山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

06年 北陸・中四国晩秋の旅(第23日)その1

2008-12-07 07:10:02 | くるま旅くらしの話

第23日 <12月05日()

道の駅:東浦ターミナルパーク→道の駅:あわじ→(明石海峡大橋・垂水ICから神戸市内)→(R2R43R25R165)→道の駅:ふたかみパーク當麻(奈良県葛城市)→(R165他)→道の駅:杉の湯川上(奈良県川上村)→(R169R370)→道の駅:宇陀路大宇陀(奈良県宇陀市)(泊) <182km

今日はひたすら東に向う移動日だが、本来ならば神戸や大阪の建物密集地帯の通過を避けて、高速道などを使ってさっさと通り抜けるのが常人というものだろうが、我々(というよりも拓の独断?)はその逆を行って関西の大都市の一般道を使って横断してみたいと考えている。

天気は良さそうである。朝食は、折角だからここよりも世界一の明石海峡大橋を眺めながらの方が良いと考え、水を補給した後昨夜の強風の道の駅「あわじ」へ移動する。今日は風が殆ど吹いていない。丁度朝凪(なぎ)の時間帯なのかも知れない。昨夜の騒動が嘘のようだ。

   

真下から見上げた明石海峡大橋の様子。巨大な建造物が海の上を向こう岸まで天にぞびえている。

明石海峡大橋は、やはり名橋だと思う。車で通過するだけではその実感はあまりないが、橋の下からこの巨大建造物を見上げていると、島と本土を結ぶ何百年来の人間の夢のエネルギーの凄(すさ)まじいパワーを感ずるのである。僅かに4kmに満たない距離だけど、深い海を越えて橋を架けることは、長い間の人間の叶わぬ夢だった。それを叶えることが出来たのは、やはり快挙というべきだろう。その夢の架け橋が彼方に伸びている線を見ていると、ある種の感動を覚えずにはいられない。

食事の後、しばらく付近を散策する。散策といっても橋を眺め、海峡を渡る様々な船を数えるだけである。船壁に派手な蛸の絵を描いたフェリーらしき船がかなりの早足で航行して行った。

  

明石海峡大橋の下を行くフェリー。側面に派手な蛸の絵が描かれている。船の航行は多い。

橋が出来ても全ての人々が橋を利用するわけではない。まだまだ船に依存する人たちも居るのだ。それでいいのだと思った。今度来たときは、この明石海峡を歩いて往復してみたいなと思った。

   

明石海峡大橋の上の様子。橋の上を走っているという実感はあまりないままに、向こう側へ着いてしまう。

(その2へ続く)

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06北陸・中四国晩秋の旅(第23日)その2

2008-12-07 07:07:47 | くるま旅くらしの話

(続き)

9時半過ぎ道の駅を出発。淡路ICから入り、明石海峡大橋をあっという間に渡って、最初の垂水ICで出て、一般道を神戸の海岸線を走るR2へ。神戸は坂の街だが、垂水から海に向う辺りはそれほどでもなくて、長崎よりは優雅なようだ。神戸には何度か来ているが、車で市街地を通るのは今日が初めてである。阪神淡路大震災の記憶は消えることはないが、あの地震から半年くらい後訪ねた神戸は、屋根にブルーシートを被せた家も多く、墓標が倒れたままの墓も多かった。あれから何年経ったのか直ぐには思い出せないが、今通過している町の風景はそのような悲惨な出来事を忘れたように騒々しく動いている。しかし、ここに住む人びとの胸の中には、あの恐怖の出来事は決して消えることはないだろう。

須磨の浦辺りを過ぎ、灘から西宮へと、時々小さな渋滞はあったが、まあまあ順調な車の流れだった。R2はいつの間にかR43となって尼崎に入る。灘を過ぎた辺りからは高速道の下を走る道となったため、周りの風景も無機質なコンクリート中心のものに変わってしまい、神戸の情緒などは微塵(みじん)も感ぜられないものとなってしまった。ただひたすらに安全運転で、前後の車に迷惑をかけないよう心がけるだけである。

尼崎を過ぎ、淀川を渡ってR26経由でR25へ。どこをどう走っているのか地図では理解していても、外の景色は見たこともないものばかりで、全くの異郷だ。東京以上に密集度が高い街だなと思った。しばらく走ると、なんと通天閣や四天王寺などが道の左右に見えるではないか! まさに大阪のど真ん中を通過しているのだなと実感した。Tさんの住んでおられた平野区を通り抜け、八尾を過ぎて、今年亡くなられた畏友のAさんの住居のある柏原市を掠(かす)めて大和川を渡り、国分の少し先からR165に入って、とにかく休憩しようと道の駅「ふたかみパーク當麻(たいま)」に立ち寄る。

13時を少し過ぎていた。朝、「あわじ」の道の駅を出てからここまで約3時間半、ノンストップでやって来た。少し疲れたけど、それにしても神戸・大阪の横断はあっけなかった感じがする。仕事で来た時は、電車や地下鉄のお世話になり、慌しく走り回って、神戸も大阪も広いなあという感慨があったのだが、車で通り抜けてみると、あの慌しさは何だったのだろうかと不思議に思う。人間は、時には己(おのれ)の動き回っている様を俯瞰(ふかん)して省みる必要があるようだ。拓にも旅のお陰で世の中を見るゆとりが少しは出来たということなのだろうか。

お湯を沸かしお茶を淹れて、昼食休憩で一息ついた後、さて、今日の宿をどこにするか検討。今日はとにかく奈良県南部の道の駅に泊り、明日は東名阪道を通って名古屋の先まで行きたいと思っている。調べた結果、少し遠くなるが未だ行ったことのない道の駅「杉の湯川上」という所へ行ってみることにした。ガイド書によれば、名の通り温泉施設もあるようなので、そこに入ってゆっくり疲れを癒したい。R165からR166を経由してR169で川上村に向う。川上村は、吉野川の上流にあり、かなり山の中のようだ。途中橿原(かしはら)や明日香(あすか)、吉野などの懐かしい地名を眼にし、寄ってゆきたい誘惑もあったが、振り切ってひたすら川上村の道の駅を目指し、15時30分到着。

