弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

「ドレスデン逍遙」~アウグスト強王の時代

2010-08-05 21:41:06 | 歴史・社会
前回に引き続き、「ドレスデン逍遥―華麗な文化都市の破壊と再生の物語」(川口マーン惠美著)の第2回です。

こちらで紹介したように、ドレスデンの旧市街はバロック建築の宝庫です。この壮麗な建物群がどのようにできたのかをふり返ると、そこには必ずといっていいほど“アウグスト強王”の名前が出てきます。
ドイツがプロイセンの力によって統一されたのは1871年であり、それ以前のドイツは小国が分立していました。その小国の一つがザクセン王国で、ザクセン王国の首都がドレスデンでした。
1694年、フリードリッヒ・アウグスト1世は24歳でザクセンの選帝候になります。ザクセン王が神聖ローマ皇帝の選挙権を持っていたのでこう呼ばれています。
アウグスト選帝候はとにかく女性に目がなく、次々に側室を迎えては、その側室に子どもができる頃には飽きて次の女性に移っていくような人でした。また腕力が強かったらしく、アウグスト強王と呼ばれています。
その頃ポーランドは、貴族共和制という政治形態を取っており、先王に後継者がいなかった場合は立候補した候補者の中から次期王が選ばれます。そしてアウグスト王がポーランド王に立候補するのです。アウグスト王は新教でしたが、ポーランド王になるにはカトリック教徒でなければなりません。なんとアウグスト王はこのためにカトリックに改宗してしまうのです。また王は領地や不動産を売って大金を都合し、膨大な賄賂をばらまきます。これによって見事にアウグスト王はポーランド王位を手にしました。ザクセン王としてはアウグスト1世、ポーランド王としてはアウグスト2世でややこしいですが。
このあとアウグスト強王は、スウェーデンに宣戦布告するという愚挙に出、その後21年間続く北欧戦争が始まりました。ザクセン軍は終始大敗し、1706年に無条件降伏します。ポーランド王の地位も失いました。しかし1年後にスウェーデン軍が去り、さらに2年後、アウグスト強王はポーランド王に返り咲きます。

このアウグスト強王の時代に、現在のドレスデンの姿が現れました。まだ木造の家が多い小さな村であったドレスデンは、彼が死んだときには美しく壮大な石の町に生まれ変わろうとしています。火災予防の観点から、市内の建設は石造りのみという命令を出したのがアウグスト強王でした。また彫刻など芸術的装飾をちりばめた豪奢な大建造物が造られたのも彼の治世下です。
 
エルベ川対岸からアウグストゥス橋とドレスデン旧市街

上の写真のアウグストゥス橋、下のツヴィンガー宮殿はアウグスト強王の命令で造られました。さらにその下のカトリック旧宮廷教会は、アウグスト強王の息子であるアウグスト2世の命令で造られています。アウグスト橋を渡り終えた新市街側には1736年より、アウグスト強王の金色に輝く騎馬像が建っています。
  
ツヴィンガー宮殿
  
アウグスト強王像              カトリック旧宮廷教会

磁器は、古く中国で始められ、1600年代には日本でも焼かれていました。しかしヨーロッパでは、18世紀になっても磁器が製造できず、王侯貴族は中国と日本からの輸入品を財宝のような高値で購入していました。
そのころのベルリンにボットガーという若者がおり、薬剤師の勉強をしていました。あるとき、彼が錬金術を発見したという噂が高まり、君主のプロイセン王に拘束される恐れをいだいたボットガーはザクセンに逃れます。これに目を付けたアウグスト強王が彼を招いて実験室を与え、金の鋳造を行うように勧められます。しかし成功するわけがありません。6年後、ボットガーは磁器の製作に取りかかります。そして1年後、磁器の製造に成功するのです。
喜んだアウグスト強王は、秘密の漏洩を恐れて工房をマイセンに移します。さらに実験を繰り返したボットガーは、1712年に正真正銘の白い磁器を製造することに成功しました。
マイセンは今でも磁器の産地として有名です。アウグスト強王はこのようなところにも名を残したのでした。

女好きのアウグスト強王は、次から次へと側室を代えていましたが、その中で7年もの間アウグスト強王の寵愛を独り占めした女性がいました。コーゼル伯爵夫人です。
1704年、アンナ・コンスタンティアはアウグスト強王の目に止まります。ところがこのあと、彼女はそうそう簡単にアウグスト強王の手に落ちませんでした。二人が交わした秘密契約では、当時の強王の正妻が死んだら彼女が正妻になるという約束も含まれていました。こうしてアウグスト強王はアンナ・コンスタンティアを手に入れます。そして彼女のためにタッシェンベルクに新宮殿を建造しました。そしてコーゼル伯爵夫人の称号を得ます。
聡明だったコーゼルは、王の側近や大臣を凌駕する地位を手に入れ、閣議にも出席して国政に関与します。しかしその行為は、コーゼルの地位を逆に脅かすものでもありました。二人の間が冷えると、疎遠になるだけではなく激しい応酬が始まりました。強王は、現正妻の死後にコーゼルが正妻になるという証書を取り戻そうとし、コーゼルはそれを拒否します。最後にコーゼルは強王によって逮捕され、85歳で亡くなるまでシュトルペンの要塞に拘束され続けたのです。

コーゼルが全盛期を過ごしたタッシェンベルク宮殿の現在の姿が、私達が今回宿泊したケンピンスキーホテルです。アウグスト強王の居城であるドレスデン城に隣接し、二階のところで可愛い空中回廊によって結ばれていました(右下写真)。
  
ケンピンスキーホテル        空中回廊(左がケンピンスキーホテル、右がドレスデン城)
ちなみにタッシェンベルク宮殿は、1945年の空襲で焼失したままになっていましたが(下の写真)、東西ドイツ統一後オリジナルの通り復元され、現在のケンピンスキーホテルとなっています。

ケンピンスキーホテル空襲直後の姿

続く
コメント
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