goo

From Perkins, A Discourse of Conscience, ch. 2

ウィリアム・パーキンズ
『良心論』第2章より

神の意思や言葉に対する無知は危険であり、これらを知らない人の生は神に対する罪で海のようにあふれることになる。人はたいてい、嘘をつかなければ、神を冒涜しなければ、人殺しや盗みをしなければ、性的に悪いことをしなければ、それでいいと思っている。が、これは間違いである。無知に生きているかぎり、人は神の言葉から正しい、嘘のない良心のありかたを学ぶことができない。ゆえにそのような人の場合、最高によいおこないをしたとしても、それはただの罪である。食べ、飲み、眠り、目覚め、売り買いし、話し、黙り、祈り、神を称える--これらすべてが罪である。ただ習慣で、あるいは誰かの真似をして、あるいは無理強いされて、そうしているだけなのだから。それでは動物と同じであって、そこに神を思う気持ちはない。人がすべき・すべきでないことについての神の意思がわかっていない。以上の点をよく理解し、人はみな神の言葉を進んで知るように、毎日その知識を増やすように、努めなくてはならない。そうすれば、何をする場合においても神の掟が助言者となってくれるであろう(詩篇119.24)。神が闇を照らす光となって、そばにいてくれるだろう(ペテロ下1.19)。

*****
William Perkins
A Discourse of Conscience
(The Workes, 1608, STC 19649, p. 531)

Partly qtd. in Wrightson, English Society, p. 205.

*****
16世紀末~17世紀前半にかけてのベストセラー。
次のテクストと対照的。
From Shaftesbury, An Inquiry Concerning Virtue 1.1.1.

*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。

ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。

商用、盗用、悪用などはないようお願いします。


コメント ( 0 ) | Trackback (  )

From Shaftesbury, An Inquiry Concerning Virtue 1.1.1.

アントニー・アシュリー・クーパー
第三代シャフツベリー伯爵
『美徳についての考察』 1.1.1. より

宗教と美徳は多くの点で密接に関係しているので、ほとんど切り離せないセットのように思われている。わたしたちはこれらがふたつでひとつと信じているので、どちらかひとつについて話したり、考えたりすることがまずできない。だが、このような世の風潮が正しいか、精査してもいいだろう。人々が抱くこの思いこみの誤りを示す例を、わたしたちは時々、しかし間違いなく、目にするからだ。わたしたちは知っている--とても信仰に篤い・熱いように見えながら、誰でももっているはずの優しさがない人々、心のない腐った人々がいることを--逆に、神のことなどまったく気にせず、ほとんど無神論者のように思われていながら、道徳の掟にしたがって生き、いつも善意と優しさをもって人と接していて、本当にりっぱと思わずにはいられない人々がいることを。わたしたちは、実は道徳のほうが大事だと思っているので、あの人は篤く・熱く神を信じている、などと言われても、それだけでは納得せず、必ずこう訊き返す--「で、その人はいい人?」。 逆に、道徳的にりっぱで、ふつうに正しいことができて、しかも性格がいい人については、もう訊いたりしない--「で、その人は神をまじめに信じてる?」、などと。

*****
From Shaftesbury, An Inquiry Concerning Virtue 1.1.1.

RELIGION and VIRTUE appear in many respects so nearly related, that they are generally presum’d inseparable Companions. And so willing we are toShaftesbury1699: [6] believe well of their Union, that we hardly allow it just to speak, or even think of ’em apart. It may however be question’d, whether the Practice of the World, in this respect, be answerable to our Speculation. ’Tis certain that we sometimes meet with Instances which seem to make against this general Supposition. We have known People, who having the Appearance of great Zeal in Religion, have [4] yet wanted even the common Affections of Humanity, and shewn themselves extremely degenerate and corrupt. Others, again, who have paid little regard to Religion, and been consider’d as mere Atheists, have yet been observ’d to practice the Rules of Morality, and act in many Cases with such good Meaning and Affection towards Mankind, as might seem to force an Acknowledgment of their being virtuous. And, in general, we find mere moral Principles of such weight, that in our dealings with Men, we are seldom satisfy’d by the fullest Assurance given us of their Zeal in Religion, till we hear something further of their Character. If we are told, a Man is religious; we still ask, “What are his Morals?” But if we hear at first that he has honest moral Principles, and is a Man of natural Justice and good Temper, we seldom think of the other Question, “Whether he be religious and devout?”

https://oll.libertyfund.org/title/uyl-characteristicks-of-men-manners-opinions-times-vol-2

*****
18世紀の大ベストセラー。
次のテクストと対照的。
From Perkins, A Discourse of Conscience, ch. 2

今の日本にあてはまるように読み替えるなら、
「宗教」のところに「学歴」・「頭のよさ」を入れてみる。

*****
キーワード:
感受性 sensibility
広教派 latitudinarian
道徳哲学 moral philosophy
美徳 virtue

*****
学生の方など、自分の研究/発表のために上記を
参照する際には、このサイトの作者、タイトル、URL,
閲覧日など必要な事項を必ず記し、剽窃行為のないように
してください。

ウェブ上での引用などでしたら、リンクなどのみで
かまいません。

商用、盗用、悪用などはないようお願いします。


コメント ( 0 ) | Trackback (  )