川上村は想像以上の厳しい山の中に位置していた。吉野川の上流を塞き止めて巨大なダムを造るらしく、村の人家の多くは新しく造られたダムの側道に移築されたようで、道の駅もそのような沿道に新しく建てられた木造風のホテルに隣接していた。道の駅というよりもホテルの駐車場が道の駅になっているという感じで、その仕切りがさっぱり解らない。ホテルの裏はダムに沈む渓谷のような感じだった。ダムは未完成らしく、水は貯まっていないので、深い谷が落ちこんでいる感じである。

車を停めて温泉のあるホテルに行って見ると、何と日帰り入浴は11時から14時までということで、既に終了だという。なんだいこりゃ!である。この村の為政者のセンスを疑わずにはいられない。本当に村のことを考え、村人や来訪者のことを考えて村を経営しているのだろうか?目先の利益ばかりを考える第三者の知恵ばかりに依存して、他所の似たような山村の真似をして村営ホテルを造ったのではないかと悪意に勘ぐるのは、折角来たのに温泉に入れなかった拓の恨み言なのかも知れない。しかし、このような経営をやっていると、ダム建設の補助金が打ち切られる時が来たら、村は無人化してしまうよ、と言いたい気持ちは変わらない。経営と言うのは、あらゆるお客様のために行なわれるものだが、この村の経営は特定の都合の良いお客様だけを対象に行なわれようとしているからである。(少し言い過ぎかな)

がっかりして引き返すことにした。今日は温泉に入るのは諦めて、いつもお世話になっている大宇陀(今は宇陀市)の道の駅「宇陀路大宇陀」に行くことにした。少し暗くなりかけた頃に到着。この近くにも温泉はあるが、温泉プールなどが併設されていて、入浴料金はプールと一緒なため高額となっているので、年金暮らしとしては敬遠せざるを得ないのである。

閉まりかけている道の駅の売店などを覗いた後、早めに夕食をして、早めに寝床に入る。密集している市街地を走り来たので、少し疲れた。

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06年 北陸・中四国晩秋の旅(第22日)

2008-12-06 03:04:37 | くるま旅くらしの話

第22日 <12月04日()

道の駅:なかがわ→(R55)→道の駅:日和佐(徳島県美波町)→薬王寺参詣→(R55)→道の駅:宍喰温泉(徳島県海陽町)→道の駅:日和佐→(R11R28・大鳴門橋を渡り淡路島へ)→道の駅:あわじ(兵庫県淡路市)→道の駅:東浦ターミナルパーク(兵庫県淡路市)(泊)   <256km

昨夜のYさんご夫妻との再会の興奮が朝まで持ち越された所為なのか、今日は天気も上々のようだ。風は少し強いけど青空が広がって、残り少なくなった今回の旅の終わりを祝ってくれているような気がした。

今日は前回の四国の旅では通らなかった徳島県南部の海岸線を少しドライブして見たいと思っている。本当は室戸辺りまで行きたのだが、そろそろ帰途につかなければならないので、宍喰の道の駅まで行って、そこにある温泉に入ってから引き返し、淡路島まで渡って泊るという行程を考えている。

那賀川町(今は阿南市)の道の駅から更に南の方に行くのは十何年かぶりだ。つまりは自転車で八十八箇所を巡った時以来である。40分ほど走って日和佐に到着。日和佐にも道の駅があって、何と足湯まで作られていた。直ぐ近くに22番札所の医王山薬王寺がある。巡礼の人たちにはこの足湯は何よりのご接待となるだろうと思った。われわれの方は車で来ているので、足湯を使うのは遠慮した。

車を置いて、薬王寺に参詣する。このお寺も名刹である。吉川英治先生の伝奇小説「鳴門秘帖」の舞台になった所だとか、何やら神秘的な歴史の重さを感じさせられるお寺である。四国に勤務していた30数年前、子供たちを乗せて初日の出を見ようと室戸辺りを目指したのだが、大晦日なので道が混むのではないかと思い、かなり余裕をみて早めに高松を出発したにも拘らず、この薬王寺参詣の車の渋滞が延々と続くのに巻き込まれて、遂に日の出を見ることができなかったのを思い出す。薬王寺には大阪や和歌山からフェリーで来る初詣の車が多いということを知らなかったのは迂闊だった。そのようなことを思い出しながら、しばし境内を散策する。薬王寺の多宝塔は少し派手に見えるが、決して軽薄ではなく重々しい貫禄を持って聳(そび)えていた。

   

四国八十八ヶ所第23番札所、薬王寺の多宝塔。艶やかさの中にも重みがあり、他の古い建物と調和している。

薬王寺の参詣を終えて車に戻り出発。40分ほどで道の駅「宍喰温泉」に到着。途中のR55から見る太平洋の海岸は美しくコバルト色に輝いていた。

      

日和佐近郊の海岸の風景。この辺の太平洋は、コバルトブルーに輝いていて、その昔の海の輝きを思い起こさせてくれる。

日和佐はウミガメの産卵で有名だが、この宍喰辺りまでの海岸線は、多くのウミガメたちのふるさとになっているに違いない。宍喰町も合併して、今は海陽町となっていた。そういえば日和佐も美波町となっていたっけ。夫々海に因んだ名称で悪くは無いなとは思うが、昔がなくなるようで寂しい気がする。道の駅の建物の玄関横に、この町出身のプロゴルファー尾崎将司のモニュメントが作られていた。そういえば彼はここで育ったのだった。このような素晴らしいふるさとを持つ彼は幸せ者だと思う。彼のふるさとは都市化に侵食されることは無く、いつまでも残り続けるに違いない。

