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Calvin, Aphorismes of Christian Religion

ジャン・カルヴァン
『キリスト教要項』(1596, 部分)

第26章 主の晩餐について

I.
主の晩餐は、新約、すなわち恩寵の契約における第二の秘蹟である。パンを裂き、またワインをカップに注ぐことにより、キリストの受難・流血が描かれ、あらわされ、わたしたちはそれを目にする。これらの聖体を与え、受けとり、食べ、飲むことにより、(キリストの受難・流血、つまりありがたき彼の死によって与えられる)罪の赦しと永遠の生、そしてイエス・キリストを頭とする教会に入ることが確約される。キリストを信じ、聖餐に与るに値するすべての人に、である。こうして敬虔な人は、神が自分の子の死を通じて与えてくれた好意を信じて安らかに生きられる。人の魂はキリストの友となり、清らかな関係のなかで日々成長するのである。
註:
マタイ26.28、マルコ14.24、ルカ22.20、コリント人上11.25
マタイ26.26、マルコ14.21、ルカ22.19、コリント人上11.24
マタイ26.28、ヨハネ6.51, 53, 54, 58
(151-52)

IV.
この秘蹟を定めたキリストの言葉は以下のとおりである--「手にとって食べなさい。手にとって飲みなさい。これをしなさい。わたしを忘れないように」。
(153)

VI.
主の晩餐でパンを裂くのは、主の命じたとおりである。また、それは主がしたことでもある。主はパンを裂き、それを自分の体をあらわす聖なるものとした。そしてその裂かれた聖なるパンをわたしたちに与え、食べさせ、わたしたちのために引き裂かれた、つまり十字架にかけられた、自分の体をあらわす生きた聖なる象徴とした。……パンを裂くということが、主の晩餐におけるもっとも重要な儀式である。こうして、そのいちばんの目的が果たされる--つまりキリストの受難、彼の体の破壊があらわされ、事実としてわたしたちに示される。ワインを注ぐのも同じ理由からである。つまりそれがあらわすのは、キリストの血が注がれた、ということである。
註:
マタイ26.26、マルコ14.21、ルカ22.19、コリント人上11.24
コリント人上11.23
コリント人上10.16
コリント人上11.24
(153-54)

VII.
キリストの受難は、この秘蹟のなかで生きたかたちで示される。福音が説かれる時と同じように。
註:
ガラテア人3.1
(154)

VIII.
わたしたちがイエス・キリストおよび彼の聖霊をもっとも受けとりやすいのは、言葉を通じて、である。それは神の聖なる定めであり、また恩寵をわたしたちの精神・感情・良心に運ぶ道具である。その偉大なる力がわたしたちの魂に恩寵と信仰を与え、わたしたちは神の子、清らかで賢い存在となれるのである。
(154-55)

IX.
しかし、キリストの恩恵に与る以上二つの方法には違いがある。主はまず言葉によって恩寵を与えてくれる。そして、与えられた恩寵と信仰は、日々秘蹟によって強められ、増していく。
(155)

X.
くり返すが、主の言葉は聴覚のみを通じて人にはたらきかける。そこから知恵と信仰が生まれる(ローマ人10.14-15)。この聴覚こそ、人が腐敗して以来、理解・学習の源、人のなかに信仰を生むもっとも重要なものであった。しかし、アダムが堕落する前にもっとも重要であったのは視覚である。神のつくったものを見て、観察して、知恵と理解を得ていたのである。だからこの秘蹟において主は、視覚およびその他の感覚を大切にしている。すなわち、聖餐において、魂はキリストの言葉を聞くのみならず、キリストを見て、彼にふれ、彼のにおいをかぎ、そして彼を味わう。キリストと彼のもたらす恩恵すべてを糧とするのである。
註:
ブラッドフォードの晩餐の説教を見よ
(155-6)

