山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第10日)

2008-09-23 05:14:35 | くるま旅くらしの話

10日 <53()

快晴の朝となった。金北山の眺望が素晴らしい。早めに写真を撮ろうと、食事の後SUN号を写真の撮りやすい場所に移動させる。旅の写真は多いが、車や人物を撮ったものは極端に少ないのが我々の特徴で、いざというとき材料不足で困ることが多い。例えば、名刺に旅くるまの写真や自分の顔写真を載せようとしても殆ど無いのである。最近気がついて、少しはそれらに使えるようなものを撮ることにした。今日は絶好のシャッターチャンス日和である。いろいろな角度から何枚かの写真を撮った。先のTV取材のカメラマンのKさんの影響などが少しはあるのかもしれない。

   

晴の空。遠くに聳え連なる金北山を背景に、佐渡最後の日のSUN号の記念写真

とにかく今日は最後の日なので、フェリーの出航時間12時40分の1時間前までには乗り場に行くようにして、それまでの間に幾つか目をつけた所を訪ねることにする。先ずは近くにある清水寺という所に参詣することにした。10分ほどで到着。立派な寺だったが、荒れがひどくて、何だか勿体無いような気がした。住職さんの力が足りないのか、檀家のパワー不足なのか、このままだと朽ち果ててしまうのではないかと心配するほどだった。今度来た時には、しかるべく補修がなされているのを祈るのみ。せっかくの文化遺産を何とか保持して頂きたいなと思った。

次は未だ行っていない「朱鷺センター」へ。佐渡といえば朱鷺というほど、最近では有名だが、拓は、あの変てこりんな顔をした派手な色の鳥をそれほど見たいとは思わない。鳥の方だって、見に来て欲しいなどとは、それほど思ってなどいないだろう。しかし、せっかくだからどんな具合なのか、ちょっと覗いてみようと立ち寄る。人気があるらしく、8時になったばかりだというのに、観光バスなどもやって来て、お客さんが多い。入ってみたが、予想通り、肝心の鳥達は人間からはかなり隔離されていて、望遠鏡や双眼鏡でしか見ることができない。肉眼では、遠くの方でそれらしい鳥がギャーと鳴く声がきこえる程度で、親しみも何も感じない。佐渡に居た朱鷺とは違う種類の何とかいう朱鷺は、近くに何羽か飼われているのを見ることができたが、これは本物ではないのだから、つまらない。鶏や雀などの方が親しみがあっていい、などと思った。概してネガティブなコメントである。朱鷺はそっとしておくに限ると思う。

道の駅でお土産などを買いたいという邦子どのの要請で、開店したばかりの道の駅の販売コ―ナーに再来。拓には土産など関心ないが、付き合いの多い邦子どのには多少の気配りが必要なのであろう。ご苦労なことです。買い物をしている間は暇なので、付近をぶらぶらする。

買い物が済んで、未だ時間があるので、両津郊外の羽吉という所にある桑の老樹を見に行くことにする。老樹を見るのが好きだ。黙々と風雪に耐えて生命を永らえてきた存在には、いうに言えない荘厳さがある。その桑も樹齢千年を超えるというから、それなりの風格があるに違いない。

行って見ると、想像を遥かに超えた大樹だった。桑の木のこれほど古く巨大なものは、今まで見たことが無い。樹齢は、何と千三百年という。国の天然記念物に指定されているその老樹はとても桑とは思えず、物言わぬ怪物のように思えた。根回りが5mを超えているとか。未だ葉が出ていないので、桑には見えないのだが、やがて若葉が広がると、やはりこれは桑なのだと判るに違いない。個人の持ち物ということだが、千三百年の間、この樹は一体どのような人たちと関わって時代を見て来たのだろうか。一言訊いて見たいものだと思った。

   

羽吉の大桑。1300年を生き抜いてきたそのパワーに圧倒される。

老樹に感動して車に戻ると、近くに「苔梅」という案内板が目に入った。未だ時間があるので、歩いて行って見ることにした。10分ほど歩くと、真法院というお寺があって、そこに梅の古木があり、それが苔梅と呼ばれているらしい。解説板によると、順徳上皇お手植えの梅で、現在のものは何代目かのものとのこと。古木にしては少し若い感じがしたのはそういうわけだった。この島では順徳上皇はかなり人気の高い人物だったようである。

フェリー乗り場の駐車場に車を入れたのは10時半だった。少し早すぎる気はしたが、他に停めるよりもどうせここに来なければならないのだからと、置くことにした。その後で、出かければいい。

邦子どのがフェリーターミナルを覗いている間、拓は両津欄干橋近くにある村雨の松というのを見に行くことにした。両津欄干橋は、その昔、夷(えびす)と湊(みなと)の二つの町を結ぶ橋として、かの有名な両津甚句にも唄われている。村雨の松は昔の番所の跡に残っている樹齢400年ほどの黒松の大木である。確かに見事な巨木だった。可哀想に2本の幹があったのが、そのうち1本は下部から切り落とされていた。何か事故や病気にあったのかもしれない。樹木医の手当てがされているのだと思うが、事故や病気にはなかなか勝てないのであろう。何枚か写真を撮る。今日は先ほどの桑の老樹と、この未だ若いけれど頑張っている黒松の大木を見て、充分に満足した。

 

両津甚句にも歌われている両津欄干橋(左)と村雨の松(右)。

その後、フェリーは予定通り出航。フェリーの中の2等船室で横になりながら、5日半の佐渡のことにいろいろと思いを巡らせた。

昨日だったか、邦子どのから聞いた話だけど、乗用車で来た夫婦の方が、1日で佐渡をぐるーっと一周して来て、もう何も見る所が無い、明日のフェリーに乗るまで、時間が余って何をしようかと困っていると言っていたという。旅の仕方にもいろいろあるが、意外とこの夫婦のような旅の仕方が多いのかもしれない。批判をするつもりは無いが、少し勿体無いように思う。自分達の佐渡の5日半は、佐渡のほんの一部しか知ることは出来なかったし、地元の方たちとの交流も殆ど無かった。最低でも1ヵ月くらいの時間が必要だと思っている。それにしても1日で佐渡を見きってしまって、もう見るところが無いという発想は凄まじいと思わずには居られない。自分たちは、何だか中途半端で、佐渡という国に対して理解不足で申し訳ないという反省しきりなのに、その夫婦者の話が併せ浮かんで来て、参った。

佐渡の金銀山にはとうとう行かなかった。殆どの観光客は佐渡へ来たら必ず訪れる場所であろう。少しひねくれているのかも知れない。しかし、やっぱり遺恨や怨念の篭った哀しい歴史の跡を見る気はしない。金銀などに元々あまり興味が無いのは、貧乏に慣れて育った所為なのかも知れない。貧乏の癖に貧乏に慣れない奴は、反発して金銀財宝を欲しがるのであろう。などなど、つまらない妄想などを思い巡らしながら、うつらうつらしている間に、フェリーは予定通り新潟港に到着した。15時丁度である。

さて、これからどうするか。先ずは油を補給しなければならない。とにかく日本海サイドは油の値段が高い。新潟市内の軽油は、安くても105円というレベル。油の高騰は、くるま旅くらしにとっては真に困った事態である。なるべく安い所をと、先日道の駅:阿賀の里へ行く途中で見つけたスタンドへ行くことにした。そこは103円だった。今日は若干買い物をして、道の駅:新潟ふるさと村にご厄介になることに決めた。

給油の後、近くに白鳥の飛来地として有名な瓢湖があるのを知り、そこへ行ってみることにした。白鳥は勿論飛び去っていなかったが、鴨などは残っている奴がいて、なにやら鳴き騒いでいた。あまり大きな湖ではないが、広い駐車場もあり、湖の周りは公園となっているらしく、水場やトイレもあって、車中泊も可能だなと思った。園内には百本ほどの八重桜が植えられており、それが丁度満開となっていて、なかなか豪華な景観だった。しばらく園内を散歩したあと車に戻り、新潟郊外にある巨大なショッピングモールの中にあるスーパーへ。

佐渡に渡る前にここに一度来ているので、勝手は知っているのだが、あまりに大きいので、却ってわかりにくい。品揃えも豊富で、これでは、市内の商店街がシャッターを閉めざるを得なくなるのは仕方ないなと思った。そういえば今日、フェリーに乗る前に両津のメインストリートと思しきアーケードのある商店街を歩いたのだが、よくもまあこのような状態で商売が成り立っているなあ、と驚くほどの閑静さだったのを思い出した。現代は完全に車社会となってしまっており、駐車場の無い場所では、よほどに個性的で魅力的な商品を持たない限り、商売の継続は困難な時代なのだとあらためて思った。

その後、道の駅に向う途中で落陽の時刻となったが、田植え前の田んぼに落ちる夕陽がこれほど美しいとは思わなかった。

    

越後の広大な田園に落ちる夕陽。北海道の北にあるクッチャロ湖の夕陽を思い出す。

道の駅:新潟ふるさと村は、前回のときよりも車は少なく、落ち着いた感じとなっていた。しかし、夜間エンジンをかけっぱなしにしている奴が近くにいて、安眠を妨害された。このような自分勝手の非常識な奴を取り締まる法は無いのであろうか。大気汚染や、温暖化などには委細構わず、ただ自分の、その時の満足だけを求める人間が増えて来ているようで、何とも情けない。佐渡のことは、早くも忘れ果てて、騒音に対するストレスが夢を悪い方へと誘ったようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第9日)

2008-09-22 03:06:21 | くるま旅くらしの話

第9日 <52()

