goo

Dennis, The Advancement and Reformation of Modern Poetry, ep. ded

ジョン・デニス
『現代詩の発展と改革:批評論文』献辞より

ノルマンディ侯、マルグレイヴ伯、そしてガーター勲爵士である
高貴なジョン・シェフィールド様に

創作物の批評の目的は、少なくともそれが正しく良質なものである場合、高貴かつ有用な創作という技術を発展させることでなければなりません。以下の文章は、現代人を偉大なる古代の人々と対等のレベルに押し上げることを意図しています。そのため、閣下にお許しいただけるなら、古代の作家たちが優れている点は何か、また、なぜ私がギリシア悲劇--例えばソポクレスの『オイディプス王』--を、人気あるイングランド悲劇--例えばシェイクスピアの『ユリウス・カエサル』--より好むのかを考えたいと思います。これは、私にとってギリシア悲劇のほうが楽しく、またそこから学ぶことがより多いからです。まさにそれゆえギリシア悲劇の感動のほうが大きいのです。経験から言って、悲劇の楽しみや教訓は、それがかきたてる感情の大きさに比例します。しかし、なぜイングランドのものよりギリシア悲劇のほうが大きな感情を惹きおこすのか、その理由を知るためには、まずそれらの主たる違いを考える必要があるでしょう。性質上の違いがあれば、感動にも差があって当然ですから。閣下、『オイディプス』と『カエサル』のあいだには、明確な違いが2点あります。まず、『オイディプス』は規範的・規則的ですが、『カエサル』は不規則で規範に従っていません。また『オイディプス』は神に対して敬虔ですが、『カエサル』は不敬です。閣下のご判断に従いますが、私が考えるところでは、すべての悲劇は神に関する教育、何らかの神の定めを見る者の心に刻みこむものであるべきです。神が善良な者を守り、悪い者、少なくとも暴力的な者を戒めることを明白に示すべきです。そうでなければ、それは内容のない娯楽、むしろこの世の安定にとって有害・破壊的な文書となります。シェイクスピアにおけるカエサル殺害は、殺人という犯罪、あるいは合法行為、どちらでしょうか。もしそれが合法であるなら、ブルトゥスとカッシウスの殺害はまさに犯罪で、シェイクスピアは最後にして最高のローマ人ふたりの血で舞台を汚したと責められるべきでしょう。逆に、カエサル殺害が犯罪で、ブルトゥスとカッシウスが正当に罰せられたとします。それでもシェイクスピアは、多くのローマ貴族たちが観客の前で恐ろしい殺人の罪を犯すことを見せ、しかしそのうちのふたりを罰したのみ、としてやはり非難されるでしょう。このようなシナリオは、統治、むしろ人間社会そのものを破壊しかねない危険な議論につながりますから。

以上、規則的・宗教的であるがゆえに『オイディプス王』は優れていると考えてよいでしょう。このような評価は、次の考察からも導かれます。すなわち、上にふれた規則性とは、強い感情を高い確率で掻き立てるのに必要と日々の観察や探究からわかっている何らかの規則の実践に他ならない、ということです。なぜなら、心と体の強さが同じふたりが戦った場合によりていねいな準備をしたほうが勝つのと同様、詩の優劣や評価においても、思考の力が同等ならその力の使いかたをよりよく知っている詩人の作品が勝ると考えざるをえないからです。

規則性を嫌う人でも、少し時間を割いてソポクレスの『オイディプス王』を先入観なしに読んでみれば、すぐに気づくでしょう。読者の心が驚きから驚きへ、共感・憐みから恐怖へ、そして再度恐怖から共感・憐みへ、息つく間もなく動かされる理由はまさに技巧に他ならない、ということに。すぐにわかるでしょう。劇中至るところに織り交ぜられた宗教が、宗教とは無関係と見えるすべてのどんでん返しをもたらしていることが。それらはみな神の恐ろしい定めの帰結であり、それゆえ晴天から落ちる雷のように読者を呆然自失・混乱の状態に陥れるのです。

