大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2018年07月31日 | 万葉の花

<2405> 万葉の花 (138) は じ (波自) = ヤマハゼ (山櫨)

       平成のゆく夏抒情歌の日本

 ひさかたの 天の戸開き 高千穂の 嶽に天降(あも)りし 皇祖(すめろき)の 神の御代より 波自弓を 手握り持たし 真鹿児矢(まかごや)を手挟み添へて 大久米の 大夫健男(ますらたけを)を 先に立て 靭(ゆき)取り負(おほ)せ 山川を 磐根さくみて 踏みとほり 国覓(くにまぎ)しつつ ちはやぶる 神を言(こと)向け 服従(まつろ)へぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へ奉りて 秋津島 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける 皇祖の 天の日嗣と 継ぎて来る 君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽くして 仕へ来る 祖(おや)の職(つかさ)と 言立てて 語り継ぎてて 聞く人の 鏡にせむを あたらしき 清きその名そ おぼろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 祖の名断つな 大伴の 氏と名に負へる 大夫(ますらを)の伴(とも)                  巻二十 (4465)   大伴家持

 この長歌は、詞書に「族(やから)に喩(さと)す歌一首 短歌を併せたり」とあり、短歌二首を含み、左注に「右は、淡海真人三船(おうみのまひとみふね)の讒言に縁(つらな)りて、出雲守大伴古慈斐(おおとものこしび)宿祢解任せらる。是を以ちて家持此の歌を作れり」とある。

 政権の権力闘争が燻っていた天平勝宝八年(七五六年)、実権の座にあった藤原仲麻呂に反目していた淡海三船が朝廷を誹謗したとの讒言があり、出雲守の大伴古慈斐が連座したとして三船とともに衛士府に拘禁される事件が起きた。どうも仲麻呂による当を得ない告訴だったようで、二人は三日後に放免されたが、このとき大伴一族の危機を覚えた家持はこの長歌と短歌二首をもって一族に訴えたのである。

 家持は権力争いには与さず、アウトサイダー的存在ではあったが、生真面目に仕事をし、部下思いの篤いところが万葉歌の端々に見える人物の印象がある。その印象は家持が大伴氏の長としてあったこと、そして、地方任官も辞さない朝廷への恭順の念が強かったことにもよる。この恭順の念と長としての一族への思いがこの諭しの歌を生んだと見ることが出来る。

 その家持の朝廷に対する恭順の思いは、古来より皇祖とともにある大伴の名誉と信頼が揺るぎなくあったからで、その矜持によってこの一連の歌は発せられたとうかがえる。詞書の「諭す」という言葉が、家持の並々ならぬ心情を伝えている。仮に家持が三船らに同調し、次に起きる橘奈良麻呂の乱に連座していたら『万葉集』はこの世になかったかも知れない。

 その意味においてこの長歌並びに短歌二首を見れば、この一連の歌は記念すべき歌ということになる。言わば、血気に踊らされない礼節の人家持の人物像がよくあらわされた歌と見ることが出来る。この長歌と短歌二首は一族の私的な関係性によって詠まれた歌であるが、公的にも影響した歌ではなかったかと思える。では、長歌の意を見てみたいと思う。岩波書店の『日本古典文学大系』は次のように大意をまとめている。

 「(わが大伴氏は)、天の磐戸を開いて高千穂の嶽に天から降下された皇祖、瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御代から、梔弓(はじゆみ)を手に握り持ち、真鹿児矢を手挟み加えて、久米部の勇士を先に立たせ、靭(ゆき)を負わせ、山や川の磐根を踏みしだき、踏み通って国土を求めて東征し、荒々しい国つ神を服従させ、服従しない人々をも和らげ、掃き清めてお仕え申上げ、神武天皇が大和の国の橿原の畝傍の宮に宮柱を立派に立て、天下をお治めになられたというが、その皇位の継承者として、相継いで生れて来られた大君の御代御代、隠すことない赤心を天皇のお側に尽くして、お仕え申上げて来た祖先伝来の官職であるぞと、特に言葉をかけてお授け下さった立派な清い家名である。これこそ子孫が将来、幾世もうけ継ぎ、見る人は次々に語りつたえ、聞く人は鏡と仰ぐべき、朽ちさせてはならない、汚れのない立派な家名である。ゆめ、おろそかに思って、かりそめにも、祖先の名を絶ってはならない。この大伴氏と名を負った大夫たちよ」と。