船のエンジンの音が気になって起き出す。外を見ると雨は止んで、雲の切れ間から光が差していた。直江津行きの1番発フェリーが間もなく出航しようとしている。丁度、日の出とマッチングするようなので、カメラを持って飛び出す。船出には何となくロマンのようなものを感ずるものである。旭日の中を去り行く船を撮ろうとして何度かシャッターを切ったが、なかなか上手くは行かなかった。

ついでに港を少し歩く。早朝から老人と思しき何人かが港内を自転車などでウロウロしている。何だろうと思ったら、釣の情報を得るためにやってきているらしい。その内の一人に挨拶すると、今年は今頃に釣れるはずの鯵などが、さっぱりだという。地元で農業を営んでいるらしい拓より少し年長と思われるその人は、なかなか博識で、島や小木の状況についていろいろと話してくれた。観光情報として、近くの海潮寺の境内に御所桜というのがあり、それが今丁度満開で見頃だと思うので、訪ねたらいいと教えて貰ったりした。早起きは三文の得である。

佐渡も明日にはさよならをしなければならない。いい加減にちんたら歩き回ったが、今日は邦子どのの要望もあって、真野や佐和田、それに相川地区などのお寺や能舞台などの史跡を訪ねることにしている。

先ずは朝食の後、昨日までの雨でかなり汚れたSUN号の車体を拭いてきれいにする。隣に小型のRV車で来られたご夫婦がいたが、邦子どのの話では、ご主人は奥さんと一緒に車旅をしながら、全国各地のマラソン大会に出場されているのだとか。世の中にはいろいろな人がいる。

9時半過ぎ出発。先ずは昨日分らなかった草刈神社を目指す。今度は大丈夫だった。10分ほどで到着。田んぼの奥の里山のような所に神社はあった。村社草刈神社とあり、まさにその名に相応しい素朴な雰囲気を持っていた。江戸時代に作られたという能舞台も昔から村の人々が大事に保存して来られたのが窺える。

   

草刈神社能舞台。素朴な茅葺屋根の建物であるが、土地の人々の舞台に対する思い入れが本物であることを思わせる雰囲気がある。

毎年6月15日にここで

薪能が催されるとのことである。佐渡は能が盛んで、どうやら上演されるのが最も多いのが6月ということらしい。邦子どのは能に興味があって、今度来る時は6月にしたいなどと言っていた。田植えが終わって、田んぼの農作業が一段落したところでの息抜きの行事だったのだろうか。

次は、来た道を戻って、今朝聞いた御所桜というのを見に行くことにした。小木の湯を通り越して宿根木の方へほんの少し行くと海潮寺への入口がある。それを通り過ぎてしまい、又戻って、寺の駐車場へ行ったのだが、なんとそこに大型観光バスが停まっていて,ダメ。やむなくそこを通り越して細い坂道を海の方へ下って行ったら行き止まりだった。やっとの思いでUターンして再び海潮寺へ行くと観光バスが出て行くところだった。いろいろあって厄介だ。

御所桜というから多分順徳上皇のお手植えなどというのではなかろうかと思っていたが、やっぱりそうだった。

御所桜全景。白く眩しい花が咲き拡がっていた。この桜は、佐渡おけさに、「小木の岬の四所御所桜、枝は越後に、葉は佐渡に」と唄われているとか。

里桜の樹で、意外と若かったのは2代目らしい。わずかに紅の入った白い花びらは、八重と一重が同じ枝に混ざって咲いており、ほのかな匂いと併せて、不思議な雰囲気を漂わせていた。今が満開でジャストタイミングでの花見となった。

   

御所桜近景。八重と一重とが混ざった不思議な花である。気品というものを感じさせる花でもある。

瀧桜とも久保桜とも異なるこの雰囲気は、やはり御所の名に相応しいもののように思った。

御所桜を堪能した後は、真野の方へ道なりに点在する神社や名所などを訪ねる。気比神社の能舞台、倉谷という集落の大わらじなどを見ながら国分寺に参詣。

   

倉谷の大わらじ。とにかくでっかい。電柱脇の柱に無造作に括りつけられていた。

昨日の国分寺跡には近くにお寺があるようには見えなかったのだが、下の方に隣接して現在の国分寺があったのだ。

その横に妙宣寺というお寺があり、そこにある五重塔は小ぶりながら見事な調和のある建物で、印象に残った。お寺は江戸末期に建造されたそのままのようで、百年を超えて風雪に耐えた貫禄を示していた。佐渡のお寺は日蓮に因むものが多いようだが、この妙宣寺もやはり日蓮にゆかりのお寺だった。解説の標示板があったが、詳しいことはよくわからない。

妙宣寺から少し坂を下った所に大膳神社というのがあり、そこへも立ち寄ったが、ここにも能舞台が設えられており、ここの能舞台は開放的で、雨戸が無い。邦子どのは舞台の端に上がって、何やらの所作などして、一人浮かれていた。

   

大膳神社の能舞台。佐渡には、神社の殆どにこのような能舞台が設(しつら)えられている。  

昼飯の時間となったので、佐和田の海岸にある海水浴用のキャンプ場の駐車場へ行き、休憩とする。佐渡が観光客で一番賑やかになるのは勿論夏だけど、このキャンプ場も夏には海水浴などのお客さんで一杯になるのであろう。今は誰もいないので、我々が独り占めにしている。

昼食の後は、金井の方にある実相寺、二宮神社、黒木御所、などの他に、幾つかの寺社を訪ねた。夫々に対する感慨はあるが、ここに一々書くのは止めることにしよう。とにかく、佐渡という所は、歴史の名残りを各所にとどめているというのを再確認した次第である。

16時過ぎ、今日の風呂は、金井にある「金井温泉金北の里」にしようとそこへ行く。R350号から少し入った金北山を望む坂の中腹に施設はあって、ここも旧金井町の保養施設として作られたものらしい。温泉だけではなく、宿泊施設も併設されていた。お湯に入る前に、いつものように付近の状況を歩いて確認していると、何と敷地の脇の林がタラの木で一杯ではないか!思わず興奮したのだが、残念ながら既に芽は葉に近いレベルまで育っており、摘むのには時期既に遅しという感じだった。状況から見て、少しは採っても大丈夫の場所のようだった。名所旧跡よりもタラの木の林に興奮するようでは、どうしようもないとは分りつつ、やっぱりこのようなものの発見に興奮するのが、拓の呆れ返る部分である。

温泉は、小木や新穂よりも規模が小さくて露天風呂も無く、やや期待はずれだった。同じ料金(500円)ならば、今まで入った佐渡の温泉の中では、小木の湯が一番かなと思った。

今日の宿は、三度目の道の駅である。明日は佐渡とおさらばしなければならない。今夜が佐渡での今回最後の夜となる。5日間では佐渡はとてもとても分らない。今度来る時は、もっと長期滞在で臨むことにしようと思っている。何かテーマを持って来るのがいいのかもしれない。25分ほどで道の駅に到着。ゴールデンウイーク真っ盛りのはずだが、車で佐渡を訪れる人は少ないらしく、今夜も道の駅に泊まる車は10台足らずだった。それでもいつもよりは少し多いのだろうか。相変わらずの蛙の大合唱を聞きながら一杯やって就寝。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第8日)

2008-09-21 04:29:01 | くるま旅くらしの話

第8日 <51()

夜半からかなりの雨となり、車の天井を叩く音がうるさく、4時過ぎには、雷鳴も轟いたりして、荒れ模様の天気だった。気がつくと邦子どのは、下のソファで寝ていた。辛抱ができない人ではある。

それでも8時頃にはようやく小降りになって、少し安心した、行き当たりバッタリの日をすごしているが、今日は先ずは比較的近くにある長谷寺というのを訪ねてみることにする。佐渡にはお寺が多い。それはこの島が悲しみや怒り、怨念などを多く抱えた人たちが住んだ歴史の産物なのかもしれない。

雨上がりの靄の中に鎮座した長谷寺も、名刹の風格を備えたお寺だった。根本寺や蓮華峰寺ほど古い建物はなかったが、奈良の長谷寺に趣が似たレイアウトになっているのは、何らかのつながりがあるのであろうか。本当のことは良くわからない。朝の境内の静寂は、もうそれだけで魂が鎮まるのを覚える。

   

 長谷寺:仁王門。このお寺は奈良の長谷寺に似たレイアウトの感じがするが、勿論そのスケールでは遠く及ばない。しかし、そこに刻まれたこの地の人々の思いの大きさでいえば、決して引けをとらないのかもしれない。

長谷寺の後は、真野にある佐渡博物館へ。真野町は確か、拉致された曽我ひとみさんの出身地ではなかったか。帰国されて現在もここに住まわれているのかも知れないけど、それが何処なのかはわからないし、判ろうともしない。しかし、この辺りの海岸から悪の国の人攫(さら)い連れて行かれたというのを考えると、やっぱり気にせずにはいられない。それにしても彼の国の悪質極まる治世・外交には腹が立つ。少し脱線。

TVの取材がなければ、本当は真っ先に来なければならないのがこの博物館だったと思う。博物館で、佐渡の歴史や自然の成り立ちの概要を知った後で、幾つかの地点を選んで訪ねるべきだったが、何だかめんどくさくなって、今頃の訪問となってしまった。雨の合間を縫って博物館に到着。