詩人のつくる物語が日々湧きあがる感情をより強く引きおこすとしたら、それは一般に規則性と呼ばれるものがそこにあるから、言葉や内容が何らかの規則にしたがっているからです。また、日々の感情の背後には宗教、つまり見えない力に対する畏怖や敬意があり、それを活用する力と技能さえあれば、詩人は詩の内容や表現により、日々の感情を超える特殊な感情を引きおこすことができます。この特別な感情こそ忘我、神に憑かれたかのような陶酔・自失、などと呼ばれるものです。

規則性およびそれが日常的な感情を呼びおこすことについて、もう特に話す必要はないかもしれません。閣下ご自身、小さくとも重要で輝かしい、言わば大きな宝より遠くを照らす高純度の宝石のようなご著書を社会に対して贈られています。またそれは、すでに他の者たちの著作によっても十分明らかになっています。すなわち、規則的に書くということは、道徳的に正しく、趣味よく適切に、根拠とともに、自然に、理にしたがって、書く、ということです。しかしながら、いかに宗教が詩の発展に寄与するかを示すこの論考に欠かせない準備として、規則性に関する従来の議論を確認しておきたいと思います。これがけっして無駄な遠まわりではないことをご理解いただけましたら幸いです。昨今では規則を無視あるいは軽視する者が少なくありませんので、ある程度時間を割いて、それを守ることの重要性を証明する必要があるのです。もし本当に規則など守らなくてよいのであれば、以下の論文は空虚な暇つぶしにすぎないものとなるでしょう。ですが、そのように考えるなら、今後詩を発展させることなど絶望的に不可能と言わざるをえません。

完璧な詩をつくるためには規則にしたがう必要があります。これはあたりまえのことなので、少し頭を使えば誰にでもわかるでしょう。下位の芸術、たとえば絵画や音楽にも規則はあります。構図やバランスについて知らない、習わない、あるいは練習しないまま、もって生まれた空想の力だけで絵を描こうとする人は、当然ぶしつけな愚か者とみなされます。

音楽でも同じです。主旋律を知らずに他のパートをつくる人は誰にも相手にされません。このようにいささか劣る芸術においてもよい作品をつくるために規則が必要なのですから、より高貴な芸術においてそうなのはあたりまえですよね? 規則にしたがって優れた詩が書けないなら、いったいどうすればいいのでしょう? 偶然に任せるしかありませんね! そうです、規則に従うか偶然に期待するかのどちらかしかありません。第三の道はないのです。

自然界にある偉大で美しいものは、すべてなんらかの規則にしたがっています。なんらかの秩序をもっています。私たちの知覚の対象に規則性・秩序・調和があればあるほど、私たちはそれを価値あるもの・高貴なものととらえます。僭越ながら私は、これは芸術、特に詩においても同じと考えます。詩とは、自然にあるものの正確な模倣をめざすべきなのですから。むしろ厳密に言えば、自然とは神がつくったこの世のもののなかの規則や秩序に他なりません。この世界が驚くほど美しいのは、その各部分が大きさや配置の点で調和し補完しあっているからです。世界の縮小版である人が健康で安らかに楽しく生きていられるのは、いや、そもそも存在できるのは、無意識のうちに体が規則的に動き、はたらいているからです。これがあってはじめて、人だけがもつ理性の力、この世の境界を高く超えて貫く思考の力が発揮されるのです。自然が目に見えるこの世界の秩序・規則・調和であるように、理性とは見えない世界の秩序・規則・調和です。それは秩序そのものであり、また秩序がもたらす結果です。不規則なものは、それが不規則であるかぎり自然ではありませんし、理性的でもありえません。神はすべてのものを規則にしたがうようにつくりました。だから、あらかじめ神が定めた永遠の掟・法則からほんのわずかでも逸れたものは、私たちにとって恐ろしいもの、憎むべきものとなります。同じように、人の心は自分にとっての掟・法則であり、そこから少しでも逸れるなら、人は理性を、自分の本質を、貶めることになります。つまり、正しく考えることができる人にとって、目に見える・見えないを問わず不規則なものは、ごくまれな例外を除いてすべて憎むべきもの、あるいはとるに足らないものなのです。

