英語の詩を日本語で
English Poetry in Japanese
From Hotham, Introduction to the Tevtonick Philosophie
チャールズ・ホサム
『ドイツ哲学入門:魂の起源についての最終結論』より
この世でもっとも難しいのはわたしたち自身について
知ることである。精神の本質はあまりに微細で
とらえどころがなく、見ることもふれることも
解剖することもできない。だから哲学者も神学者も
暗闇のなかで議論をし、この世に疑問を撒き散らす
のみである。人の不死なる魂がどこから来るのか、
それがどのように死すべき肉体と結合するのか、
結局誰にもわかっていない。……
耄碌した古代人たちの考えすべてをここでひとつひとつ
あげたりはしない。それらは現代のわたしたちから
すれば、食べすぎで生じる濁った毒気がもたらす
夢か妄想のようなものにすぎない。
重要なのは以下の五つの考えである。順番に見ていこう。
第一の考えかたは古代の医学者ガレノスのものである。
おそらくサドカイ人たちも同じ考えだったであろう。
ガレノスは、体だけでなく魂も医学の支配下に
入れるため、人の魂も野の獣の魂も四元素と体液が
混じって生じる心身の状態、いわば命と活動のもとの
ようなものであると考えた。つまり、この魂とは
元素と体液がバラバラになれば死ぬようなものであった。
二つめは古代アラブ人や現代のカルダノの考えで、
ひとつの世界全体の魂が流れ出て個々の魂になる、
というものである。言いかたを変えれば、個々の魂は
存在しないということである。世界全体の魂は
この世の命ひとつひとつとなってあらわれて
それらがすることをおこなう。そうせざるをえない。
世界の魂は個々の命として表に出ずにいられない。
例えば、太陽がその光を放たずにいられないのと
同じである。あるいは太陽の光が透明なものを
通って光らずにはいられないのと同じである。
以上二つの考えかたを支持してきたのは
エピクロス派であり、また使徒の言う
「神をもたずにこの世を生きる者たち」である。
これらの愚かな考えは、キリスト教によって、
また賢い異教徒たちすべてによって、
誤りとして退けられてきた。
第三の考えかたは、プラトン派のものである。
彼らは、今住んでいるこの地球がわたしたちの
生まれ故郷とは考えない。わたしたちは、体という
拘束によってとらわれた奴隷である。昔、
わたしたちの魂は創造主に対して罪を犯し、
そのしるしとして、今、体に閉じこめられている。
神はすべての魂をみな等しく、一点のしみもない、
ありえないほど完璧なものとしてつくった。
魂がそのように完璧だったのは、それが神の
意志=意志と一体だったからである。しかし
魂は自分の意思=意志でそこから堕ちてしまい、
神の前から追放されて、この世に閉じこめられた。
が、悲惨で幸運が永続せず不幸に死ぬしかない、
というこの世の厳しい教育を受け、永遠不動なる
神の世界に再び帰りたいと考えられるようになったなら、
神の恵みによってそのような人の魂はもとの国、
生まれ故郷に再び受け入れてもらえるようになる。
体という奴隷船から解放されて、である。
このように考えたのはヘルメス、プラトン、
イアンブリコス、プロティノス、そしてその他の
神秘主義思想家である。おそらく古代や
最近のユダヤ人もそのように信じていた、あるいは
信じている。またキリスト教徒ではオリゲネスが
こう信じていた。
四つめの考えはキリスト教神学者のほとんどが
信じているものである。神は人の体のすべての、
あるいは少なくとも絶対的に必要な部分をつくった際に
魂を無からつくり、体の完成と同時にそれを吹きこんだ。
第五のものは……現代の多くの知識人が賛同し、
また古代の著名人たちも認めてきた考えかたであって、
第四のものと特に対立はしない。曰く、人の子の
魂は親の種から発生する。
以上のどれがもっとも正しいかは、まだ学術的に
証明されていない。……
[以降、第5の考え方、魂の遺伝が正しい、という議論が続く。]
次にていねいに考えなくてはならないのは、
神によってつくられたもののうち知性をもつと
されるもの、つまり人と天使にはその本質として
三つの部分があるということである。
この三つとはすなわち霊と魂と体であり、
その違いは、理性に従って考えれば、また神の
哲学を見れば、明白に示すことができるであろう。
わたしたちが時間の檻に閉じこめられていなければ。
霊という言葉でわたしが理解しているのは、
体と魂が共有するもの、二つをつなげるような
ものではない。むしろそれは人のなかにあって
もっとも高い地位にあるもの、いわば神に近い
はたらきをするものであって、これがあってはじめて
わたしたちは神と関係をもつことができる。
体も、役に立たない死骸のようなものではなく、
感覚ある、成長する、そしてかたちのある命の
部分が具体化したものである。魂とは神の世界と
獣の部分の中間に位置するものであるが、今回の
わたしの議論においては以上三つをおおまかに扱い、
魂という言葉で体に対立するすべてのものを
あらわすことにする。
創造という概念について言えば、スコラ派やその
思想を鵜呑みにする人たちが押しつけてきた
「無から何かをつくること」という理解は
誤りであって支持できない。なぜなら
創造と訳される "ברא" という言葉は、もとの
ヘブライ語や聖書においてそのような意味を
もたないからである。それが示すのは、「無から」
ではなく「永遠に、無限に」つくることである。
つまり、神とおおいなる深淵の空間から--
はかり知れない無限の空間から--無限の神の宿る、
無限の神が収まっているような、想像しうる
すべての地点において--創造がなされるのである。
第二に、この深淵、正しくは無限三次元空間は、
厳密に言って無ではない。……
第三に、この底なしのはかり知れない空間は
(神の次に)もっとも高度に存在の真のありかたを
あらわすものであるが、それは神自身ではない。
なぜなら、分割できるなど、性質上いくつかの点で
この空間は完璧な神の本質・ありかたの正反対で
あるからだ。だから然るべき名を与えるなら、
それは「神の体」となるだろう。さらに正確に
言うなら、神の永遠の住処となるだろうか。
第四に、この底なしの深淵は、哲学者たちが第一質料と
呼ぶものと同じ性質をもつと考えられるかもしれない。
つまりそこにあるのは、何かも、どれくらいあるのかも、
どんな性質なのかもわからないものである、と。
明確な質も大きさもかたちもわからない、
ただ何かが無限に全体としてそれがあるだけだ、と。
このようなことが示すのは、人の言葉や表現が
十分でないので本質的に有限のもののしか
はかってあらわすことができない、ということである。
無限の空間をあらわすにはそれはあまりにも
制限されていて、また矛盾が多く、それゆえ
否定のかたちでしか、想像を超える広大な空間の
ありかたを伝えること・見せることができないのである。
が、それでも特にこの深淵の特徴として四つの点が
あげられる。
1
かたちに向かう欲望または意思=意志、あるいは
集まり、塊になり、合体する力。
2
逆に塊になることに強く抵抗する力
3
上の二つの力の争いから生じる苦しみ。第一質料の
腸(はらわた)が噛みちぎられるような痛み。
4
燃えあがる大きな炎、あるいは真っ黒の火。
(つづく)
*****
Charles Hotham
From An Introduction to the Tevtonick Philosophie:
Being A Determination Concerning the Original of the Soul
(Wr. in Lat. 1647, trans. and pub. 1650)
Wing H2896
*****
散文。ホサムはケンブリッジ大の研究員。
この書は公開論争の原稿を出版したもの。
ドイツの神秘思想家ヤーコプ・ベーメ(Jakob Böhme,
Jacob Boehme)についての入門書。
彼の Three Principles of the Divine Essenceの要約。
(Sarah Hutton in Hutton, ed. Henry More, p.158)
ヘブライ語の箇所についてはよくわからない。
オンラインの英・ヘブ辞書には ברא = to create とある。
*****
正統的なキリスト教思想に反する議論:
魂は死ぬ。
世界の魂が個々の魂となる。(cf. ヘーゲルの「世界精神」)
神は、無からではなく深淵空間・混沌から天地その他を創造した。
神は体をもつ。
*****
このようなことを大学で研究者たちが本気で
「科学的」に議論していたということが重要。
今でも変わっていない部分・領域があるのでは
ないか。
もしかしたら、さらに悪化・劣化している面も
あるのではないか。
自分の研究は400年後の人々に評価されるはず、
と自信をもって言えるか。
*****
学生の方など、自分の研究・発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者・タイトル・
URL・閲覧日など必要な事項を必ず記し、
剽窃行為のないようにしてください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用・盗用・悪用などはないようお願いします。
『ドイツ哲学入門:魂の起源についての最終結論』より
この世でもっとも難しいのはわたしたち自身について
知ることである。精神の本質はあまりに微細で
とらえどころがなく、見ることもふれることも
解剖することもできない。だから哲学者も神学者も
暗闇のなかで議論をし、この世に疑問を撒き散らす
のみである。人の不死なる魂がどこから来るのか、
それがどのように死すべき肉体と結合するのか、
結局誰にもわかっていない。……
耄碌した古代人たちの考えすべてをここでひとつひとつ
あげたりはしない。それらは現代のわたしたちから
すれば、食べすぎで生じる濁った毒気がもたらす
夢か妄想のようなものにすぎない。
重要なのは以下の五つの考えである。順番に見ていこう。
第一の考えかたは古代の医学者ガレノスのものである。
おそらくサドカイ人たちも同じ考えだったであろう。
ガレノスは、体だけでなく魂も医学の支配下に
入れるため、人の魂も野の獣の魂も四元素と体液が
混じって生じる心身の状態、いわば命と活動のもとの
ようなものであると考えた。つまり、この魂とは
元素と体液がバラバラになれば死ぬようなものであった。
二つめは古代アラブ人や現代のカルダノの考えで、
ひとつの世界全体の魂が流れ出て個々の魂になる、
というものである。言いかたを変えれば、個々の魂は
存在しないということである。世界全体の魂は
この世の命ひとつひとつとなってあらわれて
それらがすることをおこなう。そうせざるをえない。
世界の魂は個々の命として表に出ずにいられない。
例えば、太陽がその光を放たずにいられないのと
同じである。あるいは太陽の光が透明なものを
通って光らずにはいられないのと同じである。
以上二つの考えかたを支持してきたのは
