大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2019年03月26日 | 写詩・写歌・写俳

<2637> 余聞、余話 「人生を考える」

       歩くとは生きてゐること歩きつつ詩をなすことも生きゐる証

 室に籠っていると、無性に歩きたくなることがある。昔、寺山修司は『書を捨てよ、町へ出よう』というエッセイ集を出した。これは「遊んでばかりいないで、勉強しなさい」という世上一般の常識的な言葉に対する修司らしい言いで、知識ばかり詰め込んで頭でっかちになるより、外に出て体験した方がよいということを言っていると捉えられる。仕事や勉強に追い立てられる身には頷きたいところのある言いだった。

  最近ではNHKの各地に赴いて地勢や地質によってその地の成り立ちを解き明かす「ブラタモリ」という番組の主題歌に「テレビなんか見てないで どこかへ 一緒に行こう」という件がある。テレビが「テレビなんか見てないで」とは辛辣な自虐に思えて来るが、敢て言っているところが案外視聴者に受ける。これも、『書を捨てよ、町に出よう』と同じニュアンスの言葉であり、テレビばかり見ている視聴者がときとして抱く自らの行動願望に取り入る様が想像される。言ってみれば、無性に歩きたくなる私のような者への誘い文句ということになる。

  だが、しかし、時間というのは私たち生きとし生けるものにとって有限であり、外に出て歩いてばかりいると、今度は歩いてばかりではいけないという気分が逆に襲い来たって、室に籠る誘惑が願望の形で現れて来るということになったりする。短い人生、本当はどちらかに集中し、一途を通した方がよいと思えるが、凡人にはそれがなかなか出来ない。

                                  

  このほど引退したイチロー選手の非凡は自身の体形に現れていると思っていたが、つまり、この体形は凡人が陥る誘惑の願望を振り切る意志の強さにあると言ってよいのではなかろうか。ときにはストイックという言葉でも示されるが、日米通算4367本の前人未到の安打総数は、揺るぎない自身の一途な努力で成し遂げられた。

  このイチロー選手の一途な生き方は人生を成功に導くということにおいて誰もが納得するところであろうが、凡人にはその一途がなかなか通せず、ときには「人生楽しまなくて、何が人生か」というような誘惑の囁きが自らの中に湧いて来たり、年齢が差し迫って来ると、諦観状態に入るということなども起きて来ることになる。こういうことがわかっていながら、実行は難しく、一生は中途半端に終わるということになる。どちらにしても、人生は有限の時間を歩くことであり、その有限の時間をどのように活用するかは本人の意志次第ということになる。

 写真はイメージで、誰においても人生には道があり、道の先は明るい。しかし、その道は誰もが有限の時間を費やして歩くわけで、ここに歩くものの意志の重要性が指摘されることになる。ということで、次のようにも言える。人生は有限の時空と無限の可能性を秘めた意志の整合性の上に成り立つ。言い換えれば、人生は意志の顕現であって、この顕現によって有限の時空に成り立つものとも言える。