山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

誕生日

2008-12-16 03:41:23 | 宵宵妄話

日12月15日は、私の69回目の誕生日である。満68歳、数えでは70歳の古希である。もう既に古来稀なりという年齢に到達してしまったということだ。いやはや、どうも。

どなたの作か知らないけど、「元日は冥土の道の一里塚嬉しくもあり嬉しくもなし」という狂歌を、亡き父が、今の自分と同じ歳の頃に話していたのを覚えている。そんなのは爺様の感慨だ、と気にもしなかったけど、この頃はそれを実感するようになってきている。自分自身もその老域に入っているということなのであろう。冥土というのがどのような世界なのか良く分らないけど、それほど困った嫌な世界でもなさそうな気もしている。

人生を80年の限定された時間として捉え、それを24時間表示で表わすと、1年で20分ずつ針が進んで、70歳では丁度21時となり、自分にはあと3時間ほどしか時間が残っていないことになる。人生24時間の内、たったの3時間しか残っていないのだ。もう人生の1/8の時間しか残っていないのである。今まで21時間もの間、一体何をしてきたのかという感慨が少しあるけど、それよりもこれから3時間の人生を、どう過すかが自分にとっては重要な課題だと思っている。

さて、どう過せばよいのか、どう過すべきなのか。先ずはその前に最大の条件は、健康であることだ。これが満たされない限り、どんな勇壮な夢を描こうと画餅にもなりはしない。ただの空威張りに過ぎなくなる。それほどに老と病とは近い関係にあるようだ。現に今の自分自身も糖尿病との付き合いを深めている存在にあり、何時合併症が出てきても文句を言えないほど、毎日悪友の酒と付き合っているのである。この悪友を適当にあしらうために、今年は毎日8kmほどの歩きを身に課している。この程度のことで、糖尿君が我が身のこれからを保証してくれているとは思えないけど、一先ずは、今のところ我が身の健康の基盤はこの糖尿君との付き合いのあり方にかかっていると思っている。

さて、元に戻って、これからをどう過すべきかということだが、私は古希といわれている年代からこそが我が人生のエポック時だと思っている。あと3時間しかないけど、この3時間は、存分に好き勝手なことをやって過したい。

勿論その核となるのは、くるま旅くらしである。好き勝手といっても、絶対年齢は老人なので、どんなに気分は少年であっても、身体的にはこれに逆らう余地もなく、若者と同じような冒険などにチャレンジするのは無謀というものだ。体力的にはそのことは素直に認めて、より純粋な少年のような夢に向いたいと思っている。

先ずは日本中を旅してみたい。蕉翁や山頭火や牧水或いは桂月のような旅とも違う、今の世ならではのくるま旅をして見たい。そしてその面白さ、楽しさ、そしてそれが生きていることの証なのだということを(これは大げさ過ぎるのだが)記録として残してみたい。とにかく、じっと家に居て、TVを見たり、本など読みながら、誰も聴きもしない世間の出来事などに対するコメントなどをほざいているような生き方はしたくないなと思っている。

もう一つ、残された3時間の間に人生の残された最大のテーマである「死」ということについても明確にしておきたい。80歳以上生きたとしたら、それは自分の余禄の時間であり、死を考えなければならない時間だと思っている。どう死ぬかというのは、方法論としては簡単なような気がするけど、現実には論にはならない難しさがあるようだ。今頃は死の前に人間離脱というような病が増えてきており、この病を防ぐのが大変に難しいような気がしている。

いずれにしても、誕生日というのは、この頃では考えさせられる日である。生まれて来たことと、それが終わることを考えさせられる日である。

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皇帝ダリア

2008-12-15 05:04:08 | 宵宵妄話

秋の花といえば、何といっても菊だと思っていた。それはある意味で今でも変ってはいない。ある意味というのは、日本人としてということなのかも知れない。菊の花の楚々たる、或いはゴージャスな咲き方と気品のある芳香は、日本人としての粋に叶った花だと思っているからである。

しかし、最近では年がら年中、名前もわからなければ、わけもわからないような花が世界中から集められて、花屋やホームセンターの売り場に溢れている。花は皆美しいと思っているけど、これほどいろいろなものが乱れて現れてくると、何を見てもあまり感動しなくなってしまうのではないかと、ひねくれ性分の自分にはやや批判的な見方を我慢できない。

我が家の秋の花といえば、菊とツワ蕗と皇帝ダリアである。菊は平凡な黄花と白花、それにもってのほかという食用菊が植えてある。食用菊は摘んで茹でて、今は冷凍庫の中に納まっている。ツワブキと皇帝ダリアは、4年前の九州への旅で、宮崎の日南エリアから連れてきたものだ。ツワ蕗は日南海岸の林の中に自生していたものを一株だけ連れてきたのだが、冬になる前の今頃、透明感のある黄金色の花を咲かせてくれている。愛着を覚える花である。

   

ツワ蕗の花。目立たないけど、良く見ると健気さの中に気品のある花である。

皇帝ダリアは、飫肥の城下町を訪れた時に、武家屋敷跡の家々の庭に幾つも咲いているのを見つけて、興味を抱き、どうしてもそれが欲しくなって、旅の途中にずっと捜し求めて、ついに大分県の大野町(現在は豊後大野市)という所の植木屋で苗を見つけて、我が家に連れてきたのだった。今日はその皇帝ダリアの話である。

   

4年前の飫肥の武家屋敷の庭に咲く皇帝ダリア。このエリアには、どこの家にもこのように皇帝ダリアが植えられていて、異彩を放っていた。

連れて戻って我が家の庭に定着してから4年を迎えたが、今では我が家の秋の花といえば、その首座はすっかり皇帝ダリアとなってしまっている。家に連れてきた時は、晩秋でその細い苗木は息も絶え絶えとなっており、一応庭に穴を掘り堆肥等を遣って来春の芽吹きを待つことにしたのだが、果たしてちゃんと生きていてくれるのかが心配だった。九州から千キロ以上の旅をして異郷の地に植えられたのだから、命が尽きてしまっても無理のないことなのかも知れないと思ったりしたのだった。