自然と理性は--大きく括れば理性も自然なものですから、自然は、とまとめていいと思いますが--常に永遠に規則的だからこそ美しく、そして偉大です。この世のはじまりにおいて秩序がすべてのものを美しくしたのですから、秩序がなくなれば再び世界は混沌に戻ってしまいます。自然の模倣である詩についても同様に考えなくてはなりません。理性の定めた厳格な法則から逸れる詩は偉大ではありません。本当の意味で美しくありません。詩は不規則であればあるほど訳のわからないめちゃくちゃなもの、意味のない、存在意義のないものとなるのです。

このすばらしく美しいこの世界全体を構成する数えきれない一部一部のなかには、不規則に見えるものもあります。しかしそれらも、規則的な各部と同様、自然全体の調和の完成に寄与しています。さらに言えば、至高・最高の理性である神のはかり知れない定めのなかには、一見秩序に背くと思われるものがあります。例えば、善良な人が苦しみ、悪人が栄えている場合などです。しかしそのような事態も、突きつめれば然るべく、他との絶妙なつりあいのなか、神の予見と意図に従って生じているのであり、深遠な神の計画の実現のために必要なのです。同じように、卑小なものを偉大なものにたとえてよいなら、完璧な詩のなかも一見理性に反するように思われる要素があります。しかし、突きつめればそれらも、正しく偉大な構想をすばらしいかたちで実現するために絶対に欠かせないという点で、究極的には完璧に規則的であると言えるのです。

閣下がいちばんよくご存知のはずです。高い能力と分別を備えた古代の天才たち、ホメロス、ウェルギリウスらは、理性と知的探求心に従う詩人が実践すべき規則を当然知っており、そして実践していました。彼らは、やかましいその場かぎりの集まりを楽しませるために詩を書いたのではありません。同胞と呼ばれるひと握りの人々のために、でもありません。そんな小さな世界ではなく、彼らは世界の、あらゆる国のあらゆる年齢の、自由な人々すべてのために書いたのです。彼らは確信していました。ちょっとした妄想や奇抜なことを語れば群集は喜びますが、それはあくまで一時的なこと、根拠がないことである、と。理に適っているという点で、また自然であるという点で偉大な作品のみが、人類に楽しみと同時に教えを与えることができるのだ、と。間違いなく理解していました。作品が後世に永遠に残るのは、この世界の維持存続を可能とする調和と秩序に似た何かのおかげに他ならない、と。その何かを内にもつからこそ作品がすばらしいものとなり、使われた言語とともに彼らの名声も永遠に残り、そしてその栄光が国の栄光としても輝くのだ、と。

閣下もご存じのように、前世紀のはじめ頃、趣味がよく、また洞察に優れたフランス人たちがこのことを意識するようになり、なかでも特に優れた者、詩人や哲学者たちが批評を発展させはじめました。その結果、すばらしいことがおこりました。まず、詩作の技術が向上し、かつてなかったほど高い能力をもつ者があらわれました。第二に、そのような天才の出現によりフランス語がキリスト教世界全体に広まることになりました。こうして高まった国の威信が国際的な優位をもたらし、大規模な国策でも容易になしとげられるようになりました。

閣下、フランスでは古代の詩人たちの気高い模範にしたがって詩が革新され、そして国も革新されたわけですが、わたしたちの国では逆のことがおこりました。閣下が献身的に国民の意識を変えようと試みてくださったのですが、愚かで頑ななわたしたちは中世的・ゴシック的で品のないスタイルにしがみついてきました。劇場は堕落し、自然で本質的に正しい趣味を失いました。シェイクスピアの頃には、不屈のローマ人の精神を体現する偉大なコリオラヌスやカッシウスを見ることができたのですが、今舞台にのぼるギリシアやローマの英雄たちにとっては、常に愛が最高の感情となってしまっています。これは道徳的に正しくありません。教育的にとんでもないことで、科学的にもありえない虚偽です。愛、つまり野心的な欲望は人を暴君にします。他人に対しても、自分に対しても。欲望は理性を奴隷にし、また他のすべての感情を征服します。だからこそ、脱線して恐縮ではありますが、わたしは自分の悲劇2作において愛を支配的なものとせず、それぞれ栄光や友情の下に位置づけたのです。そのような悲劇こそ最高の知性をもつ男性、最善にして最高の徳をもつ女性にふさわしいのです。特に2作目のほうは閣下にも気に入っていただけたとうかがい、このうえなくうれしく思いました。

*****
John Dennis (1657-1734)
From the Epistle Dedicatory to
The Advancement and Reformation of Modern Poetry:
A Critical Discourse.

