弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

大空に描かれた五輪のマーク

2010-03-18 21:29:05 | 歴史・社会
東京オリンピックが開かれたのは1964年、今から46年前です。開会式は10月10日でした。
当時私は高校1年生、オリンピックの開会式を観るための国立競技場の入場券など、入手しているわけはありません。サッカーの部活に明け暮れていました。

しかし私の心の中には、東京オリンピックの開会式をこの目で見たという確かな記憶があるのです。
それは何故か。東京の上空3000メートル、紺碧の空にくっきりと描かれた五輪のマークを、肉眼で見ることができたからです。

確か、部活か何かを終わって学校からの帰り道、茗荷谷の近くを歩いているときでした。ふっと空を見上げると、今まさに、空に誰かが五輪のマークを描いている最中でした。見ている間に五輪が描ききられます。その誰かとは、航空自衛隊の5機のジェット戦闘機であることを後から知りました。
例えばこちらのサイトの写真にあるとおりです。
そのときは思わず、そばを歩いている人を呼び止めて「ほらあれ」と指さして教えてあげたものです。

あの日にたまたま東京に居合わせた人であれば、見ようと思えば空に描かれた五輪のマークをきっと見ることができたはずです。

遙か昔の記憶の断片ですが、以下の雑誌にこのイベントの顛末が記事として載っていました。
新潮45 2010年 03月号 [雑誌]

新潮社

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「昭和の特別な一日」「上空1万5000フィートの東京五輪(中編)」(杉山隆男)という記事で、中編というからには、2月号に前編が載っていたはずで、4月号に後編が載るのでしょう。

記事によると、東京オリンピック組織委員会は当初、全く別のイベントを計画したそうです。5機のジェット戦闘機が並走して、5色のスモークを直線状に引きながら国立競技場の上を飛ぶ、というイベントでした。フライバイというそうです。
そのような計画から始まったのになぜ、どのようないきさつで、最終的には空に五輪のマークを描くイベントに変化したのか、というのが記事の主題です。

「どうせやるんなら、国立競技場の上に五色のスモークで五輪のマークをかいてみせようじゃないか」と発案したのは、航空自衛隊のトップ、空幕長である松田武氏という人だったようです。
「オリンピック事務局がオーダーした、成功率はほぼ百パーセントに近い、フライバイという出し物とは違い、空幕長の松田武が部下にやらせようとした、空に五輪のマークを描いてみせることが前人未踏と言われるほど技術的に至難のもので、ましてその技を失敗の許されない世紀の舞台で試すことが危険な賭けであることに変わりはなかった。松田とてその点は十分承知していたはずである。」
そんなに難しい技だったのですか。

松田氏の前任の空幕長は、あの源田実氏です。源田実、若い頃は戦闘機乗りとして「源田サーカス」と呼ばれる技を披露し、連合艦隊航空参謀として真珠湾攻撃を立案し、戦争末期には松山の防空司令として名機“紫電改”を擁してB29と切り結んだ伝説の人です。
それに対し今回の主役の松田武氏は、陸軍士官学校から東京帝大工学部に進み、軍需省産業機械課長、航空兵器総局付といった技術官僚の道を歩んだ人でした。
また、自衛官退官後も、源田氏が国会議員となって自民党国防族の重鎮に祭り上げられました。それに対し松田氏は、宇部興産に身を投じて副社長まで務め、倒れかかっていた関連会社を再建に導いたそうです。

オリンピック開会式の空に五輪のマークを描くというアイデアについて、言い出しっぺは松田氏であるか源田氏であるか、両説があるそうですが、今となっては確かめようがありません。

空に五色のスモークで五輪のマークを描くことに挑戦した空軍は未だかつて(空自を除いて)どこにもなく、世界最強の米空軍といえども試みてはいないそうです。そのような難しい技だったのですね。

それとは別に東京オリンピック当時、航空自衛隊は誕生して10年を迎えるところでした。そして10年で90数人、それは航空自衛隊が空の上で失った命です。当時のジェット戦闘機であるF86セイバーは、安全対策については太平洋戦争の頃と大差がなく、パイロットの勘と運が生死を分けていたということです。
一方では自衛隊は、創設から10年を経てもなお、「戦後日本の落とし子」とも「日陰者」とも呼ばれていました。
そのような時代に、航空自衛隊は“オリンピック開会式の空に五輪のマークを描く”という壮挙を企画したのでした。

この後は後編に続くようです。
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