 これは大伴氏の遠祖、天忍日命(あめのおしひのみこと)が天孫降臨に際して弓矢を携えて先駆けをつとめ、大いに働いたという『古事記』、『日本書紀』の伝承をあげ、祖先の功績を回顧し、大伴の誇るべき名を断つようなことがあってはならないと、一族を諭したということである。

 以上、前置きが長くなったが、この長歌の中に出て来る「はじゆみ」の「はじ」がここでは問われるところの本題である。原文では「波自由美」と万葉仮名の当て字が用いられているが、この「はじゆみ」は『古事記』と『日本書紀』の天孫降臨に際する天忍日命が持っていた弓であることは明らかで、これらを総合して考える必要がある。『古事記』では「天之波士弓」、『日本書紀』では「天梔(はじ)弓」と原文表記に見える。

              

 『日本書紀』の「梔(はじ)」が今一つわかり難いが、ハジは櫨で、ハゼとも言われ、この木で作った弓は優れた弓だったようで、この点から今日言われているヤマハゼ(山黄櫨)、或いは、ヤマハゼに極めてよく似るヤマウルシ(山漆)があげられている。ともにウルシ科ウルシ属で、ほかにも同属にはリュウキュウハゼのハゼノキ(黄櫨)や中国原産のウルシ(漆)があるが、これらは栽培目的で導入されたものが野生化して今にあるもので、神代の昔から存在していたとは考え難く、ヤマハゼ乃至はヤマウルシであるとされている。

 これに加え、ヤマハゼには「ネバノキ」、「ヤマアヅサ」等の地方名があり、弓材に適している名であることなどからヤマハゼが第一候補として見られ、ヤマウルシもヤマハゼと呼ぶ地方があり、よく似るところからこちらも弓にしたと見られるわけである。因みにヤマハゼは実からロウが採れ、ヤマウルシは樹皮からウルシが採れる。だが、今日ではハゼノキとウルシの方が生産性がよいため、こちらが植えられ、ヤマハゼとヤマウルシは雑木然として見えるところとなっている次第である。 なお、『万葉集』にはじの見える歌はこの一首のみである。

 ヤマハゼは高さが八メートルほどになる落葉小高木で、葉は奇数羽状複葉、小葉は卵状長楕円形で、鋸歯はなく、先はやや尖る。小葉の裏面は緑白色。花期は五月から六月ごろで、円錐状の花序に黄緑色の多数の小花をつける。雌雄別株で、雌花序より雄花序の花数が多く、ボリュームがある。実は核果で、秋が深まるころ黄褐色に熟す。本州の関東地方以西、四国、九州、沖縄に分布し、国外では、朝鮮半島、中国、台湾などに見られるという。心材は鮮黄色で染料に用い、辺材は淡灰白色で寄木細工などに用いられる。

 ヤマウルシはこれも高さが八メートルほどになる落葉小高木で、葉は奇数羽状複葉、小葉は卵形から楕円形で、成木の葉には鋸歯がなく、先が急に尖る。花期は五月から六月ごろで、円錐状の花序を垂れ下げ、黄緑色の多数の小花をつける。雌雄別株で、雌花序より雄花序の花数が多く、ボリュームもある。実は核果で、秋に熟す。北海道、本州、四国、九州に分布し、国外では朝鮮半島、中国、南千島などに見られるという。樹液に触れるとかぶれる。 写真は果期のヤマハゼ(左)と花期のヤマウルシ(右)。

 


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