駅舎の一部にある入浴施設が宍喰温泉らしい。さっそく入ることにする。料金は400円也。これは又素朴な造りで驚いた。小さな湯船一つで泡が出ているだけの簡単な設備である。正直言って、このレベルで道の駅の名称に温泉を使うのは如何かなと思った。ま、世の中にはこのようなケースもあるのだろう。少しがっかりしたが、外の景色は青い海が輝いていて不満の文句は何も無い。湯から上がって、海の見える駐車場で昼食にする。何しろ昨夜Yさんご夫妻と食べようと作ったおでんが殆ど手付かずで残っている。これからは昼夜兼行でおでんに向わなければならない。その第2回目(今朝もおでんをつついた)である。食べ物には滅多に飽きないというのが拓の習性なので、邦子どのは助かっているはずだ。

一休みの後、来た道を戻って淡路島に向って出発。愈々本格的な帰路に就くことになる。今日は本当によく晴れていて、絶好のドライブ日和である。再度日和佐で小休止して、その後はノンストップで徳島市街を抜け、鳴門へ。淡路島へは高速道ではなく一般道を使って小鳴門橋を渡り、大鳴門橋だけ専用自動車道を使う。そうしないと島へは渡れないので仕方がない。出来る限り自動車専用道は使わないというのが今回の旅の基本的な考え方である。

大鳴門橋を渡る頃は日暮れ近くなってしまった。淡路島には二つの道の駅があるが、今夜は明石海峡大橋の袂(たもと)にある道の駅「あわじ」まで行って泊ろうと思っている。洲本を過ぎる頃は完全に日は暮れて暗くなり、海岸線を走る頃には空に満月近い月が雲間を縫って輝いていた。神戸の方の灯りなのか、都会の照明の集合体らしいものが遠く煌(きら)めいていた。

   

   明石海峡を照らす月。向うに見えるのは神戸の街明かり。

目的の道の駅に着いたのは19時少し前だった。外に出てみるとかなりの強風だ。車が倒れることは無いとしてもこの調子で一晩中吹かれたら、邦子どのは大騒ぎをしてとても寝られたものではないだろう。どうやらこの巨大なコンクリートの建造物のこの辺りは、風が吹きぬける場所になっているようだ。空き地が出来たからといって、まあとんでもない所に道の駅を造ったものだ。確かに景色はいいのだが、やはり生活に使う場所ではないのだろう。昼と夜では大違いの場所なのだなと思った。これではどうしようもないので、来た道を戻ってもう一つの道の駅「東浦ターミナルパーク」へ移動する。

10分ほどで到着。近くだったので、このような時には助かる。この道の駅の駐車場はかなり広いのだが、フェリーの発着所やバスのターミナル、それに近くに高速道のICなどがあって、駐車する車が混んでいることが多い。それで泊るのを敬遠したのだが、この時間になるとその心配は全くなくなっていた。風当りも先ほどのように強くはなく、先ずは安心である。三度目のおでんで一杯やって、今日のドライブは終了。青い海が印象に残るいい日だった。

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06年 北陸・中四国晩秋の旅(第21日)

2008-12-05 11:22:50 | くるま旅くらしの話

第21日 <12月03日()

道の駅:貞光ゆうゆう館→(県道)→藍の館(徳島県藍住町)→(県道)→阿波十郎兵衛屋敷跡(徳島市)→(R11R55)→道の駅:なかがわ(徳島県阿南市)(泊)<8km

昨夜は思ったよりも雨降りの量が少なくて、雨音を気にしないで眠ることが出来た。6時半ごろ起きて見ると、雲は分解されつつあるようで、青空も垣間見られる天気となっていた。この道の駅「貞光ゆうゆう館」は、四国を旅するときのお気に入りの場所の一つとなりそうである。   

道の駅:貞光ゆうゆう館の朝。泊まったのはこの裏にある駐車場だが、ここは早朝から立ち寄る車が多い。

今日はYさんご夫妻とは、夜の再会となってしまうので、SUN号の中でおでんでも囲みながら歓談したらどうかと、朝食の後、昨日買った食材を使っておでんの仕込みを行なう。大鍋を持ってきているので、大丈夫である。おでんは旅くらしの中でも時々作っている。邦子どのは、いつも大鍋に溢れるほど作るので、一度おでんとなると、その後しばらくはおでんの強制から逃れられなくなるのが常である。しかし、これは思い上がりかも知れないけど、我が家のおでんの味は、コンビニで売っているそれよりは上のレベルではないかと思う。というわけでとりあえず2時間ほどかけて仕込みを終える。後は時間を見つけて煮込み続けることが肝要。夕刻までには大根にも充分味が滲み込むようになるだろう。

準備を終えて、先ずは阿波の藍の中心産地である、その名も藍住(あいずみ)町にある「藍の館」という所を訪ねることにして出発。吉野川に架かる橋を渡り、巡礼の道ともなっている県道を走ってゆくと、八十八箇所のお寺の案内板が幾つか目に入った。第一番札所の霊山(りょうせん)寺は藍住町の隣の鳴門市にあるから、この辺りを歩く巡礼の人たちはまだまだ元気な筈だ。拓は52歳の時、八十八箇所を自転車で13日かけて巡礼したことがある。あの時は、本番の前に約半年間毎日家から職場まで往復約40kmを自転車で通って足を鍛えたのだったが、いざ本番となって、初めに足ではなく尻が痛くなって往生したことなどを思い出す。自転車よりも歩いた方が体力的には楽だろうとその時思った。今は、さてどうなのだろうか。この頃は2万歩近くを歩くと踵が痛くなり出すので、歩くのも無理かも知れない。このような泣き言をいっているようでは、所詮巡礼はムリであろう。

時間ほど走って目的の建物に到着。拓は藍染もその製品にも然したる興味・関心はないので、入館は邦子どのに任せて、車の中でお昼の用意でもして待つことにした。今日はかなりいい天気なのだが、風が強くて車の外に出ると少し寒く感ずる。   

