山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

生命の画家・安達巌(4)

2009-10-23 01:09:52 | くるま旅くらしの話

<精進、精進、そして精進>

世界身体障害者芸術協会(現在は口と足で描く芸術協会)というのがある。この団体はリヒテンシュタインに本部を置き、身体障害者の芸術作品による自立を目指して、世の中の厳しい環境におかれた障害者の人びとの、芸術に関する才能を発掘し、育てる活動を続けている。【詳しいことは、『口と足で描く芸術協会』のホームページにアクセスして欲しい。協会名をそのまま打てばアクセスできる】 この組織は世界的組織であり、我が国の会員第1号は、無手の画家(「無手の法悦」などの著書があります)としても著名な大石順教尼だった。安達巌は、間もなくその人の弟子となった。

新聞に取り上げられ名の広まった時から、巌青年の人とのつながりが拡大して行く。彼は絵で生きてゆくことを決心し、お世話になった鉄工所を辞め、世界身体障害者芸術協会から頂けることになった奨学金を元に絵の世界に没頭、集中し、精進してゆく。順教尼に師事する傍ら美術研究所に通って絵を学び、新槐樹社という画家の集まりにも参加し、何度も入選を果たし、やがて会友となっている。今まで願っても、やりたくても出来なかった絵に対する学びに、彼は心血を注いだのだった。奨学金に報いるためにも、絵に集中し、絵の完成度を上げることが自分の努めであり、そのことの実現のためには、どんなことでも彼にとっては苦労などではなく喜びだったのである。

その努力は少しずつ実を結び始めてゆく。奨学生となった2年後には絵の実力を認められて世界身体障害者芸術協会の正会員となった。現在の口と足で描く芸術協会でも世界に正会員はたった100名しかいない。当時はもっと少なかったに違いない。正会員になれば、給料も貰えることになり、生活はより安定するけど、一方で何とか協会のために働きたいと、絵で手伝いできることには、私事のことは措いても労を惜しまなかったのである。

そのような暮らしの中で、世の中人のためにという亡き母の言葉を決して忘れることは無かった。ある時、障害を持つ子の小学校の特殊学級に、50号の絵を寄贈したことが話題となり、新聞に取り上げられたのだが、この記事を読んで何人もの方から感動と励ましの手紙を頂いた中に、一人の女性がいた。絵に没頭していた暮らしの中で、時には年齢相応に若い女性との付き合いも夢見たのだったが、なかなかその機会は無かったのだった。それがこの便りを貰ってから、少し経って初めてのデートにつながったのだった.

その女性は宮崎県出身で、中学校を卒業して大阪の会社に就職し、今は美容師を目指してその仕事をしているという。その名は日高昌子。巌の生い立ち・境遇とは違ったけど、ふるさとの家族のことなどを含めて、決して楽ではない暮らしの環境の中にあった女性だった。この馴れ初めが、やがて(というよりも一気に)終生の伴侶へとつながってゆく。何とデートから数週間後、その彼女が、身の回り品を持って彼の住むアパートにやって来たのである。そして、私をお嫁さんにして欲しい、と願い出たのだった。その時の巌には、未だ結婚のことなど全く頭に無かったという。突然の申出でに驚かないのは不思議といえよう。いやあ、驚いたと、その時のことを述懐するのを聞きながら、私は世の中にはこのような女性もいるものなのだと思ったのだった。自分のこれからの一生を託す人をこのような形で選ぶ勇気のある女性は少ないと思う。それなりの覚悟を持って臨んだに違いない。とすれば、男としてもそれなりの覚悟を持ってこの場を受け止めなければならない。それから後に、どのようなやり取りがあったのかは知らない。知らないけど、自分と一緒の人生には想像以上の困難があることを話し、それを乗り越える覚悟があるかを何度も念を押して確認したというような話を聞いたことがある。後になって聞く押しかけ女房の話は笑いながらのものだったけど、その時の二人の話し合いは決して笑えるようなものではなかったに違いない。

巌の決断は早かった。彼女の思いを受け入れることに決めたのである。そして直ぐに婚姻届を出しに役所へ。この覚悟は、今の時代のいい加減な男女の結びつきとは雲泥の差がある。お互いが全責任をもってお互いを生涯の伴侶と決めたのである。そして、それからの二人は様々な試練、困難を乗り越えて画家として成長していったのである。

この後も安達巌夫妻にはたくさんのエピソードがある。東京オリンピックの後初めて開催されたパラリンピックへの参加と金銀銅メダルの獲得、二人の子どもの誕生、宮様の前での実演、TVへの出演、インターナショナルハンディキャップアーチスト展での第1位入賞の数々、恵まれない人たちや学校への絵の寄贈活動、大学での絵の指導、等々、世の中人のためへの活動は挙げるにいとまが無い。それらを個々に紹介してゆくのはこの場では難しい。

【知りたい方は、彼の画集をご購入頂き、巻末の安達巌の歩みをご覧下さい。そこには昌子夫人が克明に調べた彼の人生の主な出来事が記されています ~ 画集の注文先は、〒582-0026柏原市旭ヶ丘1-1-50小生の安達昌子。頒布価格2500円。送料は購入者負担です。私のホームページでも受付けますので、メールにてご注文下さい】

さて、ここからは彼の絵のことについて触れたい。彼の絵には、写実的なものが多い。特に得意とした古民家や農村の風景画は、その大作の前に立つと、まるで本物の世界がそこにあるかのごとき幻覚に一瞬襲われる感じがするほどである。いつだったか自動望遠レンズの付いたカメラで、彼の描いたスペインへの旅の際の古城の風景画を撮影しようとして、いろいろやってみてもカメラが絵を認識せず本物風景を認識して焦点が動いてしまい、なかなか絵をカメラに収められなかったことがある。写実的なのだ。しかし写真も丸写しなどではない。なんとも言い得ぬ温かさが彼の絵にはある。それは彼が独自に編み出した色使いによるものだと思うが、その根源には、彼の絵の対象に対する人間としての温かさがある。景観全体を飲み込む温かさである。それは人間に対する温かさであり、この世の全世界に対する温かさでもある。その温かさをもたらすエネルギーは大きい。それはとりもなおさず安達巌という人間のエネルギーの大きさであり、絵に対する彼の生命を削っての取り組みのもたらす力の大きさでもある。

芸術の真価が何であるのかを私はよく知らないけど、思うことはその作品が、それを受け止め感ずる者の魂をどれほど揺さぶるかにあるに違いない、と思っている。私は、安達巌の作品にはその力が有り余るほど溢れていると思っている。口に筆をくわえながらも、何故あれほどの繊細な表現を追い求めたのか。敢えて手間のかかる描き方を選んだのか。それは写実性を表現するために彼の生命が選んだ道なのではないかと思うのだ。真実というのは一つの事実に過ぎないものかもしれない。とすればその真実を克明に表現することによって、自分の思いをそこに籠めて伝えたいというのが、彼の絵に対する基本的な姿勢だったのではないか。一時、抽象画の世界にも浸った時があったようだけど、抽象画は一般大衆には画家のメッセージが伝わりにくい手法だと思う。安達巌は、あくまでも世の中の普通の、弱い心を捨て切れない人たちのために、命を削り籠めて写実的なわかりやすい絵の制作に力を入れたのだと思う。

遺作展の名称を、昌子夫人は「安達巌 生命(いのち)のメッセージ展」と名付けられた。まさにその通り、彼は短い一生の中で、絵に生命を賭け、生命を削り籠めて作品を生み出し続けたのである。彼にとって絵筆を持つのは口であっても足であっても身体のどこであってもそれが絵を描くために使えるのであれば、それを活かして絵を描いたに違いない。ある時歯がかなり傷んできて厳しい状況になりつつあると聞き、もし口にくわえられないような状況になったら、どうされるのかと訊ねたことがある。その時彼は、こともなげに、なに、未だ両足があるから大丈夫、と言われたのだった。その時、ああ、この人は本当に全知・全身を使って絵を描くと言う命がけの仕事をしているのだ、と思ったのだった。

遺作展などではなく、これが個展であったなら、彼はニコニコしながら、来訪者の前で制作の実演をされたかもしれない。絵描きの人たちは、高名になればなるほど人前で絵を描くことなど決してしなくなる。大道芸などではないと言うプライドがあるのは当然かも知れない。しかし、安達巌は、請われれば躊躇なく実演をひきうけた。そのことについて何を言われようとも気にしなかった。そのような世間のあらぬコメントなどよりも、自分の制作の様子を見た来訪の人びとが、その姿から何かを感じ、生きる活力に役立てて貰えばそれが大切と、その信念を貫いたのだった。私が元勤務していた企業は障害者の作品の絵画展を全国各地で継続して開いているが、その中での安達巌の貢献は大きい。彼の絵を描く姿を見て勇気付けられ、元気を貰った人は多いのではないか。

ずらずらと書いて来たが、どうもうまくまとまらない。今までにもこのブログで何度か紹介しようとしたのだが、安達巌の一生は、私が書き述べるにはあまりにも大き過ぎる。尻切れトンボの感じは否めないけど、安達巌の絵をご覧になる際の何らかの参考になれば嬉しいと思う。

最後に昌子夫人のことに少し触れたい。彼女については、「60歳のラブレター」に関して、このブログで「60歳のラブレターに思う(5/24)」「アンビリーバブル(6/4)」で紹介させて頂いているけど、夫に先立たれた後の彼女の活躍は素晴らしい。夫は生前叶えるべき4つの夢を持っていたという。その1は個展を開くこと、その2は画集を世に出すこと、その3は国会図書館に自分の画集が登録されること、そして最後の一つは天皇家に自分の画集が届くことだった。その夫の夢を彼女はこの3年間の間に思いを籠めて準備をし続け、この度その全てを実現させたのである。経済的にも厳しい中にあって、そのご苦労は並々ならぬものがあったと思う。彼女の健闘に対して、改めて心から称賛の拍手を送るとともに、叶った念願に対するお祝いを申し上げたい。(おわり)

安達巌 遺作展 (昌子夫人の企画運営による)

「安達巌 生命(いのち)のメッセージ展」

期間:10月22日()~28日()

場所:近鉄上本町店6階 美術画廊(天王寺区上本町6--55

後援:読売新聞大阪本社/社会福祉法人読売光と愛の事業団大阪支部

     

 

<お知らせ>

ご紹介した安達巌の遺作展にお邪魔しがてら、山陽道や日本海エリアの小さな旅をしようと考え、今日(10/23)出発することにしました。遺作展は昨日から始まっています。どのような会場なのか訪れるのがとても楽しみです。会場には明日の午後訪ねる予定です。ブログの方は、しばらく携帯での発信となりますが、今回は行程をお知らせする程度に止め、戻ってから改めてブログにて旅の様子を紹介したいと思っています。

 

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