山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

袋田の滝

2008-12-13 05:13:41 | くるま旅くらしの話

先週袋田の滝を見に行った。昨日の湯の澤鉱泉もその時の目的の一つだった。久しぶりに奥久慈の遅い秋を訪ねてみようと思ったのだった。

私は茨城県の日立市で生まれたのだが、戦争のために、両親が疎開・入植という生き方を選んだため、育ったのは県北の常陸大宮という所だった。私が少年時代を過ごした頃は、大宮町は合併前で、幾つかの町村に分かれており、その中の玉川村という所の小・中学校でお世話になったのだった。それが、平成の大合併で、何と市制をひくことになったのだから、時代の変化は驚きという他ない。

平成の大合併で、昔からの市・町・村というイメージは相当に崩れ出しているように思う。もはや村などという自治体は、間もなく消滅してしまうのではないか。如何に行政のコスト効率のためとはいえ、本当にこんなことでいいのだろうか。歴史が抹殺されるような気がして、古い人間には、一抹の寂しさを禁じえない。

話が少しズレたが、茨城県というのは、あまり高い山がない。最高峰が福島県・栃木県との境界点となる八溝山で、この山の高さは1022mしかない。筑波山も877mであり、高山というには程遠い標高である。子供の頃から山に行くのが好きで、大人になったら雪を冠するような山に登ってみたいと考えていた。しかし県北ではそのような山はなく、八溝山などは、交通の便が悪くて、当時はとても日帰り登山のできるような山ではなかった。そこで登山といえば、袋田の滝の少し南側にある同じ八溝山系の男体山というのに向うのが常だった。男体山は標高654mの山だが、その名のとおり岩がごつごつと固まって出来ているような山であり、ちょっとした登山の体験が出来るような気がして、時々登ったものである。

私は八溝山を水源とする清流久慈川の上流域の奥久慈と呼ばれる一帯が好きである。春の新緑、秋の全山紅葉は、久慈川の清流と相俟って、都会にはない本物の日本の姿を表現してくれているように思う。同じような場所は、全国にもたくさん残っていることを、くるま旅を始めてから知ったのだが、我がふるさとにそれが残っているのが嬉しい。

というわけで、時々奥久慈を訪ねるのだが、その中心は何といっても袋田の滝である。袋田の滝は日本三名瀑の一つに数えられているということだが、そのような気取った話にはあまりとらわれないことにしている。滝にはそれぞれの美しさがあり、その美しさに順番をつけて見るというような考え方には賛同出来ない。袋田の滝の素晴らしさは、四度の滝と呼ばれるスケールの大きい流れにあるのだと思っている。このような滝はわが国でも数が少ないということなのであろう。

町営駐車場に車を置いて滝まで往復して1時間ほどの散策となった。袋田の滝付近の観光化された箇所はあまり好きではない。地元の方には申し訳ないけど、百年一日のような店出しではなく、もう少し工夫した商売は出来ないものかといつも思う。

何年か前に滝見用の随道が掘られて、滝を間近かに見られるようになったが、そのために300円も払うのは嫌なので、前回のようにうっかり入るのは止め、今回は反対側の散策コース側から滝を見ることにした。

袋田の滝を際立たせるのは、新緑と紅葉だと思うが、今回の訪問はもう紅葉が終わってしまっていて、ひたすら流れ落ちる水の白い糸と谷間に響く音を聴くだけだった。でもそれだけで十分満足だった。

   

袋田の滝。もう紅葉は終わってしまって、冬に向う中途寺半端な時期だったが、思ったよりも豊かな水の流れだった。

少し前の新聞に、新しいエレベーター付きの滝見台が出来たという記事が載っていた。それによると四度の滝を上から覗くことが出来るという。まあ、いろいろと考えるものだなと思った。同じものを、角度を変えて見ると言うのは、新鮮なのだろうけど、それは一時的なことに過ぎないように思う。下から見ていた滝を上から見るというのは、興味あることには違いない。しかし、水は下から上に流れることはなく、上から滝を見てもやはり水は下に流れているだけなのだと思う。

このように書くと、私の偏屈さ加減がいっぺんにバレてしまうのだけど、その後の新聞の記事では、袋田の滝のある大子町では、来訪する観光客が倍増して、対応に苦慮しているなどということが書かれていた。これをまともに受けて、駐車場やその他の観光客対策を真面目に行なったら、やがて町は3年も経てば大変な迷惑というか裏切りを実感するに違いない。止めといた方がいいよ、というのが私の感想である。

今の世は薄っぺらな興味本位のものの見方が溢れかえっている。寄席の芸人が世の中を主導している感じがするほど、大衆は興味本位のセリフやつくりごとに安堵感を見出しているように思えるのである。滝を上から覗くなどというのは悪趣味の一つに過ぎないのではないか。大枚を叩いてその悪趣味を実現させたのは、結果的には今のところ成功しているということなのであろうが、さてさて、コストを回収すればそれで良いではないかというだけなのだろうか。

300円が惜しいというしみったれた考えが根っ子にあって、今回は敢えてそのエレベーター付きの滝見台には行かなかった。これはケチということなのであろうか。自分でも少し迷っている。「丸い卵も切り様で四角」ということばがあるが、袋田の滝が上から見下ろすなどという、今までの固定観念()を破却するような存在となるのが、どうにも納得できないのである。

ゴチャゴチャ考えながら車に戻ったのだが、途中にある昔からの風景が、自分を我れに還らせてくれたのだった。軒先に干し柿を回し巡らせた麦藁屋根の農家の景色こそが、袋田の滝を昔に戻すのにつながっている本物の景観なのだと思ったのである。

   

滝に向う道の途中にある農家の風景。昔はこれがこの地方の標準的な住まいの姿だった。 

コメント
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