1時間半ほどかけてじっくりと佐渡について学ぶ。地学や地誌、歴史、人物など多面的な展示や解説がなされていて、さすが料金に見合ったことはあると思った。佐渡出身の人物の中で、日本画の大家の土田麦僊という方が居られるのだが、その実弟が土田杏村であるというのを初めて知って驚いた。随分と昔、神田の古本屋で買った土田杏村著の「文明はどこへ行く」という著書を読んで感銘を受けたのを思い出す。昭和5年刊行の本で、定価は1円50銭だった。鋭い感覚で時代を読んでいる。今の世が、彼の予想したとおりになっているかどうかは分らないが、本質的な部分での指摘は、それほど的を外れてはいないのではないか。それにしても兄は日本画の大家、弟は哲学者として名を馳せたという、このような人物を輩出する家には、何か秘密や秘訣でもあるのであろうか。旅から戻ったら、もう一度杏村の著作を読んでみたい。

やっぱり博物館に真っ先に来るべきだった、などと反省しながら、佐渡の国分寺跡へ向かう。佐渡にも国分寺が在ったのだという愚かな認識不足への反省が、もう一つ湧き上がる。行って見ると、そこは全くの跡地だけで、その後に建てられた建造物は何一つ残っていなかった。雨が少し強くなってきた中、駐車場で、飯を炊いて昼食休憩。誰もいない。静かである。

休憩の後、真野御陵という順徳上皇のご火葬塚に参拝する。宮内庁管理の札があって、やはりここは皇室なのだと思った。順徳上皇は佐渡では超有名人だが、拓にはよくわからない。承久の乱というのは天皇家の幕府に対する儚い抵抗だったのだろうか?

御陵に参拝した後、邦子どのが羽茂の草刈神社の能舞台を見たいというので、山道を越えて羽茂に行き、今日は小木に泊ることにしようと向かう。途中工事中で迂回路などがあり、道はかなり狭くなって離合も困難なほどとなった。対向車が来ないことを願いながら、緊張の内に羽茂に着いたのだが、肝心の草刈神社を見つけることが出来なかった。

でも、立ち寄ったJA羽茂のスーパーの中で、黒メバルと土地の名物らしい「イカトロナガモ」というのをゲット。イカトロナガモというのは、イカとナガモという海草をミックスしたトロ味のある食べ物で、これを熱いご飯にかけて食べると、海の風味が口内一杯に広がって、実に美味いのだ。勿論酒飲みには絶好の肴でもある。神社は見つからなかったけど、これらの発見に満足。

15時前には小木港のいつもの場所に到着。雨も降っているし、今日はもう温泉に入って早く休むことにしようと決める。先ずは黒メバルを煮付けて、夕食の準備をして2度目の小木の湯へ。

小木の湯から戻って、黒メバルの煮付けとイカトロナガモで一杯やって寝床へ。今日は佐渡おけさ踊りのイベントは無いらしい。雨は断続的に降っているが、雷の方は大丈夫のようである。

(この日はあまり写真を撮りませんでした)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第7日)

2008-09-20 03:57:29 | くるま旅くらしの話

第7日 <430()  

佐渡に来てから3日目を迎えた。4月も今日で終り。3日にはフェリーの予約がしてあるので、もう滞在予定の半分近くになっている。何をどう見るのかも決めておらず、今回は只ぶらぶら気が向くままに島内をさ迷ってみたいと思っている。

小木港の朝は、一番発直江津行きのフェリーのエンジンの音で目が覚める。外に出て付近を散策。小さな港では、早朝の街中で音を立てるのは、船ぐらいしかない。直江津ラインは船が古くなって、新船の就航が難しいため、航路が無くなるとの話が出ているようで、もしそうなると一層寂れてしまうのではないか、と心配する地元の人たちの廃航反対の立看板などが見られた。何でも効率主義で行かなければ気がすまない世の中なので、やがて小木港は、鎌倉時代以前のひっそりとした小さな漁港に戻ってしまうのかもしれない。その方が観光客には却って魅力ある土地となるかも知れぬが、土地に住む人たちにとってはどういうことになるのだろう。地域の悩みに、あれこれと思いをめぐらした。

   

直江津行きフェリー:小佐渡丸 この航路はこの船の老朽化と合わせて消える運命にあるらしい。この写真は前日撮ったもの。

今日は先ず、小木の港から4kmほどの所にある、蓮華峰寺(れんげぶじ)を訪ねることにしている。車ではなく、歩いて往復する考えでいる。旅に出ると、車に乗ってばかりでは足腰が弱くなるし、酒の楽しみを保持するためには、糖尿の拓は毎日最低でも1万歩以上は歩く必要がある。拓はこの15年近く毎日万歩計の歩数を記録している。年間目標を決め、それを月割りにして歩数指標を決めて歩いているのだが、今年の現在の1日の平均歩数は、約13,500歩である。これは凡その距離に直すと8kmくらいとなるだろうか。年間450万歩が最近の指標だが、過去の最高は年間700万歩ほどだったから、それと比べればかなりレベルダウンしている。それでも年齢の割には、多い方だろうと思うし、体調もまあまあなので、これを継続してゆけばいいと思っている。それゆえ、時々は車無しで歩くことにしている。

昨夜はかなり雨が降っていたのだが、明け方には止んで、今は青空が覗いている。9時過ぎ出発。上り坂の多い道をゆっくりと歩く。車が少ないので、安心して歩ける。1時間弱でお寺に到着。蓮華峰寺は、すり鉢状の谷間に堂宇伽藍が点在している。弘法大師ゆかりの真言宗のお寺である。国の重文に指定されており、南北朝時代のものもあるとか。その中でも骨堂と呼ばれる茅葺の建物は、新潟県最古の建築物ということであった。小さな建物なのだが、如何にも歴史の重さを感じさせる風格のある姿をしていた。

   

小比叡山蓮華峰寺境内にある骨堂と呼ばれる建物。室町時代の建立とか。新潟県では最古の建築物である。

その他の建物も立派で、夫々が古刹の風格を備えていた。境内の脇の土手には、オドリコ草の群落があり、久しぶりの鑑賞を楽しんだ。守谷辺りでは姫オドリコ草ばかりで、なかなか本物のオドリコ草には会えない。

   

お寺の境内にはたくさんのオドリコ草(白花)が咲いていた。

帰路は往路とは別の道を行くことにした。途中ワラビを採っているおばさんに出会った。丁度今が山菜採りのシーズンなのであろう、大量のワラビを抱えておられた。邦子どのが挨拶がてら例によってつまらない質問をしていた。近くにトキワイカリ草があったので、採ろうかどうか迷っていると、おばさんが寄ってきて無造作に一株を引っこ抜いて、庭の端にでも植えたらいいと持参のビニール袋に入れてくれたのには驚いた。イカリ草は、この辺の山には幾らでも自生しているらしい。持ち帰って家の野草園の仲間入りをさせることにした。

   

山道の脇には、トキワイカリ草の花が至る所に無造作に咲き乱れていた。この一株は、現在も我が家の野草園で健在である。

佐渡には田んぼが多い。今は田植えの真っ最中で、農家の人たちが運転する軽トラや耕運機、田植え機などがあちこちでエンジンの音を高鳴らせていた。そののんびりした田園風景を眺めながら小木の港に戻ったのは11時半ごろだった。

今日のお昼は、七右衛門という小木蕎麦の店で食べることにしている。これは邦子どのが司馬遼太郎先生の「街道を行く」を読んで仕入れた情報で、何でも、これぞ小木蕎麦というのを食べさせてくれる店らしい。再び歩いてその店に向かう。

小木の商店街は、港に沿って通る狭い小さな道の両側に櫛比(しっぴ)した家々でつくられている。その昔は船の交易などで相当栄えたのだろうが、今は若者の姿が殆ど見られない、人通りの少ない静かというよりも寂しい佇まいとなっている。その真ん中ほどに七右衛門の店はあった。先客がいて、注文するのを見ていたら、二つとか三つとか言っている。どうやらここの蕎麦のメニューは一種類だけらしい。我々もそれに習って五つほど注文した。一つでは少なそうだったので、二つ半ずつとしたわけ。蕎麦は美味かったが、一つ480円は少し高いなと思った。それでも先ずは満足。

満腹をこなしながら歩いて戻って少し休憩の後、近くにある宿根木という所へ行くことにする。邦子どのの希望で、この集落の建築を見たいとのこと。行って見ると、その昔船大工の人たちが住んでいた集落だという。独特の工法で居住する建物を造ったらしい。専門的なことは分らないが、普通ではない船大工の人たちの知恵が活かされているようだった。

   

宿根木の集落は、海岸に近い窪地に密集して建てられていた。軒の上の方には、往時の名残りを止める飾り彫りの板が付けられていた。往時の技術集団である。

宿根木を出て、今日は再び道の駅に泊まろうと考え、途中、昨夜うっかり切らしてしまった、簡易インバーターを使うためのヒューズを買おうと思いながら真野の方へ向かう。海岸沿いの道を走っていると急に眠気が襲ってきた。夕立のような雨も降ってきた。少し休もうと道路脇のパーキングエリアに車を停め、2時間ほど仮眠。目覚めた頃は雨も上がっていた。ヒューズを買った後、少し給油。SUN号は軽油だが、佐渡の油はものすごく高くて、124円/Lもするのである。それに加えて明日から2円値上げになるとか。どういうわけなのかよくわからない。

17時少し前、2度目の新穂潟上温泉へ。再び雨が降り出して温泉から出てきた時は完全に本降りとなっていた。直ぐに近くの道の駅に行き、夕食。連休の始まりなのだが、まだ佐渡を訪れる人は少ないようだ。今夜は蛙の声を聞かないのは、雨で少し寒くなったからなのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第6日)

