弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

国木田独歩と佐々城信子

2015-11-04 20:31:28 | 趣味・読書
前回、国木田独歩「武蔵野」と玉川上水での逢瀬で、国木田独歩著「欺かざるの記抄―佐々城信子との恋愛 (講談社文芸文庫)」から、独歩と佐々城信子との玉川上水での逢瀬について抜粋しました。
佐々城信子  From Wikimedia Commons
ここではまず最初に、国木田独歩と佐々城信子の出会い、恋愛、結婚、破局に至る顛末を、主に「欺かざるの記抄」の「解説」を参考に概観します。
明治28年(1895)6月9日、日清戦争に従軍した新聞記者が、佐々城本支(もとえ)、豊寿(とよじゅ)夫妻の自邸に招かれ、もてなしを受けました。国木田独歩も従軍記者のひとりとして招かれていました。ここで独歩ははじめて、本支、豊寿夫妻の長女、信子に出会うのです。本支は西南戦争にも従軍した元軍医で、当時は日本橋区で病院を経営していました。豊寿は日本基督教矯風会の幹事でした。
独歩は、当時24歳、新聞記者といっても定職とはいえず、キリスト教を信奉し、北海道の開拓地に入植することを夢見る人でした。明治期の北海道開拓地ですから、極限生活を強いられることは明らかです。
佐々城信子は当時17歳、女子の新聞事業を興す野心を有し、アメリカへ行く計画が立てられていました。
その二人が突然、恋に落ちたのです。
信子の両親、特に母親の豊寿は二人の結婚に大反対です。
ところが、あれよあれよと言う間に、出会った年の11月11日、二人は結婚するに至りました。信子の父親は一応承諾を与えたとはいえ、両親の本心は反対です。結婚式にも参加しませんでした。
二人は逗子で生活を始めます。独歩は、北海道開拓の夢を取りあえずは諦めたのでしょうか。信子も、アメリカ行きを諦めています。
しかし、結婚生活は短期間で破局に至りました。翌年4月12日、突然信子が独歩の元から失踪するのです。独歩は半狂乱状態となりました。
信子が浦島病院に入院していることがわかりましたが、同時に、信子が離婚を望んでいることも知り、4月24日、独歩も受け入れて離婚に至ります。
その後も、別れた信子に独歩が恋い焦がれる様子は、「欺かざるの記」にこれでもかと記されます。

独歩と信子との間に、一体何があったのでしょうか。
それではまず、「欺かざるの記」の記述から、独歩が描く二人の出会いから別れまでをたどってみます。
欺かざるの記抄―佐々城信子との恋愛 (講談社文芸文庫)
国木田独歩
講談社

《出会いと恋愛》
明治28年(1895)6月10日
(佐々城豊寿夫妻の招待で、日清戦争の従軍記者が招待され、従軍記者であった国木田も佐々城家を訪れ、そこではじめて佐々城信子に会った。)
令嬢年のころ十六若しくは七、唱歌をよくし風姿素々可憐の少女なり。
7月29日
昨朝佐々城信子嬢来宅ありて一時間半計りを一秒時の如くに過ごしぬ。・・・秘密を以て立ち寄りたる也。吾等は遂に秘密の交情を通じるに至りぬ。
8月1日
われ等は恋愛のうちに陥りぬ。
昨日正午なり。信子嬢の来りしは。
ああわれは嬢を得ざれば止まらざる可し。母氏をして承諾せしめずんば止まらざる可し。11日
本日午前七時過ぎ、信嬢来る。
嬢と共に車を飛ばして三崎町なる飯田橋停車場に至る。直ちに「国分寺」までの切符を求めて乗車す。「国分寺」にて下車して、直ちに車を雇い、小金井に至る。・・流れに沿うて下る。
信嬢は吾が腕をかたく擁して歩めり。
遂に桜橋に至る。
橋畔に茶屋あり。老媼老翁二人すむ。之に休息して後、境停車場の道に向かいぬ。
12日
朝認む。
嬢は吾に許すに全身全心の愛を以てすと云えり。されど嬢は一種の野心を有す。曰く、女子の新聞事業。其のために嬢は合衆国に行くことになり居れり。
23日
一昨日は殆ど終日嬢の家に在りたり。午前9時より午後10時まで。別れに望んで、庭に送り、裏門の傍らに、キツス、口と口と!
26日
車を駆りて飯田橋停車場に至る。
此のたびは境停車場に下車したり。彼の林まで、停車場より五六丁に過ぎず。嬢と並びて路傍に腰掛け、・・接吻又た接吻
29日
今朝、早く嬢を訪ひ、公園に導き、大いに将来を談ず。第一、嬢は米国行きを止めよ。第二、二人北海道に立脚の地を作らん。第三、しばらく東京に勉学せよ。第四、勉学の方法は余に一任せよ。
嬢、悉く諾したり。吾等は楽しく別れぬ。
9月13日
昨日(12日)(上野駅発)
那須停車場より車にて塩原に向かいぬ。信嬢に遇う。
車を降り、信嬢と共に歩みぬ。
夜半語りて尽きず。前途を語り、人道を談じ、遂によき嬢、信嬢と三人、声を呑んで哭するに至りぬ。
(遠藤よき 信子の女学校時代の友人で、信子より2、3歳年長。)
佐々城氏突然来たり、

《結婚騒動》
10月28日
佐々城信子は父母の虐待を受けて三浦氏に投じたり。三浦氏より数回の談判を佐々城氏に試みたれども事成らず。信子尚ほ三浦氏にあり。
(三浦逸平 遠藤よきの姉の夫。兜町に住む。)
信子嬢断然わが家に来たり投ずるの外、策なし。
11月3日
31日、信子嬢来宅、滞在。この夜、よき嬢来宅。
11日
午後7時信子嬢と結婚す。
吾が恋愛は遂に勝ちたり。
われは遂に信子を得たり。