To the Most Noble John, Lord Marquess of Normanby,
Earl of Mulgrave, &c. and Knight of the Most Noble Order of the Garter

The Design of all Poetical Criticism, must be, if it is just and good, to advance so useful and so noble an Art as Poetry. And the design of the following Treatise is no less than to set the Moderns upon an equal foot with even admir'd Antiquity. In order to the doing which, I humbly desire leave of your Lordship, that I may make an enquiry in what the preheminence of the Ancient Poets consists; and why I prefer one of the Grecian Tragedies, as for example, the Oedipus of Sophocles, to one of our celebrated English Tragedies; as for instance, the Julius Caesar of Shakespear. Upon reflection I find that the reason is, because I am more delighted and more instructed by the former; and that for this very reason, because I am more mov'd by it: For I find by experience that I am no further pleas'd nor instructed by any Tragedy, than as it excites Passion in me. But in order to the discovering why I am more mov'd by the former than the latter of those Tragedies, I desire leave to make an enquiry into the principal differences between them, and that in all probability will determine the matter. I find then, my Lord, that there are two very signal differences between the Oedipus and the Julius Caesar. First, the Oedipus is exactly Just and Regular, and the Julius Caesar is very Extravagant and Irregular. Secondly, the Oedipus is very Religious, and the Julius Caesar is Irreligious. For, with submission to your Lordships Judgment, I conceive that every Tragedy ought to be a very solemn Lecture, inculcating a particular Providence, and showing it plainly protecting the good, and chastizing the bad, or at least the violent; and that if it is otherwise, it is either an empty amusement, or a scandalous and pernicious Libel upon the government of the world. The killing of Julius Caesar in Shakespear, is either a Murder or a Lawful Action; if the killing Caesar is a, Lawful Action, then the killing of Brutus and Cassius is downright Murder; and the Poet has been guilty of polluting the Seene with the blood of the very best and last of the Romans. But if the killing of Caesar is Murder, and Brutus and Cassius are very justly punish'd for it; then Shakespear is on the other side answerable for introducing so many Noble Romans, committing in the open face of an Audience, a very horrible Murder, and only punishing two of them; which proceeding gives an occasion to the people to draw a dangerous inference from it, which may be Destructive to Government, and to Human Society.

Thus, My Lord, I have a great deal of reason to suspect that the Oedipus derives its advantage from its Regularity, and its Religion; and the presumption grows still more strong, when upon enquiry I find, that the fore-mention'd Regularity is nothing but the bringing some Rules into practice, which Observation and Philosophy have found requisite for the surer exciting of Passion. For as this, I think, cannot be contested, that of two Combatants, who have equal Strength and equal Courage, he is most likely to have the better who has the most address; so in a contention and prize of Poetry, between persons who have equal force of mind, he will be certain to have the advantage, who is the best instructed to use his strength.

If any of the enemies to Regularity will give themselves the trouble to peruse the Oedipus of Sophocles, with an impartial eye, he will easily discern how instrumental the Poetical Art is in leading him from Surprize to Surprize, from Compassion to Terror, and from Terror to Compassion again, without giving him so much as a time to breathe; and he will as easily discover, how the Religion that is every where intermix'd with the Play, shews all the Surprizes even when he least expects this, as so many immediate successive effects of a particular Dreadful Providence, which make them come like so many Thunder-claps from a serene Heaven to confound and astonish him.

