddy Vapor, or melancholy Fume. This is the first Knowledg and previous Judgment: “To understand our-selves, and know what Spirit we are of.” Afterwards we may judg the Spirit in others, consider what their personal Merit is, and prove the Validity of their Testimony by the Solidity of their Brain. By this means we may prepare our-selves with some Antidote against Enthusiasm. And this is what I have dar’d affirm is best perform’d by keeping to Good Humour. For otherwise the Remedy it-self may turn to the Disease.

http://oll.libertyfund.org/titles/shaftesbury-characteristicks-of-men-manners-opinions-times-vol-1

*****
(要旨)

1
芸術的なよい熱狂・狂乱・神憑り(enthusiasm)と
宗教的対立をもたらす悪いこれらの区別。
次のページのミルトンの絵などはよい熱狂をあらわす。
Chicago 2017


2
人の幸せ・楽しい暮らし・争いのない社会をもたらす
信仰が正しい信仰。宗教的な対立・闘争は正しくない。

3
自由が大切。思考・思想の抑圧・押しつけは正しくない。
また、形式よりも内容が大事。

4
己を知れ。

以上のような内容を、論理的・文体的にゆるい、
気どらない・飾らない文体で語る。

*****
シャフツベリーは18世紀イギリス(ヨーロッパ)思想における
最重要人物。教科書的な説明においてポウプが代表するとされる
理性重視の流れ、および18世紀からロマン派の頃まで続く
オードの流行に見られるような(制御できないほど強い)
感情・非理性の礼賛、この両者の源が彼の著作。ハッチソン、
ヒューム、アダム・スミスらに連なる道徳哲学の源も彼。
共感・感受性の文学の源も彼。ポウプらの書簡体で長々と
哲学を語る詩の源も彼。

逆にシャフツベリーの著作の背景にあるのは、ギリシャ・
ローマ古典を権威とする世俗思想 vs. 急進的・攻撃的な
キリスト教諸思想(カルヴァン派の教義、千年王国思想など)
という17世紀イギリスの思想的・政治的対立、および
この対立からくる社会的緊張の解消を試みたケンブリッジの
プラトン派や広教派聖職者たちの仕事。

つまり、シャフツベリーの著作が17世紀と18世紀の
橋渡しをした、ということ。

*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。

ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。

商用、盗用、悪用などはないようお願いします。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

Carisbrooke, etc., 2017

カリスブルック城 2017
Carisbrooke, etc.
201709



ドバイ空港



The Seven Sisters の手前の海岸



ポーツマス: 曇り空と海



ポーツマス:晴れ



ホヴァークラフトでワイト島へ



ランドリー店の窓のシール



泊まったB+Bに仏がいた



いざ、カリスブルックへ
ちなみにランドリーの店主は生まれて一度も行ったことがない、と


*****
以下、カリスブルック城。処刑前にチャールズ1世が
軟禁されていたところ(のひとつ)。
Cf. Marvell, "An Horatian Ode"



ふつうの道の他にこういう行きかたもある







見張り塔



城壁の上を歩く



その2



城壁から中心部を見下ろす
真ん中の三角屋根の2階部分がチャールズ1世の部屋



案内図



裏のボーリング場
チャールズがよく遊んでいた



チャールズの部屋
後にここで暮らした王族がつけた装飾
(いらんことを)



チャールズの部屋 2
この小窓からチャペルの祭壇が見えたとのこと



チャールズの部屋 3
チャールズが逃亡しようとした(が、からだがはさまって
抜けなくなって失敗した)窓を壊して大きくしてある
(いらんことを、その2)



キッチン側



キッチンの壁
この上の窓からチャールズは二度目の逃亡を試みる
が、買収したはずの守衛二人に裏切られて失敗



チャールズの死刑執行礼状の写し
署名と血判


*****
以下、ブレイディのローマ史跡。



床のモザイク: メデゥーサ



床のモザイク 2



床のモザイク: 海の神トリトン



床暖房システム



井戸



建築の一部?