《結婚生活》
12月8日
先月19日の幽居以来すでに半月を経過したり、吾等が生活は極めて質素なれども極めて楽しく暮らしつつあるなり。質素は吾等の理想にしてその実効は倹約と時間の経済なり。米五合に甘藷を加えて一日両人の糧となす。豆の外に用うべき野菜なし。時々魚肉を用うれでも二銭若しくは一銭七りんの「あじ」「めばる」「さば」の如き小魚二尾を許すのみ。粗食というをやめよ。
明治29年2月12日
信子は満腹の愛と信をわれにささげつつあり。
4月7日
東京隼町の父母の膝下に在り。逗子へは「さらば」を告げぬ。逗子にゆきたるは昨年11月19日にして、去りたるは本年3月28日なり。

《信子の失踪と離婚》
14日
一昨日信子の失踪以来、吾が苦闘痛心殆ど絶頂に達せり。
一作、12日は安息日なりき。
(教会堂に行く。信子は、「星良子嬢(後の相馬国光)に会い、彼女をわが家に連れ帰る」と言って独歩と別れる。)
(独歩が自宅に帰宅したが信子は帰っていない。独歩は気にかかり、明治女学院の寄宿舎(星良子が寄宿)に急いだところ、路に星良子に出会った。)
余驚き問うて曰く「信子今日御身を訪ひし筈なるが如何」と。良子嬢顔色を変じて曰く「不思議なる哉、今日先刻来訪ありしも直ちに帰り給いぬ。顔色甚だ悪かりき」と。
(信子より書状)要するに自分も勉強したく、余にも独身者の精力を以て勉強させたしといふに在り。
良子に逢ひて昨日来の事を語り・・問ふて曰く「御身は信子に金を貸しはせざりしか」。良子答えて曰く「1円かしたり」と。
20日
18日、豊寿夫人来る。のぶ子浦島病院に在ること明白となる。
信子より来状あり。曰く離婚(表面だけ)致し度し。
24日
余と信子とは今日限り夫婦の縁、全く絶えたり。昨日信子に遇ひぬ。信子の本意全く離婚にあることを確かめ得たり。
25日
嗚呼信子遂に吾を去りぬ。
両三日前、収二、徳富氏を訪ひし時、徳富氏潮田氏より聞きし処なりとて伝えて曰く、信子は逗子に在りし時にも両三度逃亡を企てつる由。
----以上--------------------------
現代風に考えると、以下のとおりです。

独歩は、「求道者の生活はかるあるべし」との考えを持っていました。北海道開拓生活などがそれです。
同時に、「求道者の妻の生活はかくあるべし」との考えも持っていたのです。独歩はその考えを、結婚した信子にも求めました。これはあんまりです。アメリカで勉強して女子の新聞事業を興そうとの志に燃える女子に、北海道開拓者の妻を要求するのですから。

信子にであってから結婚まで、そして信子が失踪してから離婚に至るまで、信子に対する独歩の恋い焦がれは、今で言ったらストーカーそのものです。「欺かざるの記」には、毎日毎日、信子に対する思慕の念が綴られています。
一方、11月11日に結婚してから翌年4月に突然信子が失踪するまで、「欺かざるの記」には、信子の記述がほとんど登場しなくなります。あまりの落差にびっくりします。独歩は安心しきったのでしょうね。そして、自分が思うとおりの生活を信子に強いています。
『12月8日
先月19日の幽居以来すでに半月を経過したり、吾等が生活は極めて質素なれども極めて楽しく暮らしつつあるなり。質素は吾等の理想にしてその実効は倹約と時間の経済なり。米五合に甘藷を加えて一日両人の糧となす。豆の外に用うべき野菜なし。時々魚肉を用うれでも二銭若しくは一銭七りんの「あじ」「めばる」「さば」の如き小魚二尾を許すのみ。粗食というをやめよ。
明治29年2月12日
信子は満腹の愛と信をわれにささげつつあり。』(欺かざるの記)

実は信子が、その生活に耐えかねているということに、独歩は全く気づいていないのです。“男は無神経”と言ってしまえばそれまでですが、これは極端です。現代の感覚で考えたら、当然の如くとして破局に至ります。
後に文学者として名をなす国木田独歩が、身近な人に対してはここまで無神経だったとは。

以上は、一方の当事者である国木田独歩が語る一部始終です。
それでは、他方の当事者である信子の側から見たら、一体何が起こっていたのでしょうか。
信子の従姉妹に、相馬黒光(当時は星良)がいました。その相馬黒光の自伝(下記)中に、相馬黒光が見た一部始終が語られています。
黙移 相馬黒光自伝 (平凡社ライブラリー)
相馬黒光
平凡社

『国木田独歩の妻になり、そして独歩を捨てた故に、あらゆる人から憎悪の眼をもって視られ、遂に世間から葬り去られた佐々城信子は、この佐々城本支、佐々城豊寿の間に、はじめての子として生まれ、母の才気を受け継ぎ、一人の弟と二人の妹の上に立って、一番輝いて見えるような位置にいました。私が上京しました時分、たしか十六であったかと思いますが、その賢しいこと器用なことでは田舎者の私など足下にも及ばず、殊に母のもとへ多勢の客のある時など、そのたくみなもてなし振りと豊富な話題、無邪気でいて誇らかな、そして洗練された姿態、ほんとうに信子が出ると、一座の視線がみなその顔一つに集まるという風でした。(黙移 p117)』

長くなったので、以下は次号に回します。
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