XI.
この秘蹟ついて大切なのは、キリストの約束を確かなものとすること、彼の肉を食べ彼の血を飲めば永遠の生が得られる、と確信することである。わたしは命を与えるパンである、わたしを食べる者は永遠に生きる、と彼自身が言ったとおりである。主の晩餐の秘蹟はこれを確約する。だからわたしたちは十字架のキリストへと赴き、この約束が果たされるのを見るのである。そこでわたしたちは、キリストの肉を命のパンとして受けとる。わたしたちのために十字架にかけられた体、わたしたちに生を与える肉をいただくのである。
註:
ヨハネ6.55
ヨハネ5.51
(156)

XII.
信じていなければ、わたしたちはこの肉を食べることができない。信じていなければ、わたしたちはこの血を飲むことができない。
註:
ヨハネ6.35
(156)

XIV.
この魂で食べる肉・魂で飲む血がもたらす恩恵は、魂が神と一体となる喜びである。キリストの友として、ますます親しい関係になることである。というのも、信仰が確かになればなるほど、キリストとの関係も深まるからである。
註:
ヨハネ6.57
コリント人上5.8
コリント人上10.17
(157)

XV.
明らかであるとは思うが確認する。イエスの体は口で食べるものではない。聖餐のパンにイエスの体は入っていない。最後の審判の日まで、彼は天にいるはずなのだから。彼の体はすべての場所にある、天にあるのとまったく同時に主の晩餐のパンのなか地上の至るところに存在する、と言うことはできない。キリストの体は人の体と同様無限ではない。「キリストはすべてにおいてわたしたちと同じ存在となった。ただ、罪だけはなかった」と言われたとおりである。
註:
全質変化
共存
使徒3.21
(157)

XVI.
確認するが、キリストの体と血がパンとワインのなかに入っているのであれば、それらはバラバラになっていることになり、彼はあらためて死ぬことになる。しかしキリストはもはや死なない。
註:
ローマ人6.9
(157-58)

XVII.
さて、主の晩餐のパンはキリストの体とはならない。聖別の言葉の後も、見たところ実体としてのパンはパンである。まさに適切なたとえとしてキリストがこのパンを使って教えようとしたのは、彼の肉が霊的なものということである。だから、こう言って間違いないであろう。わたしたちの魂は十字架にかけられたキリストによって養われるが、これがなされるのは他でもないパンを通じてである。それはちょうど、わたしたちのために裂かれ与えらえるパンによってわたしたちの体が養われるのと同じである。くり返すが、すべての信じる人たちにキリストは言った、ひとつのパンを分けるように、と。彼らすべてがひとつのパン、ひとつの体のような存在であることを教えるために。だから、やはりパンは他でもないパンである。たとえ話はここにとどまらない。多くの粒や塊からひとつのもの、ひとつのパンはできている。それと同じように、多くの信じる人たちもひとつの信仰でキリストと編みあわされていれば、ひとつの愛でひとりひとりが互いに結ばれていれば、ひとつの教会となれるであろう。その頭であるイエス・キリストのなかで、そしてイエス・キリストを通じて。
註:
ヨハネ6.55
コリント人上10.27
(158-59)

XVIII.
洗礼の水もモーセが杖で打って岩から流れ出た水もキリストの血とはならなかったが、それでもこれらは秘蹟のキリストの血である。同じように主の晩餐におけるワインはキリストの血にならないが、それでもやはり秘蹟のキリストの血である。キリストがそのように定めたのだから。
註:
民数記20.10-11
(159)

XX.
普通に考えれば、キリストの言葉は比喩、換喩であって、もの、ここでは体、がパンという言葉で置き換えられてあらわされている。カップとキリストの血の関係も同じである。

XXIII.
このような発想が最近の捏造でないことを示すため、アウグスティヌスも次のように言っている。「もし秘蹟がそこで用いられるものとまったく無関係であったら、秘蹟として成立しない。そこにある相似関係によって(つまり、そこであらわされるものによって)その秘蹟の名は決定される。だから、秘蹟におけるキリストの体はある意味でキリストの体であり、秘蹟におけるキリストの血もある意味でキリストの血である。秘蹟によってもたらされる信仰は信仰である。」 ……
註:
アウグスティヌス、ボニファキウスへの書簡23
(161)

