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From [Burton], Divine Tragedie

[ヘンリー・バートン]
『最近上演された聖なる悲劇』

安息日を守らない者に対する神の審判例

以下に記された神の審判例は、主の日におこなっていい娯楽についての布告が出され、多くの牧師たちによって教会で広められるようになってから二年も経たないあいだにおきたことである。というのも、(火薬に火をつければあっという間に燃えあがるように、堰を破れば水が狂って流れ出すように、)不道徳な人々はこの布告を見て自由が認められたと思いこみ、狂喜乱舞してとまではいわないが、堂々と神に背くふるまいをしてきたからである。ゆえに至るところで神の怒りが下り、多くの者が破滅することになった。ここから教訓を読みとってもらえれば幸いである。

1634年
例21
ドーセットシャーのバウントンで主の日にボーリングをしていた者たちがいて、ひとりが投げたボールが他の者の耳にあたって反対の耳から血が噴き出して、その者は死んだ。殺した側の者は逃げた。

例3
ロンドン近くのエンフィールドの若い女が、娯楽推進の書によって認められたと聞いて、主の日に他の女性たちと踊りに行った。彼女はこういっていた--足で立ててるあいだは踊らなくっちゃ! こうして立ててるあいだ彼女は踊りつづけ、そして二、三日後に死んだ。


例24
昨年の春、ウスターシャーのウートンの近くの粉屋が主の日に祭の前夜祭に行き、夜中に帰ってきたら家と粉挽き小屋が燃えあがっていた。これは目撃者である牧師によって(他の牧師に対して)証言されたことである。

例(5)
1634年1月25日の主の日は氷点下の日で、14人の若い男たちがゲインズバラ近くのトレント川の氷の上でサッカーをしていた。そのするなかで大乱闘がおこり、急に氷が割れて全員溺れて死んだ。

*****
[Henry Burton]
A Divine Tragedie Lately Acted (1636)
STC 4140.7

*****
安息日の遊びを王が承認・奨励した『娯楽の書』
(The Book of Sports)に対する批判の書。
17世紀イギリス版やらせ・虚偽報道(fake news)。
1636年に匿名出版。42年に名前・肖像画入りで出版。

(参考)
37年 耳削ぎの刑(その他の出版物や説教などのため)
41年 庶民院の断食礼拝にて説教
(この説教は出版されたが「議会の指示により出版」の記載なし)

バートンはいわゆるピューリタン。聖書における戒律の
厳守を主張する。黙示録などから導かれる千年王国思想も信奉。

*****
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From Montagu, A New Gagg for an Old Goose

リチャード・モンタギュー
『ガーガーうるさいガチョウじじいを黙らせる本』

わたしたちを黙らせようとするあのじじいがつくった
プロテスタントの誤った考え一覧。つまりただの嘘。
……………
XVI.
アダムの堕落によってわたしたちは自由意志を失った。わたしたちは善も悪も選ぶことができない。

……イングランド国教会は、第10条で次のように述べている--「アダムの堕落以降、人は生まれもった自分の力で、または善いおこないをすることで、信仰に向かうことができないようになっている。だからわたしたちには善いおこない、神が望み喜ぶようなおこないをする力がない。ただ、善い意志・善いおこないをもたらす神の恩寵がキリストによって事前に与えられた時のみ、その善い意志をもつことができる」。ここにおいて人は二面を持つものとされている。すなわち人は、生まれつき悪であると同時に、善を回復した存在でもある。まず生まれつき悪であるがゆえに、人は、自分の自由な意志により、もともと堕落前にしていたような道徳的で正しいおこないをすることができない。しかし同時に人には自由な意志が与えられる。他でもない善い意志を抱いた時にである。自由な意志により、恩寵の助けにより、人は最終的な救済を自分で自分にもたらすことができるのである。

*****
Richard Montagu
From A New Gagg for an Old Goose (1624)
STC 18038
p.108

*****
自由意志を認めないカルヴァン派(ジェイムズ1世治世の国教会
主流派?)に対して、自由意志を認めるアルミニウス派の
著作として大問題を引きおこした著作。最終的にはジェイムズ本人の
調査により、異端でないと認定。

*****
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From Allen, A Faithful Memorial of That Remarkable Meeting

ウィリアム・アレン
『1648年ウィンザー城で開かれた決定的な軍幹部会議の正確な記録』より

それでわたしたちはウィンザー城に集まることにした。48年のはじめ頃であった。そこで一日中神に祈り、神からご好意がいただけない原因は何なのかを考えた。その日は特に答えは出なかった。ただ、答えを探し続けなくては、ということになった。その翌日も再び朝から集まり、みなで聖書の言葉を語り、そして祈った。その後、中将のクロムウェルがその場にいた者すべてに対し、とても真剣にいった--軍としてのわたしたちがしてきたことについてふり返ってみよう--キリストを信仰する個人としてよく考えよう--自分たちのうちに何か不正な点はないか、あるとしたらそれは何か、よく考えて、そして可能ならそれを突きとめよう--悲しいことだがわたしたちは正しくないがゆえに神に糾弾されている(その時わたしたちは確かにそう思っていた)--その原因を取り除こう。こうして、さらに具体的にいえば、主のお導きによりその日のわたしたちは、みなが心の底から、主がわたしたちとともにいる、主に糾弾されていない、裁かれていない、といえた最後の日はいつであったか、ふり返ることにした。主のお導きにより、わたしたちはみなでこれに取り組むことにした。……そしてまた翌日に集まることにした。

