今朝、目覚めたとき、妙に目が腫れぼったい感じがした。どうしてかなー、と思い起こしてみると、昨日の草取りの疲れしか思い当たらない。午前中一時間半、午後二時間、これしきのことでまいるとは!
屈んで草取りの姿勢を続けると、立ち上がった時に腰が痛くて伸びない。昔の農家のおばあさんの腰が、「く」の字に曲がっている理由がよくわかる。しかし、気になる昨日の続きを少しでもやっておきたく、今日も屈んで、腰の違和感を感じながら、なんとか一時間半くらい草取りをした。これが限界、無理をすると後悔する羽目になると思い、やめた。時間があったら、一日中母の家で庭仕事をしながら過ごしたいと思っていたが、そんなことをしたらカラダを壊すに違いない。もう年なんだから。
秋に蒔いた百花、又の名をマンバ、高菜、というアクの強い野菜が、葉っぱを収穫する機会もなく花が咲こうとしている。薹がたったものを朝漬にすると美味しいというが、ピリッと辛いのが私は苦手なので、薹と硬そうな葉っぱをいっしょに茹でて煮てみよう。一般に、冬、外側の葉を一枚一枚収穫して煮て食べる。豆腐と一緒に煮たものを、香川の郷土料理、お雪花、読み方はおせっか、という。
庭のアケビの花も満開
隣の休耕田の菜の花畑も満開。遊んでいるこの土地、私が借り受けたいといえば喜んで貸してくれるだろうが、借りるのではなく、買って果樹でも植えたいと思っている。しかし、このあたり一帯、規格整備しているし、農地であるから買うことはできないらしい。
車で走っていても、桜の木って本当に多いなあと思う。どうしてこんなに桜を植えたがるんだろう。こどもの頃、春の遠足は、1,2キロ歩いて神社、仏閣、公園などの桜の花見だったように思う。桜はそのような場所にしかなかった。今、池のほとり、田んぼの畔、ふつうの道端、あらゆるところに1本、2本の桜が植えられている。生活が豊かになったからだろうか。実のなる木のほうが楽しくない? かつて、農家の屋敷にはどこの家も柿を植えていた。母の家にも7本あったと思う。今は実りの少ない木が1本あるだけ。果樹を植えて実りをいただこうという時代ではなくなったのか、果物はお店で買うものなのか。私は、山を歩いているとき、ヤマモモや桑やキイチゴの実をみつけると、とてもうれしくなる。自然とともに生きているという気がするからだ。