XXVII.
ゆえに、キリストの体は無限ではなくすでに地上から天にのぼっていて、最後の審判の日までそこにあるはずであるから、それはすべての場所には存在しえない。秘蹟のパンのなかにもない。
註:
使徒行伝19.10-11
使徒行伝3.21
コリント人上11.26
(165)

XXX.
カトリックはこう言う--キリストの体は見えるかたちで天にあるが、しかし秘蹟のパンのなかにもそれは見えないかたちで存在する。これは聖書から証明できないことであり、また自分たちの主張とも矛盾する。彼らは、キリストは本当に、実体として、肉として、パンのなかに存在する、と言うが、もしそうであるならキリストは目に見えるかたちでパンのなかにいるはずである。実体として存在することは、目に見えることに他ならない。……

XXXII.
わたしたちはキリストの体が秘蹟のパンに含まれていることを否定するが、キリストが完全に、あらゆる意味で、聖体に含まれていない、あのパンとワインは意味のない記号である、とは言っていない。キリストは聖なる彼の霊の力によって間違いなくいる、彼の名の下に二人または三人が集まるところに。……
註:マタイ18.20
(167)

XXXIII.
確認するが、もしキリストの体が秘蹟のパンのなかになかったら、当然わたしたちはそのなかの彼の体を崇めてはいけない。天にいる彼を崇め、称えなくてはならない。父なる神の右手に座っているはずであるから。昔から主の晩餐を執りおこなう際にもそう言われていたはずである。心を主に掲げるように、と。
註:
コロサイ人3.1
(168)

XXXVI.
主の晩餐に参加する人は善良でなくてはならない。つまり、自分たちが善良でないことを認めて悲しみつつ、慈悲深く恵み深い神を信じ、イエス・キリストとひとつになって善良になれるよう神にお願いしなくてはならない。

コリント人上11.18
(169)

XXXVII.
無知な人のために、より明確にわかりやすく言おう。そのような人でも聖なる晩餐の集まりの趣旨を理解して、心の準備をしたうえで参加できるように。この聖なる秘蹟の濫用が一因となってこれまで神の裁きがたくさん下され、多くの者が死の灰と化してきた。また、まさにこの今にも神の裁きは下されようとしている。これをなんとかしなくてはならない。神を嘲り、自分を害し自分の救済を妨げる、教会や人々に対する神の怒りをかき立てる、そのような悪しき晩餐参加者は以下のとおりである。
(169)

XVIII.
1.
まず、神の存在を否定する者、「神を、キリストを、もたない人々」、信仰のない人、単なる体の喜びだけを求めるエピクロス信奉者--これらの者には聖なる秘蹟を与えるべきでない。彼らはこの聖なる集まりに不相応である。神や神を信じる人々の友でないのだから。

エペソ人2.12
詩篇14.1
(170)

2.
すべての獣、犬、豚--言いかえれば、汚らしい獣の教えに従い、それを生きる者--使途パウロが断言したように、天の王国に入れないような者--つまり、「姦淫する者、偶像を崇拝する者、姦通する者、淫らな行為を好む者、獣姦する者、泥棒、人のものを欲しがる者、泥酔する者、罵る者、暴利を貪る者」。彼らはこう警告されている、「天国に行けると勘違いしてはいけない」。これらの者は、限られた者だけが参加できる記念の集いにふさわしくない。ましてや、この聖なる宴において、わたしたちとともに主であり救い主であるイエス・キリストに会うなど、もってのほかである。

コリント人上6.3

3.
すべての愚かな人。(どれほど害がないように見えてもダメである。)「主の体を見極めることができない者」(コリント人上11.29)。そもそもそれを見極めたい、知りたい、という欲のない人。知識がないということは信じないということであり、信じないということは愛さないということであり、愛さないということは信頼しないということであり、信頼しないということは畏れないということであり、畏れないということは遜(へりくだ)らないということである。神の恩寵によってこれらのことができないこと、これらのうちのひとつでもできないということは、神を崇拝していないということ、神から断絶されているということである(ヘブル人11.6)。だから、これらの者は主の体をもらうに値しない。
註:
信仰の重要基盤に関する無知
ヘブル人6.1-5
(170-71)

