真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「ドキュメントポルノ 女 ひも 紐」(昭和48/製作:プリマ企画株式会社/監督:山本晋也/構成:池田正一・代々木忠/制作:藤村政治/企画:渡辺忠/撮影監督:久我剛/撮影:田中俊二・鶴岡吾助/照明:近藤兼太郎/音楽:多摩住人/効果:秋山サウンド・プロ/編集:中島照夫/助監督:安部峯昭/制作:大西良夫/監督助手:石井正信/現像所:東洋現像所/録音所:大久保スタジオ/挿入曲:Creasy Heart 《曲》倒錯者・デビル・僕のカトリセンコウ/協力:新宿モダンアート劇場・渋谷道頓堀劇場・鶴見ベツ世界・宝塚興行/友情出演:結城レナ、バニー・佐々木、カトリーヌ・レモン、東条ミユキ/ナレーター:都健二)。企画の渡辺忠は、代々木忠の変名。
 大体全篇を通してさうなのだが隠し撮り視点といつた趣向か、何処から撮つてんだよ的な謎画角。ヒモと手と手を取り足抜けしようとした、ストリッパーのメリー(以下演者全滅で不明)が追手に捕獲。ヒモのサブ(超絶そこら辺の坊主)は力なくうなだれる中、舞台に立たされ踊らされる。観念したのか満更でもない風情で踊つてゐたかと思ふと、メリーは乱入して来た男達に犯される、様におどろおどろしい劇伴鳴らしてタイトル・イン。都健二によるナレーション、略してミヤコレーションも起動させるでなく思ひのほか長いアバンを経て、監督クレジットに辿り着くのに八分を要する、総尺六十八分。
 明けて飛び込んで来るのが、見た目はグラムぽくて、音楽的にはサイケぽいバンド「Creasy Heart」の皆さん。アフロの女が一人、トップレスで踊り狂ふ。ダンサーはのち二人に増殖、二人目は普通の髪型。脊髄で折り返すと一個“e”が余計な“Crazy Heart”のスペルミスぢやね?としか思へないが、Creasy“クリージー”Heartで、皺だらけの心といふ意味にならなくもない。化粧をした男のボーカルが、レオタードを着てゐたりする素頓狂な意匠はさて措き、演奏は普通に聴いてゐられる生バンドによるディスコで二人のジゴロが女を物色。してゐると漸くミヤコレーション起動、“昨日と同じやうにネオンが都会の夜に華やかな彩りを添へる頃”、“人々の心もまたそれを望むやうに夜の熱気に狂はされ惑はされ始める”。“都会の夜は若者達にとつて斯くも魅力的なものなのであらうか”、明瞭な名調子でつらつら綴られる、途方もない意味のなさが凄まじい。兎も角、兄弟分の二人組は二人連れの女を適当にナンパ。後述するミステリアスな経緯は一旦端折つて、兄貴が博打を打つ何処ぞストリップ小屋のヤニ臭い楽屋に弟分はまだしも、何故か女も二人ともゐたりする。派手に負けた兄貴が金を作つて来る間の二三日、残り三人の身柄は置いて行かれる格好に。要はさういふ段取りで、目星をつけた女をストリッパーにといふ寸法。
 普通に抜かれる―横から見ると―三日月顔の女インタビュアーがヒモなり踊り子嬢のみならず、小屋の照明部にまで話を聞いてみたりする、一応ドキュメンタリー色のより強い山本晋也昭和48年第十一作。その癖、談志的な喋り方をするヒモが、話の内容以前にへべれけな発声が何をいつてゐるのかあんまり聞き取れなかつたりするんだよな、これが。攫つて来た子供に曲芸を仕込むサーカスが如く、かどはかした女を最終的には暴力で身体の自由ごと支配する。劇中描かれる、非人道的ないし反社会的といふか犯罪的なストリップの世界は、手を貸した諸方面は何も思はなかつたのかと不思議で仕方がないが、大らか通り越して限りなく野蛮に近かつた時代のテンションに、昨今のヒエッヒエな低体温で些末な茶々を入れるのも野暮に思へることにして、ここはひとまづ通り過ぎる。看過し難いのは幾ら今でいふモキュメンタリーとはいへあくまで劇映画であるにも関らず、平気で前後がちぐはぐに交錯する魔展開。といふかドキュメント“記録映画”を謳ふ以上、前と後ろの記述がちぐはぐなのはなほさら問題である。ジゴロ二人組と女二人は、小屋の楽屋に辿り着く以前にディスコでミーツした当夜、各々一部屋づつ取つて四人でホテルに。といふ流れ自体斬新なのだが、兄貴が賭けの負けをチャラにする形で大体和姦に持ち込む一方、弟分は風呂に入る女を強襲して思ひきり犯してゐる。全体、そんな真似を仕出かしておいて、どうして四人で楽屋に顔を出すところにまで持つて行けるのか。もう一箇所、更に苛烈に火を噴くのは終盤。足抜けが怖気づいた女の密告で発覚した兄貴分は、手酷く半殺しに。そこでドラマチックに昂るミヤコレーションが、“彼は愛に生きようとしたために”、“その愛によつて死んだ”。死んだのかよ!スト業界ブルータル過ぎんだろと震撼する間もなく、カットの根も乾かぬうちに、その一件を契機にそれまで裏方であつた男がヒモに昇格。その代りなのか何なのか、兄貴が照明当てたり場内マイクでガナッてゐたりなんかする。二人の立ち位置が転倒する構図は映画の着地点として判り易くはあるものの、お前死んだんぢやなかつたのか。構成―事実上の脚本―に池田正一(a.k.a.高竜也)と代々忠が二人名前を連ねてゐるのは、銘々が別々に書いて来たものをそのまゝ撮つて、そのまゝ繋げてゐるのかと首を傾げたくもなるほどのパラレルみ。他方裸映画的には板の上の模様含め手数は潤沢でありつつ、いまひとつ得点力不足の女優部と、一貫する謎画角とに阻まれ大した一撃の印象も残せず。あちこち派手なツッコミ処も散在する割には、掴み処のない一作。あるいはマキシマムな南風を吹かせると、さういふ漫然とした捉へ処のなさを、消費文化といふ意味でのポップ・カルチャー的な軽やかさと曲解するならば、量産型娯楽映画の大樹の枝葉を飾るのに寧ろ最適といへるのかも知れない、もしかしたら。


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