翌日集まったわたしたちは、前日の議論のつづけ、過去のおこないについてふり返った。そのなかでわたしたちは、お恵み深い神の手によって(全員一致して)思い出した、主から離れてしまった時のこと、むしろ主を怒らせてわたしたちから立ち去らせてしまった時のことを。それは、俗的な、清らかでない、呪われた、あの話しあいと決定をした時であった。わたしたち自身の知恵に頼り、恐怖心に駆られ、そして信仰が足りなかったがゆえに、その一年前にわたしたちは、王および彼に従う者たちと交渉してしまっていたのだった。

まさにこの時、ゴフ大佐(確か大佐だったと思う)があのありがたい言葉、箴言1.23--「わたしの戒めに心をとめよ」--を口にした。みずからの罪を悟っていたわたしたちに対してこういったのだ。この時の大佐の魂には主が宿っていたので、その場にいたわたしたちの多くの心に、大佐の言葉は主の言葉のように響いた。この言葉を聞き、わたしたちはひどく動揺し、恥じ、正しくない自分を心から憎んだ。そんなわたしたちを主が糾弾するのはまったく正しいことだと思った。主はわたしたちにみずからの罪を教えてくださった。のみならずどうすべきであったかも教えてくださった。こうしてみなの心は重くなり、互いに言葉をかけることすらほとんどできない状態だった。ひどく泣いていたからである。正しいことをしてこなかったこと、神を信じず、卑しくも主より人を恐れ、目先の損得で動いてきたことが恥ずかしくてたまらなかった。自分たち人間の知恵ではなく主の言葉に従うべきであった。主の言葉こそ知恵と力と平和への道なのだから。主の言葉以外はみな罠の道なのだから。……

しかし、恐れおののき震えることはよいことでもあった。わたしたちは神に感謝していた。わかったからである。主はまだ愛と優しさをわたしたちに与えてくださっているということが。……主は足下にわたしたちを呼び寄せてくださると……すぐに向かうべき方向を教えてくださった。主に導かれてわたしたちの意見は一致した。誰にも異論はなかった。わたしたちがすべきなのは、全軍を集結して……あの強力な敵と戦うことであると。へりくだりつつも主の名の下に敵を壊滅させなくてはならないと。

また、その後さらに祈り、主の顔を求めた後にわたしたちははっきりと、全員一致で決意した。……もし主が再び平和をわたしたちに与えてくださった暁には、あの血に飢えた男チャールズ・スチュアートの責任を必ず問わなくてはならない、と。あの男が流してきた人々の血に対して、主やこの哀れな国の人々を無視してあの男がしたい放題してきた悪事に対して、責任をとらせなくてはならない、と。

*****
William Allen
From A Faithful Memorial of That Remarkable Meeting of Many Officers of the Army in England, at Windsor Castle, in the Year 1648 (1659)
Wing A1052
pp. 3-5

*****
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Putney, 1647: "That Man of Blood. . . "

「あの血に飢えた男……」
軍幹部会議
パトニー、1647年11月1日

ビショップ隊長:
一言いわせてください、手短に。心のなかでいろいろ考えました。なぜわたしたちの意見がバラバラで、どうしていいかわからなくなってしまっているのでしょう? 死にかけたこの国をかつてのように立て直すことができなくなってしまっているのはなぜでしょう? わたしが見つけた答えは次のとおりです。わたし以外にもこう思っている人は少なくないと思います。特に、神を信じる人ならば。誰とはいいません、が、あの血に飢えた男への対応が甘く、まだ彼を生かしてしまっているから、絶対的な暴政の源を断ち切っていないから、駄目なんだと思います。神様はわたしたちにこれまで勝利を与えてきてくださいました。明らかに神様はあの男を敵視しているはずです。なのに彼を生かしておく、となれば当然わたしたちも破滅することになるでしょう。以上、神様がわたしの魂に語ってくださることをあえていわせていただきました。今後のこの国について神様がわたしたちひとりひとりに何を語っているか、ということだったかと思いますので。

*****
"That Man of Blood. . . "
The General Council of the Army
Putney, 1st November 1647

Captain Bishop:
I shall desire to speak one word, and that briefly. After many inquiries in my spirit what’s the reason that we are distracted in counsel, and that we cannot, as formerly, preserve the kingdom from that dying condition in which it is, I find this answer, the answer which is [vouchsafed] to many Christians besides, amongst us. I say [it] not in respect of any particular persons, [but] I say [that the reason is] a compliance to preserve that man of blood, and those principles of tyranny, which God from heaven by his many successes [given] hath manifestly declared against, and which, I am confident, may [yet] be our destruction [if they be preserved]. I only speak this [as] what is upon my spirit, because I see you are upon inquiry what God hath given in to any one, which may tend to the preservation of the kingdom.

http://oll.libertyfund.org/titles/woodhouse-puritanism-and-liberty-being-the-army-debates-1647-9