2008-09-19 04:11:32 | くるま旅くらしの話

4月29日(土)

うるさかった蛙の鳴き声も、朝方は気温が下がるのか、静かである。佐渡での初めての夜は、札幌から来られたというもう一台のバスコンが一緒だったらしい。挨拶を交わしたが、その車のご主人の開口一番は、この道の駅は不親切だという不満のことばだった。夜遅く来られたらしいが、トイレが分らなくて戸惑ったらしい。なるほどそうかも知れない。しかし、真っ先に不満や文句を言う人は拓の好きな人の条件からは遠くなる。遅く来すぎて、ご厄介になることに感謝をこそすべきであって、文句が先に出るのは、思い上がりではないかと思った。

今日の朝一番は、そんなことよりも快晴の天気だ。金北山が眩しく輝いていた。

   

道の駅:トキの里近くの公園から見た今朝の金北山の連なり。朝日に眩しく輝いていた。

何枚か写真に収める。今日は取材の最後の日だ。予定では大佐渡を半周して、岬にある二ツ亀や大野亀という所に行って、そこで撮影を終わるということである。何しろ初めてのコースなので、どのような景色が広がっているのか楽しみである。

8時少し前、スタッフの3人がやってこられた。簡単な打ち合わせの後出発。相変わらず運転席の横にはカメラが据え付けられ、スタッフの車はカメラを構えてSUN号の前後を追いかけてくる。もう慣れてしまったのか、それほど気にならなくなった。まして今日が最後だと思えば、とにかく安全運転でいい締めくくりにしたいという気持ちである。それにしてもこの6日間、撮影に関わる時間帯はずーっと良い天気で、これはラッキーというべきであろう。

加茂湖の脇を通り、両津の商店街を抜けて佐渡周遊道路(県道45号線)を直進する。最初の目的地二つ亀に着いたのは10時少し前だった。岬に二つの島があって、それが丁度亀の甲羅にそっくりなのである。自然の造形に違いないのだが、甲羅のギザギザはTVで見たガラパゴスの象亀の背中にそっくりに見える。車を降りてしばらくその景観に見とれた。

   

 奇岩:二つ亀の景観。ガラパゴス象亀とそっくりの二つの島が並んで見える。

撮影の最後は、二つ亀の少し先に大野亀というやはり亀に似た島があり、そこへいって二つ亀の景観を入れながらの終了シーンを撮りたいとのことである。10分ほどで到着。こちらは島というよりも小さな半島という感じで、トビシマカンゾウという佐渡固有の花の名所らしい。カンゾウというのはキスゲの仲間で、ニッコウキスゲなどが有名だ。ここの花の開花は、7月を過ぎてからなのだろうが、株の分布状態からは、その最盛期は見事に違いないなと思った。マリンブルーの海に、清楚な黄色の花が風になびく姿を思い浮かべるだけでもワクワクする感じだ。

   

 大野亀は、日本海に突き出した巨大な崖のような場所である。遠くから見ると、ここも亀のように見える。初夏になると、この緑の場所に黄色のトビシマカンゾウが乱れ咲くという。

しかし、撮影の方はそのような妄想(?)などはお構い無しに、どんどん進んで、あらためて旅の感慨などを話させられた。そして最後はSUN号が坂道を走り去って行くシーンで終了。ご苦労さんでした。

スタッフ3人は、皆30歳代で、息子といった感じである。6日間も一緒にいると、邦子どのなどは、カメラマンのKさんからお母さんなどと呼ばれて、すっかりその気になってしまっていた。FさんもNさんも良く働く。身体的にはやはりカメラ担当が一番ハードだろう。しかしそれぞれの役割は、目に見えない所で結び合っていて、誰が楽だとか、そうでないかということなどは、無関係のようだ。取材の後は、毎日宿に戻ってその日の結果を、あれこれと論議して、最終の制作に備えておられたようである。このような意欲に燃える若者が、もはやこの国を実質的に動かし始めているのだなあとしみじみ思った。彼らは、今日中には名古屋近郊の家に戻り、明日は出社の様である。いろいろ学ばせて頂くことが多かった。どのようなTVの放送画面となるのか分らないけど、画面に写る自分などはどうでもよろしい。それよりも3人のスタッフと一緒した6日間の経験の方が、自分達にとっては遥かに貴重であった。あらためてお礼を申し上げたい。ありがとうございました。

お互いが別れの挨拶を交わしたあと、我々はついでなので、来た道を戻るのではなく、そのまま大佐渡の海岸線に沿った周遊道路を回ることにした。

ところがそれから先が大変だった。SUN号は高さが3.1mもあるので、運転時は上部の障害物に気をつけなければならない。キャンピングカーでうっかりしていて上部を橋げたに引っ掛けたり、軒下にぶっつけたりするケースは結構あるのである。直進してゆくと、道路は次第に海から離れ、崖の上のようなところを走るようになった。そして眼前に何と小さなトンネルが迫ってきたのである。トンネルの長さはわずかに10mほどなのだが、高さがあまり無いのだ。近づいて標示板を見ると3.4mと書かれていた。道も狭いので慎重にそれをくぐった。それで終わりかと思ったら、何とそのあと3箇所ぐらい同じような岩盤むき出しのトンネルが続いていたのである。これでは大型の車は来ないはずだ。通れないのだから。SUN号が小さくてよかったなどと負け惜しみの優越感を感じたりした。

ようやく海岸に戻って、入崎というところに休憩用のパーキングがあったので、一休みの仮眠をする。春の海はのたりのたりの感じで、昼寝も気分がいい。1時間ほどで目覚めて、再び車を走らせていると、「夕鶴の碑」というのがあったので立ち寄る。作者の木下順二先生ゆかりの地のようだった。

更にしばらく走ると尖閣湾という所があり、風光明媚な名所らしい。崖の下に降りて、グラスボートなどで遊覧が出来るらしいのだが、その入口の店が景色の見える場所を独り占めしていて、無料では景色が見られないようになっている。そのような所は、絶対に入らないというのが拓の信念である。自然の景観を見せるのに料金をとるなどとは言語道断である。グラスボートの料金を取るのはわかるが、景色も見せないとは、一体どういう了見なのであろうか。呆れ返る他ない。よって直ぐパス。昨日来た夫婦岩の店に立ち寄り、邦子どのがワカメなどを買いたいというので、それを求めたりしながら、今日は小木に泊ろうと考え、向かう。

小木港に行って見ると、水やトイレもあって、P泊には差支えないようで安心する。近くに温泉もある。まだ少し時間もあるので、付近を散策する。近くの港で小木名物のタライ舟というのがあり、観光客用に料金を払って乗せてくれるのがあった。観光客には結構人気があって、バスから降りてきたお客さんが、三々五々タライに入ってゆく。それを絣の衣装のおばさんたちが、一本の小さな櫓で巧みに漕ぎ回って港内を小さく一周してくるのである。拓は乗る気はないが、邦子どのはかなり興味を抱いたようで、観光客が途切れるのを待って、早速チャレンジしていた。他にお客がいないので、サービスしてくれたのか、自分で漕ぐなどして、同じ箇所をぐるぐる旋回したりして遊んでいた。

   

オッかなびっくり、タライ舟を漕ぐ邦子どの。バランスを崩すと舟がひっくり返りそうで、なかなか難しいらしい。

舟から上がった後もお客さんがいないので、待機中の絣のおばさんたち数人の前で、何やら講釈を始めたようで、「又か!」と舌打ちした。

   

 おけさ姿の娘さん(?)の列に、一人だけ変なもんぺの人が加わっている。

タライ舟の後は、小木の湯へ。すべすべしたアルカリ単純泉の湯に入るのは久しぶりだった。小さな露天風呂からは、小木の港の全景を見下ろすことが出来て、満足、まんぞくのひと時だった。風呂から上がって再び下の港の駐車場に行き、夕食に取り掛かる。邦子どのは、20時から観光会館の中で「佐渡おけさ踊り」があるというので、それを見に行くという。拓はそのようなものにはあまり感心がないので、一杯やったら寝るだけだ。

あとで聞いた話では、その夜の踊りの見物者はたった3人ほどで、その分、出演者の人たちと濃い目のコミュニケーションが出来たらしい。満足していたようだった 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第5日)

2008-09-18 03:00:05 | くるま旅くらしの話

4月28日(金)

さて、今日から取材が再開される。あと二日である。フェリーは9時20分発で、その1時間くらい前に、SUN号が乗り場に入ってくるところなどを撮りたいということなので、それに合わせて出発。いろいろ注文があるが、とにかく乗ってしまった話なので、指示に従う他なし。幸いなことに、昨夜はかなりの雨降りだったにも拘らず今朝は上天気となって青空が広がっている。

  

佐渡行きのフェリー:大佐渡丸と右は乗船チケット

 ようやく出航の時間が来て、予定時間通りに出発。佐渡の両津港まで2時間半の船旅である。佐渡は平成の大合併で1市9ヶ町村が一つになって新しく佐渡市が生まれた。日本一大きい島だから、これからは、単に佐渡といっても旧名を知らないと、佐渡は分らないように思う。そのような箇所は日本全国に点在している。人間が増えて塊を大きくした方が行政のコストがかからないという発想は、歴史の流れの中では、何がしかの危うさのようなものを孕んでいるような気がしてならない。両津は佐渡唯一の市だったが、今はせいぜい両津港くらいが耳に届く地名となってしまったような気がする。