藍住町にある、藍の館の入口の景観。中の様子は邦子どのに訊かなければ解らない。

おでんの煮込みは後でやることにして、お昼は一昨日高松のYさんから頂戴したお土産のさぬきうどんを茹でることにした。半生の製品なので早めに食べた方が良かろうと考えた。邦子どのが帰る頃を見計らって茹でてみた。釜揚げにして食べたが、いや~あ、実に美味かった。Yさんお気に入りのうどんだとお聞きしたが、これは相当なものだなと思った。見学を終え戻ってきた邦子どのの食後の感想も同じだった。先日の長田うどんの釜揚げも美味かったが、このうどんも、さぬきうどんの本物の味をたっぷりと味わわせてくれた。あと何回か楽しめるのが嬉しい。Yさん、ありがとうございました。

うどんを味わい、少し休憩した後、人形浄瑠璃で有名な阿波の十郎兵衛屋敷というのへ行ってみることにした。浄瑠璃などというものは拓にはさっぱりわからない世界だけど、どういうわけか「傾城阿波の鳴門」などという題名は記憶したりしている。しかしストーリーも表現方法もさっぱりわからないし、木偶(でく)人形のこともさっぱり解らない。少しは解っておいた方が良いかなと思い、今日は時間をかけてそのモデルとなった十郎兵衛という人の屋敷跡に作られた資料館などを見学してみようと思っている。吉野川の堤防の上につくられた道を河口近くまで走って行くと、十郎兵衛屋敷の案内板があった。

駐車場に車を停めて中に入ろうとしたのだが、何と只今リニューアル工事中だとかで、休止中だという。これではどうにもならない。残念だけど諦めるしかない。これで阿波の人形浄瑠璃の知識を得る機会はかなり遠ざかることになりそうである。

14時半近くになっているので、一先ず今日の待ち合わせ場所になっている道の駅「公方の郷なかがわ」に向うことにする。平成の大合併で、この道の駅は那賀川町から阿南市の所属となった。Yさんには、所用の合間を縫ってムリをお願いしてお会いして頂けることになり、申し訳なく思っている。道の駅には15時半頃着いたが、風が強くて駐車場所を決めるのに少し手間取った。キャンピングカーは風に弱いものが多いので、停める場所には気をつける必要がある。この頃はとんでもない突風が吹いたりすることがあるので、予めの安全確保には慎重過ぎることは決して無いと思う。Yさんとの約束の時間は17時頃なので、それまでの間、おでんをじっくりと煮込むことにする。

Yさんご夫妻は、予定通りの時間にお出でになった。SUN号の中でと思って準備をしていたのだが、何とYさんは近くに魚の美味しい店があるので、どうしてもそこへご案内してくださると言うのである。予想もしていなかったことなので、随分と逡巡したのだが、結局ご好意に甘えることにして、Yさんの奥さんの運転する車に乗り込む。もう辺りはすっかり暗くなっていた。

連れて行って頂いた立派なお店で、その後はすっかりご馳走になってしまった。久しく魚(さかな)の類(たぐい)を食べていなかったので、正直なところ、魚大好きの拓にとっては、このご馳走は嬉しかった。糖尿のブレーキを外してアルコール類もかなり身体に滲みこませた。前回四国に来た時も、Yさんにはご馳走になっており、なりっ放しである。

Yさんは車の装備に詳しい方で、特に電気に関しては大変な知識と技術をお持ちで、拓と同じメーカーの同型のYさんのキャンピングカーの内部は、とても同じ車とは思えないほど何もかもが充実した装備となっている。そのようなことが自在に出来る才能をお持ちであることは、羨ましい限りである。拓には全くダメな世界なので、只ただ、驚き尊敬するばかりである。

Yさんの奥さんは、邦子どのと同じ千葉県の出身で、世代も変わらないので、考えが一致するところが多いらしい。奥さんは明るい気さくな方だけど、七宝の工芸では、わが国の最高峰の展覧会の一つである日展に、2年連続入賞を果たしている名工なのである。これ又素晴らしい才能の持ち主なのだ。歓談の中で、作品作りのご苦労などを伺ったが、製作のプロセスの中では、ご主人が相当協力されていることを知り、素晴らしいご夫婦なのだなあと、改めて実感した次第であった。このような方と知り合いになることが出来て、改めて旅くらしにおける出会いの素晴らしさ、ありがたさを思った。

美味しい魚とお酒を十二分に堪能させて頂きながら、楽しい歓談の時を過ごさせて頂き、しみじみと出会いの素晴らしさ、ありがたさを思った。Yさんご夫妻、本当にありがとうございました。

再び奥さんの運転される車で道の駅まで送って頂いた。帰り際、どうしてもと我が家のおでんも少しお持ち頂いたのだが、今夜の魚には及ぶべくも無い。又、Yさんからはお土産の他にも欲しかった衛星放送用の室内アンテナまで頂戴して、恐縮の限りである。本当にありがとうございました。

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06年 北陸・中四国晩秋の旅(第20日)

2008-12-03 03:20:53 | くるま旅くらしの話

第20日 <12月02日()

Oさん宅→道の駅:津田の松原→(R11R318)→道の駅:どなり(徳島県阿波市)→御所の郷(阿波市)→(県道・192)→道の駅:貞光ゆうゆう館(つるぎ町)(泊) <82km

Oさんご夫妻にはすっかりお世話になってしまった。午前中少しデジカメやパソコンの扱いの復習をしていたら、たちまちお昼近くになってしまった。あわててお別れをすることにして、未だSUN号内を見て頂いていなかったので、Oさんご夫妻を車の中に案内する。この時車を置いた空き地の隣にお住まいのKさんご夫妻が中を覗きたいご様子だったので、ご一緒に入って頂いて、しばらく皆で歓談することとなった。お湯を沸かしお茶などを飲んで頂く。車の中を見るだけではなく、生活の一部も知って頂ければと思った。

多くの皆さんはキャンピングカーの外見は知っておられるけど、中を覗く機会はなかなかないと思うので、我々は興味を抱かれる方には何時もオープンにして見て貰うようにしている。Kさんは体調が厳しいのを押して登山をされているとのこと。奥さんも山がお好きなようで、殆ど毎日付近の山(屋島等)に登っておられるとか。キャンピングカーの旅にも関心をお持ちのようだった。何やかやと1時間ほど話している内に、降り出し始めた雨が本降りとなってしまい、やがて雷鳴付きのものすごい豪雨となり、何と雹(ひよう)のようなものまでが降ってきた。   