しかし翌年の春になると、元気に2本の芽を出して心配を一掃してくれたのだった。そのときの嬉しさは今も忘れてはいない。そしてその後2本の芽は、やがて直径が10cmにもなるほどに大きく成長して、秋になるとそれはもはや草と呼ぶには無理があるほどの3メートルを超える巨大な背丈となり、たくさんの花を咲かせてくれたのだった。この地にはそれまでこのような花が身近にあまり見かけられなかったので、ご近所の方の関心を引いたものである。

それから3年経って、この間に増やし方も軌道に乗り、今は庭の他にも菜園にも1本植えてあり、多くの方の目を楽しませてくれている。この花を増やすには、花が終わった後に太い竹のような節のある幹を、2節くらい付いた長さに切った株を、そのまま20cmくらいの深さの地中に埋めておくと、来春はその株から新しい芽が出てそれが育つというやり方である。

飫肥で見たときはこの地方固有の花なのかなと思ったのだが、その後調べてみたら、メキシコ原産のやや熱帯性のエリアの花ということだった。最近では、この辺のホームセンターでも苗木が売られており、近所を歩いていても時々咲いている花を見かけることがあるようになった。何しろ草丈が3メートルを越す高さに、びっしりとダリア風の花が咲き続けるのであるから、目立つのである。今年の我が家の花は、4メートル近くにも伸びたため、花の最盛期に見舞われた強風のために、支えていた柱の上部から倒れてしまったのだった。おかげでその後は横にしたままでの、間近かな花の観賞となったのである。

皇帝ダリアは、青空に映える花である。真っ青な空に薄赤紫の花が輝くのが最高に美しい。曇り空ではこの花の美しさは目立たない。ツワ蕗などは、むしろ曇り空や時には雪空などが似合うような気がするが、皇帝ダリアは、やはり南国の青空が命を輝かせる花なのであろう。今は世の中全体がくすんだ色に染まってしまっているけど、時にはこの花の輝きに浮世の憂さを忘れることも必要なのではないかと思っている。我が家の庭の分は終わって、今は畑に植えたのが最後の花を空に輝かせてくれている。これからもずっと、我が家の晩秋の花の首座はこの花となるに違いない。

   

我が家の庭の今年の皇帝ダリアの花。青空に生えて美しい。このような花を半月ほど絶え間なく咲かせ続けてくれる。

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鬼怒川のこと

2008-12-14 03:20:41 | 宵宵妄話

 私の住んでいる守谷市には、3本の大きな川が流れている。東に小貝川、西に鬼怒川そして南に利根川である。私の家からは鬼怒川が一番近くて、歩いて15分ほどで川辺に着くことができる。小貝川は30分ほど、そして利根川までは6km近くあって、50分近くかかってしまう。どの川も散歩のコースとして使いたいのだけど、利根川は堤防に届くまでが大変なので、歩いては滅多に行ったことはない。一番多いのは小貝川のコースである。少し遠いけど、堤防の上から川や筑波山などを見ながら、しばらく歩くことが出来るからである。

 ところで今日は鬼怒川の話である。前にも書いたような気がするけど、守谷に来るまではこの地で鬼怒川が利根川に合流しているなどとは、まったく知らなかった。初めて鬼怒川の方に歩きに行った時、この川は何というのだろうと調べたら、それが鬼怒川だったのである。かなり水量の多い流れで、川原というものが殆どなく、竹や篠などのブッシュが生い茂った両岸にはなかなか近づけない、あまり愛嬌のない川だった。

後で知ったのだが、この辺りの鬼怒川は、運河なのだそうな。江戸時代の初期までは利根川とは別の独立した川で、江戸湾に注いでいたものを、家康の命による瀬替え工事(川の付け替え工事?)により、運河を掘削して守谷の地で利根川に合流するようにしたとか。往時の、河川の氾濫を何とか防ぐための治水事業は、国を治めるものにとっては、最重要課題の一つだったに違いない。それにしても川を付け替えるというのは、半端な工事ではなかったのだと思う。

この工事と併せて、それまで支流だった小貝川を鬼怒川から切り離し、これを更に下流で利根川に注ぐようにしたということだから、これは関東平野を流れる大河を調整する大工事だったということが出来る。

そのようなわけで運河であった鬼怒川は、川原などがあるはずもなく、藪を押し分けて入ってゆかないと川の流れを見ることが出来ないのである。したがって、歩きのコースとしては、あまり親近感が湧かないものとなってしまうのは仕方がない

   

守谷市内の滝下橋から鬼怒川の上流を望む。両側が森となっており、川に近づくことは困難。

鬼怒川という呼び名には凄まじいイメージを思い浮かべてしまう。鬼が怒る川というのだから、恐ろしい。暴れ川というイメージが大きい。一旦暴れ出すと鬼が破壊棒を振り回す如く、大地をめちゃくちゃにしてしまうという感じだ。上流の方には川治や鬼怒川の温泉エリアが有名だけど、まだ行ったことはない。恐らく彼の地の河原には、巨岩などがゴロゴロしているのではないか。平地を流れるに従って、石ころはなくなり、ただ水だけが流れる川となっているのであろう。

守谷の隣のつくばみらい市に小絹というところがある。この「絹」は鬼怒川の「鬼怒」が転訛した呼び方のようである。一説には平静の鬼怒川は絹(あるいは衣)のように穏やかで滑らかな流れを湛えているというところから絹という呼び名がうまれたとか。同じ川なのに、ことばから来るイメージには天と地の差がある。これは人間の姿にも似ている感じがする。

今日は久しぶりに鬼怒川が利根川と合流する地点まで自転車で行ってみた。その辺りは広大な田んぼや牧草地が広がっており、まったくの田園地帯である。銚子の海から97km地点が合流点となっていて、そこからは常磐高速道や先年開通したTX(つくばエキスプレス)などの鉄橋が直ぐ傍に見える。ここまでやってくる人は殆どいないのではないかと思ったのだが、突端の方にある駐車場には何台かの車が泊まっており、ラジコン操縦の飛行機を飛ばす人たちの溜まり場となっていた。何やかにやと不安の風が強く吹いているけど、日本はまだまだ平和なのだな、と思った。

   

