<195> おんだ祭り (御田植祭) (12)
早春の 春日大社(かすがのみや)に 朗々と 祝詞を上げる 神官のこゑ
東大寺二月堂のお水取りが滞りなく終わり、奈良公園のアセビやウメがそこここに花を咲かせ、春の本番も間近な十五日、隣りの春日大社では例祭の御田植祭が行われた。本殿の林檎の庭と近くの摂社榎本神社と若宮神社前庭の三箇所で順次お田植えの儀式が行われ、舞いや所作が奉納され、披露された。
まず、神官が扮する田主と牛男が登場し、 田植えの準備をした後、緋の袴にフジの花の插頭をつけた艶やかな巫女八人の八乙女が古式の楽や歌に合わせて田植えの舞いを披露し、最後に八乙女が松苗を植えた。森閑とした境内の中で、御田植祭の場所は一時緋の袴が華やかに映え、参詣者や観光客の目を引いた。
因みに、祭りは所作の披露の前に神前での儀式がある。で、見物する者はその間四、五十分ほどは待つことになる。今日も拝殿前で待つことになったが、 儀式の中ほどに差しかかったとき、複数の神官による祝詞の奏上があった。その祝詞は、早春の大気感にふさわしい朗々たる声調で、 神を寿ぐ厳かさをもって三、四十メートルほど離れた場所で写真を撮るために位置取りしていた私の耳にも届いた。
この祝詞を聞いていて、ふと、歌というものが仏前での称名に始まるという見解のあることを思い出した。で、この祝詞も歌の起源に関わりがあるのではないかということが思われたのであった。お水取りでは錬行衆の称名を聞いたが、一方が仏で、一方が神の違いはあるものの、ともに厳かに朗々としたところがあった。
称名も祝詞も門外漢の私にはほとんど意味不明で耳に入るが、しかし、 それは単なる口上でなく、 清新な声量と声調によって厳粛さが伝わって来る。神官たちの祝詞の合唱を聞いていると、歌に近い音楽性があって、耳を傾ける側は、そのリズムに合わせるように聞いているのがわかる。
のど自慢などでも歌のうまい者は みな人並み外れた声量と声調を もって聞く者を感動させる。 神官たちの祝詞の合唱は、日ごろ鍛錬しているのであろう、声に張りがあって、満々たる気力が感じられ、それは魅力的であった。
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