*****
王チャールズ1世の処刑を神が望んでいる、という議論。

Cf. 創世記 9:5-6
あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。

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From Arrowsmith, The Covenant-Avenging Svvord

ジョン・アロウスミス
『契約違反者の首に剣を』

……人が頭と口と暮らしから神を追放すれば、もちろん神もその人から健康と生活の安定を追放するでしょう。そのような正当な報復の例は聖書の至るところに見られます。「彼らは神でもない者をもって、わたしにねたみを起させ、偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、彼らにねたみを起させ、愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう」(申命32:22)。「しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、わたしは、あなたがたをつるぎに渡すことに定めた」(イザヤ65.11-12)。……主はいつも最初は優しく罰しますが、二回目からはどんどん厳しくなります。薬を塗って駄目なら串刺しにするしかないのです。あるいは八つ裂きにするとか。鞭でいうことを聞かないなら、次は蠍(さそり)の刑なのです(列王上12.11、エレミア28.12-13)。木のくびきで駄目なら鉄のくびきをかけるしかないのです。

以上、神の裁きについて語られていることを確認しました。一貫しています。そこで聖書の問題の箇所について考えてみたいと思います。「わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ、違約の恨みを報いるであろう」(レビ26.25)。

この一節をしっかり理解していただくために、立派で敬虔な議員の皆様方にはわたしの話をよくよくお聞きいただければと思います。わたしは次の三つの点にについてお話します。

1. 戦争とは神ご自身の裁きによってもたらされるものです。「わたしはあなたがたの上につるぎを臨ませ」とあるように。

2. 戦争とは罰です。「恨みを報いる」ものです。

3. 戦争が恨みを報いるのは、神との契約に対してなんらかの違反があったです。それは「違約の恨みを報いる」のです。

この最初の点については、聖書があちこちで証明しています。「あなたがたはつるぎを恐れた。わたしはあなたがたにつるぎを臨ませると、主は言われる」(エゼキエル11.8)。「つるぎに命じて、これを殺させる」のは神です(アモス9.4)。「つるぎよ、この地を行きめぐれ」と命じるのは神なのです(エゼキエル14.17)。戦争は神の命令によっておこるのです。「主のつるぎよ、おまえはいつになれば静かになるのか。おまえのさやに帰り、休んで静かにしておれ。主がこれに命を下されたのだ、どうして静かにしておれようか。アシケロンと海岸の地を攻めることを定められたのだ」(エレミア47の終わり)。……

ここからどのようなことがいえるのか、考えてみましょう。もし戦争をもたらすのが神であるならば--

まず、それがすべて神の思いどおりであるということになります。みずからもたらした戦争を制御できないというような不名誉は神にはありえません。……ダヴィデがゴリアテにいうように、「この戦いは主の戦い」なのであって(サムエル上17.47)、最初から最後まで神が掌握しているのです。兵を招集するのは神です。「万軍の主が戦いのために軍勢を集められる」(イザヤ13.4)。武器を発注するのも神です。「主は武器の倉を開いてその怒りの武器を取り出された。主なる万軍の神が、カルデヤびとの地に事を行われるからである」(エレミア50.25)。武器があたるあたらないを決めるのも神です。「すべてあなたを攻めるために造られる武器は、その目的を達しない」(イザヤ54最後)。「彼らの矢はむなしく帰らない老練な勇士のようである」(エレミア50.9)。一方を強くし、他方の軍を弱くするのも神です。「わたしはバビロンの王の腕を強くし、わたしのつるぎを、その手に与える。しかしわたしはパロの腕を折るゆえ、彼は深手を負った者のように、彼の前にうめく 」(エゼキエル30.24)。

第二に、神には戦争を鎮める力もあります。神は自分がもたらしたものを取り去ることもできるのです。サタンやエジプトに生きた彼の魔法使いたちは疫病をもたらすだけもたらしてそれを取り除くことができませんでしたが、神は彼らとは違います。……神は狂乱の戦火を燃えあがらせることができるとともに、それを消すこともできるのです。「来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる」(詩篇46.8-9)。

第三に、だから、神を信じるのであれば、燃えさかる戦争の炎のさなかにあっても、なんらかの幸せがあることに期待しましょう。神がもたらすものはみな、最終的に善に向かっているのですから。……神の剣はいつも鋭く砥がれていて、そして油に濡れています。常にキリストに従う人に対するご慈悲という油に。キリストは「主の軍勢の将」であるとともに、「救の君」なのですから(ヨシュア5最後、ヘブル2.10)。……負けた場合でも同じです。剣によって倒れるということは、試練を与えられること、清められること、白くなることなのです(ダニエル11.33,35)。捕虜になっても大丈夫です。エレミアがいうように、主は「この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を……この良いいちじくのように顧みて恵」みました(エレミア24.5)。殺されてしまっても大丈夫です。ヨシア王のように戦死しても、その死は安らかでしょう(列王下23.29, 22.20)。

第四に、だから戦争の時、わたしたちはこの世の二次的なできごとの向こうにある神の手を見なければなりません。どこに向かって飛ぶ弾丸であっても、それは神が定めた相手に当たるのです。どこからふりおろされた剣であっても、それは天の怒りに浸されて酔っているのです(イザヤ34.5)。……