エピクロス派であり、また使徒の言う
「神をもたずにこの世を生きる者たち」である。
これらの愚かな考えは、キリスト教によって、
また賢い異教徒たちすべてによって、
誤りとして退けられてきた。
第三の考えかたは、プラトン派のものである。
彼らは、今住んでいるこの地球がわたしたちの
生まれ故郷とは考えない。わたしたちは、体という
拘束によってとらわれた奴隷である。昔、
わたしたちの魂は創造主に対して罪を犯し、
そのしるしとして、今、体に閉じこめられている。
神はすべての魂をみな等しく、一点のしみもない、
ありえないほど完璧なものとしてつくった。
魂がそのように完璧だったのは、それが神の
意志=意志と一体だったからである。しかし
魂は自分の意思=意志でそこから堕ちてしまい、
神の前から追放されて、この世に閉じこめられた。
が、悲惨で幸運が永続せず不幸に死ぬしかない、
というこの世の厳しい教育を受け、永遠不動なる
神の世界に再び帰りたいと考えられるようになったなら、
神の恵みによってそのような人の魂はもとの国、
生まれ故郷に再び受け入れてもらえるようになる。
体という奴隷船から解放されて、である。
このように考えたのはヘルメス、プラトン、
イアンブリコス、プロティノス、そしてその他の
神秘主義思想家である。おそらく古代や
最近のユダヤ人もそのように信じていた、あるいは
信じている。またキリスト教徒ではオリゲネスが
こう信じていた。
四つめの考えはキリスト教神学者のほとんどが
信じているものである。神は人の体のすべての、
あるいは少なくとも絶対的に必要な部分をつくった際に
魂を無からつくり、体の完成と同時にそれを吹きこんだ。
第五のものは……現代の多くの知識人が賛同し、
また古代の著名人たちも認めてきた考えかたであって、
第四のものと特に対立はしない。曰く、人の子の
魂は親の種から発生する。
以上のどれがもっとも正しいかは、まだ学術的に
証明されていない。……
[以降、第5の考え方、魂の遺伝が正しい、という議論が続く。]
次にていねいに考えなくてはならないのは、
神によってつくられたもののうち知性をもつと
されるもの、つまり人と天使にはその本質として
三つの部分があるということである。
この三つとはすなわち霊と魂と体であり、
その違いは、理性に従って考えれば、また神の
哲学を見れば、明白に示すことができるであろう。
わたしたちが時間の檻に閉じこめられていなければ。
霊という言葉でわたしが理解しているのは、
体と魂が共有するもの、二つをつなげるような
ものではない。むしろそれは人のなかにあって
もっとも高い地位にあるもの、いわば神に近い
はたらきをするものであって、これがあってはじめて
わたしたちは神と関係をもつことができる。
体も、役に立たない死骸のようなものではなく、
感覚ある、成長する、そしてかたちのある命の
部分が具体化したものである。魂とは神の世界と
獣の部分の中間に位置するものであるが、今回の
わたしの議論においては以上三つをおおまかに扱い、
魂という言葉で体に対立するすべてのものを
あらわすことにする。
創造という概念について言えば、スコラ派やその
思想を鵜呑みにする人たちが押しつけてきた
「無から何かをつくること」という理解は
誤りであって支持できない。なぜなら
創造と訳される "ברא" という言葉は、もとの
ヘブライ語や聖書においてそのような意味を
もたないからである。それが示すのは、「無から」
ではなく「永遠に、無限に」つくることである。
つまり、神とおおいなる深淵の空間から--
はかり知れない無限の空間から--無限の神の宿る、
無限の神が収まっているような、想像しうる
すべての地点において--創造がなされるのである。
第二に、この深淵、正しくは無限三次元空間は、
厳密に言って無ではない。……
第三に、この底なしのはかり知れない空間は
(神の次に)もっとも高度に存在の真のありかたを
あらわすものであるが、それは神自身ではない。
なぜなら、分割できるなど、性質上いくつかの点で
この空間は完璧な神の本質・ありかたの正反対で
あるからだ。だから然るべき名を与えるなら、
それは「神の体」となるだろう。さらに正確に
言うなら、神の永遠の住処となるだろうか。
第四に、この底なしの深淵は、哲学者たちが第一質料と
呼ぶものと同じ性質をもつと考えられるかもしれない。
つまりそこにあるのは、何かも、どれくらいあるのかも、
どんな性質なのかもわからないものである、と。
明確な質も大きさもかたちもわからない、
ただ何かが無限に全体としてそれがあるだけだ、と。
このようなことが示すのは、人の言葉や表現が
十分でないので本質的に有限のもののしか
はかってあらわすことができない、ということである。
無限の空間をあらわすにはそれはあまりにも
制限されていて、また矛盾が多く、それゆえ
否定のかたちでしか、想像を超える広大な空間の
ありかたを伝えること・見せることができないのである。
が、それでも特にこの深淵の特徴として四つの点が
あげられる。
1
かたちに向かう欲望または意思=意志、あるいは
集まり、塊になり、合体する力。
2
逆に塊になることに強く抵抗する力
3
上の二つの力の争いから生じる苦しみ。第一質料の
腸(はらわた)が噛みちぎられるような痛み。
4
燃えあがる大きな炎、あるいは真っ黒の火。
(つづく)
*****
Charles Hotham
From An Introduction to the Tevtonick Philosophie:
Being A Determination Concerning the Original of the Soul
(Wr. in Lat. 1647, trans. and pub. 1650)
Wing H2896
*****
散文。ホサムはケンブリッジ大の研究員。
この書は公開論争の原稿を出版したもの。
ドイツの神秘思想家ヤーコプ・ベーメ(Jakob Böhme,
Jacob Boehme)についての入門書。
彼の Three Principles of the Divine Essenceの要約。
(Sarah Hutton in Hutton, ed. Henry More, p.158)
ヘブライ語の箇所についてはよくわからない。
オンラインの英・ヘブ辞書には ברא = to create とある。
*****
正統的なキリスト教思想に反する議論:
魂は死ぬ。
世界の魂が個々の魂となる。(cf. ヘーゲルの「世界精神」)
神は、無からではなく深淵空間・混沌から天地その他を創造した。
神は体をもつ。
*****
このようなことを大学で研究者たちが本気で
「科学的」に議論していたということが重要。
今でも変わっていない部分・領域があるのでは
ないか。
もしかしたら、さらに悪化・劣化している面も
あるのではないか。
自分の研究は400年後の人々に評価されるはず、
と自信をもって言えるか。
*****
学生の方など、自分の研究・発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者・タイトル・
URL・閲覧日など必要な事項を必ず記し、
剽窃行為のないようにしてください。
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かまいません。
商用・盗用・悪用などはないようお願いします。
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The Blasphemy Act, 1650
1650年8月9日制定法/1649年9月27日議会公式声明
ここに列挙された意見を固持する者は懲役6ヶ月に処す
保釈は認めない
議会の義務とは、正しい方法・かたちで福音を
この共和国に広め、心から真に神を敬う嘘のない
宗教を発展させることである。ゆえに議会は、
教義や信仰のありかたの改革の維持・推進のため、
また冒涜・悪行・迷信・かたちだけの信仰を防ぐため、
さまざまな規則・法を定めてきた。神の正しい賛美と
人々の幸福の増進を願ってのことである。しかし、
このような議会の善意に反し、悲しく驚くべきことに、
男女を問わず、尋常ならざる考えを抱き、以下に
記すような人の道からはずれた忌まわしい悪事に
ふける者がおり、彼らの思想・行為の伝播によって
社会が腐り、乱れ、そして壊れかねない状況である。
そのような者はキリストや使徒の定めにいっさい
従わず、社会のなかの人がすべき道徳的に正しいこと・
必要なことをまったくしようとしない。それゆえ議会は、
1649年9月27日に公布された宣言どおり、そのように
規範を破る者、良心の自由を濫用して過剰・過激な行為に
ふける者に対して強い不快感・憎悪を抱いていることを
正式に表明し、そして厳格で実効ある措置を直ちに
とることにする。すなわち、現在開会されている議会の
権威により、以下のように定める。自分自身または
他の誰かが神・無限者・全能者である、栄誉・能力・地位・
力において真の神と同等もしくはまったく同じである、
あるいは永遠に最高の支配権をもつ真の神は自分または
他の誰かのうちに宿る、などと発言または書によって
断言・主張する者(病や脳の障害によって平常の思考を
失っている者は除く)--神の清らかさと正しさを
否定する者--冒涜的に神を罵ること、酒に溺れること、
汚らわしい獣のような行為に耽ることは清らかな
ことであって神の言葉によって禁じられていない、
誰がおこなおうとこれらのことは、それが誰であれ
これらのことをする人は、神によって褒められる、
これらの人・行為はまるで神・神の行為のようである、
などと、前述のように発言・書によってあつかましくも
主張する者--神やその清らかさ・正しさを否定し汚すこと、
神を呪ったり、不敬なことを言ったり、神の名にかけて
嘘を誓ったりすること、その他、嘘・盗み・詐欺・
詐取・殺人・姦通・近親相姦・姦淫・淫行・同性愛・
酒浸り・汚らわしく淫らな発言、これらの行為が、
誰によってなされるにしろそれ自体恥ずべき・悪しき・
罪深き・不敬な・嫌悪憎悪に値するものでなく、むしろ
みなに推奨すべき、などと前述のように発言・書によって
主張する者--姦通・酒浸り・罵詈雑言のような
公然たる悪は本来神聖で正しい行為であって、
祈りや説教や神に感謝を捧げることと同様、
人としての義務である、などと前述のように発言・
書によって主張する者--(売買春であれ、姦通であれ
深酒であれ、その他どんな悪事であれ)自分が
おこなうことに罪はない、そのような行為をおこなうのは
自分のうちに宿る真の、最高の支配者である神あるいは
永遠に不死なる魂である、最大の罪を犯して最小限の
後悔や罪悪しか感じないような者こそ永遠の神とも
見紛う最高に完璧な人である、本当に正しくないこと、
汚らわしいこと、罪であるようなことは存在しない、
それはたんなる男や女が勝手に罪と思いこむことに
すぎない、天国も地獄も救済も破滅も存在しない、
これらは実はみな同じことであって区別はない、などと
前述のように発言・書によって主張する者--