守谷市大木地区で鬼怒川(左手)は利根川(右手)と合流する。遠くに見える鉄橋はTXのもの。その手前に常磐道が走っている。

守谷に移り住んでからもう5年が過ぎようとしているが、幸いなことにまだ一度も鬼になった川を見たことがない。いつ近くを通っても絹の表情である。願わくば、生きている間はずっと絹川であって欲しいと思っている。

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袋田の滝

2008-12-13 05:13:41 | くるま旅くらしの話

先週袋田の滝を見に行った。昨日の湯の澤鉱泉もその時の目的の一つだった。久しぶりに奥久慈の遅い秋を訪ねてみようと思ったのだった。

私は茨城県の日立市で生まれたのだが、戦争のために、両親が疎開・入植という生き方を選んだため、育ったのは県北の常陸大宮という所だった。私が少年時代を過ごした頃は、大宮町は合併前で、幾つかの町村に分かれており、その中の玉川村という所の小・中学校でお世話になったのだった。それが、平成の大合併で、何と市制をひくことになったのだから、時代の変化は驚きという他ない。

平成の大合併で、昔からの市・町・村というイメージは相当に崩れ出しているように思う。もはや村などという自治体は、間もなく消滅してしまうのではないか。如何に行政のコスト効率のためとはいえ、本当にこんなことでいいのだろうか。歴史が抹殺されるような気がして、古い人間には、一抹の寂しさを禁じえない。

話が少しズレたが、茨城県というのは、あまり高い山がない。最高峰が福島県・栃木県との境界点となる八溝山で、この山の高さは1022mしかない。筑波山も877mであり、高山というには程遠い標高である。子供の頃から山に行くのが好きで、大人になったら雪を冠するような山に登ってみたいと考えていた。しかし県北ではそのような山はなく、八溝山などは、交通の便が悪くて、当時はとても日帰り登山のできるような山ではなかった。そこで登山といえば、袋田の滝の少し南側にある同じ八溝山系の男体山というのに向うのが常だった。男体山は標高654mの山だが、その名のとおり岩がごつごつと固まって出来ているような山であり、ちょっとした登山の体験が出来るような気がして、時々登ったものである。

私は八溝山を水源とする清流久慈川の上流域の奥久慈と呼ばれる一帯が好きである。春の新緑、秋の全山紅葉は、久慈川の清流と相俟って、都会にはない本物の日本の姿を表現してくれているように思う。同じような場所は、全国にもたくさん残っていることを、くるま旅を始めてから知ったのだが、我がふるさとにそれが残っているのが嬉しい。

というわけで、時々奥久慈を訪ねるのだが、その中心は何といっても袋田の滝である。袋田の滝は日本三名瀑の一つに数えられているということだが、そのような気取った話にはあまりとらわれないことにしている。滝にはそれぞれの美しさがあり、その美しさに順番をつけて見るというような考え方には賛同出来ない。袋田の滝の素晴らしさは、四度の滝と呼ばれるスケールの大きい流れにあるのだと思っている。このような滝はわが国でも数が少ないということなのであろう。

町営駐車場に車を置いて滝まで往復して1時間ほどの散策となった。袋田の滝付近の観光化された箇所はあまり好きではない。地元の方には申し訳ないけど、百年一日のような店出しではなく、もう少し工夫した商売は出来ないものかといつも思う。

何年か前に滝見用の随道が掘られて、滝を間近かに見られるようになったが、そのために300円も払うのは嫌なので、前回のようにうっかり入るのは止め、今回は反対側の散策コース側から滝を見ることにした。

袋田の滝を際立たせるのは、新緑と紅葉だと思うが、今回の訪問はもう紅葉が終わってしまっていて、ひたすら流れ落ちる水の白い糸と谷間に響く音を聴くだけだった。でもそれだけで十分満足だった。

   

袋田の滝。もう紅葉は終わってしまって、冬に向う中途寺半端な時期だったが、思ったよりも豊かな水の流れだった。

少し前の新聞に、新しいエレベーター付きの滝見台が出来たという記事が載っていた。それによると四度の滝を上から覗くことが出来るという。まあ、いろいろと考えるものだなと思った。同じものを、角度を変えて見ると言うのは、新鮮なのだろうけど、それは一時的なことに過ぎないように思う。下から見ていた滝を上から見るというのは、興味あることには違いない。しかし、水は下から上に流れることはなく、上から滝を見てもやはり水は下に流れているだけなのだと思う。

このように書くと、私の偏屈さ加減がいっぺんにバレてしまうのだけど、その後の新聞の記事では、袋田の滝のある大子町では、来訪する観光客が倍増して、対応に苦慮しているなどということが書かれていた。これをまともに受けて、駐車場やその他の観光客対策を真面目に行なったら、やがて町は3年も経てば大変な迷惑というか裏切りを実感するに違いない。止めといた方がいいよ、というのが私の感想である。

今の世は薄っぺらな興味本位のものの見方が溢れかえっている。寄席の芸人が世の中を主導している感じがするほど、大衆は興味本位のセリフやつくりごとに安堵感を見出しているように思えるのである。滝を上から覗くなどというのは悪趣味の一つに過ぎないのではないか。大枚を叩いてその悪趣味を実現させたのは、結果的には今のところ成功しているということなのであろうが、さてさて、コストを回収すればそれで良いではないかというだけなのだろうか。

300円が惜しいというしみったれた考えが根っ子にあって、今回は敢えてそのエレベーター付きの滝見台には行かなかった。これはケチということなのであろうか。自分でも少し迷っている。「丸い卵も切り様で四角」ということばがあるが、袋田の滝が上から見下ろすなどという、今までの固定観念()を破却するような存在となるのが、どうにも納得できないのである。

ゴチャゴチャ考えながら車に戻ったのだが、途中にある昔からの風景が、自分を我れに還らせてくれたのだった。軒先に干し柿を回し巡らせた麦藁屋根の農家の景色こそが、袋田の滝を昔に戻すのにつながっている本物の景観なのだと思ったのである。

   