A Poet is capacitated by that which is commonly call'd Regularity, to excite the ordinary Passions more powerfully by the constitution of the Fable, and the influence which that must necessarily have both upon the words and thoughts; and Religion, besides the Influence it will have upon the ordinary Passions, will be to a Poet, who has force and skill enough to make his advantage of it, a perpetual source of extraordinary Passion, which is commonly call'd Enthusiasm, for the sentiments and the expressions.

For what concerns Regularity, or the exciting of ordinary Passion, enough has been said already. Your Lordship has particularly made the Publick a Present, which is, I confess, but little in Volume but is magnificent in Value and Ornament; 'tis a Present in Jewels, which casts a further lustre than Treasures that take up a larger space, and is more solid to those who are near it. Our Writers have been sufficiently told, that writing Regularly is writing Morally, Decently, Justly, Naturally, Reasonably. The Design, my Lord, of the following Treatise is to shew of what use Religion may be to the advancement of Poetry. But because all that has been said concerning Regularity is so necessary a preparative to this Design, that it would be wholly useless without it, I hope your Lordship will not think it to be foreign to my purpose, if at a time when the Rules are neglected by some, and slighted by others, I bestow a little time in proving the necessity of observing those; without the strict observance of which, the following Treatise will be an empty amusement, and we must absolutely despair of making any advancement in Poetry.

The necessity of observing Rules to the attaining a perfection in Poetry is so very apparent, that he who will give himself the trouble of Reflecting, cannot easily doubt of it. Rules are necessary even in all the inferiour Arts, as in Painting and Musick. If any one should pretend to draw a Picture without having ever been taught, or without knowing or practising any thing of Perspective or Proportion, but should pretend to succeed alone by the natural force of his Fancy, that man would certainly be esteem'd a very Impudent and Impertinent person.

Your Lordship knows that it is the very same thing in Musick that it is in Painting. If any one should pretend to compose in parts, without understanding the grounds, that person would infallibly render himself very contemptible. Now if they please by Rules in a less noble Art, can they reasonably expect to please without them in one that is more noble? If they please not by Rules in Poetry, how must they please? By Chance! For this is certain, that they must do it by one or the other, for there is no third way.

There is nothing in Nature that is great and beautiful, without Rule and Order; and the more Rule and Order and Harmony we find in the objects that strike our sences, the more worthy and noble we esteem them. I humbly conceive that it is the same in Art, and particularly in Poetry, which ought to be an exact imitation of Nature. Now Nature, taken in a stricter sense, is nothing but that Rule and Order and Harmony which we find in the visible Creation. The Universe owes its admirable beauty to the Proportion, Situation and Dependance of its parts. And the little World, which we call Man, owes not only its Health and Ease and Pleasure, nay, the continuance of its very Being to the Regularity of Mechanical motion, but even the strength too of its boasted Reason, and the piercing force of those aspiring thoughts, which are able to pass the bounds that circumscribe the Universe. As Nature is Order and Rule and Harmony in the visible World, so Reason is the very same throughout the invisible Creation. For Reason is Order and the Result of Order. And nothing that is Irregular, as far as it is Irregular, ever was or ever can be either Natural or Reasonable. Whatever God Created he designed it Regular, and as the rest of the Creatures cannot swerve in the least from the Eternal Laws pre-ordain'd for them, without becoming fearful or odious to us; so Man, whose mind is a Law to itself, can never in the least transgress that Law, without lessning his Reason, and debasing his Nature. In fine, whatever is Irregular, either in the Visible or Invisible World, is to the person who thinks right, except in some very extraordinary cases, either Hateful or Contemptible.

But, as both Nature and Reason, which two in a larger acceptation is Nature, owe their Greatness, their Beauty, their Majesty, to th eirperpetualOrder; for Order at first made the face ofthings so beautiful, and the cessation of that Order would once more bring in Chaos; so Poetry, which is an imitation of Nature, must do the same thing. I can neither have Greatness or Real Beauty, if it swerves from the Laws which Reason severely prescribes it, and the more Irregular any Poetical Composition is, the nearer it comes to extravagance and confusion, and to nonsence, which is nothing.

But, as in some of the numberless parts which constitute this beauteous all, there are some appearing irregularities, which parts notwithstanding contribute with the rest to compleat the Harmony of universal Nature; and as there are some seeming Irregularities even in the wonderful Dispensations of the Supream and Soveraign Reason, as the oppression of the good, and flourishing of the bad, which yet at the bottom are rightly adjusted, and wisely compensated, and are purposely appointed by Divine Fore-knowledge for the carrying on the profound Designs of Providence; so, if we may compare great things with small, in the creation of the accomplish'd Poem, some things may at first sight be seemingly against Reason, which yet at the bottom are perfectly Regular, because they are indispensably necessary to the admirable conduct of a great and a just Design.

No man knows better than your Lordship, that the Renown'd Masters among the Ancients, Homer and Virgil, &c. had too much Capacity, and too much Discernment, not to see the necessity of knowing and practising the Rules which Reason and Philosophy have prescib'd to Poets. They wrote not with a little narrow Design to please a Tumultuous transitory assembly, or a handful of men who were call'd their Countrymen; They wrote to their fellow Citizens of the Universe, to all Countries and to all Ages; and they were perfectly convinc'd that tho Caprice and Extravagance may please the multitude, who are always fluctuating, and always uncertain; yet that nothing but what is great in Reason and Nature, could be able to delight and instruct Mankind. They were clearly convinc'd that nothing could transmit their Immortal works to posterity, but something like that harmonious Order which maintains the Universe; that it was partly to that, they were to owe that wondrous merit, which could be able to render their Fame eternal, to extend and perpetuate the very languages in which they writ, and to illustrate the glory of their Countries by their own.

Your Lordship knows that it was towards the beginning of the last Century, that the French, a subtle and discerning Nation, began to be sensible of this, and upon it several of their extraordinary men, both Poets and Philosophers, began to cultivate Criticism. Upon which there follow'd two very remarkable things. For first, the cultivating of the Poetical Art advanc'd their Genius's to such a height, as was unknown to France before; and secondly, the appearing of those great Genius's, was very instrumental in spreading their language thro all the Christian World; and in raising the esteem of their Nation to that degree, that it naturally prepar'd the way for their Intrigues of State, and facilitated the execution of their vast Designs.

My Lord, these alterations happen'd in France, while the French reform'd the structure of their Poems, by the noble models of ancient Architects; and your Lordship knows very well, that the very contrary fell out among us; while, notwithstanding your generous attempt to reform us, we resolv'd with an injudicious obstinacy to adhere to our Gothick and Barbarous manner. For in the first place, our Stage has degenerated not only from the taste of Nature, but from the greatness it had in the time of Shakespear, in whose Coriolanus and Cassius we see something of the Invincible Spirit of the Romans; but in most of our Heroes which have lately appear'd on the Stage, Love has been still the predominant passion, whether they have been Grecian or Roman Heroes; which is false in Morality, and of scandalous instruction, and as false and absurd in Physicks. For Ambition makes a man a Tyrant to himself, as well as it does to others; and where it once prevails, enslaves the Reason, and subdues all other Passions. And it was for this very cause, if your Lordship will allow me to make this digression, that in the two Tragedies that I writ my self, I made Love a subordinate Passion, and subjected it in the one to Glory, and in the other to Friendship; that so I might make them fit to entertain the wisest of our Sex, and the best and most virtuous of the other. And it is impossible to tell you with what extream satisfaction I heard that the last of them was not displeasing to you.

https://quod.lib.umich.edu/cgi/t/text/text-idx?c=ecco;idno=004890743.0001.000
一部修正

*****
16‐17世紀の(一部行きすぎた)宗教改革および内乱で地に落ちた
宗教(キリスト教)のイメージのリハビリにおおいに貢献した重要エッセイ。
以下の主題の交差点。

ストア派の理性>感情
ロック以降の感情>理性
広教派・ケンブリッジのプラトン派・シャフツベリーの思いやり・共感・感受性
16世紀以来の「神は人のなかにいる」という議論(enthusiasm)
ロンギノス以来の崇高

*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。

ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。

商用、盗用、悪用などないようお願いします。


コメント ( 0 ) | Trackback (  )
« Dennis, A Jou... Patmore, "The... »