これらのような神を恐れぬ、冒涜的な、唾のように
吐き捨てられるべき意見をひとつでも抱き、固持し、
そして前述のように発言・書によって、はっきり、
自分のものとして主張する者は……監獄または矯正院に
6ヶ月監禁されることとする。この間の保釈・条件付釈放は
認めない。その後も、一年間正しく生きることを十分に
宣誓あるいは保証しなければ釈放されないこととする。
二度目に逮捕された者は追放に処す。許可なく帰国した
場合には財産没収・称号剥奪・遺産継承禁止に処す。
*****
9 August 1650
Declaration 27 Sept. 1649.;
Any person maintaining any of the Opinions
here enumerated.; shall suffer six moneths
imprisonment without Bail.
The Parliament holding it to be their duty, by all good ways and means to propagate the Gospel in this Commonwealth, to advance Religion in all Sincerity, Godliness, and Honesty, Have made several Ordinances and Laws for the good and furtherance of Reformation, in Doctrine and Maners, and in order to the suppressing of Prophaneness, Wickedness, Superstition and Formality, that God may be truly glorified, and all might in well-doing be encouraged. But notwithstanding this their care, finding to their great grief and astonishment, that there are divers men and women who have lately discovered themselves to be most monstrous in their Opinions, and loose in all wicked and abominable Practices hereafter mentioned, not onely to the notorious corrupting and disordering, but even to the dissolution of all Humane Society, who rejecting the use of any Gospel Ordinances, do deny the necessity of Civil and Moral Righteousness among men; The Parliament therefore, according to their published Declaration of the Twenty seventh of September, One thousand six hundred forty nine, To be most ready to testifie their displeasure and abhorrency of such Offenders, by a strict and effectual proceeding against them, who should abuse and turn into Licentiousness, the liberty given in matters of Conscience, Do therefore Enact and Ordain, and be it Enacted and Ordained by the Authority of this present Parliament, That all and every person and persons (not distempered with sickness, or distracted in brain) who shall presume avowedly in words to profess, or shall by writing proceed to affirm and maintain him or her self, or any other meer Creature, to be very God, or to be Infinite or Almighty, or in Honor, Excellency, Majesty and Power to be equal, and the same with the true God, or that the true God, or the Eternal Majesty dwells in the Creature and no where else; or whosoever shall deny the Holiness and Righteousness of God, or shall presume as aforesaid to profess, That Unrighteousness in persons, or the acts of Uncleanness, Prophane Swearing, Drunkenness, and the like Filthiness and Brutishness, are not unholy and forbidden in the Word of God, or that these acts in any person, or the persons [so] committing them, are approved of by God, or that such acts, or such persons in those things are like unto God: Or whosoever shall presume as aforesaid to profess, That these acts of Denying and Blaspheming God, or the Holiness or Righteousness of God; or the acts of cursing God, or of Swearing prophanely or falsly by the Name of God, or the acts of Lying, Stealing, Cousening and Defrauding others; or the acts of Murther, Adultery, Incest, Fornication, Uncleanness, Sodomy, Drunkenness, filthy and lascivious Speaking, are not things in themselves shameful, wicked, sinful, impious, abominable and detestable in any person, or to be practised or done by any person or persons: Or shall as aforesaid profess, That the acts of Adultery, Drunkenness, Swearing and the like open wickedness, are in their own nature as Holy and Righteous as the Duties of Prayer, Preaching or giving of Thanks to God: Or whosoever shall avowedly as aforesaid profess, That whatsoever is acted by them (whether Whoredom, Adultery, Drunkenness or the like open Wickedness) may be committed without sin; or that such acts are acted by the true God, or by the Majesty of God, or the Eternity that is in them; That Heaven and all happiness consists in the acting of those things which are Sin and Wickedness; or that such men or women are most perfect, or like to God or Eternity, which do commit the greatest Sins with least remorse or sense; or that there is no such thing really and truly as Unrighteousness, Unholiness or Sin, but as a man or woman judgeth thereof; or that there is neither Heaven nor Hell, neither Salvation nor Damnation, or that these are one and the same thing, and that there is not any distinction or difference truly between them: All and every person or persons so avowedly professing, maintaining or publishing as aforesaid, the aforesaid Atheistical, Blasphemous or Execrable Opinions, or any of them . . . shall be . . . committed to Prison or to the House of Correction, for the space of six moneths, without Bail or Mainprize, and until he or she shall have put in sufficient Sureties to be of good behavior for the space of one whole year.