5.
知恵ある愚か者のなかに、神の言葉を愛し熱く信じるふりをしつつ、聖なる秘蹟を完全に無視したり軽視したりする者がいる。このような嘲りは神の定めに対する違反のなかに明らかであり、だから彼らは主の晩餐にまず来ない……。
(171)

6.
キリストに対して飢えていない者。飢えていなければキリストを食べることはできない。罪を知らないということは罪の意識がないということであり、罪の意識がないということは罪のために悲しんでいないということであり、罪のために悲しんでいないということは罪の告白ができないということであり、罪の告白ができないということは恩寵を求める心がないということであり、恩寵を求める心がないということはキリストを信じる心がなく彼を受けとることができないということであり、キリストを信じる心がなく彼を受けとることができないということは彼の子になれず聖なる存在になれないということである。
註:
詩篇32.5
エペソ人1.15
ローマ人8.14-15
(171)

7.
争いをもたらす者すべて。この秘蹟があらわすのは、わたしたちの心がひとつであること、愛、キリストや彼の仲間とひとつになって食をともにすること、である(コリント人上10.16)。
(172)

ーーーーー
第27章 教皇信奉者のミサについて

I.
教皇を信じる者は、ミサが人を正しい存在とする道徳的行為であると嘘をつく。ミサを司る聖職者はパンをキリストに変え、その際に次の五つの語を発する--「コレハ・ホントウニ・ワタシノ・カラダ・デアル」。次に聖職者はこのキリストをその父なる神に生贄として捧げ、すべての人、生きている人・死んだ人すべての罪を贖わせる。このようにミサにおいて人の罪が消える、とのことである。
(173-74)

II.
この教皇支持者の汚れた考えかたは不敬であり、神に対する冒涜である。キリストに対する非難・名誉毀損である。なぜなら彼ひとりが新約における唯一の聖職者であるのだから。
註:
ヘブル人5.6, 7.24

(つづく)

*****
Jean Calvin
Aphorismes of Christian Religion (1596, part)
(Tr. H. Holland)

Chapter 26: Of the Lordes Supper

*****
下のWrightのものとは異なる、改革派(プロテスタント)の
聖餐論。

*****
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Wright, A Treatise of the Blessed Sacrament

トマス・ライト
『論説:聖餐のパンのなかに救い主は当然本当に存在しうる』
(1596年、部分)

--キリストの体は本当に聖体のなかにある--

カトリックにとって、これを証明するためにわざわざ議論するのは無駄なことである。教会の見解がずっと一貫している以上、それを信じるなら他の証拠はまったく必要ない。しかし、彼らを安心させるため、あるいは彼らが抱いてきた信仰をより確かなものとするために、たとえ話や誰でもわかる経験を語りながら、言わば聖櫃の覆いを少し開いて、人の目から隠されてきたことを明らかにしようと思う……。(B1r)

第一に、こう訊く者たちがいる。キリストの体のように手足があって大きなものがあの小さな聖体・ホスティア、パンのかけらや一滴のワインのに入り収まっている、などということがありうるのか、と。この問いに答える前に、逆に訊こう。この奇跡は、教会や山を一粒の大麦くらいの穴に入れるのと同じ類のものではないか? みな、そうだ、と言うだろう。わたしはこれが自然の力によってなしうることを証明しよう。聖ポール寺院の塔のいちばん上にのぼって国中を見てみよう。山が見える。丘が見える。平野と谷が見える。川・庭・牧草地・果樹園・教会・家が見える。動物がいて人がいる。上には空、下には大地がある。そんな雄大な光景を見た後で、目を閉じてみよう。すると、心のなかにまだ見えるはずだ。外の世界に見えたものが同じ順番に、同じところに、同じ位置関係で、同じ大きさで、並んでいるのが。だから訊こう。山や村や川や宮殿は、どんな大きな門を通って心のなかに入ったのだろう? もちろん答えは、目のなか、大麦一粒と変わらない大きさの瞳孔を通って、である。だが、どうやったら神はあんな大きなものをこんな小さなところにたくさん入れることができるのか? それはこういうことだ。目に入る時、山は霊の服を身にまとって霊的存在となる。目に映る山自体は、他のものと同様、物体として大きな空間を占めていても、である。このたとえ話は、聖体のなかにキリストの体があるという不思議な現象のよい説明となる。つまり、キリストの体も霊の服を身にまとい、それで聖体のなかすべてに行きわたるのである。すべての人の目のなか、山の姿がきちんと崩れず映るように。(B3r-v)