滝に向う道の途中にある農家の風景。昔はこれがこの地方の標準的な住まいの姿だった。 

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温泉博士

2008-12-12 05:28:47 | くるま旅くらしの話

今日本屋さんから連絡があり、温泉博士を迎えに行った。と書いたら、変な顔をする人がたくさんいるのではないか。どうして温泉博士が本屋さんにいるの?ということになる。

実は温泉博士というのは、温泉に関する情報誌なのである。毎月発行されており、関西エリアでは温泉愛好家や旅を楽しもうとする人には以前から人気のある本だったらしい。らしいというのは、関西の知人から何度も話を聞いてはいたのだが、そこに掲載されているのが、関西以西のエリアの温泉の紹介ばかりで、そうそう遠くへは出かけられないので、自分で手にすることはなかったのだった。

ところが、先日四国八十八ヶ所巡りの旅をした帰りに、大阪の知人宅に寄ったときの話で、今は全国の温泉を紹介していると聞き、その日に書店に買いに連れて行って頂き手に入れたのである。そして旅の帰り道に、幾つかの温泉に立ち寄ってお湯を楽しませて頂いたのだった。

この情報誌は月刊誌で、その中に温泉手形というのがあり、そこに掲載されている温泉には無料で入ることができるというのである。どのようなシステムになっているのか解らないけど、名のある温泉に無料で入ることが出来るというのは、年金暮らしの者には大変ありがたいことである。

最初は無料(ただ)で温泉に入るというのは、少し厚かましいのではないかという気がして、少し腰が引ける感じだったのだが、何箇所かの温泉に行っている内に、少し考えが変わって来ている。というのは、もしこのガイド誌がなかったら恐らく終生行かないであろう場所に行くことができて、そこで思わぬ発見をすることがあるのを知ったからである。そして、それは単に自分たちだけが得をするというだけではなく、無料で温泉入浴をプレゼントしてくれている施設や宿にとっても益するものがあるに違いないと思うようになり出したのである。本当にいい温泉には、もう一度行きたくなるし、他人(ひと)にも薦めたくなるものである。温泉博士というのは、なかなか乙なアイデアだなと敬服している次第である。

先日この本に載っていた、茨城県北部の常陸大宮市の山方という所にある、湯の澤鉱泉というのを訪ねた。実は常陸大宮市というのは自分の育った所であり、山方(旧山方町)は亡き母の出身地でもある。そのような身近な場所なのに、鉱泉とは言え温泉宿があるなどとは、迂闊にも今まで全く知らなかったのである。偶々温泉博士に掲載されていたので、袋田の滝などを見がてら、ちょっと立ち寄り湯をしてみようと考えたのだった。

生前母を車に乗せて何度も通ったことのある道を行くと、温泉の案内板があるのに気づいた。母と一緒の時には気づかなかったものである。母からも温泉の話は一度も聞いたことはなかった。細い横道を登り下って少し走ると小さな温泉宿があった。日本秘湯を守る会のメンバーだという。我がふるさと近くに秘湯などというものがあるなどとは、夢にも思わなかったのだが、確かに知る人ぞ知るという温泉なのかも知れない。

   

湯ノ澤鉱泉の宿の玄関。小さな山の宿だが、鉱泉であっても泉質は抜群。ただし、温いので、せっかちの人にはその良さをなかなか実感できないかも知れない。

早速温泉に入らせていただく。5~6人が入れるほどの檜の湯船が一つあるだけの素朴なお湯だった。温泉の窓から見える景色は、松や杉それにクヌギや楢などの雑木林に囲まれていて、静かな山の宿の風情を湛(たた)えていた。お湯の方は温(ぬる)かったが、その分長く入れて、結果的にはよく温まるとてもいいお湯だった。

この温泉の近くにも最近は幾つかの日帰り温泉施設があり、そこには何度か行ったことがあるのだが、皆同じようなパターンの施設で温泉宿の風情など皆無である。しかしこの温泉は、鉱泉というのが嘘ではないかと思うほど、素晴らしい温泉だった。もし温泉博士が無ければ、身近だったのに、その存在すらも知らずに終わってしまったに違いない。母が生きていれば是非とも連れてきたかったのにと、悔やんでも遠の昔に手遅れである。

無料の温泉という餌に釣られて、ノコノコ出かけて行くのは男の面子(めんつ)に係わるなどと思っていたのだったが、実際には面子などという矜持(きょうじ)はとっくの昔に消し飛んでおり、そのようなことを誰も意に介してなどいるはずもない。湯に浸りながら、この湯ノ澤鉱泉には、これからは何度もお邪魔することになるだろうなと思った次第である。

※「温泉博士」は、マガジン倶楽部社発行です。毎月の10日発行。今日は、地元の書店の店頭にも置かれていました。 

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不断の散歩のこと

2008-12-11 06:01:56 | 宵宵妄話

くるま旅の実際をご理解頂く上では、旅の記録の紹介が一番手っ取り早いと考え、このところ連載ものを投稿しているのだが、さて、お読み頂いている方からはどのような感じなのだろうか。あまり続けると、飽きてしまわれるのではないかと、そんな気がしている。

ようやく2年前の晩秋の旅の記録の紹介が終わったので、これからしばらくは旅とはあまり係わり合いのない、日常的な呟きなどを書かせて頂こうと思っている。となると、実際はあまり書くことがなく、テーマ探しに四苦八苦するというのが本当のところです。

というわけで、今日は私の散歩について書いてみたい。散歩といっても、私の場合は、その基本は糖尿病治療のための運動療法の一つとして行なっているものであり、始めてからもう20年も経っている。毎日歩数計を携帯して、記録をとりながら我が身に義務付けている行為なのである。今年の目標は、450万歩だったが、それは11月の初めにクリアーして、現在既に500万歩に到達している。今年は540万歩くらいになるのではないか。1歩の歩幅を70cmとし、歩数の誤差を考慮してその正確性を60%と仮定して歩いた距離を計算すると、540万歩の場合、2,268kmとなる。これを365で割ると、1日平均6.2kmほどの歩きとなる。

歩数計の精度というのは、歩き方、装着の位置などによって大きく違ってくる。一応病院での看護士さんの指導の下に行なっているので、その誤差はこの計算よりはもっと少ないように思う。毎日8kmくらいは歩いている実感がある。

もう歩き始めて20年近くになり、最初は苦痛が多かった歩きだったけど、今は毎日の楽しみであり、苦痛と思うことは全くない。2時間ほどの歩きの旅をしているのだと思っている。どのような旅でも、その最大の楽しみは、出会いであると思っているが、それは毎日の歩きの中にも漏れなく付随している。歩くというのは、出会いの他にも様々な気づきや考えをもたらしてくれるものであり、生きていることを実感できる最高の時間のような気がするのである。