For the second offence shall be Banished.; Felony to return with out License.
https://www.british-history.ac.uk/no-series/acts-ordinances-interregnum/pp409-412
(一部修正)
*****
散文。
教会に乱入して礼拝の邪魔をする、酒を飲んで暴れる、
裸で出歩く、堂々と不倫・姦淫をする・ひけらかす、
というような反社会行動をもたらす類の異端思想を
法で取り締まる試み。
個人が抱く思想は本来自由で取り締まることは
根本的に不可能だが、その思想ゆえに他の人や
社会に迷惑をかけるようなことがあれば、
やはりそれは取り締まらざるを得ない、ということ。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者・タイトル・
URL・閲覧日など必要な事項を必ず記し、
剽窃行為のないようにしてください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
ここに列挙された意見を固持する者は懲役6ヶ月に処す
保釈は認めない
議会の義務とは、正しい方法・かたちで福音を
この共和国に広め、心から真に神を敬う嘘のない
宗教を発展させることである。ゆえに議会は、
教義や信仰のありかたの改革の維持・推進のため、
また冒涜・悪行・迷信・かたちだけの信仰を防ぐため、
さまざまな規則・法を定めてきた。神の正しい賛美と
人々の幸福の増進を願ってのことである。しかし、
このような議会の善意に反し、悲しく驚くべきことに、
男女を問わず、尋常ならざる考えを抱き、以下に
記すような人の道からはずれた忌まわしい悪事に
ふける者がおり、彼らの思想・行為の伝播によって
社会が腐り、乱れ、そして壊れかねない状況である。
そのような者はキリストや使徒の定めにいっさい
従わず、社会のなかの人がすべき道徳的に正しいこと・
必要なことをまったくしようとしない。それゆえ議会は、
1649年9月27日に公布された宣言どおり、そのように
規範を破る者、良心の自由を濫用して過剰・過激な行為に
ふける者に対して強い不快感・憎悪を抱いていることを
正式に表明し、そして厳格で実効ある措置を直ちに
とることにする。すなわち、現在開会されている議会の
権威により、以下のように定める。自分自身または
他の誰かが神・無限者・全能者である、栄誉・能力・地位・
力において真の神と同等もしくはまったく同じである、
あるいは永遠に最高の支配権をもつ真の神は自分または
他の誰かのうちに宿る、などと発言または書によって
断言・主張する者(病や脳の障害によって平常の思考を
失っている者は除く)--神の清らかさと正しさを
否定する者--冒涜的に神を罵ること、酒に溺れること、
汚らわしい獣のような行為に耽ることは清らかな
ことであって神の言葉によって禁じられていない、
誰がおこなおうとこれらのことは、それが誰であれ
これらのことをする人は、神によって褒められる、
これらの人・行為はまるで神・神の行為のようである、
などと、前述のように発言・書によってあつかましくも
主張する者--神やその清らかさ・正しさを否定し汚すこと、
神を呪ったり、不敬なことを言ったり、神の名にかけて
嘘を誓ったりすること、その他、嘘・盗み・詐欺・
詐取・殺人・姦通・近親相姦・姦淫・淫行・同性愛・
酒浸り・汚らわしく淫らな発言、これらの行為が、
誰によってなされるにしろそれ自体恥ずべき・悪しき・
罪深き・不敬な・嫌悪憎悪に値するものでなく、むしろ
みなに推奨すべき、などと前述のように発言・書によって
主張する者--姦通・酒浸り・罵詈雑言のような
公然たる悪は本来神聖で正しい行為であって、
祈りや説教や神に感謝を捧げることと同様、
人としての義務である、などと前述のように発言・
書によって主張する者--(売買春であれ、姦通であれ
深酒であれ、その他どんな悪事であれ)自分が
おこなうことに罪はない、そのような行為をおこなうのは
自分のうちに宿る真の、最高の支配者である神あるいは
永遠に不死なる魂である、最大の罪を犯して最小限の
後悔や罪悪しか感じないような者こそ永遠の神とも
見紛う最高に完璧な人である、本当に正しくないこと、
汚らわしいこと、罪であるようなことは存在しない、
それはたんなる男や女が勝手に罪と思いこむことに
すぎない、天国も地獄も救済も破滅も存在しない、
これらは実はみな同じことであって区別はない、などと
前述のように発言・書によって主張する者--
これらのような神を恐れぬ、冒涜的な、唾のように
吐き捨てられるべき意見をひとつでも抱き、固持し、
そして前述のように発言・書によって、はっきり、
自分のものとして主張する者は……監獄または矯正院に
6ヶ月監禁されることとする。この間の保釈・条件付釈放は
認めない。その後も、一年間正しく生きることを十分に
宣誓あるいは保証しなければ釈放されないこととする。
二度目に逮捕された者は追放に処す。許可なく帰国した
場合には財産没収・称号剥奪・遺産継承禁止に処す。
*****
9 August 1650
Declaration 27 Sept. 1649.;
Any person maintaining any of the Opinions
here enumerated.; shall suffer six moneths
imprisonment without Bail.
The Parliament holding it to be their duty, by all good ways and means to propagate the Gospel in this Commonwealth, to advance Religion in all Sincerity, Godliness, and Honesty, Have made several Ordinances and Laws for the good and furtherance of Reformation, in Doctrine and Maners, and in order to the suppressing of Prophaneness, Wickedness, Superstition and Formality, that God may be truly glorified, and all might in well-doing be encouraged. But notwithstanding this their care, finding to their great grief and astonishment, that there are divers men and women who have lately discovered themselves to be most monstrous in their Opinions, and loose in all wicked and abominable Practices hereafter mentioned, not onely to the notorious corrupting and disordering, but even to the dissolution of all Humane Society, who rejecting the use of any Gospel Ordinances, do deny the necessity of Civil and Moral Righteousness among men; The Parliament therefore, according to their published Declaration of the Twenty seventh of September, One thousand six hundred forty nine, To be most ready to testifie their displeasure and abhorrency of such Offenders, by a strict and effectual proceeding against them, who should abuse and turn into Licentiousness, the liberty given in matters of Conscience, Do therefore Enact and Ordain, and be it Enacted and Ordained by the Authority of this present Parliament, That all and every person and persons (not distempered with sickness, or distracted in brain) who shall presume avowedly in words to profess, or shall by writing proceed to affirm and maintain him or her self, or any other meer Creature, to be very God, or to be Infinite or Almighty, or in Honor, Excellency, Majesty and Power to be equal, and the same with the true God, or that the true God, or the Eternal Majesty dwells in the Creature and no where else; or whosoever shall deny the Holiness and Righteousness of God, or shall presume as aforesaid to profess, That Unrighteousness in persons, or the acts of Uncleanness, Prophane Swearing, Drunkenness, and the like Filthiness and Brutishness, are not unholy and forbidden in the Word of God, or that these acts in any person, or the persons [so] committing them, are approved of by God, or that such acts, or such persons in those things are like unto God: Or whosoever shall presume as aforesaid to profess, That these acts of Denying and Blaspheming God, or the Holiness or Righteousness of God; or the acts of cursing God, or of Swearing prophanely or falsly by the Name of God, or the acts of Lying, Stealing, Cousening and Defrauding others; or the acts of Murther, Adultery, Incest, Fornication, Uncleanness, Sodomy, Drunkenness, filthy and lascivious Speaking, are not things in themselves shameful, wicked, sinful, impious, abominable and detestable in any person, or to be practised or done by any person or persons: Or shall as aforesaid profess, That the acts of Adultery, Drunkenness, Swearing and the like open wickedness, are in their own nature as Holy and Righteous as the Duties of Prayer, Preaching or giving of Thanks to God: Or whosoever shall avowedly as aforesaid profess, That whatsoever is acted by them (whether Whoredom, Adultery, Drunkenness or the like open Wickedness) may be committed without sin; or that such acts are acted by the true God, or by the Majesty of God, or the Eternity that is in them; That Heaven and all happiness consists in the acting of those things which are Sin and Wickedness; or that such men or women are most perfect, or like to God or Eternity, which do commit the greatest Sins with least remorse or sense; or that there is no such thing really and truly as Unrighteousness, Unholiness or Sin, but as a man or woman judgeth thereof; or that there is neither Heaven nor Hell, neither Salvation nor Damnation, or that these are one and the same thing, and that there is not any distinction or difference truly between them: All and every person or persons so avowedly professing, maintaining or publishing as aforesaid, the aforesaid Atheistical, Blasphemous or Execrable Opinions, or any of them . . . shall be . . . committed to Prison or to the House of Correction, for the space of six moneths, without Bail or Mainprize, and until he or she shall have put in sufficient Sureties to be of good behavior for the space of one whole year.
