前回に引き続き、石射猪太郎著「外交官の一生 改版 (中公文庫 B 1-49 BIBLIO20世紀)」を読んでいきます。
外務省本省東亜局長
1937年5月、シャム公使だった石射氏は東亜局長に任命されます。着任時は林内閣、佐藤外務大臣でしたが、着任後1ヶ月で近衛内閣に替わり、外務大臣は広田弘毅が務めることとなります。
広田外相に対しては「ワシントン在勤時代からこの人に対して持った私の崇拝と期待は、この数年来急にさめつつあった。先年広田内閣組閣の際、軍部から付けられた注文に唯々として聴従したり、軍部大臣現役制を復活したりなどした弱体ぶりに幻滅を感じたのだ。この人が心から平和主義者であり、国際協調主義者であることに少しも疑いを持たなかったが、軍部と右翼に抵抗力の弱い人だというのが、私の見る広田さんであった。」
7月8日、盧溝橋事件勃発でたたき起こされます。11日、緊急閣議で陸軍から三個師団動員案が出されます。石射氏は広田大臣に「閣議で動員案を食い止めていただきたい」と進言し、大臣は頷きますが、閣議では動員案をあっけなく可決します。
20日、実際の動員を決める閣議が開かれ、三個師団の動員が大した議論なしに閣議決定されます。石射局長が広田大臣に辞表を提出したのはこのときです。
中国現地では停戦協定が結ばれそうになりますが、日中両軍の撃ち合いが偶発的に発生するともう手がつけられません。全面的な戦闘が開始されます。
この間のいきさつが、まずは広田弘毅が東京裁判で絞首刑とされる主要因となった事件であり、また石射猪太郎が歴史に最も顔を出していた瞬間でした。
船津工作
石射局長は、陸軍の柴山軍務課長から、停戦を中国側から言い出させる工夫はあるまいかと相談を持ちかけられます。これに対し石射局長は以下のような腹案を提案します。
材華紡績同業界理事長船津辰一郎に停戦案と全面的国交調整案を授け、上海に急行してもらい、密かに高宗武亜州局長に伝え、その受諾の可能性を見極めた上で、外交交渉の糸口を開くという計画です。
この着想は陸海両課長の賛成するところとなり、陸海外の三省で合意が成立します。
上海総領事が高宗武氏と船津氏との会見をセットしているところに、川越中国大使が介入し、「高宗武には俺が会って話すから」と船津氏を遮ってしまうのです。そして川越大使は、本省が計画した国交調整案をきちんと相手に伝えませんでした。出先機関の訓令違反は陸軍だけではなかったのです。前後のいきさつから思うに、川越大使は陸軍の方針に与しており、この交渉を不成功に終わらせようとしていたきらいがあります。
いずれにしろ、上海では陸戦隊の大山中尉が惨殺される事件を契機として日中両軍が全面戦闘に入り、船津工作は流産します。
日本側の和平交渉の加重と「国民政府を相手とせず」声明
日本軍が上海を手中にし、さらに南京に兵を進める過程で、支那に対する日本の態度はどんどん変化していきます。
12月14日、大本営政府連絡会議が開かれ、和平条約案について討議します。石射局長も呼び込まれました。提出された条約案は、石射局長と陸海軍務局長で構成する三省事務当局が作成したものでしたが、会議の席上、多田参謀次長、末次内相、杉山陸相、賀屋蔵相から出された異論によって条件が加重されていきます。広田外相は一言も発言しません。石射局長は我慢がならず「このように条件が加重されるのでは、中国側はとうてい和平に応じないだろう」と争いますが、冷たく無視されました。
当然ながら、蒋介石はこの和平案に応じません。その結果として、近衛政権は「蒋介石を対手とせず」という声明を発し、支那事変の解決を困難とします。
南京アトロシティーズ
南京は12月13日に陥落します。その直後から、南京に帰復した福井良二、上海総領事から南京の状況が報告されます。翌1月6日の石射氏の日記には「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目も当てられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。本国民民心の退廃であろう。大きな社会問題だ。」とあります。
広田外相の辞任-宇垣新外相の登場
1938年5月、広田外務大臣が退けられ、外相として宇垣一成大将が入閣します。石射氏は宇垣外相に当初は不安を感じますが、就任早々に石射局長から説明を行うと、宇垣外相が石射局長と同じ考え方であることがわかります。そこで石射局長は「今後の事変対策に付いての考案」と題する長文の意見書を草して大臣に提出しました。宇垣大臣は「五相会議ではあの意見書に異論が出て、何もまとまらなかったが、自分はこれで行くと言い切っておいた」といわれます。