5年前から住んでいる守谷市は、茨城県では面積の一番小さな市で、36k㎡足らずの広さしかない。東西が7.5km、南北が7.2kmしかないから、もし住まいが市の真ん中に位置していたら、それこそ隅々まで歩くことができるのだが、残念ながら自分の家は北部の隣町に近い所にあるので、守谷市の一番遠い所まで歩いて往復すれば15kmほどになってしまい、これは毎日の歩きには少し遠過ぎることになり、そのようなエリアは偶に自転車などで訪ねることにしている。5年の間に、守谷市のほぼ全域を歩いたと思っているが、歩き尽くしたとは思っていない。我が家の庭の中だって、探索し尽くしているわけではなく、季節のその都度の変化にさえ、なかなか付いて行くのが難しいくらいなのだから、守谷市の全域となれば、これはもう広大な歩き対象の世界としか言いようがない。だから、無尽蔵の宝物が埋まっていると思っている。

今日(12/7)は、日曜日。快晴の空に太陽が輝きだした頃、家を出発する。歩きのコースは毎日同じではなく、5つほどの基本コースに、夫々少しずつバリエーションを持たせながら歩くようにしている。どのコースを行くかはその時の気分で決めるのだが、今日は隣のつくばみらい市との境界を含む小貝川堰堤のコースを歩くことにした。

家を出て倉庫中心の工業団地脇を通って、国道294号線を渡り、関東鉄道の線路を横断して、TX(つくばエクスプレス)の基地の横を大きく回って、小貝川の手前側の堰堤のブッシュの中の道を辿り、川に架かる常総橋というのを渡って、向こう側の堰堤に出る。

ここからの歩きが大好きなのだ。小貝川はそれほど大きくない川の割に堰堤は大きい。それはこの川が暴れ川であり何度も氾濫を繰り返しているからであり、現在も堤防の補強工事が続いている。上流に向って10分ほど歩くと、TX の鉄橋がありこれは歩きには邪魔な存在だ。その下を潜ると、大きく蛇行する川の流れの向うに筑波山がくっきりと望見できる。この辺りが心の憂さも忘れさせてくれる景観なのだ。それをじっくりと味わいながら、心は、今こうして足を動かして歩けることへの感謝の気持ちで満たされる。歩けるという喜びが、歩くたびに深まってくる感じがしている。歩ける足を持ちながら、なるべくそれを使わないようにしている人が多いのは、楽をすることが幸せなのだという思想がこの世に満ちてしまった大きな不幸ではないかと思ったりしている。

   

小貝川の堤防から見る筑波山。早朝の澄んだ空気の中に、今日は凛々しい姿を見せてくれていた。

ここから見る筑波山は、光の加減で微妙に変化するのだが、今朝の姿は寒さが増した中での快晴の空の中に凛々しく浮かんでいる。左手遠くには日光の男体山の姿も薄く望見できる。小貝川の流れと調和して、飽きの来ない景色である。それを楽しみながらしばらく歩くと、人だけが通れる木製の橋が左手に見えてくる。何と呼ぶのか橋の名前は知らない。沈下橋である。大雨が降ると川の中に沈んでしまうという橋だ。そのような状態を何度か見たことがあるが、現在の小貝川は渇水期といってよく、いつもの水量の半分も無い感じだった。その橋を渡って、反対側の堰堤をしばらく歩いて、常磐高速道の下を潜り、田んぼの中の道を横切る。この辺りは旧谷和原村(現つくばみらい市)の穀倉地帯の一角である。晩春の新緑と秋の黄金の稔りが、美しい田園風景として実感できる場所でもある。

谷和原田んぼを西に向って丘の方にしばらく歩くと、やがて関東鉄道の小絹駅近くとなる。ここからは人家が密集する都市部となる。国道294号線の喧騒を跨ぐ陸橋を通って、住宅街をしばらく歩くと、守谷市との境にある「せせらぎの小路」という遊歩道に出る。ここは太陽光発電でモーターを回して地下水を汲み上げ、それを小さな水路に流して、両側に樹木を植えた道が500mほど造られている。今頃の季節は、様々な樹木が落葉して水路を埋めかけており、この小路のメンテナンスにとっては、厳しい状況となっているが、歩く者には、落ち葉を踏みしめることが出来る場所であり、ふるさとの懐かしい思いを呼び起こしてくれる場所でもある。

と、まあ長々しい紹介となったが、間もなく家に戻ると、万歩計は1万6千歩ほどとなっている。2時間ほどの歩きである。今日の歩きのコースの80%は守谷ではなく、隣のつくばみらい市のエリアを歩いている。毎日このようにして飽きもなく、いそいそと歩きに出かけている私なのです。

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06年 北陸・中四国晩秋の旅(第26日)<最終日>

2008-12-10 05:27:38 | くるま旅くらしの話

第26日 <12月08日()

道の駅:富士吉田→忍野公園駐車場→(R138R413)→道の駅:どうし(山梨県道志村)→(橋本市でR16へ・八王子から野猿街道を経て府中街道へ・途中から青梅街道へ)→小平市:角上魚類にて買物→(青梅街道から富士街道を経て練馬ICから外環道道へ)→ 外環道草加ICで降りてR4へ・春日部でR16に入り、野田から県道経由にて守谷市の自宅に至る  <116km

とうとう旅の終わりの日となった。帰宅のリミットを10日としていたのだが、2日早い帰宅となった。12月は拓の果たさなければならない用事が二つほどあって、どうしても10日までには帰らなければならなかった。その一つは、今年の夏、高校時代の恩師がお亡くなりになり、恩師の下に40数年続いてきたクラス会で何回か「案山子」という名の同窓会誌を発行しているのだが、拓は現在その幹事的な仕事を引き受けており、帰宅したら亡き恩師の追悼号を発行しなければならないこと。出発前からクラスメイトに寄稿を依頼しており、旅の途中もメールなどでそのフォローを続けて来ていて、どうやら発行できるほどに原稿が集っている。年末までには作り上げて恩師宅を訪ねて仏前にご報告したいと考えている。