突然暗闇となった空から降ってきた雹の集まり。高松に5年間住んでいたが、このような雹を見たことはなかった。

少し前に皆さんはお帰りになったのだけど、あまりに猛烈な降りなので、しばらくは出発を見合わせざるを得なかった。別れの涙雨というのはあるが、今日のこれはあまりにもひどすぎる。しばらく様子を見た後、先ずはとにかく道の駅「津田の松原」へ行き、その後の段取りを考えることにして、Oさんの高松をさよならする。

帰り際に、Oさんには、愛蔵のお酒のコレクションの中から、何本かをお土産に頂戴したりして、いやあ申しわけなし。本当にいろいろとお世話になりました。ご夫妻の心からのおもてなしに改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

R11に出てしばらく走ると、雨雲が切れて日が差し、海上に虹が架かっているのが見えた。車を停めて何枚か写真を撮った。日本海の虹は珍しくは無いが、この季節の瀬戸内の虹は珍しいのではないかと思った。今日は特別な荒天なのかも知れない。   

瀬戸内海に架かる虹。この季節にこのような虹を見たのは、これ又初めてだった。

直ぐに道の駅に到着。雨は未だ止んではいない。しばしこれから先のことについて検討の結果、今日はこの先の白鳥町からR318で土成(どなり)の方に向かい、先日お世話になった貞光の道の駅にもう一度泊ることにして、途中温泉にでも入ろうということにした。徳島の知人のYさんとはメールで連絡を取り合っているが、明日の夕刻阿南の道の駅でお会いすることになっている。それで、明日の日中は邦子どのが予てから関心を寄せている、藍関連の展示施設や阿波の人形浄瑠璃関係の場所などを訪ねることにしようと思っている。

大内町とか白鳥町とか三本松、引田などの懐かしい名前を思い起こしながら走ったが、今はそれらをひっくるめて東かがわ市となってしまった。志度や大川、寒川や津田などの町々もさぬき市などという名で括られてしまって、何だか親近感を覚えない。町々の歴史や地名などはこのようにして理由(わけ)の分からぬままにつくられて来たのであろうか。R318に入り、しばらく走ると白鳥温泉という案内板があったが、道が狭そうなので、見送った。しばらく山の中を走ると、道の駅「どなり」があった。ここは以前来たことがある。

隣接して温泉のあるホテルが建っているが、立ち寄り湯は止め、小腹が空いたので、徳島の名物タライうどんを食べることにして、ホテルのレストランへ。もう15時過ぎだ。中途半端な時間なので、お客さんは我々だけである。ホテルの周りの山は、今が淡い紅葉の真っ盛りのようだ。この辺はそれほど冷え込みが厳しくないので、紅葉には今一アクセントがつかないのかも知れない。でもやはり全山紅葉は美しい。タライうどんというのは、うどんを入れる入れ物がタライに似せた木の桶で出来ているもので、入っているうどんは釜揚げに似たものだ。さぬきうどんと同じようなものだが、少し迫力に欠けるのは否めない。でも美味かった。

腹を満たした後、ほんの少し走ると徳島自動車道の土成IC近くに「御所の郷」という道の駅の機能を備えた施設がある。ここには地元の物産の販売施設も入浴施設もある。でも道の駅になっていないのは、同地区に先ほど寄った道の駅が先行して認許されたからなのかもしれない。我われからみると、こちらの方がずーっと道の駅らしく思えるのだが、行政のやることは不可解だ。以前来た時はここの温泉に入ったのを覚えている。今日はどうするか迷ったが、結局入浴は見送ることにした。腹が膨れてしまうと、風呂に入るのが億劫になるのは、仕方がないことであろう。

その後、途中で飲料水や食材などを仕入れながら貞光の道の駅に着いたのは17時を少し過ぎた頃だった。今にも豪雨をぶちまけそうな黒雲が空を覆っている。こんな時は早めに寝るのが一番だ。夕食の後、Eメールのチエックをしていたら、うっかりユーザー名とパスワードを間違えてインプットしてしまい、ユーザー名がわからなくなってしまって往生した。まさかこんなドジをしようとは思っていなかったので、ユーザー名は控えておかなかったのである。このままでは、今後の旅ではEメールを覗くことが出来なくなってしまう。やむなく倅に、携帯メールで控えの資料を仕舞ってある場所を伝えて、調べて連絡して貰うように頼んだ。倅も呆(あき)れかえっていることだろう。Eメールが開けないと、帰宅してからやらなければならない仕事に支障が出てくるので、少し焦った。翌朝、倅から救いのメールが届いてホッとした。このような時、倅と同じ屋根の下に住んでいることが大いなる助けになる。ありがたい。

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06年 北陸・中四国晩秋の旅(第19日)

2008-12-02 00:09:04 | くるま旅くらしの話

第19日 <12月01日()

終日Oさん宅(午後からOさんご夫妻と金毘羅山詣でに)<0km

今日はOさんとお別れして久しぶりに金毘羅山に参拝し、運動不足をカバーしようと考えていたのが、……。朝食の後、Oさんからデジカメの写真をパソコンに取り込むやり方を教えて欲しいと言われて、造作も無いことと要領を説明していたのだが、Oさんからどうしてももう一晩泊って行けと勧められて、何だかこのまま今日別れるのが申し訳ないような気になり、とうとうもう一晩お世話になることになってしまった。

金毘羅山にはOさんご夫妻も同行するから、Oさんの車で行けば良いという話なのである。というわけで、午前中はたっぷり時間をかけてパソコンやデジカメの基本的な取り扱い方などについて、その要領を説明させて貰った。