対華中央機関-宇垣外相の辞任
陸海軍を中心とする機関は、中国を所管する官庁を、外務省から切り離して総理直属の機関とすることを画策します。宇垣外相はこの動きに徹底反対しますが、とうとう内閣は興亜院の設立を決定し、宇垣外相は辞表を提出します。石射東亜局長も、これに伴って辞表を提出しました。
東亜局長辞任後、石射氏は、オランダ公使、ブラジル大使、待命大使、ビルマ大使を歴任します。この間に第二次世界大戦が勃発し、ビルマ大使のときに終戦を迎えます。
オランダ大使のときには、日独伊三国軍事同盟問題、ドイツのオランダ侵入と占領を経験しました。
ビルマ大使との辞令を受けたとき、周囲は「その辞令を受けずに外務省を辞めろ」と忠告しますが、常日頃の自分の官吏道に反してはならないと、その辞令を受けます。
ビルマ大使のときには、連合軍のビルマ侵入に伴って軍とともに逃避行を余儀なくされ、困難な目に会いました。
抑留生活を続けた後、日本に帰国したのは1946年6月でした。
石射氏は外務省に辞表を提出しますが、同時に公職追放を受けることとなってしまいました。ビルマ大使を務めたのが公職追放の理由でした。
石射氏はこの回想録を1950年に刊行したすぐ後、1954年に逝去されています。
著書の冒頭に
「1925年の夏のある昼食時、外務省食堂で時の外務大臣幣原(喜重郎)さんと、通商第三課長であった私との間に、こんな会話が交わされた。
『私は外務省に入って以来日記をつけていますが、首になったらそいつを種本にして本を書いて、大いに外務省を曝露してやろうと思っています。』
『よし、では君をすぐに首にしてやる』。
『まだ少し早すぎます』。」と紹介されています。
しかしその日記の大部分は、戦災で家宅とともに運命をともにし、郷里に疎開した数冊が残存するに過ぎない、とのことです。
そうとしたら、今回の著書のどの部分が日記に依り、どの部分は記憶のみを頼りに執筆したのか、その点は気になります。
また、自伝ですから、自分にとって都合の良くない事項については沈黙している可能性があります。従って、石射氏を客観的に評価しようとしたら、評伝作者によるきちんとした評伝に依るべきでしょう。
しかし、その点を差し引くとしても、この本はおもしろい本でした。
ps 2008.12.10. 石射猪太郎日記についてこちらに記事を書きました。
外務省本省東亜局長
1937年5月、シャム公使だった石射氏は東亜局長に任命されます。着任時は林内閣、佐藤外務大臣でしたが、着任後1ヶ月で近衛内閣に替わり、外務大臣は広田弘毅が務めることとなります。
広田外相に対しては「ワシントン在勤時代からこの人に対して持った私の崇拝と期待は、この数年来急にさめつつあった。先年広田内閣組閣の際、軍部から付けられた注文に唯々として聴従したり、軍部大臣現役制を復活したりなどした弱体ぶりに幻滅を感じたのだ。この人が心から平和主義者であり、国際協調主義者であることに少しも疑いを持たなかったが、軍部と右翼に抵抗力の弱い人だというのが、私の見る広田さんであった。」
7月8日、盧溝橋事件勃発でたたき起こされます。11日、緊急閣議で陸軍から三個師団動員案が出されます。石射氏は広田大臣に「閣議で動員案を食い止めていただきたい」と進言し、大臣は頷きますが、閣議では動員案をあっけなく可決します。
20日、実際の動員を決める閣議が開かれ、三個師団の動員が大した議論なしに閣議決定されます。石射局長が広田大臣に辞表を提出したのはこのときです。
中国現地では停戦協定が結ばれそうになりますが、日中両軍の撃ち合いが偶発的に発生するともう手がつけられません。全面的な戦闘が開始されます。
この間のいきさつが、まずは広田弘毅が東京裁判で絞首刑とされる主要因となった事件であり、また石射猪太郎が歴史に最も顔を出していた瞬間でした。
船津工作
石射局長は、陸軍の柴山軍務課長から、停戦を中国側から言い出させる工夫はあるまいかと相談を持ちかけられます。これに対し石射局長は以下のような腹案を提案します。
材華紡績同業界理事長船津辰一郎に停戦案と全面的国交調整案を授け、上海に急行してもらい、密かに高宗武亜州局長に伝え、その受諾の可能性を見極めた上で、外交交渉の糸口を開くという計画です。
この着想は陸海両課長の賛成するところとなり、陸海外の三省で合意が成立します。
上海総領事が高宗武氏と船津氏との会見をセットしているところに、川越中国大使が介入し、「高宗武には俺が会って話すから」と船津氏を遮ってしまうのです。そして川越大使は、本省が計画した国交調整案をきちんと相手に伝えませんでした。出先機関の訓令違反は陸軍だけではなかったのです。前後のいきさつから思うに、川越大使は陸軍の方針に与しており、この交渉を不成功に終わらせようとしていたきらいがあります。