もう一つは来正月に開催予定の恒例新年会の取りまとめ役として諸通知などの事務を行なわなければならないこと。これらはいずれも日限のある仕事であり、引き受けた以上は、年末まで旅を続けているわけにはゆかないのである。ということで10日までには戻る予定にしていたのだが、結果的には少し早や目の帰宅となった次第。

天気は回復したとはいえないが、どうやら雨は上がったようである。朝食は昨日の忍野公園へ行ってとることにして、名水富士の水を汲んだ後、移動する。もしかしたら富士山が見えるかもしれないと期待して行ったのだが、2時間ほど時間をかけて朝食を済ませる間にも、雲は全く動かずその期待は空しいものとなった。斯くなる上は帰るしかない。帰りのコースは、山中湖から道志みちを通って相模湖方面に向かい、津久井湖を経て橋本から八王子を掠めて野猿街道を経由して川崎街道に出て、多摩川を渡り府中から小平、西東京と通って練馬から外環道に入り、草加で降り、R4R16経由で守谷の自宅に戻る予定である。書いてみると随分細かくなるが、東京を北西部経由で自宅まで帰るときはいつもこのようなコースを通っているので、拓としてはナビなど不要の道筋なのである。ただ、道志みち(R413)を通るのは久しぶりのことだ。

忍野を出たのは9時半少し前。それからは略予定通りのコースを辿って、多少寄り道をしながら買い物などをして、自宅に着いたのは15時半頃だった。この間のことは最早一々書く気にはなれない。旅は終わったのである。

<旅から戻って>

のんびりと島暮らしをしたいと出かけたのだが、やはりまだまだ欲張りな気持ちがたくさんあって、島で過ごしたのは1週間足らずだった。しかも移動しての生活が多かったから、暮らしをしているなあと実感できる時間は少なかった。しかし、しまなみ海道という特殊な環境の島だったので、面白いこともあった。何といっても一番面白かったのは、多々羅大橋を3日連続で往復したことである。世の中には橋と呼ばれるものは無数といって良いほどたくさんあるが、海に架かる橋はそれほど多くはない。その中でも最大級の橋を散歩に使えるなんて、夢のようなことだ。又、たった1匹しか釣れなかった辛うじて食べられるレベルの鯛で、鯛めしを作って楽しめたのは、天恵ではなかったかと思っている。

北陸や四国に住む懐かしい知人に会えて、旧交を温めることが出来たのも、今回の旅では嬉しい思い出だった。人々との出会いは、その新旧を問わずいつも新鮮だと思う。これからもこれらの出会いを大切にしてゆきたい。

予定より少し早く戻ってきたので、早めに記録をまとめることが出来るかなと考えていたのだが、旅の後のアンニュイ(=倦怠感)は、同窓会の幹事の仕事とは無関係に、なかなか書く意欲を湧き立たせず、とうとう年を越えて1ヶ月以上も経ってからようやくその気を起させることとなった。旅から戻ると、その反動なのか、いつも何もする気が起こらなくなるのである。人間というのは、どんなに強い目的意識があっても、時にはその囚われに反旗を翻すような心を内包しているのではないかと思う。それは小生だけのいつもの詭弁かも知れないが、この頃はそれが酷くなって来ているようだ。

旅のあり方を反省してみると、最近は我ながら社会批判的なことが多くなって来ている感がする。自分の感性が優れて敏感になってきているとは到底思えないので、世の中のあり方の方に問題があるのではないかと、相変わらず自己本位に捉えている。これは反省ではなく、自己弁護かも知れない。しかし、出会いや発見の感動は別として、旅の中で感得する現実の中には、この国が美しさからはどんどん遠ざかっている現象があまりにも多いような気がする。旅の者の眼差しは、時には鋭い批判であっても良いのではないかとこの頃は思うようになった。自分たちだけが勝手に旅の恵みを享受して満足しているだけではなく、何かもう少しこの世の中の有様を、旅を通して浮き彫りにしてアピールできないものか、などと大それたことを考え始めているこの頃である。(了)

(明日からは、しばらく旅を離れた暮らしの話に戻ります。)

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06年 北陸・中四国晩秋の旅(第25日)その1

2008-12-09 00:02:21 | くるま旅くらしの話

第25日 <12月07日()

道の駅:川根温泉→(県道・R1)→道の駅:富士(静岡県富士市)→(沼津よりR246に入り、御殿場からR138へ)→忍野公園駐車場→忍野八海などを散策→道の駅:富士吉田(山梨県富士吉田市)(泊)<154km

今朝もいい天気だ。よく眠れたので暗い内から起き出して、拓一人周辺を散策する。早朝から電車の走る音がして結構賑やかだなと思ったら、目の前を大井川鉄道が走っており、鉄橋が架かっている。こりゃあSLの写真を撮るにはベストポジションの一つだなと思った。残念ながらSLは日に2本くらいしか通らないようなので、今日はお目にはかかれないが、電車は思ったよりも多く走っているようだ。少し歩くと駅が見えた。昨日入った温泉の捨て湯なのか、或いは源泉なのか、大井川の河原に湯煙を上げている箇所があった。川を挟んで壁のように山が聳(そび)えているが、その中腹辺りまで茶畑になっている所が見えた。そういえばこの辺りは有名な静岡茶の中でも最高級品を生産する場所だった。このような自然環境が良いお茶を生産する条件なのかと思った。

食後は、急ぐこともないので、のんびりと過ごす。邦子どのは道の駅の売店近くに設けられた足湯に入って、ご近所のお年寄り達と何やら談笑していた。拓も入れとご老人達に勧められたが、靴下(今日はロングサイズのものを着用していた)を脱ぐのがめんどくさいので、入るのは勘弁して貰った。邦子どのがご老人達と何の話をしていたのかは知らない。結構盛り上がっていたようなので、大方、旅の自慢話などをしていたのかもしれない。

   

