山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

年末世相雑感:教育の荒廃を憂う

2008-12-29 01:24:39 | 宵宵妄話

世の中の様々な出来事を見ていると、やっぱり一番大切なのは教育だなと思う。教育には大別すると3つの重要な領域がある。その1は家庭教育、その2は学校教育、その3は社会教育である。私自身も教育に係わってきた一人であるけど、それは企業内教育であり、この3つのパートに敢えて押し込むとすれば社会教育となるのかもしれない。しかし企業内教育というのは、営利を目的とする企業体の中で必要に応じて行われるものであるから、一般的にいう社会教育とはやはり別というべきであろう。

今の世の中では、①家庭教育②学校教育③社会教育のどの領域も大きな問題を抱えているような気がしてならない。本来この3つは、相関連して運営されてゆかなければならないものだと思うが、現実はそれぞれが分断されて、最悪の状態で動いているように思える。家庭教育はバラバラだし、それが何なのかも知らない、知って居ても無関心な家庭も多く存在する。学校教育は家庭と社会から揺さぶられ続けて、教師は信念や自信を失いかけ、追い討ちを掛けるように上から方針の変更を通告され戸惑っている。社会教育に至っては、それが何なのかすらもよく見えない。もしかしたら、老人や閑(ヒマ)人相手の趣味講座のようなものだけが、そうと考えられているのかも知れない。

国が乱れる元となるのは、戦争などではなく、多くの場合教育の荒廃である。その荒廃は、勿論教育単独でもたらされるものではなく、その前提として国の経営(=経世)の乱れがあるのは明らかなことだ。今の世は、もしかしたらこの荒廃の中にあるのかもしれない。

戦後の日本の経世の流れは、概して成功の道筋を辿ってきたと考えられている。結果として世界第2の経済大国に成り上り、バブルの時などは、アメリカの象徴である超高層ビルを買い取るなどという愚かなビジネスを展開するほどとなったのであるから。しかし、今の世の中を見ていると、その繁栄謳歌真っ盛りの頃から既に荒廃は始まっていたのかも知れない。拝金至上主義的な考えが、国を本当に豊かにするとは思えない。バブルの地獄から這い上がって、ようやく元気を取り戻せるかと思った時に、今度は世界恐慌に巻き込まれて、様々な不穏現象の中に、改めて教育の荒廃を感じさせられる出来事が起こっているように思う。

3つの領域の中で、最も荒廃の酷いのは家庭教育だと思っているが、これは今のところ打つ手が無い。平気で自分の子供を殺したり虐待したりする親が現出している状況の中で、個々の家庭に向って痴()れ事を叩く勇気は持ち合わせていない。家庭教育というのは、本来親の子に対する純粋な愛情(逞しく生きる力を持った人間になって欲しいという)の発露に基づくものであって、それがどのような形をしていても他人がとやかく言うべきものではないと思っているのだが、今頃の親は子供のために子供の成長を願うのではなく、自分のために都合の良い子育てを指向していることが多いようなのだから、困ったものである。そのような親が、PTAなどで身勝手な先生批判などをするものだから、学校教育は萎縮してしまったりするのである。PTAのPの横暴は想像を遙かに超えているようだ。教育委員会はTに向っては絶大な権力を振るっているけど、Pに向っては殆ど無力の存在のようである。これは恐るべき片手落ちというものであろう。教育委員会は、Tではなく、Pに対してもっともっと教育的観点から是々非々を述べるべきである。ある意味でそれこそが社会教育なのではないか。社会が何かを知らない親たちを、きちんとした社会認識が持てるようにガイドするのも、教育委員会の重要な役割だと思うのだけど。これは考え過ぎなのだろうか。

知らず教育委員会の話となってしまったが、思うに地方公共団体の教育委員会というのは、一体何をしているのかさっぱり解らない。何か不祥事等の問題があったとき、関係者が出てきてコメントのようなことを述べているけど、普段何か教育行政に積極的に貢献するようなことを行なっているのだろうか。本当に子供たちの学ぶ意欲を向上させ、そして教師たちの指導者としての自信の確立に資するような役割を果たしているのだろうか。更に社会教育の一環として子供の親たちに対して社会認識を確立させるような働きかけを行なっているのだろうか。実体がさっぱり解らないので、迂闊(うかつ)なことは言えないと思うけど、何だか名ばかり監視役のように映ってならない。私の見解が大いなる見当外れの実態であることを願っている。