先の第二の点については以下のとおりです。

剣は復讐のためにあります。神が剣を抜く時、それはいつも神が怒っている時です。聖書と歴史を見てください。「わたしがきらめくつるぎをとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは敵にあだを返し、わたしを憎む者に報復するであろう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」(申命32.41-42)。「その日は万軍の神、主の日であって、主があだを報いられる日、その敵にあだをかえされる日だ。つるぎは食べて飽き、彼らの血に酔う」(エレミア46.10)。

*****
John Arrowsmith
The Covenant-Avenging Svvord Brandished (1643)
Wing A3773
pp.3-7

https://ja.wikisource.org/wiki/口語旧約聖書
https://ja.wikisource.org/wiki/口語新約聖書

*****
1643年1月25日の断食礼拝の際に議会でおこなわれた説教。
王との戦闘を正当化するもの。

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Gray, "Elegy Written in a Country Churchyard"

トマス・グレイ
「エレジー--田舎の教会墓地にて--」

夜の鐘が去りゆく日を告げ、
牛の群れが鳴きながら、ゆっくり牧場を歩いてゆく。
農夫も疲れた足どりで家に向かい、
闇のなか、ぼくだけが残る。

ぼんやりしていた景色も消え、
空気が厳かに静まってゆく。
聞こえるのは、かぶと虫が飛ぶ音と、
遠くの羊の鈴の音、

それから蔦につつまれた塔の
ふくろうが、月に向かって半分無意識に愚痴をこぼす声--
だれか、秘密の部屋近くにさまよいこんできて、
いにしえからの孤独な支配を邪魔しているらしい。

ギザギザに茂る楡(にれ)の木の下、櫟(いちい)の陰で、
芝生が腐(く)ちつつ、あちこちでもりあがっている。
それは、それぞれ、ひとりずつ、
村人たちの名もない祖先が眠る墓。

いい香りで朝のそよ風が呼びにきても、
つばめが藁(わら)の巣でさえずっていても、
にわとりの声がトランペットのように甲高く鳴り、
ホルンのように響きわたっても、
土のベッドで彼らが目ざめることはない。

彼らのために台所に火がともることも、
妻が夜、忙しく家のことをすることも、
小さなこどもたちがドアまで走って迎えに来ることも、
膝にのぼってキスをせがむことも、もはやない。

かつて彼らの鎌は麦を刈った。
かたい大地に畝をつくった。
元気に楽しく、くびきの牛たちに犂を曳かせた。
力強く斧で木を切り倒した。

人の上に立ちたがる者よ、馬鹿にしてはいけない、
彼らの労働、ささやかな幸せ、人知れず生きる境遇を。
権力ある者よ、嘲笑してはいけない、
貧しい者たちの短く、変化のない日々を。

名家の出でも、権力者として豪奢にくらしていても、
みな同じこと。美しいものすべて、富で買えるものすべてが、
みな等しく運命の時を迎える。
栄光の道はみな墓へとつづく。

傲慢な者よ、貧しい者をあざけってはいけない、
思い出の品々で墓が飾られていなくても。
大きな教会のなか、彫刻で飾られたドームに讃美歌が
高らかに鳴り響く、その脇でひっそり眠る彼らを。

そもそも物語を刻んだ墓、生きているかのような胸像が、
消えた命をからだに呼び戻すことができるというのか?
土に帰ったからだがほめたたえたら動き出す、
死んで冷たくなった耳がお世辞を聞いてうれしがる、とでも?

ここで人知れず眠る者たちも、
かつて天の炎を心に宿していたかもしれない。
天下をとる手腕をもっていたかもしれない。
リラを聴いて目ざめ、心は天に昇っていたかもしれない。

でも、〈時〉が人から奪って集めてきた
知識が彼らの目にふれることはなかった。
貧困の寒さのなか、気高く燃える心を抑えるしかなかった。
熱い魂の流れを凍らせるしかなかった。

たとえば、数えきれないほど宝石が澄んだ光を放っているはず、
はてしなく暗く深い海の底の洞穴で。
数えきれないほどの花が、どこかで恥ずかしげに咲いているはず。
誰にも見られず、無駄に美しく散っていっているはず。

かつて、誰かハムデンのような者がいて、村のけちな暴君に
対して勇敢に抵抗していたかもしれない。
ミルトンのような詩人がここで人知れず眠っているかもしれない。
クロムウェルのようで、しかも戦いをもたらさなかった者も。

議会で演説し喝采を浴びたり、
拷問や死を恐れず主義を貫いたり、
国に富をもたらして人々を笑顔にしたり、
国の歴史を国民に語ったり、

そんな運命に彼らはなかった。が、そんな制約をこえて
彼らの美徳は大きく育った。彼らは罪を犯したりしなかった。
血の川を渡って王位をとろうとしなかった。
人へのやさしさにあふれていた。

正しいことを言えない心苦しさを隠せなかった。
恥を知る顔の赤らみを消せなかった。
〈富〉と〈名声〉の神殿に
詩神の炎で焚いた香を捧げたりしなかった。

怒り狂う群衆のくだらない争いにはかかわらず、
度をこえた願いを抱くこともなかった。
涼しく人里離れた谷にいるかのように
彼らは静かに生きていた。

そんな無名な彼らの骨を侮辱から守るべく、
近くに小さな墓碑が立っている。
上手とは言えない詩と装飾で、通りすがりに
ため息ひとつだけでも供えてあげて、と訴えている。