*****
以下、ゴッヅヒル(Godshill)。
昔の村(ということで観光地化)。



教会と墓地
Cf. Gray, "Elegy Written in a Country Churchyard"



その2



16世紀のコテージを使っているティールーム



そのなかの壁



牧場
あたりまえのようにあちこちにある


*****
画像はみなわたしが撮影したもの。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

Cowley, "The Country Mouse"

エイブラハム・カウリー
「田舎ねずみ: ホラティウスの諷刺 2.6 より」

大きな木の太い根元に開いた穴、
畑の近くの心地よい家に、
先祖代々
裕福な田舎ねずみが住んでいた。
まじめで倹約家で資産管理も上手で、でも
一度だけ贅沢に都会ねずみをもてなしたことがあった。
都会ねずみはつやつやで色も毛並みもいい、
そんな上流のねずみで、たまたま気分転換に
外に出て町を離れ、ぶらぶらしていて道に迷ったのだった。
午後早くに彼は田舎ねずみの家に着き、
その日は泊めてもらうことにした。田舎ねずみは気前よく、
先祖代々の富を誇りながら、
蓄えからご馳走を用意した。それはそれは多彩な
食材があって、宮廷人でも驚くほどのものだった。
蚕豆(そらまめ)、豌豆(えんどう)などの豆、燕麦(えんばく)や
小麦、大きな胡桃(くるみ)やその他のおいしい食べもの--
もしゼウスがねずみだったらこういうものを食べていただろう。
スパイスとしてこれらに加え、
ベーコンの皮、チーズの皮、その他
高価な残りもの、収穫の頃に田舎ねずみが
農夫の宴からくすねてきたものがあった。
田舎ねずみはいった、「どうぞ、ご遠慮なくお召しあがり
ください。明日の食事はまた神々がお恵みくださるでしょう」。
こうして二匹は麦わらのベッドにくつろぎ、
今日の食事をお腹に捧げた。
が、享楽を愛するエピクロス派の客ねずみは、
育ちがいいので礼儀正しくやさしくふるまいながらも、
田舎のご馳走にはがっかりして、ずっと
ロンドンのケーキやパイのことを考えていた。
「あなたのように洗練されていて、しかも心の広いお方に
このような田舎でお目にかかるとは、いやはや、驚きです。
神々もあなたにこんな気高い心をお与えなのだから、ついでに
もっといい食べものをくれてもいいものを。
あなたのような立派なお方が誰も知らないところで
埋もれているなんて、いかがなものかと思いますが。
田舎の巣穴で暮らすのは野の獣だけで十分というもので、あなたは
町に行っていろんな人に会い、上品なふるまいを学んではどうですか?
贅沢な宮廷の暮らしも悪くないですよ。
貴族ねずみがいっぱいいて、
きれいな姫ねずみもちょろちょろ寄ってきて。
まあ、衣食住が充たされたら次は恋、というものですから、ねえ。
みんないずれ死ぬ運命ですし、あたりまえですが、
こんな穴に隠れていてもどうせ死神に見つかります。
命は短いもので、いつ終わるかわかりません。だから
おおいに楽しみません?
わたしと一緒に行きましょう、ね? そして
死すべきねずみの幸せすべてを満喫しましょう」。