その昔(といっても10年も経ってはいないが)、某県・某市の小中学校長の研修会に招かれて、マネジメントについて話したことがある。学校における管理者(=校長・教頭)のマネジメントを考える上で、企業内のマネジメントの実際を知り、参考にしたいという主旨だった。一通りそのコンセプトや実際について話をさせて頂いたのだったが、そこで伺った話では市の教育委員会において、管理者に対して目標管理(MBO~Management By Object)が導入されたのだそうで、その資料等を拝見したのだったが、そこには目標の決め方、書き方を初めとする一連のシステムの要領が提示されていた。それを拝見して、あっ、これは直ぐに形骸化するなと思った。目標管理の形骸化は、目標管理のための行動の実際と紙に書かれた文語とのズレによって証明されるのだが、目標管理をペーパーを使って行なう仕組みでは、たちまち形骸化するのが常態なのである。しかし、此処の場合は、教育委員会は恐らく校長先生が提出したペーパーで評価をしようとするのであろうから、現場の実体とは違った成果を見るに過ぎないことになる。紙のやり取りだけで、マネジメントが把握できるなどというのは、あまりにもお粗末な発想だ。企業の場合の目標管理には、様々なバリエーションがあると思うけど、紙だけでの目標管理などあり得ないと思う。

余計なことを書いたが、教育委員会がもしもこの程度の施策で管轄下の学校の管理を行なっていたとしたら、それは明らかな怠慢であろう。現場の実体を正確に掴むためには、現場に行く必要があり、机の上だけでは、現場を知ることは勿論動かすことなど到底出来るはずが無い。紙一枚で何かを決め、通達すればことが済むなどというのは、マネジメントではない。というのが私の実感である。

現在の話題として、学力調査結果の公表の問題があるが、この扱いを見ていると、教育行政管理機能の不具合というか、お粗末さが露呈されているようだ。文部科学省と地方自治体とのズレ、地方自治体の内部におけるズレが問題となっている。ズレが全くないほど統一されているのが良いのかどうかは知らないけど、何のための調査だったのか、その結果をどう活かすのかを考えれば、公表する・しないなど自明のことではないかと思う。歴史上類(たぐい)稀なる競争社会を作り出しておいて、競争とは無関係にその弊害を唱えて、ターゲットの無いデータを弄(もてあそ)ぶのなら、初めから調査などしなくても良いのではないか。漠然とした結果を掌握し、漠然とした対策をすればその調査が活きるなどという話は、例えば競争に鎬(しのぎ)を削っている企業社会(=これが学校卒業者の住む現実)においては、到底認知される調査活動ではない。教育行政には甘さが随所にあり過ぎる。こんなことで教育の再生など出来るはずも無いように思うのだが、言い過ぎなのだろうか。

ついでに言わせて貰えば、「ゆとり教育」などといっていたのが、子供たちにとっては殆ど何もゆとりなど無かった実体があるように思う。ゆとり教育の中身といえば、ただ授業時間が減っただけであり、教師がそれで楽になったのかといえば、そんなことは全く無い。教師を職としている身内の者がいるけど、その実態は、寝食を犠牲にするほどの仕事量であり、このようなゆとりの無い教師の状況下では、子供にゆとりなど生まれる筈も無い。仮に先生にゆとりが生まれたとしても、親が子供のことなど無視して塾などに追いやれば、ゆとりなどそれっきりで消え去ってしまうのだ。

少し支離滅裂な展開となってしまった。教育に関しては、八方塞がりの閉塞感がある。親も、先生も、国も地方自治体も。これはやはり荒廃なのだと思う。不況感が一層その悲観的なムードを増幅しているようだ。近い将来のこの国に住む人たちの人間力を培う基盤づくりのために、何とかこの荒廃をストップさせ、本物の教育の再生を確立して欲しいと願っている。ただ願うのみである。

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