いずれにしろ、上海では陸戦隊の大山中尉が惨殺される事件を契機として日中両軍が全面戦闘に入り、船津工作は流産します。
日本側の和平交渉の加重と「国民政府を相手とせず」声明
日本軍が上海を手中にし、さらに南京に兵を進める過程で、支那に対する日本の態度はどんどん変化していきます。
12月14日、大本営政府連絡会議が開かれ、和平条約案について討議します。石射局長も呼び込まれました。提出された条約案は、石射局長と陸海軍務局長で構成する三省事務当局が作成したものでしたが、会議の席上、多田参謀次長、末次内相、杉山陸相、賀屋蔵相から出された異論によって条件が加重されていきます。広田外相は一言も発言しません。石射局長は我慢がならず「このように条件が加重されるのでは、中国側はとうてい和平に応じないだろう」と争いますが、冷たく無視されました。
当然ながら、蒋介石はこの和平案に応じません。その結果として、近衛政権は「蒋介石を対手とせず」という声明を発し、支那事変の解決を困難とします。
南京アトロシティーズ
南京は12月13日に陥落します。その直後から、南京に帰復した福井良二、上海総領事から南京の状況が報告されます。翌1月6日の石射氏の日記には「上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目も当てられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。本国民民心の退廃であろう。大きな社会問題だ。」とあります。
広田外相の辞任-宇垣新外相の登場
1938年5月、広田外務大臣が退けられ、外相として宇垣一成大将が入閣します。石射氏は宇垣外相に当初は不安を感じますが、就任早々に石射局長から説明を行うと、宇垣外相が石射局長と同じ考え方であることがわかります。そこで石射局長は「今後の事変対策に付いての考案」と題する長文の意見書を草して大臣に提出しました。宇垣大臣は「五相会議ではあの意見書に異論が出て、何もまとまらなかったが、自分はこれで行くと言い切っておいた」といわれます。
対華中央機関-宇垣外相の辞任
陸海軍を中心とする機関は、中国を所管する官庁を、外務省から切り離して総理直属の機関とすることを画策します。宇垣外相はこの動きに徹底反対しますが、とうとう内閣は興亜院の設立を決定し、宇垣外相は辞表を提出します。石射東亜局長も、これに伴って辞表を提出しました。
東亜局長辞任後、石射氏は、オランダ公使、ブラジル大使、待命大使、ビルマ大使を歴任します。この間に第二次世界大戦が勃発し、ビルマ大使のときに終戦を迎えます。
オランダ大使のときには、日独伊三国軍事同盟問題、ドイツのオランダ侵入と占領を経験しました。
ビルマ大使との辞令を受けたとき、周囲は「その辞令を受けずに外務省を辞めろ」と忠告しますが、常日頃の自分の官吏道に反してはならないと、その辞令を受けます。
ビルマ大使のときには、連合軍のビルマ侵入に伴って軍とともに逃避行を余儀なくされ、困難な目に会いました。
抑留生活を続けた後、日本に帰国したのは1946年6月でした。
石射氏は外務省に辞表を提出しますが、同時に公職追放を受けることとなってしまいました。ビルマ大使を務めたのが公職追放の理由でした。
石射氏はこの回想録を1950年に刊行したすぐ後、1954年に逝去されています。
著書の冒頭に
「1925年の夏のある昼食時、外務省食堂で時の外務大臣幣原(喜重郎)さんと、通商第三課長であった私との間に、こんな会話が交わされた。
『私は外務省に入って以来日記をつけていますが、首になったらそいつを種本にして本を書いて、大いに外務省を曝露してやろうと思っています。』
『よし、では君をすぐに首にしてやる』。
『まだ少し早すぎます』。」と紹介されています。
しかしその日記の大部分は、戦災で家宅とともに運命をともにし、郷里に疎開した数冊が残存するに過ぎない、とのことです。
そうとしたら、今回の著書のどの部分が日記に依り、どの部分は記憶のみを頼りに執筆したのか、その点は気になります。
また、自伝ですから、自分にとって都合の良くない事項については沈黙している可能性があります。従って、石射氏を客観的に評価しようとしたら、評伝作者によるきちんとした評伝に依るべきでしょう。
しかし、その点を差し引くとしても、この本はおもしろい本でした。
ps 2008.12.10. 石射猪太郎日記についてこちらに記事を書きました。
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