ああ、道徳では太刀打ちできない、
輝く地位や心地よい快楽の魅力には。
その魔力にはどれだけ知恵があっても逆らえない。
隠居の聖者でもふらふら誘い出されてしまう。
こうして、詩人たちが気取って、太陽神アポロンが
海の女神テティスの胸に落ちる、
彼女は顔を赤らめ明かりを消して、
恥ずかしげに夜のカーテンを閉める、というような頃、
ふつうにいえば、太陽が沈む頃、
二匹のねずみは町にたどり着いた。
とある貴族のまさに貴族的な屋敷に、
日々華美に豪奢に暮らすためにあるような屋敷に、
彼らはやってくる。ドアのところのりっぱな人に
止められて、そこから入れない……はずだったが、
ですが、閣下がお望みでしたらお応えしないわけには
まいりません、とかなんとかで、二匹は入る。
広い部屋の壁飾り
(モートレイク製最高級品)の裏で
彼らはしばらく疲れた手足を休め、
そして部屋の音が消えた頃を見計らって食卓に向かう。
月の神キュンティアの銀色の光が
真夜中を淡く照らす頃、
豪華な夕食も終わり
誰もいなくなる、
客も召使いもみな。遠くの広間で
ダンスして、気高くいちゃいちゃするのである。
田舎からの客ねずみを連れて都会ねずみがテーブルに行けば、
そこには期待どおりのご馳走があった。
料理は食べかけで
おいしいかけらがたくさん床に飛び散っていた。
宮廷ねずみっぽく彼は最上のものを選んで客にふるまい、
二匹ともいろいろ食べてお腹いっぱいで幸せだった。
田舎ねずみは勤勉だからあちこち走りまわり、
はじめてのご馳走を神々に感謝した。
そして今、具のつまったパイの真んなかに
二匹は横たわる。もう食べられない、もう動けない。
が、その時、運命が悲しい方向に急転回、栄光の絶頂にある
死すべきねずみたちを激しい嵐が待ち受けていた!
恐ろしい足音を響かせて召使いたちがやってくる。
その前を走るのはわんわん吠える六匹の犬。
哀れな美食家ねずみたちは恐怖に我を忘れて逃げ惑う。
ちきしょう、あんなに食べるんじゃなかった!
田舎ねずみはぶるぶる震えながら心に願う、
岩や山のあいだに隠れたい! もう無理?
冴えない前の暮らしのほうがずっとよかったな!
そしていう、「いろんな生きかたがあるけど、これが最悪、
絶対そう。神さまたち、森の巣穴に帰らせて。のんびり
ゆっくり暮らしたい。食べものなんて蚕豆やどんぐりでいいから」。

*****
Abraham Cowley
"The Country Mouse: A Paraphrase upon Horace, Satire 2.6"

At the large foot of a fair hollow tree,
Close to ploughed ground, seated commodiously,
His ancient and hereditary house,
There dwelt a good substantial country mouse:
Frugal, and grave, and careful of the main,
Yet one who once did nobly entertain
A city mouse, well coated, sleek, and gay,
A mouse of high degree, which lost his way,
Wantonly walking forth to take the air,
And arrived early, and alighted there,
For a day’s lodging. The good hearty host
(The ancient plenty of his hall to boast)
Did all the stores produce that might excite,
With various tastes, the courtier’s appetite.
Fitches and beans, peason, and oats, and wheat,
And a large chestnut, the delicious meat
Which Jove himself, were he a mouse, would eat.
And for a haut goust there was mixed with these
The swerd of bacon, and the coat of cheese,
The precious relics, which at harvest he
Had gathered from the reapers’ luxury.
“Freely,” said he, “fall on, and never spare,
The bounteous gods will for to-morrow care.”
And thus at ease on beds of straw they lay,
And to their genius sacrificed the day.
Yet the nice guest’s epicurean mind
(Though breeding made him civil seem, and kind)
Despised this country feast, and still his thought
Upon the cakes and pies of London wrought.
“Your bounty and civility,” said he,
“Which I’m surprised in these rude parts to see,
Show that the gods have given you a mind
Too noble for the fate which here you find.
Why should a soul, so virtuous and so great,
Lose itself thus in an obscure retreat?
Let savage beasts lodge in a country den,
You should see towns, and manners know, and men;
And taste the generous luxury of the court,
Where all the mice of quality resort;
Where thousand beauteous shes about you move,
And by high fare are pliant made to love.
We all ere long must render up our breath,
No cave or hole can shelter us from death.
Since life is so uncertain and so short,
Let’s spend it all in feasting and in sport.
Come, worthy sir, come with me, and partake
All the great things that mortals happy make.”

