弁理士の日々

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本間雅晴少将と日中戦争

2011-02-15 23:15:56 | 歴史・社会
前回に引き続き、角田房子著「いっさい夢にござ候―本間雅晴中将伝 (中公文庫 M 14)」について書きます。

1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件に端を発した日華事変が、その後日中の全面対決から泥沼の日中戦争に拡大し、さらに太平洋戦争勃発に至った経緯について、私は以下の記事でたどってきました。
服部龍二著「広田弘毅」加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(2)深堀道義「中国の対日政戦略」深堀道義「中国の対日政戦略」(2)石射猪太郎日記(2)石射猪太郎日記(3)

単なる発砲事件である盧溝橋事件が、なぜ全面的な日中戦争まで拡大してしまったのか。私は加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(2)において、日本と中国が、双方の思惑を読み間違い、双方の軍事力を読み間違えたことが、悲劇を生んだのではないか、と推定しました。日本側で言えば、中国の軍事力を過小評価しすぎていました。ところが上海と長江流域には、蒋介石がドイツ人顧問団とともに育成した精鋭部隊8万を含む30万の中央軍が配備されていたのです。36年の統計では、ドイツは武器輸出総量の57%を中国に集中させ、国民政府軍はドイツ製の武器を用い、ダイムラー・ベンツのトラックで輸送し、ドイツ人顧問団に軍事指導を支援される状態にありました。対する日本軍は、陸軍の到着までは海軍特別陸戦隊の約5000名にしか過ぎませんでした。
蒋介石は、本気で日本軍を上海で壊滅するつもりだったのでしょう。

それでは、日華事変勃発直後から参謀本部第二部長(情報担当)だった本間雅晴には、日中戦争がどのように見えていたのでしょうか。

1937年10月頃、「多田・本間秘密工作」と呼ぶべき和平工作があったと言われていました。多田とは参謀本部次長だった多田駿です。この秘密工作の実態を解明しようと、著者の角田氏は、元中華公使の清水董三氏、本間第二部長の部下だった馬奈木敬信にインタビューして真相に迫りました。
馬奈木は、10月初め頃、多田次長、本間部長の二人から上海へ行けと命令され、駐支ドイツ大使トラウトマンに会い、ひそかに日本の和平条約案を示して日中講和の可能性を打診しようとしました。多田は上層部まで話を通さずに自分を派遣するらしいと、馬奈木は察しをつけました。そして上海でトラウトマンと会い、密書を手渡しました。馬奈木は、多田・本間の計画についても、託された密書の内容についても、一切聞かされておらず、トラウトマンに手渡した文書がその後どのような波紋を描いたかなどは一切知らないとしました。
こうして、「多田・本間秘密工作」が実在した証言は得られましたが、その後どうなったかは不明のままです。
その後、10月11日に広田外相が駐日ドイツ大使ディクルセンに和平斡旋を依頼し、それが契機で“トラウトマン和平工作”となりました。“トラウトマン和平工作”とその直前の「多田・本間秘密工作」との間に関連があったのかなかったのか、一切不明ですが、清水董三氏は、広田外相の工作にとって“瀬踏み”的な役割を果たしたのではないか、と述べています。
陸軍部内では対支強硬派が勢いを得ており、講和を推進する穏健派である本間雅晴はこのころ、毎日身を清め、下着を替えて出勤したと言われています。

トラウトマン和平工作において、日本側の条件は、南京陥落後にさらに吊り上げられました。中国に突きつけた回答期限までに中国の回答が得られなかったため、近衛首相は1月16日に「蒋介石を対手とせず」という声明を発し、支那事変を泥沼に引きずり込んでいきました。このとき、政府では多田参謀次長ただ一人がこの方針に反対を唱えたのですが、本間第二部長は最後の段階で沈黙しました。このときの本間雅晴をどう評価するか、角田氏の著書をご覧ください。

1938年(昭和13年)、本間は陸軍中将に昇進し、第27師団長に親補されました。第二軍司令官として武漢攻略戦の指揮をとるのは東久邇宮です。1971年当時、東久邇は当時を回想して「私は漢口攻略の今こそ、蒋介石と和平を講ずべき時だと考えていました。中支派遣軍司令官はじめ誰もが大反対を唱える中で、たった一人、本間中将だけが私の案を支持してくれました」と語りました。

以上が、角田著書からピックアップした、日中戦争勃発当初の本間雅晴像でした。
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