パソコンの扱いは、一ぺんに覚えきれるものではなく、どうしてもトライ&エラーの繰り返しが必要となる。説明を受けている時は解ったような気になるのだが、しばらく休んでいるとどうしても忘れてしまうものだ。デジカメとパソコンの関係を忘れないための一番いい方法は、デジカメ日記をつけることだと思う。デジカメ日記というのは、毎日デジカメで撮ったその日の関心事の映像を、パソコンの中に記録しておくというやり方である。そうすれば毎日必ずデジカメとパソコンに触ることになり、一旦覚えた取扱を忘れることは無くなる。これをやるためには、フォルダーのつくり方と管理の仕方を知っておく必要があるが、Oさんにはそこまで説明する時間が無くて申し訳ない。今度お邪魔した時には、ご希望ならば、その方法について説明させて頂きたいと思っている。ということで、午前中はデジカメやパソコン関係で何やらやっているうちに、あっという間に時間が過ぎてしまった。

二組の夫婦が大野さんの車に乗り、金毘羅山に向け出発。久しぶりに高松の市街を通ったが、高速道の開通や空港の移転などがあって、以前とは大分に街の様相が変わってしまった。街の景観の良し悪しには関係なく、利便性や経済性ばかりを追求してゆくと、この後100年の内には今のこの景色も遠い過去のものとなるに違いない。その頃は自分の魂はどこをさ迷っているのだろうか。あまりの変わり様に驚き、余計なことを考えている内に高松の市街は遠くなっていた。

途中Oさんが昔からの伝統の味を伝えるお店で、釜揚げうどんをご馳走してくれるという。長田うどんというその店は、30数年前には来たことが無かったが、恐らく往時から営業をしていたに違いない。美味かったァ。やっぱりうどんは釜揚げが一番だなと思った。たくさん食べたいのだけど、腹いっぱい食べたりしたら、糖尿君が怒り出すのを知っているので、美味さだけをしっかり味わって量の方はセーブする。昔の拓を知っている大野さんから見れば、どうして少ししか食べないのだろうと不思議に思われたに違いない。酒を飲むためにも他の食べ物は我慢して抑えなければならない身体になってしまっているのである。お許しあれ。でも本物のさぬきの釜揚げうどんは本当に美味かった。

金毘羅山は、その昔未だ下の倅のオムツがとれない頃、おだてながら上の社まで歩かせ登って参拝したことがある。2歳になる少し前の頃だったと思うから、倅にとってはかなり厳しかったのかも知れない。その倅も今は二人の娘の親になっている。その頃以来の参拝なので、無事上の社まで行けるか少し心配したが、実際に登ってみるとまだまだ大丈夫だった。

  

金比羅山の石段風景。果てしなく続いている感じがする。

   

金比羅山の本殿の景観。ここまで来るにはやっぱり大汗を掻かなければならない。

   

金比羅山、絵馬殿の景観。海の守護神でもあるので、船などの奉納もあるようだ。

四人ともまだ老人入りはしていないようで、安心した。帰りは石段ではなく、隣接する公園の中の小路を降りて戻ったが、そこに植えられている山もみじの樹々などが丁度紅葉の時期を迎えていて、思わぬ紅葉狩りの散策となった。参拝の人の多くは単純に石段を往復するばかりで、こんな素晴らしい紅葉の公園が直ぐ傍にあるのを気付いていない。勿体無いなあと思った。

   

金比羅山神苑の山もみじの紅葉。今日から12月、四国この地の紅葉も鮮やかで美しい。

下まで降りた後、歌舞伎などで時々話題になる金刀比羅座芝居小屋にも立ち寄って覗いたりして、充分にこんぴら参拝を楽しみ、Oさんの車に戻って帰宅の道へ。家に着いた頃は、辺りはすっかり暗くなっていた。

   

金比羅歌舞伎で有名な金比羅座。今日は休みで人影もない。

その夜も昨日に引き続いて、すっかりご馳走になり、楽しい歓談の時を過ごさせて頂いた。Oさんは30数年も前のことをよく覚えておられて、拓が大の豆腐好きであることを知っていて、今日はわざわざこの地で評判の豆腐を用意してくれていた。それが実に美味かった。この頃は大豆の味がしない豆腐が多いが、頂戴した豆腐は大豆の上品な味がする超高級品だった。どんなに酔っていても本物の味はそれを忘れることは無い。そしてその気配りの心も忘れることは無い。嬉しかった。

予定外の一日だったけど、嬉しくも楽しい一日となった。Oさんご夫妻、本当にありがとうございました。

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06年 北陸・中四国晩秋の旅(第18日)その1

2008-12-01 00:51:35 | くるま旅くらしの話

第18日 <11月30日()

道の駅:津田の松原→庵治海岸(高松市)→八栗山ケーブル下のうどん屋さん→Oさん宅(高松市)(泊)   <40km

今日は天気が良さそうだ。このところずっと曇りか雨の天気ばかりで、久しく青空を見ていなかったが、今日は大丈夫のようだ。どんなに遅く寝ても6時過ぎには目が覚めてしまうという得な身体なので、6時半には起き出して隣接する公園の松原の中を散策する。近くに「神匂ふ藤()()()(=通り)の松の五万坪」と書かれた、どなたかの句碑があった。本当のところこのように読むのか良くは判らないが、この広い海岸沿いにある松林を讃えて詠()んだ句には違いなかろう。5万坪あるのかどうかは知らないけど、立派な松の木がこれほど多く元気に生きている所は全国にもそれほど多くは無かろうと思う。四国は、特に香川県には松の名木が多いように思う。かの栗林公園は栗ではなく、巨大盆栽のような松が見事だし、高松郊外の鬼無(きなし)の松の盆栽も有名だ。今、全国至る所で松が枯死しているのを見ている。秋田の五能線沿線の防砂林などは、松だけではなく杉のような木までもが真っ赤になって枯れているのを見ると、これは松喰い虫などではなく、酸性雨のようなもっと悪質な奴の仕業に違いないと思うのだが、如何なものであろうか。ここの津田の松原が、30数年前と同じように元気な姿を保ってくれているのは嬉しい。