Alas, what virtue hath sufficient arms
To oppose bright honour and soft pleasure’s charms?
What wisdom can their magic force repel?
It draws the reverend hermit from his cell.
It was the time, when witty poets tell,
That Phoebus into Thetis’ bosom fell:
She blushed at first, and then put out the light,
And drew the modest curtains of the night.
Plainly the truth to tell, the sun was set,
When to the town our wearied travellers get.
To a lord’s house, as lordly as can be,
Made for the use of pride and luxury,
They come; the gentle courtier at the door
Stops, and will hardly enter in before;—
But ’tis, sir, your command, and being so,
I’m sworn t’ obedience—and so in they go.
Behind a hanging in a spacious room
(The richest work of Mortlake’s noble loom)
They wait awhile their wearied limbs to rest,
Till silence should invite them to their feast,
About the hour that Cynthia’s silver light
Had touched the pale meridies of the night,
At last, the various supper being done,
It happened that the company was gone
Into a room remote, servants and all,
To please their noble fancies with a ball.
Our host leads forth his stranger, and does find
All fitted to the bounties of his mind.
Still on the table half-filled dishes stood,
And with delicious bits the floor was strewed;
The courteous mouse presents him with the best,
And both with fat varieties are blest.
The industrious peasant everywhere does range,
And thanks the gods for his life’s happy change.
Lo, in the midst of a well-freighted pie
They both at last glutted and wanton lie,
When see the sad reverse of prosperous fate,
And what fierce storms on mortal glories wait!
With hideous noise, down the rude servants come,
Six dogs before run barking into th’ room;
The wretched gluttons fly with wild affright,
And hate the fulness which retards their flight.
Our trembling peasant wishes now in vain,
That rocks and mountains covered him again.
Oh, how the change of his poor life, he cursed!
“This, of all lives,” said he, “is sure the worst.
Give me again, ye gods, my cave and wood;
With peace, let tares and acorns be my food.”

http://www.gutenberg.org/ebooks/3549

*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。

ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。

商用、盗用、悪用などはないようお願いします。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

Donne, "To His Mistress Going to Bed"

ジョン・ダン
「愛しいお嬢さまに、ベッドに行こう、と」

おいで、お嬢さま、ぼくに休息はいらないから。
君に種を植えないと、ぼくはある意味身重な感じ。
決闘の時、敵を前にして立ってるだけで
きつかったりする、戦ってないのに。それと同じ。
さあ、銀河のように輝くその帯をほどいて。
そして星降るこの世界よりきれいなからだを見せて。
きらきらのスパンコールの胸あてもはずして。
きょろきょろ落ちつかない目が集中できるように。
首飾りもとって。金と銀と宝石のチャイムで
ベッドの時間をお知らせして。
君を抱きしめるコルセットもはずして。うらやましい、
君にぴったりくっついてるなんて。
ドレスがはらりと落ちてきれいな景色が見えてくる。
丘の影から花咲く牧場が出てきたかと思った。
金細工の小さな冠も脱いで。
金色の髪そのものが冠だから。
タイツと靴も脱いで。そしてそっと
神聖な愛の神殿に、このやわらかなベッドにきて。
昔、こんな真っ白な服で天使はこの世に
降りてきた。君も天使だから、君がいるだけで
ここは天国、それかマホメットのハレム。おばけも
白い服を着てるけど、見わけるのはかんたん。
天使とおばけの違いはこれ--
おばけを見て立つのは髪、天使ならからだ、の一部。

