yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

名前の話

2010-09-08 17:05:22 | 文化
日本は、もともと姓(苗字)の種類が多く、名の種類も多いようです。
江戸時代はさほどでは無かったのですが、明治以後に増え、太平洋戦争後に更に増えたと言われます。名は親が子供の幸せを祈って心を込めてつけますが、日本はいろいろなしがらみが少なく自由度が大きいようです。
 明治以前には、一人で、姓、字(あざな)、諱(いみな)、号といくつもありました。例えば、有名な西郷さんは姓が西郷、諱は元服の時、隆永、後に隆盛、字(通称)は吉之助、号は南州です。「広辞苑」によれば、諱は死後に言う生前の実名であり、重要です。
 漢字文化圏には実名敬避俗(じつめいけいひぞく)という文化があり、人の実名を呼ぶことは
失礼にあたるという考え方があります。人の名はその人の霊的な人格と結びついたものであり、その実名で呼ぶことは、「その人の霊的人格を支配する」と考えられ、無礼な行為とされました。現代では厳格に守られているわけではありませんが、実名で呼ぶことを避けて、その人の住居がある地域や町を言うことにより、婉曲に呼ぶことはよくおこなわれています。例えば大阪に住む親戚を、名前の代わりに「大阪」と呼んだりします。個人の名前を出すことを憚って、朝廷のことを「京都」と呼んだり、政治の中心のことを「永田町」と呼ぶのもこの類例です。
 さて、古来から大名家などには名前を付ける時には、伝統的なしきたりがありました。甲州の武田家ですと「信」が多く用いられました。戦国武将の信玄はもともと晴信でした。徳川将軍家は家康以来「家」が多く用いられました。織田信長家も「信」を使います。もっとも、信長は子供が多かったので、子供の幼名には奇妙、茶筅、次、坊丸、大洞、小洞、縁などと独創的でやや投げやりとも思える名があります。
 さて、次は名前にまつわるエピソードです。明治初期、太政官が諱を一つだけ申告するようにと布告を出しました。この時、伊藤博文、山縣有朋といった名前が登録されました。西郷さんの場合、同志の吉井友実が西郷さんの父の名前、隆盛を本人の諱と勘違いのまま代理登録したということです。西郷さんの弟の信吾は口頭で申告したのですが諱の「隆興(りゅうこう)」を役人が「じゅうどう」と聞き間違い、従道になってしまい、この後、西郷従道と呼ばれることになりました。この間違いには、後で気付いたのですが大人物の兄弟は些事にこだわらず、「そいで良か」と鷹揚に了承したそうです。初代司法卿の江藤は諱ではなく通称の「新平」と届けました。周囲が「それは安っぽいのではないですか」と言うと「じゃ、ニイヒラとでも訓(よ)んでくれ」と言ったそうです。江藤の平民主義的な気分がうかがえます。福沢諭吉も諱は「範(はん)」でしたが通称の諭吉を選びました。福沢らしくていい、と評価する人もいます。明治十一年生まれの与謝野晶子の戸籍名は「志やう」でしたが、彼女は「ショウ」という音から晶を選び晶子(あきこ)と名告りました。平安時代から「子」はもっぱら貴人の女性につけられて来ましたが、与謝野晶子以来、女性の名に子がつく例が多くなりました。しかし、最近は、必ずしも、子が付くとは限らず多様化しているようです。

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