2時間を過ぎると佐渡ヶ島が見えてきた。最初に見えるのは、小佐渡。佐渡は2列の山脈が真ん中で併合して出来たような島だ。手前が小佐渡、その向こうが大佐渡で、両所の中間に国仲平野が広がっている。小佐渡は5~600mの高さの山しかないが、大佐渡には最高峰1,172mの金北山を初めとする高山が連なっている。このような知ったかぶりをするのは、珍しくも旅のために事前に調べた知識をひけらかしているからである。司馬遼太郎先生の「街道を行く」も読み、歴史散歩などの資料も調べたので、初めてのわりには、佐渡の知識は他所の訪問地と比べれば潤沢となっている。間もなく、冠雪の金北山が見えてきた。風格のある山である。とても島などとは思えない。一国に値する土地なのではないかと思った。

  

フェリーから見えてきた、大佐渡の金北山の景観。連峰は未だ雪を冠していた。

 両津港に入って、フェリーからは一番最初に降りることが出来た。何でも一番というのは、妙な優越感を覚えるものである。先ずは近くにある、この島唯一の道の駅:トキの里に向かう。

トキの里で、スタッフの人たちと一緒に昼食休憩の後、何処か適当な場所を選んで取材したいということなので、近くにある根本寺というお寺に参詣することを提案した。根本寺は日蓮にゆかりのあるお寺だそうだ。日蓮も一時この島に流されている。島の随所に日蓮にゆかりのあるお寺が多くあるようだ。

行って見ると、予想を超えた古刹の風格を持ったお寺がそこにあった。境内の建物や庭園などの手入れもよく行き届いており、落ち着きがある。墓石脇の山桜が満開かと思えば、小さな池の横には水芭蕉が純白の花を咲かせていた。古いお堂は茅葺で、昔のままの姿を止めていた。日本独特の悲しみの文化の一端を垣間見たような気がした。お寺というのは、人々の悲しみを癒すための拠点のように思えてならない。魂が鎮まる場所がお寺であり、神社のそれと比べてより深いものがあるような気がするのである。

  

  根本寺三昧堂。茅葺屋根のいかにも佐渡の歴史を感じさせる味わいのある建物である。

 根本寺を出た後は、スタッフに先導されて佐渡スカイラインを金井町の側から登ることになった。最初はまあまあの舗装道路だったが、しばらく行くととんでもない氷雪の滑り止め舗装の道となり、やがて自衛隊の施設にたどり着いた。その横を通って更に上に登る。SUN号の能力の限界を超えているのではないかと思われるほどの急坂である。ヒイヒイいいながらようやく展望台に到着し一休み。それにしても我が相棒のSUN号は良く頑張ってくれている。30度を超える傾斜の急坂をよくもまあ登ってくれたものである。車に感謝、感謝。

展望台からの眺望は素晴らしかった。晴れてはいるのだが、霞がかかってクリアーではない。それでも国仲平野の広がり、そして小佐渡の山や丘の連なりが一望できた。佐渡は、その昔、金の採掘だけではなく、米も島外に輸出するほど豊かであったとか。牧畜なども内地よりも一歩先を行っていたようだ。流人の島という単純な知識はあまりにもお粗末だなとあらためて実感した。

展望台から先は本来のスカイラインとなる。道は曲折が多いが、舗装は優しくなっていて車の運転にはありがたい。降りて行く途中には、カタクリの他に、ミスミ草のような野草が随所に楚々たる花を咲かせており、ここはまだ春になりきっていないのが分った。

   

 山の中に見つけたミスミ草。ミスミ草は、三角草とも書く。その葉が三角形に似た形をしている。ここには薄赤紫と白の花が見られた。

更に降りてゆくと佐渡金山跡の脇を通り抜ける。佐渡といえば金山ということで、誰もが立ち寄るのだと思うけど、我々はそのような所へは殆ど立ち寄らない。昔日の有罪無罪の人々の怨念が唸っているような場所に立ち入るつもりはない。黄金に絡む歴史は、その輝かしさの裏側に人間の欲得と悲哀がこびり付いているようで、それが昔のことであっても、あまり浮かれた気分にはなれないのだ。

 金山跡脇の道から海岸に出てしばらく行くと、七浦海岸というのがあり、そこに夫婦岩という奇岩がある。想像を逞しくすると、その二つの岩は、男女のナニの姿をリアルに表現しているような感じに見えるのである。夫婦岩という名のその種のいわれの奇岩は、全国随所に点在しているのではないかと思うが、佐渡の此処のは、一等地を抜いているようで、観光客には人気があるようだ。

  

奇岩:夫婦岩の景観。説明は不要。見る人の想像のレベルにお任せするしかない。

ここは夕日が美しいという名所のようだが、我々は夕日を待つよりも、早く風呂に入りたいので、スタッフの方たちと別れて、一路道の駅:トキの里の近くにある、新穂潟上温泉を目指す。

18時少し過ぎ温泉に到着。ここは旧新穂町の保養施設だったらしいが、温泉は本物で、お湯も熱く、満足、まんぞくのレベルだった。参考までに、ここの駐車場に泊っても良いかと訊いたら、OKとのこと。道の駅に飽きた時は、ここに来て泊ればいいなと思った。

 19時近く直ぐ傍の道の駅:トキの里に行ってここに泊まることにして、夕食とする。この時間帯になると、通る車も殆どなく、田んぼでの蛙の大合唱が聞こえてくる。泊まりの車も我々だけのようだった。今日が終わって、先ずはホッとしてベッドにもぐりこむ。TVスタッフの人たちはどこかの宿に泊まっているらしい。いよいよ取材も明日で終わりである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第4日)

2008-09-17 04:16:41 | くるま旅くらしの話

4月27日(木)

朝起きたのは5時半頃か。今日も天気はあまり良くなさそう。昨夜この敷地に泊ったのは、我々だけだったようで、多くの車は道路の向こうにある、トイレ付きの道の駅の駐車場に泊ったらしい。この車は夜間にトイレの心配をしなくて済むので大いにありがたい。

朝食の後、出発前のいつもの仕事(食事の後片付け、トイレ処理、水汲みなど)を終えて、付近の散策に出発したのは8時半過ぎ。それから2時間ほどゆっくり散策する。近くには、美術館や旧家などの文化施設がある。その中に渡辺家というのがあり、そこへ入館料を払って入り、じっくりと見学をした。

渡辺家は、江戸時代に庄屋をつとめた家柄で、優れた人物が輩出したらしい。特に七代目の三佐衛門という方は、農民が飢饉に遭っても一人の餓死者も出さないようにと、治世者としての力量を存分に発揮された素晴らしい人物で、残されているその家訓は、現在の政治家の多くに読んでもらい、実践して欲しいと思うほどのものだった。その中には、近江商人の家訓に共通するものが多くあった。

今の世は、おのれの目先の利益しか考えない輩ばかりが増えて、世の中全体のことを考える人物が次第に減少しつつあるように思えて仕方ない。なれど、さて、自分自身はどうなのかと、反省を余儀なくされる。広い屋敷の中に、小さな展示場があり、その片隅に現存する最古の酒というのが置いてあった。酒といっても置いてあるのは甕(かめ)だけであって、中身が見えるわけでもない。飲めなくてもいいから、匂いくらいは嗅()いでみたかった。「濃い暗褐色で、濁りはなく粘度高し。紹興酒のような香りがあり、云々」と何年か前この甕を開けたときの酒の様子が説明板に書かれていたが、二百数十年を経ての、先人の造った酒は、恐らく我々の味覚では味わうことの出来ないほどの神々しいものであったに違いない。自分の発想といえば、酒については、ただ只うっとりするばかりなのである。

広い土間の外に出ると、軒先には未だ解け残った雪の塊があって、それが何と1mほどの高さもあるのである。この地が相当に雪深い北国であることを気づかさせられた。家の屋根は、木羽葺石置屋根といわれるもので、1万5千個もの石が風対策で載せられていた。幾つもの蔵があって、それが単に個人の財産ではなく、村全体のために供される性格のものであることに少なからぬ感銘を受けた。このような人の住む家こそが本物の治世者、村長(むらおさ)というものなのであろう。さすがに庭園は立派だった。これは贅沢ではなく、村を治める人間の魂を磨くためには不可欠な環境なのであろうと思った。

   

渡辺家500坪の母屋は、木羽葺石置(こばふきいしおき)屋根という、屋根に1万5千個もの石をのせたものだった。手前右の表示板はS42年の羽後災害時の浸水レベルを告げている  

この村では、すぐ傍を流れている荒川というのが大変な暴れ川で、古来何度も氾濫を起こしているらしい。最近では昭和42年に羽後災害というのがあり、その時にはこの渡辺家も土間の胸の辺りまで冠水したらしい。その時の水位が刻まれた標識が残されていた。小さな村だけど、歴史の足跡がしっかりと保存されていて、いい勉強になった。

11時少し前、新潟方面に向かって出発。今日は、新潟市近くの道の駅に泊まって、明日フェリーの出発前から再び取材を受ける体制に入ることになる。一応、新潟市内から少し遠くなるが、阿賀町の道の駅:阿賀の里での宿泊を考えている。途中、先ずは明日のフェリーの乗り場を確認しておこうとそちらに出向く。