字も読めない詩神がつづった名前と年齢、
それがせめてもの彼らへの賛辞、弔いの歌。
まわりには聖書の言葉がたくさん刻まれ、
田舎のまじめな人たちに天国の幸せを語る。

もの言わぬ〈忘却〉の餌食になりたい人などいない、
不安ばかりでも楽しい生を棄て。
陽気であたたかい日の世界から去りながら、
寂しげにじっと後ろをふり返らない人などいない。

去りゆく魂も誰かのやさしさを求めている。
閉じゆく目も身近な誰かの涙を求めている。
墓からも愛を求める叫びが聞こえる。
灰になっても彼らの命は燃えている。

とるに足らない死者に思いをめぐらし、
平凡な彼らの生をこの詩に歌うぼくだって同じこと。
誰か似たような人がもの思いにふけりつつ、
ふとぼくがどうなったか聞いたなら、

頭の白い農夫か誰かがこんな話をするかもしれない。
「ああ、あれか、朝日がちょこっと顔を出す頃よく見たな。
朝露を蹴とばしながら急ぎ足で
高台にのぼっておった。太陽を見にな。

それから、そこの頭を垂れとるぶなのとこ、
古い根が地面の上で器用にからみあってるとこでな、
ちょうど昼頃かの、もう無理ってなくらいまで背伸びしてな、
さらさら流れる小川をじーっと見とった。

それから、あそこの森のすぐそばでな、にやにやしながら
なんか思いついたことをぶつぶつ言ってうろうろしてたな。
時々うなだれて、悲しげに真っ青になって、見棄てられたか、
不安でどうかしたか、かなわぬ恋に破れたか、そんな感じだったな。

ある朝、いつもの丘におらんくてな。
原っぱにも、お気に入りの木のそばにもな。
次の日も同じだった。小川にも、
高台にも、森にもおらんかった。

その次の日、別れの歌を歌いながら喪服の人たちが
来てな、ゆっくりあれを教会に運んでった。
ほれ、読んでみ、字、読めるよな? そこの
枯れかけた茨の下の石に何か歌が書かれとるから。」

(墓碑銘)
ここ、母なる大地の膝に眠る若者は、
富にも名声にも縁がなかった。
が、美しい〈知識〉は貧しい生まれの彼を拒まなかった。
〈もの思い〉も彼を仲間に入れた。

彼は大きな善意と嘘のない心をもち、
天はそれに見あう褒美を与えた。
貧しい人には与えられるすべてのもの--涙--を与え、
友だちを得た。彼が望んだのはそれだけだった。

これ以上、彼の長所を語るのはやめよう。
短所を引きずり出すのもやめよう。
それらはみな、畏れつつ、望みつつ、待っている、
父なる神の胸で。

* * *
Thomas Gray
"Elegy Written in a Country Churchyard"

The curfew tolls the knell of parting day,
The lowing herd wind slowly o'er the lea,
The ploughman homeward plods his weary way,
And leaves the world to darkness and to me.

Now fades the glimmering landscape on the sight,
And all the air a solemn stillness holds,
Save where the beetle wheels his droning flight,
And drowsy tinklings lull the distant folds;

Save that from yonder ivy-mantled tower
The moping owl does to the moon complain
Of such, as wandering near her secret bower,
Molest her ancient solitary reign.

Beneath those rugged elms, that yew-tree's shade,
Where heaves the turf in many a mouldering heap,
Each in his narrow cell for ever laid,
The rude forefathers of the hamlet sleep.

The breezy call of incense-breathing morn,
The swallow twittering from the straw-built shed,
The cock's shrill clarion, or the echoing horn,
No more shall rouse them from their lowly bed.

For them no more the blazing hearth shall burn,
Or busy housewife ply her evening care:
No children run to lisp their sire's return,
Or climb his knees the envied kiss to share.

Oft did the harvest to their sickle yield,
Their furrow oft the stubborn glebe has broke;
How jocund did they drive their team afield!
How bowed the woods beneath their sturdy stroke!

Let not Ambition mock their useful toil,
Their homely joys, and destiny obscure;
Nor Grandeur hear with a disdainful smile,
The short and simple annals of the poor.

The boast of heraldry, the pomp of power,
And all that beauty, all that wealth e'er gave,
Awaits alike the inevitable hour.
The paths of glory lead but to the grave.

Nor you, ye Proud, impute to these the fault,
If Memory o'er their tomb no trophies raise,
Where through the long-drawn aisle and fretted vault
The pealing anthem swells the note of praise.

Can storied urn or animated bust
Back to its mansion call the fleeting breath?
Can Honour's voice provoke the silent dust,
Or Flattery soothe the dull cold ear of Death?

Perhaps in this neglected spot is laid
Some heart once pregnant with celestial fire;
Hands that the rod of empire might have swayed,
Or waked to ecstasy the living lyre.

But Knowledge to their eyes her ample page
Rich with the spoils of time did ne'er unroll;
Chill Penury repressed their noble rage,
And froze the genial current of the soul.