この道の駅には給水施設がない。SUN号の洗い用の水が少なくなったので、水を補給するために隣接する公園の水飲み場を探す。水の無いときは、公園へ行けば水飲み場があるというのを知ったのは、旅の経験からである。ぐるーっと廻って歩いていると、ようやく水飲み場が見つかった。しかし車からは300mほど離れた所だった。つまり往復すると600m、5往復すれば3kmにもなってしまうのである。普通の人だと、ここでギブアップして水を汲まないのだろうけど、拓の場合は、その逆で、これでカロリーを消耗できると喜ぶのである。水汲み場のある道の駅でも、多くの人はなるべく水道施設に近い所に車を停めようとするが、拓の場合はその反対で、なるべく遠い所に車を停めるようにしている。何故なのかといえば、糖尿の身でありながら酒を飲みたいために、運動でカロリーを消費するようにし、その分をアルコール可飲量(そのようなものがあるのかどうかは定かでない)に回したいと考えているからである。これが正しい理屈でないことは承知しているが、運動によるカロリー消費が糖尿の治療に有効であることは間違いない。というわけで、その後車に戻り10L入りのポリタンに水を入れて5往復した。水を汲む前の偵察の距離などを入れると早くも4km近くは歩きを稼いだことになる。今日は美味い酒となるに違いない。ざっとまあ、このような浅はかな毎日なのである。

さて、今日の予定は、Tさんとお別れたした後、高松近郊の昔の思い出の地を少し訪ねたりして、15時頃、拓の昔からの知人のOさん宅にお邪魔することにしている。

Tさんはたっぷり睡眠をとられたようで、9時半過ぎに起き出された様だ。Tさんは一人旅にも挑戦されており、今回も行程の半分は一人旅ということである。朝食用の調理用の秘密兵器というのを見せて頂いた。それはカセットガスを用いたパン焼きと卵焼きが一度に出来るというコンロで、以前より愛用されているということ。今は製造されていない製品ということだった。

   

左は、多田さんの調理用秘密兵器。パンを焼きながら目玉焼きなどが出来る。右は多田さんの車(右)とSUN号。どちらもグローバル社製キング5.3

車の中もきれいに整理整頓が行き届いており、男の一人旅では、めちゃくちゃに乱れた車内のありさまを見ることが多い中で、さすがTさんだと、邦子どのは盛んに感心していた。拓は未だ長期間の一人旅はしていないが、さて本番になったらどういうことになるだろうか。

来年の春ごろ、息子さんのこの車にもソーラーを取り付ける予定があるということなので、その時には是非我がSUN号にもソーラーを取り付けて欲しいとお願いした。くるま旅くらしでは、安心して電源を確保する上ではソーラーは有力な手段だ。予てからその必要性を感じていたが、Tさんの話を聞いていて、是非とも思い切って取り付けたいと思い、お願いした次第である。拓の場合はとても一人で取り付ける能力を持ち合わせていないので、力のある方を頼らざるを得ない。来春にはTさんのお宅をお邪魔しますが、よろしくお願いいたします。

11時少し前、Tさんと別れて庵治(庵治~高松市庵治町)に向けて出発。途中、車の中で邦子どのは30数年以上前に子供たちのPTAか何かの集まりで知り合い、今は年賀状の交換だけとなっている高松近くに住む知人に電話をしていたが、時間の都合がついたようで、どうやらその方と会えることになったらしい。八栗ケーブル下にあるうどん屋さんで待ち合わせることになったとか。Hさんというその方は、全くの突然の電話だったので、相当驚かれたのではないかと思った。2、3日前ならともかく、いきなり今日の今すぐのような話には、びっくりしない方がおかしい。12時半頃ということだった。その時間に間に合わせるように留意して、そのまま車を走らせ、牟礼町から右折して海に向かい、庵治の海岸に着いたのは11時ちょっと過ぎだった。

庵治の海は、初めて高松に転勤で来た時、随分と通った思い出がある。我が朋友のKさんとスコップと自家特製の貝拾い選別器()を胸にぶら下げ持って、未だ冷たい3月の海に入ってアサリ貝を採ったのを思い出す。石ころだらけの浜に大型のアサリ貝(その時のKさんの話では三年物とか)が棲んでいるのを見つけたのは、Kさんだった。地元の人たちの誰も気付かない我々の秘密の場所だった。30分ほどでバケツ一杯のアサリを採った後は、家に戻ってベランダのタライにポリタンに汲んで持ってきた海水を入れてアサリの砂を吐かせ、やがてアサリをふんだんに使ったいい加減な料理(アサリの酒蒸し、アサリの唐揚、アサリのパエリア等など)で一杯やるアサリパーティにうつつを抜かしたものだった。今、その思い出の浜はどうなっているのだろうか?

   

瀬戸内海を大型の観光船が行く。未だ白砂青松の雰囲気が残っていて嬉しかった。

それらしき場所に行ってみたが、白砂青松というには少し無理があるけど、昔とそれほど変わらない、きれいな海が広がっていた。沖を行く客船やタンカーも今日のいい天気の中では絵になる風景である。その昔、貝を採った場所がどこなのかが見つからなかったのが残念である。新しい防波堤や漁港のようなものが出来ているので、昔とは様子が違ってしまっているのかも知れない。探すのは諦めて、道端の駐車スペースに車を停め、バッテリーに充電しようと発電機を回す。近隣に住宅などは無いので、騒音で迷惑をかける心配は無い。のんびり海を眺めながら、1時間ほど発電機を回した。

12時を廻ったので、八栗に向わなければと出発したのだが、途中で発電機から車のバッテリーに電気を取り込むためのケーブルを忘れてきたのに気がつき、慌てて先ほどの場所に戻る。そのようなドジをやったため、約束の時間に間に合うのがぎりぎりとなり、大汗をかいた。でも、忘れ物を思い出しただけ上出来だ。(その2に続く

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06年 北陸・中四国晩秋の旅(第18日)その2

2008-12-01 00:48:44 | くるま旅くらしの話

Hさんと邦子どのは、30何年かぶりの再会に大感激だったようだ。Hさんには同行の友達がおられて、キャンピングカーの中を見たいとおっしゃるので、先ずは車の中に入って頂いて様子を見て頂く。いつでもそうだけど、我々はSUN号に近づいてこられた方には、できる限り車内を見て頂くようにしている。その結果くるま旅を楽しむ仲間が一人でも増えればいいと思っている。現実にそれがきっかけになって旅くるまを買われた方もいるのだ。