R113からR7に入って、途中道の駅:胎内というのと、それから加治川というのに立ち寄ってみたが、何もなし。更に新潟市街に近づいて道の駅:豊栄にも寄ったが、ここなどは丁度昼飯時の所為か、トラックも普通車も超満車で、相当広い駐車場なのに停める所も皆無だった。これではどうしょうもないので、そのまま新潟港にある佐渡行きのフェリー乗り場に向かう。新潟郊外を走るR7は、バイパスになっていて高速道路並みの走りである。バイパスを降り、地図を見ながら複雑そうな道を辿って、佐渡汽船のフェリー乗り場に着いたのは、12時半頃だった。発着便の時間帯からは、ズレていたらしく、車も殆どなく静かである。案内所で細かなことなどを確認した。これで明日は大丈夫でしょう。

さて、次は宿泊予定の阿賀の里へ行くことにする。途中R7沿いにある道の駅:新潟ふるさと村の付近を通ったが、ものすごい渋滞で、どうやら何かイベントでも開催されていたらしい。本当はこの道の駅に泊まった方が明日は便利なのだが、これほどの混み様ではどうにもならないなと思い、予定通り阿賀町方面へ向かう。いヤア~それからが遠かった。3、40分以内には軽く到着するものと思っていたのに、ふるさと村付近の渋滞の所為もあって、1時間以上もかかってようやく到着。腹の方もすっかり空っぽになって悲鳴を上げているので、道の駅のレストランに入り昼食。坐って外を見ると、直ぐ近くを阿賀野川が流れており、どうやら近くに川下りの乗り場があるらしい。雪解けなのか、やや濁った、途方もない水量の、速い流れを見て、ここはP泊には向かないなと思った。夜になって水の流れが聞こえてくるような場所には決して泊まらないことにしている。音と臭いは自分の方はあまり気にしないが、邦子どのは病的といえるほどうるさいのだ。ここに泊るなってとんでもないことだ。本人に確認するまでもない。

食事が終わって、付近を一回りして車に戻り、さて今夜の宿をどうするか。暫し検討した結果、先ほど通ってきた新潟ふるさと村も、多分夜になれば車は少なくなるだろうと考え、そこへ行くことに決める。まだ時間があるので急ぐ必要はなく、途中にあったショッピングモールなどに寄って、買い物をしながら時間調整をする。R49沿いの新潟市郊外には、東京などでは想像もつかない、大駐車場付の規模の巨大なショッピングモールがあって、そこに行けば無いものはないという感じだ。田舎を馬鹿にしてはいけない。広大な駐車場を用意した、車での購買客を前提としたアメリカナイズされた商法は、田舎の方が取り入れやすいのである。イオンなどが成功しているのも、いち早くそこに目をつけて戦略を実行してきたからなのであろう。その規模の大きさに驚き、感心しながら食材やビールなどを買う。

道の駅:新潟ふるさと村に着いたのは16時半ごろだった。予想通り4~500台は入ろうという駐車場に、今は20台前後の車しか居らず、ヤレヤレという感じである。今日は風呂無しだが、明日佐渡に行けば温泉がある。先ずは、広い道の駅の施設内を散策して様子を見る。道の駅の北側には信濃川が流れており、船乗り場のようなものもあるらしい。ちょっとしたレジャー施設の感じだった。車に戻って、夕食を作って食べて、これで今日は終り。明日は愈々佐渡へ渡ることになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第3日)

2008-09-16 04:43:33 | くるま旅くらしの話

4月26日(水)

早朝、小鳥達の鳴き声で目覚める。5時半起床。天気は回復し、青空が見えている。今日は10時頃出発の予定で、取材8時過ぎ頃からの予定。スタッフは喜多方市内に泊っているので、早朝は自分たちの時間。食事の前に、一人で付近の山を散策。去年、ここで雑木が伐採された後に残された春欄の株を持ち帰って、我が家の野草園に植えたのだが、今年はたくさんの花を咲かせてくれた。一株では寂しいのでもう少し追加しようという考えである。この辺には春欄がたくさん自生している。みだりに持ち帰るのは自然破壊につながる禁止行為だと思うが、それよりも木を伐採してその下に生きる春欄を見殺しにする方がもっとひどい犯罪行為ではないか、などと勝手な理屈を考えながら2株ほどをゲットして持ち帰る。これで来年からは、我が家の野草園の春欄は安心して咲き増してくれるだろう。車に戻る途中、タラの芽を数個ゲット。山菜の王様だ。この後どこかで天ぷらにして貰おう。青空の領域が広がりつつあるようで、今日はまずまずの天気となりそうである。

8時半、TVのスタッフ達がやって来た。出発の準備状況などを撮った後、道の駅の直ぐ上にある池の周辺を散策する様子もカメラに収められる。池の周辺にはソメイヨシノなのか、桜の木が数十本植えられており、今が丁度満開で、結構な観桜スポットとなっている。しばらく散策を楽しんだ後、長井の久保桜に向けて出発。

   

      喜多方市郊外の道の駅:喜多の郷の付近から見た春の飯豊連峰

R121で米沢まで行き、米沢市内でR287に入って道なりに行けば長井市に到達できる。先ずは、熱塩加納村という変てこりんな名前の県境の村(喜多方市に合併)の坂道を登り、トンネルを抜けて米沢市へ。市といっても、いつでも熊さんが「お晩です」と飛び出してきそうな山の中を、道路は走っている。撮影の都合上SUN号との間に他所の車が入らないようにするため、気を使って走る。

新緑に染まりかけた山を下って道の駅:田沢で小休止。ここで、撮影の都合で邦子どのはスタッフの車に移り、代わりに隣席にカメラ担当のKさんが乗り込む。どうやら至近からカメラを向けて、自分の運転振りや旅の考え方などを撮影・聴取するという目論見らしい。道路の舗装状況がかなり劣化していて、凸凹がひどい箇所が多いので、運転にはかなり気を使う。それにしてもTVのカメラマンというのは、重労働だなと思った。ちょいと、隣席のKさんを見ると、狭い座席の中で、身をくねらせながら、自分の足がどこにあるかもわからないほどの無理な体勢でカメラを回している。カメラ中心での作業で、死んでもその姿勢は変えないぞ、という気迫が伝わってくる。好きでなければ出来ない仕事だとあらためて思い、彼の仕事ぶりに感心させられた。

その彼が、Fさんに代わって、用意してきたらしい質問をされるので、それに気をとられて安全運転が脅かされないよう心がけた。その中で、「何故、桜なのか」というのがあったが、そういえば花見といえば何故桜なのだろうかと自問してみた。古来愛でられる春の花は、梅と桜に2大別されているようだが、梅と桜では雰囲気が180度違うように思う。桜は開放的だが、梅はどちらかといえば閉鎖的な感じがする。桜はどこの山にでも自生するものが多いが、梅が自生している山など見たことがない。梅は人間の手間暇に依存して生きているケースが多いように思う。桜はその実を小鳥達が啄(つい)ばみ、自由に野に配ることが出来るが、梅は小鳥達には大きすぎて運べないし、味も彼らの好みからは遠いのではないかと思う。梅の持つ孤独感のような雰囲気は、そのような樹木の特性から来るのかも知れない。長い冬から開放されてホッとするには、やはり梅よりも桜の方がフィットしているように思う。などなど、相変わらずの屁理屈を考えながら、Kさんの質問に適当に答えたりしつつ米沢市内へ。

ここで2度ほど道を間違えて、後ろからついてくるスタッフの車を惑わせたりした。旅の中で道に迷うのは、大切なことのように思っている。ナビを使って最短距離をまっしぐらに効率よく進行するという考え方は、現役の人たちの効率主義そのものである。道を間違えるからこそ見えてくるものも世の中には結構あるものだ。この頃は、そのような屁理屈を以て自分のエラーをごまかすようにしている。

  

  米沢市郊外を走るSUN号。周辺の山は未だ雪があり、春にはなっていない。

長井市の伊佐沢という所にある「久保桜」に着いたのは、12時半頃だった。TVの取材がなかったら、この桜の存在には気づかなかったろうし、従って来ることもなかったのかもしれない。小学校の校庭の傍にあるその老木は、樹齢1200年とか。400年ほど前の江戸時代に、中央にある洞(うろ)を浮浪者の火の不始末で焼かれて、とんだ被災にあったとかで、真ん中から二つに裂かれたような樹の姿であった。幹の下部から根元にかけては、幾つもの力瘤のようなものがあり、樹種を問わず長寿を保っている樹木の共通の特徴のようである。残念なことに花の方はさっぱりで、まだ蕾もふくらみを開始したばかりのような感じだった。花は未だでも、その姿を見ただけで充分だった。千年もの時間を越えて生命を永らえているものの存在に触れただけで感動はジワリと寄せてくる。

  

   長井市郊外の伊佐沢にある久保桜。樹齢1200年の威容を誇る。只今養生中とか。

伊佐沢の久保桜の後は、同じ市内の草岡という所にある大明神桜というのを訪ねた。こちらは最上川を挟んで久保桜とは反対側に位置している。長井市や隣の白鷹町にかけて桜の老木が点在しているのは驚きである。白鷹町には古典桜と呼ばれる老木が数本を超えて存在しているという。最上川や隣の南陽市の赤湯温泉など、地形や気象等との関連があるのかもしれない。桜にとっては、生命を永らえ易い条件が揃っているのであろう。

大明神桜は、久保桜と違って、背が高い樹だった。下部の幹周りはかなりあるのだろうが、背が高いのでスマートに見える。一般的に老樹は背が低いものが多いようだ。風雪に耐えるためには、低い方が有利なのだと思う。それなのにこの大明神桜は、堂々と生きている。やはり蕾も固いままだったが、久保桜とは異なった感慨に打たれた。素晴らしい。

  