Full many a gem of purest ray serene,
The dark unfathomed caves of ocean bear:
Full many a flower is born to blush unseen,
And waste its sweetness on the desert air.

Some village-Hampden, that with dauntless breast
The little tyrant of his fields withstood;
Some mute inglorious Milton here may rest,
Some Cromwell guiltless of his country's blood.

The applause of listening senates to command,
The threats of pain and ruin to despise,
To scatter plenty o'er a smiling land,
And read their history in a nation's eyes,

Their lot forbade: nor circumscribed alone
Their growing virtues, but their crimes confined;
Forbade to wade through slaughter to a throne,
And shut the gates of mercy on mankind,

The struggling pangs of conscious truth to hide,
To quench the blushes of ingenuous shame,
Or heap the shrine of Luxury and Pride
With incense kindled at the Muse's flame.

Far from the madding crowd's ignoble strife,
Their sober wishes never learned to stray;
Along the cool sequestered vale of life
They kept the noiseless tenor of their way.

Yet even these bones from insult to protect
Some frail memorial still erected nigh,
With uncouth rhymes and shapeless sculpture decked,
Implores the passing tribute of a sigh.

Their name, their years, spelt by the unlettered muse,
The place of fame and elegy supply:
And many a holy text around she strews,
That teach the rustic moralist to die.

For who to dumb Forgetfulness a prey,
This pleasing anxious being e'er resigned,
Left the warm precincts of the cheerful day,
Nor cast one longing lingering look behind?

On some fond breast the parting soul relies,
Some pious drops the closing eye requires;
Ev'n from the tomb the voice of nature cries,
Ev'n in our ashes live their wonted fires.

For thee, who mindful of the unhonoured dead
Dost in these lines their artless tale relate;
If chance, by lonely Contemplation led,
Some kindred spirit shall inquire thy fate,

Haply some hoary-headed swain may say,
'Oft have we seen him at the peep of dawn
'Brushing with hasty steps the dews away
'To meet the sun upon the upland lawn.

'There at the foot of yonder nodding beech
'That wreathes its old fantastic roots so high,
'His listless length at noontide would he stretch,
'And pore upon the brook that babbles by.

'Hard by yon wood, now smiling as in scorn,
'Muttering his wayward fancies he would rove,
'Now drooping, woeful wan, like one forlorn,
'Or crazed with care, or crossed in hopeless love.

'One morn I missed him on the customed hill,
'Along the heath and near his favourite tree;
'Another came; nor yet beside the rill,
'Nor up the lawn, nor at the wood was he;

'The next with dirges due in sad array
'Slow through the church-way path we saw him borne.
'Approach and read (for thou can'st read) the lay,
'Graved on the stone beneath yon aged thorn.'

The Epitaph
Here rests his head upon the lap of earth
A youth to fortune and to fame unknown.
Fair Science frowned not on his humble birth,
And Melancholy marked him for her own.

Large was his bounty, and his soul sincere,
Heaven did a recompense as largely send:
He gave to Misery all he had, a tear,
He gained from Heaven ('twas all he wished) a friend.

No farther seek his merits to disclose,
Or draw his frailties from their dread abode,
(There they alike in trembling hope repose)
The bosom of his Father and his God.

http://www.thomasgray.org/cgi-bin/display.cgi?text=elcc

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キーワード:
幸せな人 beatus ille
心の安らぎ ataraxia
ホラティウス Horace
メメント・モリ memento mori
この世に対する侮蔑 contemptus mundi
感受性 sensibility

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20171215 修正
20180605 修正

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From Marshall, The Song of Moses

スティーヴン・マーシャル
『モーセの歌』より

七つの杯から注がれるのは反キリスト一派に対する神の怒りです。神の怒りが注がれるのは反キリスト的なものがあるところだけで、これをキリストは探し、見つけ、そして見つけたら必ず破壊するのです。神の杯がなしとげるといわれていることをよく見てください。ひどい痛み・苦しみに襲われているのは獣のしるしを身につけた者たちだけですから。そのような者だけが血を飲まされ、熱に焼かれ焦がされ、痛みに歯ぎしりし、雹(雹)に打ち砕かれるのです。こんな目にあうのは獣に従う者、獣を崇拝する者、獣の王国の国民だけなのです。だから恐れなくても大丈夫です。今キリストが与えている裁きによって断罪されることはありません。反キリストのために戦う武器をこっそり、あるいは堂々ともっているのでないかぎりは。そのような武器はみな破壊しなくてはなりません。お願いします。まず第一に、すぐに、あの遺物すべてを、今わたしたちのあいだで燃える炎の油・燃料となっているものすべてを、この国から、この国の教会から、排除してください。これこそ神があなたがたに与えた仕事です。心をこめてとりくめば神がともにいてくださるでしょう。すぐにとりかかってください。おそらく、この遺物が原因となってあなたがた議員のあいだに無数の亀裂が生じ、対立してしまっているのです。そもそもこれらの対立を解消する努力が足りなかったのです。ある党派の者たちが議会を去ることになろうとも、また彼らがあなたがたに強く敵対しようとも、恐れる必要はありません。いいですか、その党派とはバビロンの娼婦の杯から酒を飲んだ者たちなのです。バビロンの娼婦を愛し、そして忌まわしき淫らな行為に耽っている者たちなのです。そのような者たちは役に立ちません。そのような者たちに邪魔されぬよう、キリストがあなたがたの仕事を守ってくれるはずです。そのような者たちはおそらく、いえ確実に、自滅していくことでしょう。この書[ヨハネの黙示録]に記されたとおりの呪いをみずからの上に、また彼らの子孫の上に、もたらすことでしょう。バビロンの服と金の延べ棒をテントに隠していたアカンのようにです。主はあなたがたの味方です。自信をもって進み、勝利を収めてください。