次に、どうしたらひとつの体が同時に多くの場所に存在できるか? 例えば、イングランドに、フランスに、フランダースに、イタリアに?

わたしの答えはこうだ。わたしの魂は、頭に、手に、足に、分割されることなく存在している。魂が三つの場所に完全なかたちで存在できるのだから、ひとつの体が異なる場所にあってもおかしくないであろう。どちらも矛盾しているのは同じだ。

説教師が壇上にいて、ひとりで話しているとする。しかしそれを聴くのは500人だ。すべての人が同じ言葉を耳で聴く。

大きな鏡の100分の1くらいの小さな鏡が100枚あったとする。そのひとつひとつに映るのは、もちろん完全なかたちの自分の顔である。(B4r-v)

第三に、比較的に小さいキリストの体と血があれほど多くの聖体のパンや樽のワインのなかにあるとはどういうことか? 世界中の幕屋で同時に聖別されるとは?

そのようなことを言うなら、受胎時の小さな体に入った魂が、何もつけ加えられることなしで、成長した大人の体全体に広がるのはなぜか? 分割されえない神の存在が、なにもつけ加えられることなしで、また切断されたり変質したりすることなしで、世界を満たしているのはどういうことか?

日々の経験から明らかだが、小さなお香が分解されて煙になってもその成分や量は変わらない。ただ希薄化されて教会中に広がるだけである。もうひとつ、日々水銀を使っている人であれば知っている。それはポットに入れて火にかけると煙になって立ちのぼり、どんな大きな部屋でも満たしてしまう。しかし空気によって冷やされると、それは固まって落ちてきて、そしてまた小さくなる。まさにそれと同じで、キリストの体と血は、しばらくのあいだ大きくなっても、煙が消えるようにパンとワインの外形が体内に消えると、またもとの姿になって永遠にそのまま残る。(B5r-v)

………………
第六の疑問--キリストの体があれほど多くの人に食べられてなくならないのはなぜか? この秘跡がはじめられて以来、長い年月のあいだずっと食べられ続けてきたのに?

このような問いに対して答えるために、キリストはヨハネの福音第6章にて、まず5000人の男(それから女たち・こどもたち)の空腹を大麦パン5個と魚2匹で満たすという奇跡をおこなっている。残ったパン屑12かご分も使ったが。聖体拝受の秘跡を授ける前にキリストがこの奇跡をおこなったのは、上のような反論に答えるためである。もし彼があのように少量の食べものをあのように大勢の者に分け与えて、しかも最初にあった量より多くを残すことができるのならば、何百万という人に自分の体を与えてその体が最初と同様完全なかたちで残ってもまったくおかしくないではないか? ここでキリストの体がしていることは、わたしたちの魂がいつもしていることと同じである。体はいつもいくらかの部分を呼吸によって失うが、それは食べもの・飲みもので補われる。呼吸によって吐き出された部分にもはや魂は入っていないが、その部分が減ったり完全に失われたりすることはない。まさにそのようにキリストの体は多くの聖体に宿りつつ、そのなかから消え、消費されたり変化したりしないのである。(B7r-v)

第七の問い--キリストはあんな不快な場所を通って平気なのか? 例えば、耐えがたいほど息がくさい人の胃とか?