For the second offence shall be Banished.; Felony to return with out License.
https://www.british-history.ac.uk/no-series/acts-ordinances-interregnum/pp409-412
(一部修正)
*****
散文。
教会に乱入して礼拝の邪魔をする、酒を飲んで暴れる、
裸で出歩く、堂々と不倫・姦淫をする・ひけらかす、
というような反社会行動をもたらす類の異端思想を
法で取り締まる試み。
個人が抱く思想は本来自由で取り締まることは
根本的に不可能だが、その思想ゆえに他の人や
社会に迷惑をかけるようなことがあれば、
やはりそれは取り締まらざるを得ない、ということ。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者・タイトル・
URL・閲覧日など必要な事項を必ず記し、
剽窃行為のないようにしてください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
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Barlow, The Idle Animaduersions of Marke Ridley
ウィリアム・バーロウ
『物理学博士マーク・リドリーの論文
「磁力の磁力」の愚説』(1618)より
まったく問題外で常識では考えられないほど
あつかましいこの男は、ぬけぬけとこう主張する。
月のうちに、また月を越えたところに磁気が
はたらいている、と。それから、地球も磁気によって
回っている、と。このように彼は愚かにも
聖書を捻じ曲げて、磁気学なる頭のおかしい
妄想を説く。
彼は聖書中の次の二箇所に気づいていないのか?
ひとつはヨシュアの10.12、もうひとつは
イザヤ38.8である。前者には太陽と月が
一日のあいだ動かなかったとある。後者には
アハズの日時計の陰が10度分逆に進んだ、
つまり空の太陽が10度分沈んだところから
さかのぼった、とある。
知的なふりをしてわたしに反論する彼だが、
理に適う議論に従わなければならない。
聖書を信じるのであれば認めたくなくても
認めなくてはならない。そこにはっきりと、
大地は動かない、動いているのは太陽と月と
星たちである、と書かれているのだから。
詩篇の19.6、104.5、ヨシュア10.12-14、
イザヤ38.8など、どこを見てもいいだろう。
自然と呼ばれるものは神の定めたことに他ならない。
すべてのものは神の定めたる自然に従い、
そしてそれに反するものは存在しない。
こうして神は(先に述べたように)太陽と月と星を
動くものとして、逆に地球を動かないものとして
定めたのだから、これが当たり前のこと、
自然の理に適うことである。神の定めに
従わないような自然は存在しえない。それに
従ってこそはじめて自然と言えるのである。
*****
William Barlow
A Breife Discouery of the Idle Animaduersions of
Marke Ridley Doctor in Phisicke vpon a Treatise
Entituled, Magneticall Aduertisements
Out of all question, somewhat it is more then
ordinarie, that maketh him of so hauty a spirit, so
to braue the world with such prodigious assertions
of his Magneticals, in, and aboue the Moone; the
earths Magneticall circular Motions, and his paltry
abusing of the holy scriptures to support his lunaticke
fictions vnder the name of Magneticall Philosophie.
There are yet two texts of Scripture, which it is
a wonder how they escaped him; the one is in
Iosuah 10. ver. 12. and the other is in Esay 38.
ver. 8. In the one: That the Sunne and the Moone
stood still the space of a whole day: The other,
that the shadow in Achas diall went backe 10 degrees,
and the Sunne in the skie returned 10 degrees
by the which he was descended.
. . . [M]y tetricall Animaduersor
must be ruled by reason, and affoord all those his
patience that do beleeue the holy Scriptures, which
flatly doe denie the Earths motion, and affirme the
motion of the Sunne, Moone & Stars, in the whole
current thereof, as Psal. 19. 6. 104. 5. Iosua 10. 12.
13. 14. Esay 38. 8. &c.
And that which we call Nature, it being nothing
else but Gods ordinance; there can bee nothing
contrary, but all things agreeable vnto nature, which
God hath ordained. But God hath ordained the
motion of the Sunne, Moone, and Stars (as aforesayd)
and the vnmooueablenesse of the earth; therfore
this is more easie, and more agreeable vnto nature;
which is preserued onely by obeying Gods
ordinance, and heerein onely that consisteth, and
hath her being.
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A04321.0001.001
*****
散文。天動説。聖書に基づく地動説の否定。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
『物理学博士マーク・リドリーの論文
「磁力の磁力」の愚説』(1618)より
まったく問題外で常識では考えられないほど
あつかましいこの男は、ぬけぬけとこう主張する。
月のうちに、また月を越えたところに磁気が
はたらいている、と。それから、地球も磁気によって
回っている、と。このように彼は愚かにも
聖書を捻じ曲げて、磁気学なる頭のおかしい
妄想を説く。
彼は聖書中の次の二箇所に気づいていないのか?
ひとつはヨシュアの10.12、もうひとつは
イザヤ38.8である。前者には太陽と月が
一日のあいだ動かなかったとある。後者には
アハズの日時計の陰が10度分逆に進んだ、
つまり空の太陽が10度分沈んだところから
さかのぼった、とある。
知的なふりをしてわたしに反論する彼だが、
理に適う議論に従わなければならない。
聖書を信じるのであれば認めたくなくても
認めなくてはならない。そこにはっきりと、
大地は動かない、動いているのは太陽と月と
星たちである、と書かれているのだから。
詩篇の19.6、104.5、ヨシュア10.12-14、
イザヤ38.8など、どこを見てもいいだろう。
自然と呼ばれるものは神の定めたことに他ならない。
すべてのものは神の定めたる自然に従い、
そしてそれに反するものは存在しない。
こうして神は(先に述べたように)太陽と月と星を
動くものとして、逆に地球を動かないものとして
定めたのだから、これが当たり前のこと、
自然の理に適うことである。神の定めに
従わないような自然は存在しえない。それに
従ってこそはじめて自然と言えるのである。
*****
William Barlow
A Breife Discouery of the Idle Animaduersions of
Marke Ridley Doctor in Phisicke vpon a Treatise
Entituled, Magneticall Aduertisements
Out of all question, somewhat it is more then
ordinarie, that maketh him of so hauty a spirit, so
to braue the world with such prodigious assertions
of his Magneticals, in, and aboue the Moone; the
earths Magneticall circular Motions, and his paltry
abusing of the holy scriptures to support his lunaticke
fictions vnder the name of Magneticall Philosophie.
