弁理士の日々

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真珠湾攻撃(2)

2008-10-02 20:51:34 | 歴史・社会
前回、日本海軍が真珠湾攻撃に先駆けてどのような準備を行ったのかを見てきました。

米国海軍は、以上のような日本海軍の能力向上を知りません。「真珠湾では魚雷攻撃は不可能、数十機規模の水平爆撃で戦艦に致命傷を与えることはできない」との固定観念を持っていました。このため、停泊する戦艦の周囲に魚雷防御網を張ることもせず、戦艦を湾外に待避することもせず、12月7日の朝(日本時間12月8日)を迎えたのでした。

真珠湾第一次攻撃隊、第二次攻撃隊の、オアフ島への進入経路はたとえばこちらの地図に明らかです。第一次攻撃隊の水平爆撃隊(艦攻50機)を淵田中佐が率い、雷撃隊(艦攻40機)を村田少佐が率いました。第二次攻撃隊の急降下爆撃隊を江草繁少佐が率いました。
  
                     Arizona Memorial Museum
左上の真珠湾図面は、淵田美津雄著真珠湾攻撃 (PHP文庫)を元にしました。第一次攻撃隊の雷撃コースが矢印で入っています。右上の絵は、攻撃直前のフォード島を北方から見た絵です。
雷撃隊は、戦艦ネバダ、ウエストバージニア、オクラホマ、カリフォルニアに魚雷攻撃を行います。水平爆撃隊は南西から北東方向に進入し、戦艦アリゾナ、テネシー、メリーランドに爆撃を加えました。
淵田美津雄著真珠湾攻撃 (PHP文庫)には、「命中魚雷はネバダに1本、ウエストバージニアに9本、オクラホマに12本、カリフォルニアに3本命中したことになっている」とあります。標的艦ユタ(元戦艦)を戦艦と思って6本命中せしめます。

淵田中佐が指揮する水平爆撃機の編隊は、爆撃に入る前までは淵田機が一番機でしたが、爆撃準備に入ると順番を入れ替え、きょう導機(蕎導機に似た字)が先頭に出ます。淵田編隊のきょう導機は、操縦者が一等航空兵曹渡辺晃、照準手は一等航空兵曹阿曾弥之助で、当時日本海軍随一の名人です。「いずれも人の好いほがらかな連中であった(淵田著)。」前回登場した名コンビですね。最初の爆弾投下時期にちょうど断雲の上に入ってしまい投下ができません。やりなおしのため、右旋回してホノルルの上空をひとまわりします。
ひとまわりする途中、戦艦アリゾナの位置で大爆発がおきます(写真)。水平爆撃機から投じた800キロ爆弾が、アリゾナの火薬庫を直撃したのです。「火柱は1000メートル以上にも達するかと思われた。どす黒いそしてまっかな火薬特有の火焔の火柱である(淵田著)。」
水平爆撃が担当する戦艦列のうち、北から2番目のアリゾナは大爆発を起こしています。北の端のネバダはその煙に覆われています。3番目のテネシーも大火災を起こしています。4番目のメリーランドはまだ損害がなさそうなので、淵田編隊はこの艦を狙うことにします。
爆撃コースに入り、きょう導機の爆弾が機体を離れるとともに、他の編隊機も爆弾を投下します。4つの爆弾のうち、2発が命中しました。命中した方は、甲板上にパッパッと白煙がたたみのほこりをたたくようにたち昇るだけですが、装甲を貫徹し内部で大きな被害を与えているはずです。一方命中しなかった方の2発は、海中で爆発して大きな波紋を描きます。

アリゾナ記念館のミュージアムに、下の図面が掲示されていました。

  Arizona Memorial Museum
この絵によると、雷撃隊の進路は、淵田著に書かれている南東方向からというよりも、南南東方向から戦艦列に向かっていったようです。どちらが正しいのかはわかりません。
上の絵の説明によると、絵に描かれた赤い6機の飛行機は戦艦列を雷撃しようとするもので、右の3機がムラタに導かれ、左の3機がゴトウに導かれており、ゴトウ編隊の3番機がヤスエです。戦艦オクラホマの下(南方)に"TORPEDO FOUND"と書かれた△印があります。
これは何を示すのでしょうか。
ネットで調べた結果、東白川村・平和祈念館 岐阜/東白川村にいきさつが書かれていました。ヤスエとは、岐阜県東白川村出身の安江巴海軍一等飛行兵で、後藤中尉の率いる編隊の3番機でした。「ところが安江機は対空砲火のため被弾、やむなく魚雷を投棄した。態勢を崩した機から放たれた魚雷は湾の海底に突き刺さった。安江機は21発もの銃弾を受けながらも赤城に無事帰還した。」
「平成3年に真珠湾で魚雷が海底から引き揚げられ、それを落とした雷撃機が(安江機と)特定された。」
その魚雷が、アリゾナ記念館のミュージアムに展示してあった下の魚雷なのでしょう。
  
  Arizona Memorial Museum

ところで、東白川村・平和祈念館 岐阜/東白川村に掲示されているこの写真、見覚えがあります。たしか、アメリカ映画「ファイナルカウントダウン」に出てきた写真ではないでしょうか。日本の記念切手にもなっていたのですね。
「真珠湾攻撃、しょっぱなの写真。村田機が撮影といわれる。だいたい8時ごろ。米艦船から流れ出る重油、水雷が命中したウェストバージニアから出た衝撃波、転覆寸前のオクラホマ、他の魚雷の航跡、炎上するヒッカム飛行場などがこの写真に写っている。オクラホマの左側に写っているのが安江機の水雷の水泡なのだそうだ。」


今回、私が真珠湾を訪れるに際しては、淵田美津雄著真珠湾攻撃 (PHP文庫)と源田實著真珠湾作戦回顧録 (文春文庫)を読み直しました。その上で現地を体験し、現実の距離感で真珠湾を脳裏に刻み込むことができたように思います。

ところで、ときのルーズベルト大統領は、真珠湾が攻撃されることを事前に知っていたのでしょうか。それが次のテーマです。
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