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Stephen Marshall
From The Song of Moses (1643)

[A]ll which is done in the pouring out of the seven vialls, is the wrath of God upon the Antichristian faction . . . there is no wrath upon any where ever it is poured, but onely as there is something of Antichrist among them, which Christ will search for, find, and destroy, where-ever he finds it: Consider the whole work of the vialls, and you shall finde noysome and grievous sores upon them onely that have the mark of the Beast, the drinking of bloud, the scorching with heat, the gnawing of their tongues for paine, the being destroyed with hailstones, &c. All these light onely upon the followers of the Beast, the worshipers of the Beast, the kingdome of the Beast, & therefore let none feare any hurt frõ these judgments which Christ is now inflicting, but such as either secretly or openly harbour any of Antichrists acursed stuff which must be destroyed; & let it be I beseech you, your speedy care to cast out of this Nation and Church all those reliques, which are the oyl and fuel that feed the flame which burnes amongst us: God calls you now to this work, and will be with you while you set your hearts and hands to doe it; and doe it speedily, it may be it is one Cause, why so many breaches are made upon you, because you have no more vigorously attempted it in the first place; and fear not that ye should therby lose a party, or strengthen a party against you, beleeve it, that party that hath drunk of the whores cup, and is in love with her abominations, will never be assistant, nor wil Christ suffer them to overthrow the worke committed to your hands; they may and shall destroy themselves, bringing the curses written in this book upon themselves, and their posteritie, as Achan did by hiding the Babylonish garment and wedg of gold in his tent, but the Lord will be with you, therefore go on and prosper. (7-8)

*****
内乱初期における議会への説教。黙示録にもとづく
終末論を実際の社会の分析に応用。国教会(やその長チャールズ1世)
を反キリスト・獣、つまりローマ・カトリック側の勢力と解釈し、
その討伐を(あいまいな言葉で)推進・扇動する。

「モーセの歌」はヨハネの黙示録15.3-4にある。
アカンについてはヨシュア記7参照。

このような説教をして内乱を扇動しつつ、内乱末期には
チャールズの擁護にまわる。それゆえミルトンのような
軍の支持者たちからは裏切り者と非難される。

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From "Homily against Excess of Apparel"

「華美な衣服・装飾について」(部分)
『説教の書』より

女は夫に従っていればいい、必要な服を着ていればいい--こうテルトゥリアヌスはいいました。アレクサンドリアの哲学者フィロンの妻は、どうして金を身につけないのかと訊かれてこう答えました--立派な夫がわたしを十分飾ってくれています。なのに、神様の言葉によって教育されたキリスト教徒の女性たちが夫をもって満足できないというのはどういうことなのですか? そもそもキリスト教徒であれば誰だって、天国から来てくださった救い主キリスト様の知恵と力という十分以上のものをを身にまとっているのでしょう?

愚かでおしゃれ好きで好みにうるさい女性はこういうでしょう--顔を塗ったり髪を染めたり体に香りをつけたりきれいに着飾ったりしているのは夫のため、夫にきれいと思われたいから、夫に愛されつづけたいから、と。ああ、馬鹿な言い訳です。恥ずかしい。夫に対して失礼です。だって、悪魔にもらった服を見て嬉しがるだなんて、わたしの夫は馬鹿です、といっているようなものではありませんか! 顔を塗って髪を巻いて、そして変な色をつけるなんて、創ってくださった神様に文句をいうのと同じです。一定の美しさを与えてくれた神様よりも上手にきれいに自分を創れるとでも? 外見にこだわる女性は、神様がお創りになったものを創り直そうとしているのです。あるがままのもの、自然の状態のものすべてが神様の作品です。不自然なもの、見かけを変えられたものがあるとしたら、それは悪魔の仕業なのです。そんな化粧だらけの派手な顔を見て、キリスト様を信じる賢い夫が喜ぶわけないではありませんか。化粧など、誰とでも寝る娼婦のような女がすることです。こうして男たちを悪へと引きずりこむのです。夫のためであれば、まじめな女性でも娼婦と同じことをしてよいのでしょうか? ありえません。夫のため、というのは見え透いた嘘、ただの言い訳にすぎません。そういう女性は夫以外の男たちの気を惹きたいだけなのです。きれいに装えば外に出たくなる、男たちに声をかけてほしくなる、そういうものなのです。……