さまようぼくの手を特許して。自由に探検させて、
前に後ろに真んなかに、それから上にも下にも。
そう、まさに君はぼくのアメリカ、ぼくの新大陸、
ぼくの王国、国民もぼくだけだからぜったい平和、
宝石あふれるぼくの鉱脈、帝王ぼくの国。
最高に幸せなぼく! 君を発見できたから!
ここに閉じこめられることこそ自由。
手がしばられたら、同じところで心もしばられていたい。

さあ素っ裸で準備OK! これですべての喜びが君のもの。
魂がからだを脱ぐように、からだも服を脱がなくちゃ。
でないと本当の喜びは味わえない。女の子がつける宝石は
アタランタのりんごみたいに男の目を惹きつける。
バカな男は宝石を見て、そして
その宝石のほうを好きになる、女の子じゃなく。
無知な人は絵や本の派手な装丁が好き。
女の子もそんな派手な服を着る。
でも本当は女の子自身が神秘思想の本だから、
ぼくらはその奥儀を学んでりっぱな人になるために
すみずみまでちゃんと読まないと。
産婆さんに見せるようにすべてを
見せて。そんな時こんな白いシーツで隠さないし。
ということで、ぜんぜん悪いことじゃないから大丈夫。
お手本としてぼくももう裸。だったら
君が男のぼくより着てるって変じゃない?

*****
John Donne
"To His Mistress Going to Bed"

Come, madam, come, all rest my powers defy;
Until I labour, I in labour lie.
The foe ofttimes, having the foe in sight,
Is tired with standing, though he never fight.
Off with that girdle, like heaven's zone glittering,
But a far fairer world encompassing.
Unpin that spangled breast-plate, which you wear,
That th' eyes of busy fools may be stopp'd there.
Unlace yourself, for that harmonious chime
Tells me from you that now it is bed-time.
Off with that happy busk, which I envy,
That still can be, and still can stand so nigh.
Your gown going off such beauteous state reveals,
As when from flowery meads th' hill's shadow steals.
Off with your wiry coronet, and show
The hairy diadems which on you do grow.
Off with your hose and shoes; then softly tread
In this love's hallow'd temple, this soft bed.
In such white robes heaven's angels used to be
Revealed to men; thou, angel, bring'st with thee
A heaven-like Mahomet's paradise; and though
Ill spirits walk in white, we easily know
By this these angels from an evil sprite;
Those set our hairs, but these our flesh upright.

Licence my roving hands, and let them go
Before, behind, between, above, below.
O, my America, my Newfoundland,
My kingdom, safest when with one man mann'd,
My mine of precious stones, my empery;
How am I blest in thus discovering thee!
To enter in these bonds, is to be free;
Then, where my hand is set, my soul shall be.

Full nakedness! All joys are due to thee;
As souls unbodied, bodies unclothed must be
To taste whole joys. Gems which you women use
Are like Atlanta's ball cast in men's views;
That, when a fool's eye lighteth on a gem,
His earthly soul might court that, not them.
Like pictures, or like books' gay coverings made
For laymen, are all women thus array'd.
Themselves are only mystic books, which we
—Whom their imputed grace will dignify—
Must see reveal'd. Then, since that I may know,
As liberally as to thy midwife show
Thyself; cast all, yea, this white linen hence;
There is no penance due to innocence:
To teach thee, I am naked first; why then,
What needst thou have more covering than a man?

http://www.luminarium.org/sevenlit/donne/elegy20.htm

*****
マーロウ訳のオウィディウス『恋の歌』の路線のエロティックな詩。
でもダンは(後の)セント・ポール大聖堂の主席司祭。
Cf.
Marlowe (tr.), Ovid's Elegia 1.5
Carew, "Rapture"
Milton, A Maske (part) ("Nay Lady sit. . . .")

文学史的には、ペトラルカ的純愛路線の対立項として、また
ペトラルカにもギリシャ・ローマ古典にもないタイプの比喩・
修辞の実験として、ある意味で重要。……などとあえて論じる
ような内容でもないが。

*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。

ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。

商用、盗用、悪用などはないようお願いします。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )