真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「欲望の海 義母を犯す」(昭和59『白昼女子高生を犯す』の2011年旧作改題版/S59・1 雄プロ作品/配給:新東宝映画/監督:広木隆一/脚本:今成宗和/企画:才賀忍/撮影:遠藤政史/照明:森久保雪一/編集:J・K・S/助監督:富岡忠文/監督助手:高原秀和/照明助手:坂本太/撮影助手:宮本良博・宮田伸二/音楽:PINK・BOX/効果:伊佐沼龍太/録音:銀座サウンド/現像:東映化学/出演:甲斐よしみ・沖ようこ・首藤啓・下元史朗・ひびき恭子・麻生うさぎ・池島ゆたか・野上正義)。出演者中沖ようこと池島ゆたかが、ポスターでは沖洋子に池島豊。坂本太の名前が照明助手に並ぶ辺りに、時の隔たりが感じられる。単なる同姓同名であつたならば、間抜け管理人の粗忽を笑ふて欲しい。
 「俺の夢」とかいふ藪から棒なモノローグに乗せて、ヤリタイ盛りの男子高校生・西沢―西澤かも―達夫(首藤)がビニ本が散乱する寝床で目覚める。若い義母(ひびき)に部屋に起こしに入つて来られた達夫は、素直に慌てる。心寂しい千葉の海町、自転車を転がす達夫は明らかに地元の人間ではない女子高生二人連れ(甲斐よしみと沖洋子)が、海岸に手向けの花束を投げる姿を目撃。久美(甲斐)の彼氏・アキラ(全く登場はせず)が、後に語られるところによれば未だ死体は上がらないまゝその海で死に、メガネの典子(沖)と二人家出してこの町に現れたものだつた。それが達夫の、第一種接近遭遇。達夫は学校に行くでもなく、ビニ本流通元でもある兄貴分・小野寺(下元)のスナックに遊びに行く。女なんて誰でも入れてしまへばイチコロ的な、ガッハッハ調の女指南を聞き聞き振舞はれたコーヒーを達夫が飲んでゐると、窓の外からその様子を目敏く見つけた巡回中の補導教師(池島)が開店前の店に入つて来る。一方、義息の部屋を片づけてゐたひびき恭子が出て来たビニ本に目を丸くするタイミングで、実父で漁師の野上正義が出がけに顔を出す。妙な物言ひでしかないが若すぎる野上正義は、後妻がおづおづ差し出したエロ本にムラムラ来ると、ひびき恭子を見境もなく息子の部屋で抱く。当然の如く、達夫の青い衝動は、ひびき恭子の存在に否応なく激加速されてゐた。因みに、達夫実母の消息には一切触れられず。「好きな人と、初体験するのが俺の夢」な変型五・七・五の達夫は、久美と典子が、盗んだらしき品を抱へ廃屋に逃げ込む現場に出くはす。着替へをガッツリ覗いた上で、二人に直接接触したのが達夫の、第二種接近遭遇。達夫一人ではどうしやうもないゆゑ、小野寺にも話を通し、久美と典子を匿ふ格好になる。配役残り麻生うさぎは、関心が久美に移り荒れる、小野寺情婦。といふ次第で、今作女優部が全員脱ぐ、典子は本格的な絡みを展開しはしないけれど。
 目下廣木隆一名義で一般映画界で普通に活躍する広木隆一の、デビュー三年目にしてピンク映画第五作は、見るから清々しい童貞臭を爆裂させる主人公が、薄汚れた大人達に揉まれつつ次第に少年から青年への道を踏み出す、でも最終的にはあまりないオフ・ビート系の青春映画。荒涼とした冬の海が象徴的な田舎町の風景に、思春期の道筋すら見えない鬱屈を照らし合はせる手法はストレートに有効ではあれ、よくよく考へてみるに、それは映画に限らず作劇上のギミックと済ませては言葉が雑ならば、技術的な方法論に過ぎぬのでもなからうか。実際には平常、塞ぐ奴は何処にゐても塞ぎ、開ける人間は如何に暮らしてゐやうが開ける、さういふものでもなからうか。ピンクながらに、この頃の映画の画面の分厚さは今となつては圧倒的で、その方便臭い雰囲気にのみコロッと騙されてみせても別に構ひはしないのだが、あくまで達夫の物語としては、仕上げの粗さも否めない。無造作に尽きた尺に屈するかの如く、断裁されるラストには古い時代の新しい映画のやうな肌触りが味はへなくもないにせよ、直前の義母を犯して達夫が筆を卸す件の、あまりにも唐突あるいは強引な捻じ込まれ方には逆の意味で驚かされた。サンプリングされた達夫の、「夢、夢、夢・・・・」といふエンドレスな呟きで濡れ場を埋め尽くす、腰から下を狙つた色気は捨てた異様な演出には、正方向に度肝を抜かれたが。反面、達夫が想ひを寄せるのも知つた上で久美を犯し、果ては売春婦にまで仕立て上げる小野寺の悪漢ぶりの圧巻さと、そんな家出女子高生を悪びれもせずに買ふ、池島ゆたかの醜悪さには血肉が通ふ。とりわけ、しなやかなスケコマシを快演する、下元史朗のスマートにワイルドなカッコ良さが尋常ではない。寧ろ枝葉の筈の下元史朗のピカレスク・ロマンとして力強く起動する映画本篇に対し、女優陣はビリングに従ひトップの当時新人らしい甲斐よしみが、劇中物理的な登場時間の支配率にしても担保する商品的な煽情性の上でも、雌雄を完全に決する。その意味に於いては、新味を出さうとした気配は窺へるものの、軸を女子高生から義母に移した新題は、本作の内容には必ずしも即さないちぐはぐなものともいへる。尤もそれも、よくある例(ためし)と済ませてしまへば、味気なくそれまででもあれ。
 ポスターでは何故か共同脚本に吉本昌弘の名前がしかも前に並び、更に高原秀和が、出演者に名前を連ねる。自信を持つて断言するが、別に見切れはしない。

 バツの悪い付記< 例によつて節穴当サイトが仕出かしやがつたので、コメント欄も併せお読み頂きたい
 三度目の正直的に再付記< 駅前から小倉名画座経由八幡の前田有楽劇場と、都合三度観て初めて気づいたのが、今回新版公開に際して新題がタイトルの文字情報のみをテロッと挿み込むのではなくして、わざわざ本篇ショットに重ねられてある。当然新たな一手間が発生する訳で、かういふ例は、なかなか珍しくもあるやうに思へる


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