There are yet two texts of Scripture, which it is
a wonder how they escaped him; the one is in
Iosuah 10. ver. 12. and the other is in Esay 38.
ver. 8. In the one: That the Sunne and the Moone
stood still the space of a whole day: The other,
that the shadow in Achas diall went backe 10 degrees,
and the Sunne in the skie returned 10 degrees
by the which he was descended.
. . . [M]y tetricall Animaduersor
must be ruled by reason, and affoord all those his
patience that do beleeue the holy Scriptures, which
flatly doe denie the Earths motion, and affirme the
motion of the Sunne, Moone & Stars, in the whole
current thereof, as Psal. 19. 6. 104. 5. Iosua 10. 12.
13. 14. Esay 38. 8. &c.
And that which we call Nature, it being nothing
else but Gods ordinance; there can bee nothing
contrary, but all things agreeable vnto nature, which
God hath ordained. But God hath ordained the
motion of the Sunne, Moone, and Stars (as aforesayd)
and the vnmooueablenesse of the earth; therfore
this is more easie, and more agreeable vnto nature;
which is preserued onely by obeying Gods
ordinance, and heerein onely that consisteth, and
hath her being.
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A04321.0001.001
*****
散文。天動説。聖書に基づく地動説の否定。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
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Luther on Copernicus
マルティン・ルター
コペルニクスについて
新しい天文学者については聞いている。地球が動くこと、
回っていることを証明したいらしい。天や太陽や月や
その他の星ではなく。馬車や船に乗って移動しながら、
自分は動いていない気がするのと同じように、大地や木も
実は動いている、進んでいる……愚かな妄想・空想に耽ると
こういう話になる、といういい例だ。この馬鹿は天文学を
根幹からひっくり返したいのだろうが、聖書をよく読んで
自分の間違いを思い知ればいい。ヨシュアが「止まれ」と
命じているのは地球ではなく太陽なのだから。
*****
Martin Luther on Copernicus
"I am now advertised that a new Astrologer is risen, who presumeth to prove that the earth moveth and goeth about, not the Firmament, the Sun, Moon nor the stars, like as when one sitteth in a Coach, or in a Ship, and is moved thinketh he sitteth still and resteth, but the earth and the trees, go, run, and move themselves. Therefore thus it goeth when we wean ourselves to our own foolish fancies and conceits. This foole will turn the whole Art of Astronomie upside down, but the Scripture sheweth and teacheth him another lesson.
https://books.google.co.jp/books?id=oA4LAAAAYAAJ
*****
散文。天動説。1650年代に英訳された食卓談義より。
(Colloquia Mensalia)
*****
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コペルニクスについて
新しい天文学者については聞いている。地球が動くこと、
回っていることを証明したいらしい。天や太陽や月や
その他の星ではなく。馬車や船に乗って移動しながら、
自分は動いていない気がするのと同じように、大地や木も
実は動いている、進んでいる……愚かな妄想・空想に耽ると
こういう話になる、といういい例だ。この馬鹿は天文学を
根幹からひっくり返したいのだろうが、聖書をよく読んで
自分の間違いを思い知ればいい。ヨシュアが「止まれ」と
命じているのは地球ではなく太陽なのだから。
*****
Martin Luther on Copernicus
"I am now advertised that a new Astrologer is risen, who presumeth to prove that the earth moveth and goeth about, not the Firmament, the Sun, Moon nor the stars, like as when one sitteth in a Coach, or in a Ship, and is moved thinketh he sitteth still and resteth, but the earth and the trees, go, run, and move themselves. Therefore thus it goeth when we wean ourselves to our own foolish fancies and conceits. This foole will turn the whole Art of Astronomie upside down, but the Scripture sheweth and teacheth him another lesson.
https://books.google.co.jp/books?id=oA4LAAAAYAAJ
*****
散文。天動説。1650年代に英訳された食卓談義より。
(Colloquia Mensalia)
*****
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Wilkins, A New World and Another Planet
ジョン・ウィルキンズ
『新世界・新惑星について』(1640)
主張4
多くの知識人が愚かな思い込みに陥ってしまったのは、
聖書の言葉を学問の基盤にしようとしたからである。
古代ユダヤ人は、信仰や服従に関することのみならず、
学問・科学において追求されるべきこの世の神秘も
モーセの掟のなかに書き込まれていると考えていた。
幾何学の証明・数の法則、その他どのような分野における
難問もすべてモーセ五書を見ればわかる、というように。
彼ら曰く、ソロモンの知恵・思慮はすべてにモーセから
学んだものであった。レバノン杉、壁に生えるヒソップ、
その他すべての植物の性質について、ソロモンは
モーセから学んだのであった。モーセの掟を見れば、
奇跡の起こしかた、山の動かしかた、死者の生き返らせかたが
わかるのであった。このようにおかしな誤解に古代ユダヤの
知識人はとらわれていた。自分で自分を呪うことになって
しまっていた。
だが、今の研究者たちも同じような愚かな迷信に
とらわれている。何か新しいことを発見する度に
彼らは、何だかよくわからない聖書の言葉にその
根拠を求めたがる。細々(こまごま)したこの世の
詳細すべてを聖霊が管轄している、とでも言わんばかり
である。古代ユダヤ人が勝手にそう思い込んでいたように。
古代ユダヤの知識人の妄想がどんな愚考をもたらしてきたか、
その例は山のようにある。ほんの一部だが、見ておこう。
聖書を見て彼らは、巨人オグの脛の骨は3リーグ[1リーグは
1時間に歩ける距離]以上だと信じ、また(やや現実的に)
モーセの背は14キュビト[1キュビトは肘から中指の
先までの長さ]で、彼の槍は10エル[1エルは45インチ]で、
そしてそんなモーセでも巨人オグの踝(くるぶし)までしか
届かなかった、と考えた。……
この類の愚かでありえない話は他にもたくさんあって、
理性ある人間がどうしてそのようなことを考えられたのか、
まったく理解に苦しむばかりである。もちろん、問題は
思考の根幹が間違っていること、まさにすべての真理が
聖書に書かれていると信じていたことにある。聖書の
言葉にあること、あるいは聖書が神秘的・象徴的に
語ることはみな正しい、という思い込みから、おかしな
誤りが生まれるのである。
古代ユダヤ人と同じことが他の人にも言える。
迷信的に聖書の言葉を信じることにより、多くの
人が妙な誤解に陥ってきた。例えば、聖バシレイオスは
太陽の次に大きい星は月だと信じていた。モーセが
太陽と月だけを「大きな光」と呼んでいるからだ。……
*****
John Wilkins
A Discourse Concerning a New World & Another Planet
Proposition IV:
That divers learned men have fallen into great absurdities, whilest they have looked for the grounds of Philosophy from the words of Scripture.
IT ha's bin an antient and common opinion amongst the Iewes, that the Law of Moses did containe in it, not only those things which concerne our Religion and Obedience, but every secret also that may possibly be known in any Art or Science;* so that there is not a demonstration in Geometrie, or rule in Arithmeticke; not a mysterie in any trade, but it may be found out in the Pentateuch. Hence it was (say they) that Solomon had all his wisedome and policie: Hence it was that hee did fetch his knowledge concerning the nature of Vegetables, from the Cedar of Lebanon, to the Hysop that growes upon the wall. Nay from hence, they thought a man might learne the art of Miracles, to remoove a Mountaine, or recover the dead. So strangely have the learneder sort of that Nation been befooled, since their owne curse hath lighted upon them.
Not much unlike this foolish superstition of theirs, is that custome of many Artists amongst us; who upon the invention of any new secret, will presently find out some obscure text or other to father it upon; as if the Holy Ghost must needs take notice of every particular, which their partiall fancies did over-vallue.
Nor are they altogether guiltlesse of this fault, who looke for any secrets of nature from the words of Scripture; or will examine all it's expressions by the exact rules of Philosophy.
Vnto what strange absurdities this false imagination of the learneder Iewes hath exposed them, may be manifest by a great multitude of Examples. I will mention only some few of them. Hence it is, that they proove the shin-bone of Og the Giant to bee above three leagues long;* Or (which is a more modest relation) that Moses being ourteen cubites in stature, having a Speare tenne Ells in length, and leaping up ten cubits, could touch this Giant but on the Ancle. . . .
Many other relations there are, which containe such horrible absurdities, that a man cannot well conceive how they should proceed from reasonable creatures. And all this arising from that wrong Principle of theirs; That Scripture did exactly containe in it all kind of Truths; and that every meaning was true, which by the Letter of it, or by Cabalisticall interpretations might be found out.
Now as it hath been with them, so likewise hath it happened in proportion unto others: who by a superstitious adhering unto the bare words of scripture, have exposed themselves unto many strange errours. Thus* S. Basil holds, That next to the Sun, the Moon is bigger than any of the Stars, because Moses do's call them onely two great Lights. . . .
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A15364.0001.001
*****
Ross, The New Planet No Planet の対象となった著作。
聖書の科学的価値を否定。天動説を支持。
ウィルキンズは17世紀の神学・科学・言語学における
最重要人物のひとり。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
『新世界・新惑星について』(1640)
主張4
多くの知識人が愚かな思い込みに陥ってしまったのは、
聖書の言葉を学問の基盤にしようとしたからである。
古代ユダヤ人は、信仰や服従に関することのみならず、
学問・科学において追求されるべきこの世の神秘も
モーセの掟のなかに書き込まれていると考えていた。
幾何学の証明・数の法則、その他どのような分野における
難問もすべてモーセ五書を見ればわかる、というように。
彼ら曰く、ソロモンの知恵・思慮はすべてにモーセから
学んだものであった。レバノン杉、壁に生えるヒソップ、
その他すべての植物の性質について、ソロモンは
モーセから学んだのであった。モーセの掟を見れば、
奇跡の起こしかた、山の動かしかた、死者の生き返らせかたが
わかるのであった。このようにおかしな誤解に古代ユダヤの
知識人はとらわれていた。自分で自分を呪うことになって
しまっていた。
だが、今の研究者たちも同じような愚かな迷信に
とらわれている。何か新しいことを発見する度に
彼らは、何だかよくわからない聖書の言葉にその
根拠を求めたがる。細々(こまごま)したこの世の
詳細すべてを聖霊が管轄している、とでも言わんばかり
である。古代ユダヤ人が勝手にそう思い込んでいたように。
古代ユダヤの知識人の妄想がどんな愚考をもたらしてきたか、
その例は山のようにある。ほんの一部だが、見ておこう。
聖書を見て彼らは、巨人オグの脛の骨は3リーグ[1リーグは
1時間に歩ける距離]以上だと信じ、また(やや現実的に)
モーセの背は14キュビト[1キュビトは肘から中指の
先までの長さ]で、彼の槍は10エル[1エルは45インチ]で、
そしてそんなモーセでも巨人オグの踝(くるぶし)までしか
届かなかった、と考えた。……
この類の愚かでありえない話は他にもたくさんあって、
理性ある人間がどうしてそのようなことを考えられたのか、
まったく理解に苦しむばかりである。もちろん、問題は
思考の根幹が間違っていること、まさにすべての真理が
聖書に書かれていると信じていたことにある。聖書の
言葉にあること、あるいは聖書が神秘的・象徴的に
語ることはみな正しい、という思い込みから、おかしな
誤りが生まれるのである。
古代ユダヤ人と同じことが他の人にも言える。
迷信的に聖書の言葉を信じることにより、多くの
人が妙な誤解に陥ってきた。例えば、聖バシレイオスは
太陽の次に大きい星は月だと信じていた。モーセが
太陽と月だけを「大きな光」と呼んでいるからだ。……
*****
John Wilkins
A Discourse Concerning a New World & Another Planet
Proposition IV:
That divers learned men have fallen into great absurdities, whilest they have looked for the grounds of Philosophy from the words of Scripture.
IT ha's bin an antient and common opinion amongst the Iewes, that the Law of Moses did containe in it, not only those things which concerne our Religion and Obedience, but every secret also that may possibly be known in any Art or Science;* so that there is not a demonstration in Geometrie, or rule in Arithmeticke; not a mysterie in any trade, but it may be found out in the Pentateuch. Hence it was (say they) that Solomon had all his wisedome and policie: Hence it was that hee did fetch his knowledge concerning the nature of Vegetables, from the Cedar of Lebanon, to the Hysop that growes upon the wall. Nay from hence, they thought a man might learne the art of Miracles, to remoove a Mountaine, or recover the dead. So strangely have the learneder sort of that Nation been befooled, since their owne curse hath lighted upon them.
Not much unlike this foolish superstition of theirs, is that custome of many Artists amongst us; who upon the invention of any new secret, will presently find out some obscure text or other to father it upon; as if the Holy Ghost must needs take notice of every particular, which their partiall fancies did over-vallue.
Nor are they altogether guiltlesse of this fault, who looke for any secrets of nature from the words of Scripture; or will examine all it's expressions by the exact rules of Philosophy.
Vnto what strange absurdities this false imagination of the learneder Iewes hath exposed them, may be manifest by a great multitude of Examples. I will mention only some few of them. Hence it is, that they proove the shin-bone of Og the Giant to bee above three leagues long;* Or (which is a more modest relation) that Moses being ourteen cubites in stature, having a Speare tenne Ells in length, and leaping up ten cubits, could touch this Giant but on the Ancle. . . .
Many other relations there are, which containe such horrible absurdities, that a man cannot well conceive how they should proceed from reasonable creatures. And all this arising from that wrong Principle of theirs; That Scripture did exactly containe in it all kind of Truths; and that every meaning was true, which by the Letter of it, or by Cabalisticall interpretations might be found out.
Now as it hath been with them, so likewise hath it happened in proportion unto others: who by a superstitious adhering unto the bare words of scripture, have exposed themselves unto many strange errours. Thus* S. Basil holds, That next to the Sun, the Moon is bigger than any of the Stars, because Moses do's call them onely two great Lights. . . .
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A15364.0001.001
*****
Ross, The New Planet No Planet の対象となった著作。
聖書の科学的価値を否定。天動説を支持。
ウィルキンズは17世紀の神学・科学・言語学における
最重要人物のひとり。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
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かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
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Mitchell, "Celia Celia"
エイドリアン・ミッチェル
「シーリア・シーリア」
悲しくて、もううんざりで、
絶望だ、と思いながら
ホルボーンの通りを歩いていて、そんな時
頭に浮かんでくるのは君の裸
*****
Adrian Mitchell
"Celia Celia"
When I am sad and weary
When I think all hope has gone
When I walk along High Holborn
I think of you with nothing on
https://en.wikiquote.org/wiki/Adrian_Mitchell
*****
ミッチェル曰く、ほとんどすべての人が
ほとんどすべての詩を無視するのは、
ほとんどすべての詩が
ほとんどすべての人を無視しているから。
Most people ignore most poetry
because most poetry ignores most people.
そしてほとんどすべての人が、
昔は違った、ということを知らない。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
「シーリア・シーリア」
悲しくて、もううんざりで、
絶望だ、と思いながら
ホルボーンの通りを歩いていて、そんな時
頭に浮かんでくるのは君の裸
*****
Adrian Mitchell
"Celia Celia"
When I am sad and weary
When I think all hope has gone
When I walk along High Holborn
I think of you with nothing on
https://en.wikiquote.org/wiki/Adrian_Mitchell
*****
ミッチェル曰く、ほとんどすべての人が
ほとんどすべての詩を無視するのは、
ほとんどすべての詩が
ほとんどすべての人を無視しているから。
Most people ignore most poetry
because most poetry ignores most people.