長井市郊外草岡にある大明神桜。この樹も1200年を超える生命を保持している。今年は鷽(うそ)が芽を摘んで食べてしまって花が少ないということだった。

大明神桜の根元には、キクザキイチゲが透明感のあるブルーの花を風になびかせて咲いていた。やはりここの冬も寒く厳しいのだなと思った。近くを散策すると、小川に沿った屋敷林のような林の中に何株かのショウジョウバカマが美しいピンクの花を広げていた。不自然でない自然がここには残っているなあ、と嬉しくなった。

今日の取材はここまでで終わって、明日は1日フリーとなり、明後日佐渡へ渡るフェリー乗り場から再開されることになっている。一先ず撮影などが終わって開放されて、ホッとする。スタッフと別れて、我々は一先ず近くの道の駅:飯豊に行くことにして出発。今日の宿をどこにするかはまだ決めていない。撮影の間はずーっと天気が良い。予報を覆している。ラッキーと言うことなのか。

この道の駅で、前回来た時に、揚げたてのコロッケが美味かったので、それでお昼にしようと考えたのだが、行って見ると残念なことに今日は休みだった。野菜を少々ゲットし、ゴミ処理をして出発。

R113を日本海に向かう、途中道の駅:小国で小休止した後、新緑間近かの荒川峡を越えて、道の駅:関川に向かう。途中隣席の邦子どのは、取材で疲れたのか、首の骨が折れそうな危ないコックリを連発し続けていた。運転者は眠ることが出来ないので不公平だが、どういうわけか拓の場合は、運転している時はあまり眠くならないのだ。眠くなったら車を停めて寝るだけのことである。

道の駅:関川に着いたのは16時半だった。温泉も併設されている。今日の宿は、ここにご厄介になることに決める。温泉に入るには少し早いので、近所を少し散策してみた。文化施設の様なものが幾つかあって、よく整備されている町であることがわかる。明日、ゆっくりと歩いてみることにして、今日は風呂に入って早めに休むことにする。小雨がパラついてきた。天気は又崩れるのかもしれない。温泉に行ってみると、何と今日は26日、風呂の日とかで普通は500円の料金が260円となっていた。これは嬉しい。しかも入ってみると立派な天然湯の露天風呂もあって、最高に満足できる施設だった。絶対のお薦めの湯である。

風呂から上がって一杯やりながら、ほんの少しばかり佐渡についての事前チエックなどを行い、直ぐにやめて就寝。断続的に車の天井を叩く雨の音がうるさかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第2日)

2008-09-15 01:22:04 | くるま旅くらしの話

4月25日(火)

夜半に雨が降ったようだ。思ったより暖かい朝となった。雲が多く不安定な感じの天気だ。今日はまず、森さんご夫妻とご一緒に滝桜での取材を受けた後、お別れすることになっている。朝食は滝桜の傍の駐車場でつくることにして、早めに出発。

6時前に到着したが、既に滝桜にはかなりの人出があり、駐車場も埋まりかけ始めていた。1時間後なら駐車が困難になるのは必定。早めの出発は正解だった。早速食事の準備。朝食は拓による中華粥である。温まって身体にもいいのではという考え。見よう見まねで作っているのだが、森さんご夫妻には概ね好評だったようで安心した。因みに中華粥といっても昨夜の余ったご飯をお粥にして、ネギ等の野菜を刻み、薄塩で味付けして、卵の白身を落としただけのものなのだが、寒い朝にはフィットしているようである。やれやれ。

TVスタッフの方達もやって来た。普通のサラリーマンと違って、定刻などという仕事の時間はないのだから大変だと思う。こんなに早くてはホテルの食事も出来なかったのではないか。混まない前にと早速滝桜に向かう。

まだ8時前だというのに、大勢の観光客が押し寄せている。それにしても見事な咲き振りである。去年よりも今年の方が満開にジャストフィットしているようだ。森のお父さんは脚が少し悪いので、歩くのは大儀そうだったが、桜を見て少しは楽になられたのではないか。1本の樹でこれほど多くの人を惹きつける、その力は素晴らしい。人間で言えば世界の超トップスターというところだろうか。TVのカメラが少し煩わしかったけど、花を見ていると、それらのことは忘れてしまいそうだった。

   

 美しくも逞しい滝桜の景観。今年の滝桜への訪問は、正にジャストミートで、今までで最高の美しさだった。

9時過ぎ、これからゆるりと北上して東北の桜などを自在に観ながら、北海道を目指すお父さん達と別れる。とにかくお元気で良い旅をお過ごし下さい。

我々の方も一時的にTVの取材から開放されて、喜多方へ向かうことにする。喜多方市にはラーメン(老麺)が待っている。今日は、ちんたらと喜多方市街まで行って、ラーメンを食べ、酒などを買ったあと、道の駅:喜多の郷に泊まる予定である。取材は、ラーメンを食べる所と道の駅の温泉(蔵の湯)の2ヶ所となっている。

滝桜の観桜を終え、ついでに地蔵桜にも立ち寄る。地蔵桜は滝桜の長女といわれている樹齢400年ほどの名木である。こちらの方は郡山市の中田町という所にあって、樹の根元に小さなお地蔵さんのお堂があり、それで地蔵桜と名づけられたらしい。この場所の方が少し寒い所なのか、滝桜と比べると満開には至っておらず、7、8分咲きという感じだった。去年その艶やかな咲き振りを見ているので楽しみにしていたのだが、今年は時期がフィットしておらず、少しがっかりした。しかし、それは決して桜の所為ではない。

地蔵桜を後にして県道からR49に入り、郡山市方面へ。市街地の通過には少し渋滞があったが、大事には至らず抜けることが出来た。郡山市一帯はどういうわけか油(ガソリン・軽油)が高い。全国を回っていると、地域によって、随分と油の価格が異なるのに気づく。いろいろなコストがかかっていて、それが価格に反映されているのだろうが、郡山の高値は、何故なのかわからない。このような所では決して給油をしないことにしている。郡山を抜けて猪苗代町に入ると、なぜか比較的価格の安いスタンドがあり、そこで給油をする。これで新潟までは大丈夫。給油を終えた頃から天候は悪化し、雨が降り出す。猪苗代町の野口英世博士の生家などを横に見ながらしばらく行くと、会津レクリエーション公園というのがあったので、そこに入って休憩する。既に12時を過ぎており、本来ならここで昼食ということになるが、ラーメンが待っているので、お湯を沸かしてお茶だけで済ます。水も補給できるので、給水を済ませる。幸い雨は上がったようで、少しだが日が差してきた。

喜多方に着いたのは、14時少し過ぎだった。いつもの観光協会の駐車場にSUN号を停める。TV取材の車はどこなのかなと心配していたが、場所の打ち合わせもしていないのに、何と偶然にも同じ場所だった。何だかうまく行き過ぎという感じがした。ラーメンをどこで食べるかについては、我が老友が、その昔去る銀行の東北エリアを担当する責任者として赴任していた時愛用したという店があり、その情報がメールで入っており、そこへ行くことにした。

まこと食堂というその店は、何と、TVスタッフの人たちが、先ほど偶然入ったお店だという。もし我々がそこを希望しなくても、事前に話をつけておいてその店に行かせようと考えていたらしい。ここでも期せずしてスタッフと考えが一致して、何とまあ不思議なことよと驚いた次第である。名古屋の方から来られた彼ら3人は、喜多方ラーメンのことなど恐らく初めてなのだと思うが、よくもまあこの店を選んだものだと思う。まこと食堂のラーメンは確かに美味かった。我が老友に感謝。店の女将さんらしき人の応対振りも素晴らしかった。今度喜多方に来る時も、必ず訪ねる店となるだろう。

ラーメンの後、酒などを買って車に戻り、道の駅に向け出発。到着は15時半。少し早いけど天気もあまり良くないし、このような時には早めに温泉に浸かってのんびりするのが一番だ。しかし、TVの取材付きなので、いつもカメラがついて回って、その時間帯はやはり気が落ち着かない。露天風呂にまでカメラがついて来て、こんなジジイの入浴シーンなど撮っても仕方ないのではと思ったが、見せる目的が違うのだから、従う他はない。風呂はまだ早いせいもあって貸切りの状態で撮影には好都合だった。

風呂から出て暫し休憩の後、夕食の準備から就寝まで、あれこれとカメラが追いかけてくれた。追いかけられるのも大変だが、追いかける方はもっと大変だ。余程好きでないとこんな商売は出来ないだろうなと思った。カメラのKさんや音声担当のNさん、それにあれこれとストーリーを描きまわしているに違いないまとめ役のFさんたちの苦労を思えば、文句は言えないなと思った。けれども、しかしである。気にしないようにはしていても、なかなか自然体となれないところがあるのはどうしようもない。TVの画面で、わざとらしさが出るのは、これはもうどうしようもないなと思った。名優であることの物指しというのは、如何に自然体の演技が出来るかにあるように思うが、素人が気取ると嫌らしさが目立つようになるに違いないなと思った。

森さんご夫妻はその後どうされたかなと、寝床の中で考えたりした。天気は良くない。明日は長井市の桜たちを訪ねることになっているが、情報ではまだ3分咲き程度だという。この寒さでは到底、咲き誇る花の優美さを見るなんて出来るはずもない。それでも久保桜や大明神桜というのは、千年を超えた老樹だというから、花に関わらずとも樹形に重みがあるに違いない。期待に思いを巡らせているうちにいつの間にか眠りに落ち込む。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南東北・佐渡・飛越信州の春ぶらり旅(第1日)

2008-09-14 01:41:57 | くるま旅くらしの話

4月24日(月)