神である彼が極めて不快で不潔な場所を満たし、かつそれに染まらずにいられることは、例えば太陽の光が糞の山を照らしても汚く染まらないのと同じである。不死で無敵の光を帯びたキリストの体は、どんな汚れた・くさい・有害な人の影響も受けないのである。(B7v-B8r)

第八の異論--パンとワインがおなかでグチャグチャになったら、キリストの体はどうなるのか? 天にのぼるのか? それであれば、それはいつも旅をしていることにならないか? あるいは胃のなかに残るのか? それはこのうえなく不快であろう。

もし人の腕が切り落とされたら、腕に宿っていた魂はどうなる? 死ぬ? であるなら、腕を失った人は魂を一部失ったことになる。それとも腕の魂は空中に漂う? いや、魂は空気に宿れない。つまり、切り落とされた腕の魂はもとあった体に戻るだけである。まさに同じように、キリストの体も胃のなかから消えてもともとそれがあった天に戻るだけである。(B8r-v)

第九の反論--聖体が裂かれたらキリストの体も裂かれないのか? 足が胴からもがれたり、とか? どうして骨が折れる音が聞こえないのか? どうして血が噴き出るのが見えないのか?

鏡が割れても、割れる前の鏡と同じで、その破片のひとつひとつに自分の顔が完全なかたちで見えるだろう? まさにそれと同じで、聖体が裂かれてもすべてのかけらにキリストの体が完全なかたちで宿っているのである。(B8v-C1r)

第十問--聖体のなか、キリストの体はグチャグチャになっていないのか? あのように小さな場所に詰めこまれているのに? ふつうに考えたら、体全体が押しつぶされて消えてなくなりそうなものだが?

これは最初の問いに対する答えを見ればはっきりわかるであろう。国がグチャグチャになることなく目に映るのはなぜか、というのと同じである。あるいは人の顔を見た時、その顔が目に映る時、きちんと同じ輪郭や大きさや位置の関係を保っていて、グチャグチャになっていないのと同じである。(C1r)

*****
Thomas Wright
A Treatise, Shewing the Possibilitie, and Conueniencie of
the Reall Presence of our Sauiour in the Blessed Sacrament (1596)
(Excerpt)
STC 26043.5

*****
1596年にこのように堂々とカトリックの立場が
論じられていたことが重要。

同時に、当時の科学的知見のレベルを理解することが
私たちにとって重要。

それから、学術的な議論と笑いの共存関係も。

*****
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Donne, "The Computation"

ジョン・ダン
「たし算」

昨日からの最初の20年間、
信じられなかった、君が行ってしまったなんて。
その次の40年間、ぼくは君の優しい思い出に浸り、
その次の40年間、君はこれからもずっと優しいはず、と考えた。
次の100年は涙に溺れ、その次の200年はため息が吹き消した。
次の1000年、もう考えず、動かず、一年一年を
分けて数えることもやめた。君が好き、という気持ち一色だったから。
そしてその次の1000年、そのことも忘れたから。
一生より長い、とか言わないで。もうぼくは死んで、
不死になっているから。魂でも死ぬ?

*****
John Donne
"The Computation"

For my first twenty years, since yesterday,
I scarce believed thou couldst be gone away;
For forty more I fed on favours past,
And forty on hopes that thou wouldst they might last;
Tears drown'd one hundred, and sighs blew out two;
A thousand, I did neither think nor do,
Or not divide, all being one thought of you;
Or in a thousand more, forgot that too.
Yet call not this long life; but think that I
Am, by being dead, immortal; can ghosts die?

http://www.luminarium.org/sevenlit/donne/computation.php

*****
100年=1時間で計算しなおして読む。つまり、
行1にあるとおり、昨日君と会っていて、今日は
ひとりで寂しい、という話。

黙示録の1日を1年として読む16-17世紀の終末論を
恋愛詩に援用。(不死・魂などはキリスト教用語。)
Cf. From Napier, A Plaine Discouery of the Reuelation

最後の「死」は、16-17世紀の意味で読む。
エロな意味で、昨日「逝った」。

*****
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Donne, "Air and Angels"

ジョン・ダン
「空気と天使」

二回か三回か、ぼくはもう君を愛していた、
君の顔を見る前に、君の名前を知る前に。
声として、かたちのない炎として、
天使はあらわれる--それと同じで、
君がいたところに行くと
美しく輝く見えない何かが見えた。
ぼくの魂は
肉の手足なしでは何もできなくて、
恋も魂の子だから
同じように体が必要で、
そんな恋は訊いた--
「君は何? 誰?」
それで今、ぼくの恋は君の体のなかにいる。
君の唇、目、肌のなかにいる。

そんな体の錘(おもり)を恋の舟に積めば、
水の上でも倒れない、
お世辞・きれいごとでふわふわしない、
と思っていたら、積みすぎた。
一本の髪でも
恋には重すぎる。
恋は無じゃないけど、もの
でもない。究極に細く舞い輝く髪とも違う。
だから、いちばん純粋な、ものだけどものじゃない
空気の顔や羽を天使がもっているように、
ぼくの恋は君の心に入らせよう。
ほとんど同じくらい
空気と天使は純粋で、
男の恋と女の気持ちもそうでなければ。

*****
John Donne
"Air and Angels"

Twice or thrice had I lov'd thee,
Before I knew thy face or name;
So in a voice, so in a shapeless flame
Angels affect us oft, and worshipp'd be;
Still when, to where thou wert, I came,
Some lovely glorious nothing I did see.
But since my soul, whose child love is,
Takes limbs of flesh, and else could nothing do,
More subtle than the parent is
Love must not be, but take a body too;
And therefore what thou wert, and who,
I bid Love ask, and now
That it assume thy body, I allow,
And fix itself in thy lip, eye, and brow.

Whilst thus to ballast love I thought,
And so more steadily to have gone,
With wares which would sink admiration,
I saw I had love's pinnace overfraught;
Ev'ry thy hair for love to work upon
Is much too much, some fitter must be sought;
For, nor in nothing, nor in things
Extreme, and scatt'ring bright, can love inhere;
Then, as an angel, face, and wings
Of air, not pure as it, yet pure, doth wear,
So thy love may be my love's sphere;
Just such disparity
As is 'twixt air and angels' purity,
'Twixt women's love, and men's, will ever be.

https://www.poetryfoundation.org/poems/44091/air-and-angels-56d2230aa341c

*****
これは、なかなかすごいラヴ・ソング。
知的で、偽善がなくて、でも情緒的。
理想化すると嘘になるものをやっぱり理想化する、という。

*****
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迫害と抑圧のソネット

迫害と抑圧のソネット

初期近代の異端審問・魔女狩りから20世紀のナチスまで、
歴史上知られる大規模な迫害や抑圧が起こりえたのは、
その主導者たちが頭のおかしい極悪人だったから、ではなく、
それを「正しい」と考える理由があったから。

善と悪、正と邪は、互角でない。
100人いたら50人が悪人? まさか。この世がはじまって以来、
至るところで社会が成り立ってきたのは、他でもない、
ほとんどの人がいい人だから、善意に生きる人だから。

だから問題は、なぜ善が悪や不幸をもたらすか、ということ。
どのような時に、なぜ、思いやりある大多数の人が、
「正しい」目的のために、人の自由や幸せや命を奪うか、ということ。

強すぎる光は視界を奪う。集まった光は炎になって燃えあがる。
善も同じ。集まりすぎると、強くなりすぎると、
心が、世界が、闇に包まれ、燃えあがる。

*****
20200304

*****
以上のような内容を直感的に理解している人は少なくない
はずだが、たぶん、あまり発言しない。むしろ、できない。
一見、「正しくない」ことを言わなくてはならないから。

しかし、そのようなことを考えるのが真の意味での知性。
人を主題とする学術研究(Humanities)がなすべき仕事。
見えないところで社会の根幹を支えているはず。

目先の利益に意識を集中することは最終的に利益をもたらさない。

*****
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