足湯を楽しむ人々。殆どがお年寄りである。一しきり朝の世間話と情報交換の話が弾む。

9時半近く出発。ここへ来る時はR473を来たのだが、帰りに通った県道の方がずーっと走り易かった。今度来る時は県道を利用することにしよう。藤枝バイパスに入って、一路沼津を目指す。朝の内は良い天気だったのだが、次第に雲が増えてきて、静岡を通過する頃はすっかり曇り空となってしまった。それでも雲が高い所為なのか、静清バイパスの途中で富士山を見ることができた。晴れていれば感動一入(ひとしお)なのだろうけど、久しぶりに見る富士山は曇っていてもそれなりの感動を覚えさせてくれる。走りながら何枚かの写真を邦子どのに撮って貰った。この辺に住んでいる人たちから見れば、つまらんことをしていると思われるに違いない。

しばらく走って道の駅「富士」にて小休止。ここからも富士山はよく見えるのだが、写真を撮ろうと思っても、何処へ行っても電線などが邪魔をして、独立した富士山の写真を撮ることが出来なかった。諦めて出発。

沼津からR1と分かれて、R246に入る。何年か前まで川崎に住んでいたことがあるので、R246は懐かしい。この道は確か渋谷辺りから始まってこの沼津まで来ているはずである。川崎の登戸近くに住んでいた時は、家から自転車でR246を使って渋谷まで何度も往復したことがある。あの頃も既に糖尿になっていて、とにかくカロリー消費には力を入れていた。バカな話ではある。

そのR246をしばらく走って、御殿場から富士吉田に向うR138へ左折して入る。この道はつい最近、亡くなった畏友安達巌の鎮魂の旅の帰りに通っているのだが、あの時はものすごい豪雨で、前を見るのも厳しいほどの状況だった。今日はそれに比べれば上々の天気だが、それでも雲は多く富士山ははっきりしない様相を呈している。心配しながら坂道を登り、ようやく篭坂(かござか)峠を越える。あまり気にしなかったが、後で地図を見てみると、この峠は1,104mもあるのだった。SUN号の頑張りには感謝しなければならない。峠を越えてからは山中湖に向って下り続けるだけである。湖畔を走り、右折して忍野(おしの)村へ向う。 (その2へ続く)

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06年 北陸・中四国晩秋の旅(第25日)その2

2008-12-09 00:01:39 | くるま旅くらしの話

忍野へは初めてであり、どのような所なのかもよく分からない。忍野八海というのが地図に書かれているが、それがどういうものなのかも実は知らないのである。とにかくその八海なる場所へ行ってみようと向う。直ぐに着いたのだが、駐車場がうまく見つからなくて、ぐるぐる廻った結果、忍野公園という所の駐車場にSUN号を停め、そこから歩いて八海なるものを見に行くことにした。少し遠かったが、この駐車場はSUN号の他には1、2台しか車はいないほど空いているので、迷惑を掛けることはなかろうと思った。それに歩くことも大切なのだ。もう13時近くなっていた。出かける前に腹ごしらえをする。天気は曇り空だが、綿帽子をかぶった富士山は直ぐ近くに見えている。あのような雲をかぶっている時は天気が下り坂の印なのではないかと思った。

   

2段の綿帽子を冠した富士山。間もなく天気が崩れ出す予兆であろうか。

忍野八海までは1kmほどの距離を歩かなければならなかったが、やたらに車が多くて、歩道も無いため大へん歩きにくかった。ようやく忍野八海の湧池(わくいけ)という所に出た。

   

忍野八海:湧池の景観。こんこんと地下から湧き出す清流は富士山のスケールの大きさを示している。

   

こちらは同じ忍野八海の、中池と呼ばれている所。吸い込まれるような感じのする透明度である。

文字通り水が湧き出していた。説明板を読むと、八海というのは、富士山の伏流水が湧き出している箇所で、それが八つあり、夫々に特徴があって呼称が付けられているらしい。湧池のほかに銚子池とか濁池などの名称があげられていた。その中でもこの湧池は環境庁が選んだ日本名水百選に入っているとか。さすがに日本一の名山からの湧き水とあって、宏大なスケールだ。先ほど通ってきた道路の脇の川も、この忍野八海と呼ばれる池の水を集めて流れているらしい。らしいと言うのは、この大自然の様子を説明する資料が殆ど手に入らず、勝手に想像するしかないからである。資料を探すのが下手なのか、それともガイドの仕方が悪いのか良くわからないが、初めて来た者にとっては、忍野村の観光案内はとても親切とは言えないような気がした。

山の湧き水については、拓は相当の関心を持っており、いわゆる名水と言われるものについては機会あるごとにそこを訪ねるようにしている。又、それらを汲ませて頂いて飲料にも使わせて貰っているが、例えば北海道の京極町や真狩村にある羊蹄山の湧水などは自由に汲めるように簡易設備が用意されているけど、この忍野村の湧水は、そのような設備など皆無のようで、御神水などと書かれた立ち飲み用の水のみ場かしか見当たらなかった。もし観光資源として忍野八海を活用しようと考えるのなら、もっともっと観光客を呼ぶやり方が考えられるのではないか。

先ほど車を置いてきた忍野公園の傍には、絵手紙で有名な小池邦夫氏と写真家の岡田紅陽氏の作品が常設展示されている美術館が作られているが、来訪者は殆ど見られなかった。美術館も結構だけど、来訪者がなければ建てた意義は薄れる。観光客を惹きつける材料は、忍野の富士だけで充分なのかもしれないけど、やっぱり何かが足りないように思った。

忍野八海の全部を廻ろうと思って探しながら歩いたのだが、途中で道が判らなくなってしまった。不親切だと思う。もっとも考えようによっては、このような不親切こそが今の世には大事なのかもしれない。とにかく、忍野の富士だけは、文句なしに素晴らしい。

歩き疲れて車に戻り、今日の宿に予定している富士吉田の道の駅に向うことにする。10分ほどで到着。ここには地下から噴出する水を汲む施設が設けられている。大勢の人が引きも切らず入れ替わり立ち代り水を汲みにやって来ていた。この有様を忍野村の人たちはどのように見ているのだろうか?着いた途端にこの状景を見て、先ほどの忍野八海の様子が思い起こされ、又々文句がいいたくなってきた。ほんとに我ながらしつこいねえ。

先ほどまで見えていた笠雲の富士山はとうとう姿を消し、まだ16時前だというのに急に暗くなった空から雨が落ちてきて、次第に本降りとなった。こうなれば早めに休むしかない。今回の旅の最後の夜は、天井を叩く雨音とともに更けていった。