お友達の方が帰られた後、邦子どのと二人はうどん屋さんで会食に。拓は同行を遠慮する。この後の二人のおしゃべりに、拓の入り込む余地は全く無いと考え、しばらく近くの散策に出かける。この辺りはその昔はよく来た所である。この近くにあったゴルフの打ちっ放しの練習場には、拓は2ヶ月ほどの間、毎日通って手が腫れ上がって手袋が入らないほど打ち込みに汗を流したことを思い出す。そのゴルフ練習場は、今は見当たらなかった。変わっていないようでも30年という歳月が、全てのものを同じ姿形のまま残すことはありえないのであろう。

   

30数年ぶりの再会を果たした熟女二人。体型が丸くなったのは、心も丸くなった証なのか?

車に戻ってしばらくすると食事を終えた二人が戻ってきた。30数年前とは大分変わった体型をお互いに確認し合って、これが現実なのだと諦めたのかそれとも安心したのか、二人の胸のうちはわからない。ともかく久しぶりの邂逅(かいこう)に興奮しているのは、まあ当然だろう。車の中でも二人の話はしばらくの間続けられた。時々拓も巻き込まれそうになって、適当にお茶を濁す。

Oさんの所へ行く時間が迫ってきたので、お二人には名残りを惜しみつつ別れの挨拶を交わして頂き出発。Oさんの住いのある高松町は、ここからは10分ほどの所である。何しろ30年以上も前に一度お邪魔したきりなので、全く見当がつかない。予めネットの地図をコピーしてきているので、それを頼りに探すことにする。この迷いが楽しみである。行って見ると目印にしてきたコンビニが無くなっていたりして、少し迷ったが、意外と早く見つけることが出来た。

家を発見というよりも、Oさん自身が外に出て待ってくれていたので、難なくたどり着くことが出来たのである。Oさんの知り合いの方の空き地に誘導して頂いてSUN号を置き、Oさん宅に。奥さんもお元気そうに迎えてくださった。奥さんには邦子どのも何度かお会いしているので懐かしさは層倍だと思う。Oさんは、その昔の職場の仲間と連絡を取り、その中で都合のついたお二人と近所の喫茶店で会える様に手配をしてくれていた。邦子どのは奥さんとしばらく話して貰うことにして、拓はOさんの車で直ぐに出かけることになった。

10分足らずでその喫茶店に到着。YさんとOHさんが待っていてくれた。お二人ともリタイアされて間もないようだ。30年前よりも今の方がずーっと親近感を覚えるのは、どういう訳だろう、職場の組織や仕事などという本来の自由な人生には無用の垣根が取り払われたからなのかもしれない。お二人ともお元気に第二の人生をスタートされているようで何よりである。Yさんは地域の世話役として多忙な毎日を送っておられるとのことだった。OHさんは未だ若いので、只今はしばらくのんびりと過ごすのを楽しんでおられるようである。薄暗くなるまで、4人の歓談は続いた。いい時間だった。Oさんのご配慮と、わざわざ会いに来てくださったお二人に感謝、深謝。Yさんには、わざわざ高松名物のさぬきうどんをお土産に頂戴したりして、恐縮した。ありがとうございました。

Oさんの家に戻って、さあそれからが驚きの連続だった。というのも大野さんは拓には真似のできない素晴らしい趣味を持っていて、何とお酒を集めているというのである。日本酒、焼酎、ワイン等々普段は滅多にお目にかかれない銘柄のお酒類が戸棚の中に溢れていた。焼酎では魔王、百年の孤独、天使の誘惑、森伊蔵等など、いやーあ驚いた。その数、種類は半端ではない。とても真似することは出来ない。拓が、真似ができないのは、勿論資金不足もあるけど、それ以上にコレクションを保持することができないからである。つまりは保管する前に中身が無くなってしまうということ。酒を愛する人には2種類あって、その1は酒の銘柄や姿を愛する者、その2は酒を飲むことを愛する者である。Oさんは前者であり、拓は後者である。前者はコレクターとなり得るが、後者はアル中になるだけである。しかし、この組み合わせは、後者にとっては願っても無いラッキーなものであり、ありがたい。

いきなりお酒の話となってしまったが、Oさんはご近所に素晴らしいお友達を持っておられ、その日はそのお友達のMさんが採って来られた藻蟹(もがに~ワタリガニに似た蟹だが、二まわりくらい小型なのだ)がバケツ一杯ほども用意されていて、ガサガサと騒いでいた。奥さんはどうしたものかと迷っておられたようだったが、蟹の扱いは邦子どのの世界なので、さっそく出番となり台所へ。まもなく大皿に山のように盛られた赤く輝く蟹が運ばれてきた。

   

輝くカニの山を前にして、30年ぶりの乾杯! いやあ、何とも嬉しいなあ。

カミさん同士も乾杯!こちらは30数年ぶりの再会です。0年ぶりの乾杯ア、嬉しいなあ。

やがてMさんご本人もやって来て、楽しい宴の時となる。Mさんは半漁師、半農業のようなことを趣味の世界で楽しんでいる自由人とのことである。彼のつくったサヨリや鯵の干物は唸るほどの美味さだった。又冷凍して持ってきて頂いたという黒豆の枝豆にも感激した。何年か前、丹波を通った時、見てくれの悪い枝豆を気まぐれで買って茹でて食べたことがあるが、これがそこいら辺の枝豆とは天地の差ほどもある美味さだったのに感激したことがあるが、まさにその枝豆が目前に出されてきたので驚いたのだった。訊けばこれはMさんが作られたとか。

他人様の家にお世話になっていることも忘れて、楽しい歓談に夜遅くまでうつつを抜かしたのであった。Oさんご夫妻、Mさん、ありがとうございました。

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