ソロモンは着飾った愚かな女性についていいました--どれほど美しくても生活が乱れていておこないが悪ければ、金の鼻輪をつけた豚と変わらない、と(箴言11.12)。つまり、金々きらきらに見かけを飾れば飾るほど、そのような装いで心は美しくなるどころかますます醜くゆがんでいくのです。聞きましょう、キリスト様の神聖なる使徒たちがおっしゃることを。これは聖ペテロの言葉です--女は髪を結んだり金色のきれいな服を着たりしてはいけない--むしろ心を、目に見えない良心を、清らかに美しく保たなくてはならない--それこそが神様へのいちばんの捧げものである--いにしえの立派な女たちは金など身につけず、そして夫のいうことをよく守った(ペテロ3.3-5)。

そしてこれが聖パウロの言葉です--女は落ちつきと恥じらいを身にまとっていればいい--髪のリボンや金や真珠や高価な服などいらない--目に見えるよいおこないで心の正しさをあらわせばいい(テモテ人上2.9-10)。偉い使徒たちの言葉に従うのは難しいですか? でしたら、せめてキリスト様のことを知らない異教徒の言葉を聞いてください。デモクラテスはいいました--女を飾るのは口数と華美な衣装の少なさである。そんな服についてソポクレスもいっています--愚かな女よ、それは装飾になっていない、おまえが恥知らずな馬鹿であることを示しているだけだ。ソクラテスの言葉はこうです--まじめであることがわかるような服が女のいちばんの装いである。以上のようなことをギリシャ人はことわざであらわしました--金や真珠で女は美しくならない、まじめな女が美しい。

アリストテレスもいいました--女の衣装は法で許されているよりも少ないほうがいい--衣服のかわいらしさ、外見の美しさ、たくさんの金があっても女の評価は上がらない。むしろ控えめな心、いつもまじめに生きる姿勢が大事である。

*****
"Homily against Excess of Apparel" (part)
From The Book of Homilies

Let women be subiect to their husbands, and they are sufficiently attired, sayth Tertullian. The wife of one Philo an heathen Philosopher, being demanded why she ware no gold: she answered, that she thought her husbands vertues sufficient ornaments. How much more ought Christian women, instructed by the word of GOD, to content themselues in their husbands? yea, how much more ought euery Christian to content himselfe in our Sauiour Christ, thinking himselfe sufficiently garnished with his heauenly vertues.

But it wil be here obiected & sayd of some nice & vaine women, that al which we do in painting our faces, in dying our haire, in embalming our bodies, in decking vs with gay apparell, is to please our husbands, to delight his eyes, and to retayne his loue towards vs. O vaine excuse, and most shamefull answer, to the reproch of thy husband. What couldst thou more say to set out his foolishnesse, then to charge him to bee pleased and delighted with the Diuels tire? Who can paint her face and curle her hayre, and change it into an vnnaturall colour, but therein doeth worke reproofe to her maker, who made her? As though shee could make her selfe more comely then GOD hath appointed the measure of her beauty. What doe these women, but goe about to reforme that which GOD hath made? not knowing that all things naturall are the worke of GOD, and things disguised and vnnaturall be the workes of the Diuell. And as though a wise and Christian husband should delight to see his wife in such painted and flourished visages, which common harlots most doe vse, to traine therewith their louers to naughtinesse, or as though an honest woman could delight to be like an harlot for pleasing of her husband. Nay, nay, these be but vaine excuses of such as go about to please rather others then their husbands. And such attires be but to prouoke her to shew her selfe abroad, to entice others. . . .

What meant Solomon to say, of such trimming of vaine women, when hee sayd, A faire woman without good manners and conditions is like a Sowe which hath a ring of golde vpon her snout (Proverbs 11.22)? but that the more thou garnish thy selfe with these outward blasinges, the lesse thou carest for the inward garnishing of thy minde, and so doest but deforme thy selfe by such aray, and not beautifie thy selfe?

Heare, heare, what Christes holy Apostles doe write, Let not the outward apparell of women (saith Saint Peter) bee decked with the brayding of haire, with wrapping on of golde, or goodly clothing: but let the minde, and the conscience, which is not seene with the eyes, be pure and cleane, that is, sayth hee, an acceptable and an excellent thing before GOD. For so the olde ancient holy women attired themselues, and were obedient to their husbands (1 Peter 3.3-5).

And Saint Paul saith, that women should apparell themselues with shamefastnesse and sobernesse, and not with braydes of their haire, or gold, or pearle, or precious clothes, but as women should doe which will expresse godlinesse by their good outward workes (1 Timothy 2.9-10). If ye will not keepe the Apostles preceptes, at the least let vs heare what pagans, which were ignorant of Christ, haue sayde in this matter. Democrates saith, The ornament of a woman, standeth in scarcitie of speach and apparell. Sophocles saith of such apparell thus, It is not an ornament, O thou foole, but a shame and a manifest shew of thy folly. Socrates saith, that that is a garnishing to a woman, which declareth out her honestie. The Grecians vse it in a prouerbe: It is not gold or pearle which is a beauty to a woman, but good conditions.

And Aristotle biddeth that a woman should vse lesse apparell then the lawe doth suffer. For it is not the goodlinesse of apparell, nor the excellencie of beautie, nor the abundance of gold, that maketh a woman to bee esteemed, but modestie, and diligence to liue honestly in all things.

http://www.anglicanlibrary.org/homilies/bk2hom06.htm

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