大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2017年06月21日 | 写詩・写歌・写俳

<2000> 余聞、余話 「 錯覚と誤認 」

       夏至近し今年も半ば速きかな

 今日は夏至。写真は六月二十日に撮ったもので、法隆寺五重塔の背後から昇り来る朝日である。久しぶりに雨となった今日のブログに載せるには躊躇されたが、「錯覚と誤認」をテーマに記したかったので、イメージ写真として、敢えて載せることにした。午前五時前の撮影で、棚引く雲の切れ間からわずかに霞む太陽が見られた。

 この写真のように太陽が昇ったり沈んだりする風景に出会うと、ふと思い浮かぶことがある。この思い浮かぶところのものが今回のテーマの「錯覚と誤認」である。太陽が昇ったり、沈んだりするのを目の当たりにすると、太陽の運行が思われると同時に、私には私たちが自分の立場でしかものごとを見たり感じたりしないという習性をもって日々を過ごしているということに思いが至る。これは、即ち一種の錯覚であり、誤認であって、私たちにはこういうところがある。

 この写真に見られる昇り来る太陽の姿は、太陽が動いているのではなく、地球が自転しているからあるもので、太陽が位置を変えているのではない。知識ではわかっているはずであるが、私たちには太陽が動いているとしか感じ得ない。これは対象があまりにも大きく、その実体が私たちには把握出来ないからである。言わば、これは錯覚と誤認によるもので、この錯覚や誤認が私たちの習性になっているということにほかならない。これは私たちの能力によるものであるが、これだけではない。私たちにはほかにも多くの錯覚や誤認の状況が取り巻き生の世界に影響している。

                                       

 私はよく花を求めて山野に赴くが、草木に被われた山に入るとよく思わせられることがある。それは山が植物の世界であるということ。山に草木が繁っていることは山に入らず、遠望してもわかる。しかし、山に入ってみると、一木一草の息づかいが直に感じられ、植物が都会に集まる多くの人間同様、そこに草木の存在が実感出来る。地球上の生きものは動物と植物とある種の生物によって展開されているが、山に入ると、この地球生命における動物と植物の対等性が理解に及ぶ。

 人間が集中している都会では人間の豊かさと利便のために明け暮れ、草木、即ち、植物のことなどさほど眼中にはなく、そこいらに植えられている草木は人間が作り出し、配置するものくらいの考えによっているという雰囲気が見られる。こうしたところに生活圏を有する都会人によってほとんどが支配されて行く地球というのは、この動物と植物の対等性を無視する形で現われて来ることになる。こうした傾向は、やはり、私たちの自分本意による錯覚や誤認とともに、私たちの周りでも現われて来るということになる。

 日本は山の多い列島の国で、水と草木の緑に恵まれた国で、自然災害は多いものの、概ね温暖で穏やかな国である。その草木の緑をして世界に目を転じて見ると、それはそこに暮らす人々の精神にも影響し、概して、植物の恵みに乏しく、植物が大切に扱われていない国ほど、その精神状況はよくなく、人間本位、即ち自分本意の精神的現われが進み、殺伐とした争いごとなども起きていることが指摘出来る。これも言わば、自分本意による錯覚と誤認によるところが大きいと言える。

 ヘイトスピーチなどは、相手があってなされる言動であるが、自分本意の立場で、相手を理解することなく、攻撃的に行なわれる。これなども、やはり、相手への理解を妨げる錯覚や誤認が大きく影響している。敢えてこの錯覚や誤認を利用して対立を煽るということなども仕向けられたりする。私の経験で言えば、どんなに貧しい国でも、その国を訪れると親しみが湧いて来て、以後、印象がよくなるということがある。これはその国やその国の人たちに理解が及ぶことによる

 人工衛星から地球を見て、地球をマーブルのようだと言った宇宙飛行士は誰だったか。このほど引退した将棋の加藤一二三九段は対局の休憩中に相手の側から対局の盤面を見ていたという。この宇宙飛行士や加藤九段の逸話なども、錯覚や誤認に陥りやすい私たちには参考になるのではないか。私たちにこの錯覚や誤認が少しでもなくなれば、その関係性において世界はもっと明るいものになることが思われる。 写真は法隆寺五重塔の背後から昇る朝日。