そしてほとんどすべての人が、
昔は違った、ということを知らない。
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
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From Ross, The New Planet No Planet
アレグザンダー・ロス
『新惑星?:地球は惑星にあらず』(1646)
第2章より
1. 聖書を信じなくてはならない。おかしな空想・妄想ではなく。
2. 聖書のなかに嘘や誤りはない。聖書は、この世のことを
わたしたちにわかるようには語らない。それが語るのは
ふつうにはありえないような神秘である。
3. 聖書がこの世のことを語るとき、わたしたちはそれを
文字どおり読まなくてはならない。
聖書と科学を切り離すことができたらいい、と
あなたは言うが、むしろわたしは言いたい、
科学の問題はすべて聖書に従って解決すればいい、
人はもっと慎み深くなって、科学の問題についても
聖書の言葉、聖書の言うことをそのまま信じて
いればいい、と。しかし、残念なことに論争の
収拾はつきそうにない。みな自分が正しいと思い込んでいて、
誰も聖書の正しさを認めようとしない。むしろ
好き勝手に聖書を解釈したがっている。理性的な
議論を認めようともしない。自分が主張したいこと以外は。
自分の感覚すら信じようとせず、根拠のない妄想の
奴隷になっている。もう絶望的ではないか?
聖書には、こうはっきり書かれている、大地は
動かない、と。わたしたちもふつうにそう感じているし、
すでに見てきた数々の議論からも、大地は動かない
と信じざるをえないだろう。だが、あなたは聖書も
自分の感覚も理に適った議論も認めない。むしろあなたの
ただの妄想が世界の法則であるかのように説く。判断力を棄て、
感覚を棄て、教会を棄て、そして訳のわからない
あなたの主張に従え、と? まったくありえない、
この世界の真理を知る際に、この世界の真理を
つかさどる聖霊に従わないとは。
(研究・実験という名の)自分の勝手な思い込みを信じ、
そして神の言葉に従わないとは。
*****
Alexander Ross
The New Planet No Planet: Or, The Earth No Wandring Star
Ch. 2
1. Wee must beleeve the Scripture, not our own phansies.
2. The Scripture never patronizeth a lye or an error,
nor doth it apply it self to our capacity in naturall things,
though it doth in supernaturall mysteries.
3. Wee must stick to the literall sense, when the Scripture
speaks of naturall things.
It were happy for us (say you) if we could exempt Scripture
from Phisophicall controversies. And I say, It were happy for us,
if all Philosophicall controversies could be decided by Scripture;
or if men would be so modest, as to rest contented with
Scripture phrases, and expressions of such Philosophicall
points, as are mentioned there: But what hope is there
to end controversies, when many are so wedded to their
own phansies, that neither will they yeeld to Scripture,
except they may have leave to interpret them; nor to
reasons, except they may have leave to forme them;
nor will they trust their own senses, but will captivate
and enslave them also to their groundlesse imaginations?
The Scripture tells us in plaine tearmes, the Earth is
immoveable: our senses doe assure us, and many
reasons which I have heretofore alledged, induce us
to beleeve the truth of this assertion: and yet you
spurning at Scripture, sense, and reason, as if your
phansie were instar omnium, would have our judgements,
senses, Scripture, Church, and all regulated by your
absurd dictates; therefore it is an unreasonable thing
in you, to desire that the holy Ghost should not be
Judge of his owne assertions in naturall truths;
and that there should be more credit given to your conceits,
(which you call industry and experience) then to Gods own words.
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A57666.0001.001
*****
散文。天動説。ここで扱われているのは詩篇19、伝道1、
ヨシュア12、イザヤ38。
著者のロスはある学校の校長先生。当時の保守的知識人。
ここにおける「あなた」とは地動説を説いていたジョン・ウィルキンズ
(John Wilkins)だが、彼は匿名で出版していたので、
ロスは自分の論敵が誰だかわかっていない。
ウィルキンズは後の王立協会設立にあたって中心的役割を
果たすことになる人物。クロムウェルの妹の再婚相手。
50年代にはオックスフォードとケンブリッジの
コレッジ長として活躍。聖職者として後にチェスターの
司教となる。
詳しくは以下を参照。
Grant McColley, "The Ross-Wilkins Controversy",
Annals of Science 3.2 (1938): 153-89.
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
『新惑星?:地球は惑星にあらず』(1646)
第2章より
1. 聖書を信じなくてはならない。おかしな空想・妄想ではなく。
2. 聖書のなかに嘘や誤りはない。聖書は、この世のことを
わたしたちにわかるようには語らない。それが語るのは
ふつうにはありえないような神秘である。
3. 聖書がこの世のことを語るとき、わたしたちはそれを
文字どおり読まなくてはならない。
聖書と科学を切り離すことができたらいい、と
あなたは言うが、むしろわたしは言いたい、
科学の問題はすべて聖書に従って解決すればいい、
人はもっと慎み深くなって、科学の問題についても
聖書の言葉、聖書の言うことをそのまま信じて
いればいい、と。しかし、残念なことに論争の
収拾はつきそうにない。みな自分が正しいと思い込んでいて、
誰も聖書の正しさを認めようとしない。むしろ
好き勝手に聖書を解釈したがっている。理性的な
議論を認めようともしない。自分が主張したいこと以外は。
自分の感覚すら信じようとせず、根拠のない妄想の
奴隷になっている。もう絶望的ではないか?
聖書には、こうはっきり書かれている、大地は
動かない、と。わたしたちもふつうにそう感じているし、
すでに見てきた数々の議論からも、大地は動かない
と信じざるをえないだろう。だが、あなたは聖書も
自分の感覚も理に適った議論も認めない。むしろあなたの
ただの妄想が世界の法則であるかのように説く。判断力を棄て、
感覚を棄て、教会を棄て、そして訳のわからない
あなたの主張に従え、と? まったくありえない、
この世界の真理を知る際に、この世界の真理を
つかさどる聖霊に従わないとは。
(研究・実験という名の)自分の勝手な思い込みを信じ、
そして神の言葉に従わないとは。
*****
Alexander Ross
The New Planet No Planet: Or, The Earth No Wandring Star
Ch. 2
1. Wee must beleeve the Scripture, not our own phansies.
2. The Scripture never patronizeth a lye or an error,
nor doth it apply it self to our capacity in naturall things,
though it doth in supernaturall mysteries.
3. Wee must stick to the literall sense, when the Scripture
speaks of naturall things.
It were happy for us (say you) if we could exempt Scripture
from Phisophicall controversies. And I say, It were happy for us,
if all Philosophicall controversies could be decided by Scripture;
or if men would be so modest, as to rest contented with
Scripture phrases, and expressions of such Philosophicall
points, as are mentioned there: But what hope is there
to end controversies, when many are so wedded to their
own phansies, that neither will they yeeld to Scripture,
except they may have leave to interpret them; nor to
reasons, except they may have leave to forme them;
nor will they trust their own senses, but will captivate
and enslave them also to their groundlesse imaginations?
The Scripture tells us in plaine tearmes, the Earth is
immoveable: our senses doe assure us, and many
reasons which I have heretofore alledged, induce us
to beleeve the truth of this assertion: and yet you
spurning at Scripture, sense, and reason, as if your
phansie were instar omnium, would have our judgements,
senses, Scripture, Church, and all regulated by your
absurd dictates; therefore it is an unreasonable thing
in you, to desire that the holy Ghost should not be
Judge of his owne assertions in naturall truths;
and that there should be more credit given to your conceits,
(which you call industry and experience) then to Gods own words.
https://quod.lib.umich.edu/e/eebo/A57666.0001.001
*****
散文。天動説。ここで扱われているのは詩篇19、伝道1、
ヨシュア12、イザヤ38。
著者のロスはある学校の校長先生。当時の保守的知識人。
ここにおける「あなた」とは地動説を説いていたジョン・ウィルキンズ
(John Wilkins)だが、彼は匿名で出版していたので、
ロスは自分の論敵が誰だかわかっていない。
ウィルキンズは後の王立協会設立にあたって中心的役割を
果たすことになる人物。クロムウェルの妹の再婚相手。
50年代にはオックスフォードとケンブリッジの
コレッジ長として活躍。聖職者として後にチェスターの
司教となる。
詳しくは以下を参照。
Grant McColley, "The Ross-Wilkins Controversy",
Annals of Science 3.2 (1938): 153-89.
*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。
ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。
商用、盗用、悪用などはないようお願いします。
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