その日が来た。TVの取材がなければ、事前のスケジュールなどは極々簡単なもので済ませて、旅に出てからは行き当たりバッタリで進めてゆくのだが、今回はそういうわけにも行かないと考え、佐渡へ渡るまでは、あれこれと思いをめぐらしスケジュールを作ったりした。しかし、その通りに行くのかどうかは分らない。

8時少し前にTV局のスタッフ3人が車でやって来た。ディレクターのFさん、カメラのKさんそれに音声担当のNさんの3人である。とにかく指示に従って動くしかない。先ずはくるま旅ついてのインタビューのようなものから始まって、出発の準備の様子などのあれこれがカメラに収められた。勝手が分らないので、多少ためらいがあるが、仕方がない。とにかく楽しく行きたいと思った。カメラなどを意識しすぎると旅が台無しになってしまう。指示には従うけど、こちらもマイペースはあまり崩さないで、いつもの調子で行こうと、改めて自分に言い聞かせた。

    

 出発時の取材の様子。3人の取材スタッフに取り囲まれて些か緊張した。

10時出発を予定していたが、少し手間取って20分ほど遅れてしまった。このため、当初は高速道は使わないと考えていた予定を変更して、高速道を使うことになった。我が家から常磐道の谷和原ICまでは、わずか2、3分の距離である。月曜日の今頃の時間帯は、空いていて道路は貸切に近いような状態だった。走りながら撮影をするらしくて、SUN号の側をTV局のチャーター車は、何度も前後したり、併走したりしていた。空いていなければこのようなことは出来ないので、結果的には一般道を走らなかったのは正解だったのかもしれない。

取材の方は、この出発の場面が終われば、スタッフの皆さんとは、次は今夕、磐越道小野IC(福島県)の入口で合流することになっており、それまでの間はフリーとなる。我々の方は常磐道の那珂ICで降り、そこからはR118を北上して、福島県矢吹町在住の旅の知人、伊東さん宅に寄り、久しぶりにご尊顔を拝して取材の話などをしながら過した後、小野ICへ向かう予定でいる。

朝方までは小雨が降っていて、こりゃ大丈夫かなと心配していたのだが、取材が始まる頃には雨は上がって、それ以降次第に回復してまあまあの天気となった。

今回の旅のコースの概略は、先ずは今夕、旅の先達の知人森さんご夫妻とご一緒し、明日、福島県三春町の名木滝桜を訪ね、その後喜多方市経由で山形県長井市の1本桜の名木、久保桜や大明神桜などを見て、それからは新潟港から佐渡へ渡って、幾つかの名所などを見ることにしている。TV取材の方は佐渡での2日で終了予定である。その後は我々の自由な旅が続くことになるが、未だその詳細も概要も考えてはいない。

ハッキリしているのは、佐渡から戻っても、東北を北上することはしないということ。例年は角館や弘前の観桜を楽しむのであるが、もう彼の地の桜は最盛期を過ぎてしまうことであろうから、それは止めにして、信越から飛騨の方にまわって見ようとは思っている。

桜の方も、何時もは群れて咲いている団体の美しさの鑑賞が主体だけど、今回は山形県置賜地方の桜回廊と呼ばれている1本桜の名木を見ることにしたのである。それが久保桜であり、大明神桜なのである。新しい観桜の楽しみが増えたのであった。

明日の滝桜では、TV局サイドの要請もあって、旅の知人との再会の場面を取り上げて頂くことになり、丁度この時期、石川県は金沢市の隣の野々市町在住の、くるま旅の大先達である、森さんご夫妻が北海道の旅に向われるという時期でもあり、お話をすると、こちらに向って頂けるというので、その待ち合わせ場所を、磐越道の阿武隈高原SAとしたのだった。今夕ご一緒して、明日は滝桜を見に行くことにしている。

那珂ICを降りて、少し県道を走った後、R118へ。この国道沿線の茨城圏内は、いわば拓の縄張り内のようなものである。常陸大宮市は拓の地元であり、東京に出るまでの15年間余りを過した土地なのである。昔の頃とは大分に景色も様変わりしてしまったけど、それでも懐かしいふるさとの匂いは随所に残っており、ここを走るときは、何ともいえない安堵感がある。実家のある常陸大宮を過ぎて、山方宿という所で小休止。ここには舟納豆という納豆の製造販売をしている店があり、そこに今日行く伊東さんに是非とも食べさせたい、豆酪(とうべい)という、豆腐のモロミ漬けの珍味が置いてあるのである。実にコクのある食品で、とても豆腐とは思えず、カマンベルチーズ旨味を凝縮してそれに味噌の旨味を練りこんだような、日本的な味の珍味なのである。豆腐の味噌漬けというのはよく目にするが、あのような軽薄な味ではない。隠れた珍味を発見した時、どうしても知らせなければならない人が何人かいるのだけど、伊東さんをその中に巻き込みたいという拓の思惑がある。酒飲みの悪い習性だとは承知しているが、なかなか治らない。酒飲みというのは、肴の量はほんの少しで良いから、味が酒にあった超美味な奴を希求するものである。豆酪は、その条件を備えているのだ。というわけで、それと納豆をゲットして出発。

小1時間ほど走って、福島県に入り、塙(はなわ) の道の駅にて休憩。未だ13時前だ。この分だと伊東さん宅では、予定よりも少し長居が出来るかも知れない。迷惑も顧みない勝手な思い込みではある。

福島県との県境は、茨城県の県北にあるわけだが、それは福島県の県南となる。茨城県の県北は奥久慈と呼ばれ、八溝山を源流とする久慈川の渓谷がある山懐の深い土地であり、子供の頃は、その又北に平野があるなどとは、とても想像できなかったのを思い出す。しかし、こうして旅を続けていると、福島の県南は、平野が広がる豊かな穀倉地帯なのを、当たり前のように通っているのが不思議である。

南北・東西などという位置づけは、相対的なものであって、決して絶対的なものではない。それなのに、人間が「境界」などと勝手な決めをして、必要以上に拘ったりするのは、哀しい性癖のなのであろうか。渡り鳥たちの目には、国境も県境も無関係で、ただ季節の移ろいに合わせ、棲み易い場所を求めて東西・南北に住処を変えるだけの話なのだ。我が心の狭さは、渡り鳥たちの大らかさには遠く及ばないように思う。

R118を玉川村で左折して矢吹町方面へ。14時頃、大して迷うこともなく伊東さん宅に到着。やあ、やあ、と1月下旬以来の再会の挨拶を喜ぶ。奥さんのお父さんが病で倒れたため、1月には奥さんは一緒に拙宅に来て頂けなかったが、今日はその分までしっかりお会いしてゆくことにする。

伊東さんご夫妻には、昨年の北海道の旅で知り合ったばかりなのだが、お宅をお邪魔するのはこれで2度目である。ご夫妻は最近旅で知り合った方の誘いで、看病の合間を縫って信州の方へ2、3日の旅をして来たとか。あれこれと思い出話に話が弾んだ。TV取材のことなど忘れてしまいそうだ。それでも約束を反故(ほご)にはできないので、1時間半ほどの歓談で、頃合いを見計らってお別れとなる。ここから先の道は、未だ通ったことがないのだが、迷うこともあるまいと高を括って出発する。

 拓は、ナビなし主義なので、地図だけが頼りなのだが、紙の上では色分けしてある道も、実際走るとなると、色分けは勿論道幅も想定外の箇所が多い。とにかく遅れないように気を使いながら進む。1時間ほどで小野ICの入口付近に到着。TVスタッフの方たちはさすがに時間管理には厳しいようで、既に到着されていて我々を待ち受けて居られた。打ち合わせの後、ICから高速道に入って、森さんご夫妻の待たれる阿武隈高原SAに向う。ここまで、天気の方は全く心配のない状態だった。

17時少し前、阿武隈高原SAに到着。寒い。外へ出ると烈風が吹き荒れている。考えてみれば、ここは標高700mを超えているはず。高速道というのは、うっかりすると高さ(標高)を忘れることがある。森さんの車を見つけて、その近くに停める。車から出て、ご夫妻に挨拶する。お元気そうで何よりであった。今回はこのような場所まで引っ張り出してしまい、果たして良かったのかどうか、少し気になった。でもお二人のお元気な姿を見て、TVのことなど余り気にするまいと思った。

寒さに震えながら、しばらくTVの取材に応じて頂いて、その後はSUN号の中に入って頂いて一緒に夕食をとる。昨年の秋に森さん宅をお邪魔して以来のご一緒の夕食である。食事の場面の撮影なども少しあって、インタビューに対して、お父さんは旅が元気の元なのだというような話をされていた。TVをご覧の中には、それをわざとらしく聞こえるとされる方もいるかもしれないけど、旅に出ると元気になるというのは、森さんご夫妻だけではない、我々を含めた全ての人の偽らざる本心であり、真実である。これを歪めて解釈する人は、旅の力を知らないお気の毒な方だといわざるを得ない。

   

阿武隈高原SAでの森さんご夫妻への取材の様子。ご夫妻はお元気に旅へのの思いなどを話されていた。

森さんご夫妻は、明日滝桜を見たあと、東北の春をゆるりと味わいながら北上を続け、北海道に渡って旅くらしを続け、秋近くまで過される予定だとか。我々も早くそのようなくるま旅くらしをしたいのだが、今年はその夢は叶いそうもない。車の外は、未だ春にはなりきれていない高原の風が吹いていて、寒そうだった。TVのスタッフの方たちは、今夜は郡山泊まりだとか。大変だなあと思った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする