今日12月15日は、私の69回目の誕生日である。満68歳、数えでは70歳の古希である。もう既に古来稀なりという年齢に到達してしまったということだ。いやはや、どうも。
どなたの作か知らないけど、「元日は冥土の道の一里塚嬉しくもあり嬉しくもなし」という狂歌を、亡き父が、今の自分と同じ歳の頃に話していたのを覚えている。そんなのは爺様の感慨だ、と気にもしなかったけど、この頃はそれを実感するようになってきている。自分自身もその老域に入っているということなのであろう。冥土というのがどのような世界なのか良く分らないけど、それほど困った嫌な世界でもなさそうな気もしている。
人生を80年の限定された時間として捉え、それを24時間表示で表わすと、1年で20分ずつ針が進んで、70歳では丁度21時となり、自分にはあと3時間ほどしか時間が残っていないことになる。人生24時間の内、たったの3時間しか残っていないのだ。もう人生の1/8の時間しか残っていないのである。今まで21時間もの間、一体何をしてきたのかという感慨が少しあるけど、それよりもこれから3時間の人生を、どう過すかが自分にとっては重要な課題だと思っている。
さて、どう過せばよいのか、どう過すべきなのか。先ずはその前に最大の条件は、健康であることだ。これが満たされない限り、どんな勇壮な夢を描こうと画餅にもなりはしない。ただの空威張りに過ぎなくなる。それほどに老と病とは近い関係にあるようだ。現に今の自分自身も糖尿病との付き合いを深めている存在にあり、何時合併症が出てきても文句を言えないほど、毎日悪友の酒と付き合っているのである。この悪友を適当にあしらうために、今年は毎日8kmほどの歩きを身に課している。この程度のことで、糖尿君が我が身のこれからを保証してくれているとは思えないけど、一先ずは、今のところ我が身の健康の基盤はこの糖尿君との付き合いのあり方にかかっていると思っている。
さて、元に戻って、これからをどう過すべきかということだが、私は古希といわれている年代からこそが我が人生のエポック時だと思っている。あと3時間しかないけど、この3時間は、存分に好き勝手なことをやって過したい。
勿論その核となるのは、くるま旅くらしである。好き勝手といっても、絶対年齢は老人なので、どんなに気分は少年であっても、身体的にはこれに逆らう余地もなく、若者と同じような冒険などにチャレンジするのは無謀というものだ。体力的にはそのことは素直に認めて、より純粋な少年のような夢に向いたいと思っている。
先ずは日本中を旅してみたい。蕉翁や山頭火や牧水或いは桂月のような旅とも違う、今の世ならではのくるま旅をして見たい。そしてその面白さ、楽しさ、そしてそれが生きていることの証なのだということを(これは大げさ過ぎるのだが)記録として残してみたい。とにかく、じっと家に居て、TVを見たり、本など読みながら、誰も聴きもしない世間の出来事などに対するコメントなどをほざいているような生き方はしたくないなと思っている。
もう一つ、残された3時間の間に人生の残された最大のテーマである「死」ということについても明確にしておきたい。80歳以上生きたとしたら、それは自分の余禄の時間であり、死を考えなければならない時間だと思っている。どう死ぬかというのは、方法論としては簡単なような気がするけど、現実には論にはならない難しさがあるようだ。今頃は死の前に人間離脱というような病が増えてきており、この病を防ぐのが大変に難しいような気がしている。
いずれにしても、誕生日というのは、この頃では考えさせられる日である。生まれて来たことと、それが終わることを考えさせられる日である。