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06年 北陸・中四国晩秋の旅(第24日)

2008-12-08 04:37:21 | くるま旅くらしの話

第24日 <12月06日()

道の駅:宇陀路大宇陀→(R370R369)→道の駅:針TRS(奈良市)→(東名阪道・R1R23経由みえ川越ICから伊勢湾岸道)→刈谷SA→(東名袋井ICで出てR1へ)→道の駅:掛川(静岡県掛川市)→(R1)→陸野宅(静岡県藤枝市)→(R1R473・県道経由)→道の駅:川根温泉(静岡県川根町)(泊)<327km

今日はかなり走ることになりそうなので、少し早めに出発することにする。天気は良さそうだ。榛原(はいばら~宇陀市)から都祁(つげ~奈良市)に抜け、針ICから東名阪道に入り、ひたすら名古屋方面を目指す。順調な流れで、予定より少し早めに亀山の関JCTに着き、ここからはR1に入って四日市へ。この間の流れも順調だった。四日市でR23に入ったが、さすがにこの重工業地帯は大型のトラックやトレーラーなどが多くて混雑しており、所々渋滞がひどくなっていた。名古屋を通過するには、伊勢湾岸道路を利用するのが一番だと拓は思っている。今までは正直に東名阪道を使っていたが、新しく出来た伊勢湾岸道は、道幅も広くまた今まで見ることもなかった名古屋港などの壮大な風景を巨大な橋の上から見ながら通過することが出来る。東名に入るには時間的にも遙かに早い。名古屋の街中だけは、今のところ一般道で通ってみたいとは思わない。今日は藤枝に住む、邦子どのの妹の所にも寄る予定なので、東名も袋井までは使うことにした。四日市郊外の、みえ川越ICから伊勢湾岸道に入り、途中刈谷SAにて小休止。

未だ11時前である。ここのSAのトイレは変わっている。男性用は銀ピカなのだ。邦子どのの話によると、女性用トイレは超デラックスで、入口の赤い絨毯を踏んで入って行くと、中央に休憩用のソファが置かれており、その周囲が木のドアで作られたトイレ個室となっているとか。その様子にびっくりしたとのことだった。どのような意図でトイレに力を入れたのかは解らないけど、面白いことは面白いなと思った。

SA内には名古屋名物のえびせん(エビ入りせんべい)の専門売店があり、様々な種類のえびせんが売られているが、その中に真っ黒なものがあり、それが拓の大好物なのである。イカ墨入りのえびせんで、見た目にはグロテスクだが、口の中に入れると、香ばしいえびの風味が一杯に拡がり、それがイカ墨と調和してなんともいえない美味さなのだ。酒のつまみとしても結構イケるのである。それを少々ゲット。

刈谷SAを出て、湾岸道を走り終えて豊田JCTから東名へ。しばらく走って浜名湖SAで小休止。今日は本当に良い天気で、運転中の車の中は日差しが強くて暑いくらいである。しかし、旅の終りになって良い天気になっても、あまりありがたさは感じない。お茶を一杯飲んで出発。

東名から比較的R1に近いICを探すと、それが袋井だった。ここで東名を降りることにした。風に弱いSUN号には、高速道は厳しい時が多いが、今日は無風で快適だった。一般道を行くのが少しもったいない気がした。でもまあ、R1は浜松辺りからは、いずれの都市もバイパスがつくられているので、事故や大掛かりな工事でもない限りは渋滞に巻き込まれることは少ない。今日も順調な流れである。掛川を過ぎて郊外にある道の駅「掛川」に立ち寄り、昼食にする。お昼は先日頂戴したさぬきうどんを茹でて賞味する。今度も釜揚げを食べたが、うまいなあ、実に美味である。先日この道の駅に寄った時は大雨だったが、今日は上天気だ。その上こんな美味いうどんが食べられて幸せである。

美味いうどんを食べて一休みした後、藤枝に向かって出発。1時間足らずで到着。陸野さん(これが妹の嫁ぎ先の姓)宅に来るのは1年ぶりくらいになるだろうか。先日拓の出版の際にいろいろ心遣いをして頂いたので、旅のついでで申しわけないけど、先日求めた愛媛の砥部焼きをお礼に届けるのが主な目的である。妹の廣子さんは、明日所用があって東京へ出かけるというので、今日は泊るのは遠慮して近くにある川根温泉に行くことにしている。功二朗ダンナは未だ仕事から戻っていない。

1時間半ほど姉妹のおしゃべりに付き合う。邦子どのは4人姉妹の一番上だが、この姉妹はその母親を含めて、まあ、よく喋る連中である。とても拓などがついて行けるレベルではない。とにかく聴くよりも話すと言う姿勢がしっかり身についていて、時々キャッチボール無しの会話となることが多い。ま、沈黙の姉妹よりはずーっといいのだろうが、男兄弟の多い拓から見れば、羨ましさを通り越してやはり姦しいと思わざるを得ない。今日は二人だけの環境なので、話があまりズレなくてよかった。廣子さんには砥部焼を喜んで貰ってよかった。

暗くなりだしたので、お暇(いとま)をすることにする。道の駅「川根温泉」は以前一度だけ行ったことがあるが、泊まるのは初めてである。どんな温泉だったかもよく覚えていない。大井川の上流に向って走っている大井川鉄道のSLは有名だが、川根温泉はその途中の川根町にある。R1藤枝バイパスを島田まで戻って、金谷を経由して道の駅に着いたのは、17時半ごろだった。辺りはすっかり暗くなっていて、空には星が煌めいていた。

しばらく入浴無しだったので、さっそく用意をして温泉へ。以前に来た時は温泉には入らなかったと思う。今回入ってみると、泉質もよく、様々な形や温度の露天風呂が設けられていて、素晴らしい温泉施設だった。料金も500円と、その設備内容と比べればリーズナブルである。今度来る時には陸野夫妻も誘うことにしようと思った。十二分に温泉を楽しみ、満足してSUN号に戻る。少し冷え込んできているようだが、湯上りの身体には心地よい涼しさだった。今日は300km以上を走って少し疲れたが、この温泉でその疲れはすっかり取り除かれたようである。その後は、ビールで乾杯して、いつものパターンである。

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