山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

鬼怒川のこと

2008-12-14 03:20:41 | 宵宵妄話

 私の住んでいる守谷市には、3本の大きな川が流れている。東に小貝川、西に鬼怒川そして南に利根川である。私の家からは鬼怒川が一番近くて、歩いて15分ほどで川辺に着くことができる。小貝川は30分ほど、そして利根川までは6km近くあって、50分近くかかってしまう。どの川も散歩のコースとして使いたいのだけど、利根川は堤防に届くまでが大変なので、歩いては滅多に行ったことはない。一番多いのは小貝川のコースである。少し遠いけど、堤防の上から川や筑波山などを見ながら、しばらく歩くことが出来るからである。

 ところで今日は鬼怒川の話である。前にも書いたような気がするけど、守谷に来るまではこの地で鬼怒川が利根川に合流しているなどとは、まったく知らなかった。初めて鬼怒川の方に歩きに行った時、この川は何というのだろうと調べたら、それが鬼怒川だったのである。かなり水量の多い流れで、川原というものが殆どなく、竹や篠などのブッシュが生い茂った両岸にはなかなか近づけない、あまり愛嬌のない川だった。

後で知ったのだが、この辺りの鬼怒川は、運河なのだそうな。江戸時代の初期までは利根川とは別の独立した川で、江戸湾に注いでいたものを、家康の命による瀬替え工事(川の付け替え工事?)により、運河を掘削して守谷の地で利根川に合流するようにしたとか。往時の、河川の氾濫を何とか防ぐための治水事業は、国を治めるものにとっては、最重要課題の一つだったに違いない。それにしても川を付け替えるというのは、半端な工事ではなかったのだと思う。

この工事と併せて、それまで支流だった小貝川を鬼怒川から切り離し、これを更に下流で利根川に注ぐようにしたということだから、これは関東平野を流れる大河を調整する大工事だったということが出来る。

そのようなわけで運河であった鬼怒川は、川原などがあるはずもなく、藪を押し分けて入ってゆかないと川の流れを見ることが出来ないのである。したがって、歩きのコースとしては、あまり親近感が湧かないものとなってしまうのは仕方がない

   

守谷市内の滝下橋から鬼怒川の上流を望む。両側が森となっており、川に近づくことは困難。

鬼怒川という呼び名には凄まじいイメージを思い浮かべてしまう。鬼が怒る川というのだから、恐ろしい。暴れ川というイメージが大きい。一旦暴れ出すと鬼が破壊棒を振り回す如く、大地をめちゃくちゃにしてしまうという感じだ。上流の方には川治や鬼怒川の温泉エリアが有名だけど、まだ行ったことはない。恐らく彼の地の河原には、巨岩などがゴロゴロしているのではないか。平地を流れるに従って、石ころはなくなり、ただ水だけが流れる川となっているのであろう。

守谷の隣のつくばみらい市に小絹というところがある。この「絹」は鬼怒川の「鬼怒」が転訛した呼び方のようである。一説には平静の鬼怒川は絹(あるいは衣)のように穏やかで滑らかな流れを湛えているというところから絹という呼び名がうまれたとか。同じ川なのに、ことばから来るイメージには天と地の差がある。これは人間の姿にも似ている感じがする。

今日は久しぶりに鬼怒川が利根川と合流する地点まで自転車で行ってみた。その辺りは広大な田んぼや牧草地が広がっており、まったくの田園地帯である。銚子の海から97km地点が合流点となっていて、そこからは常磐高速道や先年開通したTX(つくばエキスプレス)などの鉄橋が直ぐ傍に見える。ここまでやってくる人は殆どいないのではないかと思ったのだが、突端の方にある駐車場には何台かの車が泊まっており、ラジコン操縦の飛行機を飛ばす人たちの溜まり場となっていた。何やかにやと不安の風が強く吹いているけど、日本はまだまだ平和なのだな、と思った。

   

守谷市大木地区で鬼怒川(左手)は利根川(右手)と合流する。遠くに見える鉄橋はTXのもの。その手前に常磐道が走っている。

守谷に移り住んでからもう5年が過ぎようとしているが、幸いなことにまだ一度も鬼になった川を見たことがない。いつ近くを通っても絹の表情である。願わくば、生きている間はずっと絹川であって欲しいと思っている。

コメント
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