弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

「敵機、弾倉を開いた」

2010-08-31 20:58:08 | Weblog
8月22日の「ビッグイシュー日本」とはの記事で、下記ページの絵を題材にして、『今まさに弾倉から爆弾か焼夷弾が投下される直前だと思われますが、下から見上げる人たちが何とノー天気なことか。』とコメントしました。この絵の飛行機がB29と勘違いしてのコメントです。実際にはC130輸送機であることが後でわかりました。

このコメントに対し、井上さんから『頭上はるかな高空を飛んでいるB29から大量の爆弾が投下される瞬間を、大勢の人と目撃したことがありますが、それらの人たちは私を含めてまさに「ノー天気でした」。』『真上で爆弾を投下されても命中するのは自分のいるところからはるかに先のほうで、自分のところには絶対に落ちてきませんから、早く言えば高みの(低みの?)見物、まったくノー天気なものでした。』というご指摘をいただきました。

たしかに井上さんのおっしゃるとおりで、自分の頭上はるか高空で爆弾が投下されたのなら、自分のところには着弾しません。ただし、低空でまだ前方にいてこちらに向かってくる爆撃機だとしたらどうか。
C130の胴体車輪の格納扉を私は弾倉の扉と勘違いしました。そしてこの絵から連想する話を最近読んだばかりだったのです。

近藤道生氏が日経新聞に連載された「私の履歴書」については、私の履歴書・近藤道生氏近藤道生氏と戦争体験近藤道生氏ご逝去で話題にしました。

近藤氏は昭和17年(1942)、東大を繰り上げ卒業し、大蔵省に任官しますが、すぐに海軍短期現役仕官制度の見習士官となり、海軍経理学校で学びます。その後、舞鶴海軍航空隊、旅順、スマトラ島沖合のカーニコバル島と転属し、昭和19年7月にペナンの第八潜水船隊司令部兼第十五根拠地隊司令部の副官として転属します。ペナン島はマラッカ海峡に浮かぶ小さな島です。

『ペナンはシンガポールを爆撃したB24の帰り道にあたるから、現地の視界不良か何かで爆弾が余ると、私たちの頭上にばらまいていく。』
ペナン島では島のあちこちに見張所を配置し、見張所では下士官や兵が双眼鏡で上空を睨み、有線電話で逐次情報を司令部に送ってきます。
『ある日、港の埠頭に建つ鉄塔上の「第一見張」から敵機侵入の知らせが入った。百メートルほど離れた防空壕の司令部は次の連絡を待つ。
「敵機、弾倉を開いた」
爆撃がまもなく始まる。
投下された爆弾の行方を見守っていた第一見張から続報が届いた。
「第一見張に落ちる見込み」
その直後、大音響を伴って防空壕が揺れた。誰かが受話器にかじりついて叫んでいる。
「第一見張! 無事か」
一瞬の沈黙があった。
「第一見張、異常なし。全員無事」
その声はあくまで落ち着いていた。
「ああ」私は詰めていた息を吐いた。
すでに迎撃する味方戦闘機はおらず、高射砲さえなかったのだ。なのになぜ見張所など置いて、生身の人間をむざむざ敵の的にしたのか。
遠い過去から「全員無事」という声が心の耳朶(じだ)に甦るたび、愚かだった自分たちを思って、いまでも私は泣く。』(「不期明日(ミョウニチヲキセズ) 私の履歴書」から)

以上の文章を読んだばかりだったものですから、侵入する敵機の弾倉が開いているととたんに反応してしまったのです。実際には、侵入する敵機ではなく着陸する友軍の輸送機であり、弾倉ではなく車輪格納庫の扉でしたが。

この話には後日談があります。「不期明日(ミョウニチヲキセズ) 私の履歴書」のあとがきから
日経新聞の「私の履歴書」掲載期間中、読者から多くの手紙が寄せられ、それは連載が終わっても続きました。ほとんどが戦争に関するものであり、戦死した肉親や友人を持つ人びとの心の傷がいまだ癒えず、悲しみが消えていないことを改めて知らされました。その中に、近藤氏が落涙しながら何度も読み返した一通があります。
75歳になるその人の父親は昭和20年1月フィリッピンへ向かう輸送船が台湾の膨湖島沖で沈没し、戦わずして戦死します。かぞえ年34歳、妻と2人の子供を残します。
『父の無念さが私の胸の中で今でもうずまいて居ります。軍国少女だった私にとって終戦から昭和24年3月の戦死の公報は受け止められないものでした。』
『本当にありがとうございました。配属先はちがっていても
「全員無事」の声が耳朶に甦るたびに 愚かだった自分達を思って今でも泣く--
初めて上官の方からの肉声をお聞きできたように思えました。英霊の方々そして家族の者にとって初めての終戦が・・・・・有難うございました。』
コメント
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