山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

RVランド

2007-10-19 03:17:41 | 宵宵妄話

旅車の冷蔵庫の調子が悪く、今年の北海道の旅の最中に冷えなくなってしまった。キャンピングカーの冷蔵庫の多くは、熱源が3ウエイの仕様になっているのだが、私の場合は100VAC電源では冷えるのに、12VとLPガスの場合はまったく冷えなくなってしまったのである。もう5年目を向かえ随所にガタが来始めているのかもしれない。今まで大した故障もなしに来たので、安心してしまってメンテナンスが不足していたのかもしれない。守谷に引越ししたため、購入したお店からかなり遠くなり、そこまで一々持ってゆくのが大変なのである。困ってお店に相談したら、地元にあるRVランドさんへ行って診て貰うことを勧められたのだった。

守谷に引越す前からRVランドさんの存在は知っていたのだが、取り扱われているメーカーや車種も異なるようなので、引越し後も特にお邪魔するようなことはなかったのだった。もともと私はキャンピングカーという車そのものには、こうしよう、ああしようという欲望の殆どない人間で、とにかく備わっている設備や用品で旅暮らしができればそれでいいという考え方なのである。電気も機械も殆ど知識も技術もない。これは自慢できることではなく、本当は改めなければならないことなのかもしれない。だけど、どうもその気が起きないのである。アメリカなどでは、装備などの取り付けや修理のかなりの部分をオーナー自身がこなしているという話を聞くが、その意味では私は失格間違いない。

ところが今回どうにも行かなくなって、RVランドさんを訪ね、修理をお願いすることになったのだった。RVランドさんは、つい先ごろまで守谷市内で営業されていたのだが、今は隣の常総市(元水海道市)に移転されている。以前の場所は、早朝散歩で何度も近くを通っていたので承知していたのだが、移転後の場所は、見当はつくけど行ってみたことはなかったのである。

修理のアポの当日が来て、車を持っていったのだが、なんとドアやガス収納庫などを開閉する鍵を忘れ、もう一度家まで往復するというドジをやらかしてしまった。2台の車で行ったので、家内を置いて家内の車で往復したのだが、距離を測ると我が家からは片道が丁度10kmだった。

さてさて、行ってみて驚いたのは、そのスケールの大きさだった。敷地5000坪というから、半端な広さではない。その昔の利根川に面した段丘のような感じの場所の木立の中に、新車展示場、中古車展示場、洗車場、修理工場などがキチンと区画化されて設けられており、入口近くにはキャンプ場までが設けられているのである。実に壮大な規模で、このようなスケールの大きい展示場を持つところは業界の中でも少ないのではないかと思った。少なくとも私が知る限りでは、これ以上のスケールのお店は見たことがない。

私は、車を買うのも衝動買いタイプで、キャンピングカーショーに行って、出会った車に一目ぼれして現在の車を手に入れたのだが、そのことに悔いはないとしても、もう少しいろいろな車を見るべきだったという反省はある。一体キャンピングカーというのは、住んでいるエリアによっては、どこで売っているのか分からず、なかなかお目にかかれない存在である。だからショーなどだけが頼りとならざるを得ないのだが、RVランドさんは、小規模なショーに匹敵するくらいの常設展示場を構えておられると思った。このような所があるのをもっと早く知るべきだった。

修理を依頼した後、事務所で社長の阿部さんにお会いし、しばらく話を伺った。拙著の「くるま旅くらし心得帖」のこともご存知で、私が守谷市に住んでいることを少々不思議に思われていたようである。守谷市在住の者ならRVランドに顔も見せずに車を買うはずはないと思われたのかもしれない。それだけ自信と信念をお持ちの方のようである。くるま旅のことやそれに絡むマナーの問題などについて意見の交換などをさせて頂いた。いい時間だった。

話が終わって、広い場内をご案内頂き恐縮したのだが、終わりの頃、阿部さんが藪の中の道に向かって歩き出されたので、何だろうと思ったら、そこは特別の場所だった。そこには広大な湿原が広がる景観があった。菅生沼である。私の推測ではこれは古い利根川の名残の地ではないかと思う。阿部さんのお話では、この湿原の中には2本の川が流れているという。この景色を見ていると釧路湿原を思い出す。阿部さんが何故この地を選ばれたのかが分かるような気がした。根っからアウトドアや大自然が好きな方なのであろう。以前の守谷の場所もすぐ側を鬼怒川が流れる木立の広場の中にあったのである。新しいこの地は、最初から大自然に取り囲まれている。それをそのまま活かした見事な旅車の楽園展示場をつくられているように思った。

帰り際、何歳ですか?の問いに答えたら、何と阿部さんは私と同じ年の生まれで、ほんの少し私の方が遅く生まれたということが判った。思わず差し出された手を握り、一先ずの出会いに感動したのだった。キャンピングカーの普及に情熱を燃やす人に出会えたことを嬉しく思った。

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新しいパソコン

2007-10-17 19:25:21 | くるま旅くらしの話

一週間ほど前、ネットでオーダーしたパソコンが届いたのだが、その設定は自分ではやらない方が間違いないと、手も触れずにそのままにして置いたのだった。パソコンを仕事として扱っている下の倅が、俺がやってやるからと、今日休暇をとってやって来てくれて、今ようやく使えるようになったのである。

新しいパソコンのOSはビスタという奴で、まだ一度も触ったことがない。発売された時、店頭でチラッと見た程度で、またパソコン会社の悪巧みが為されたと思った程度だった。その時は家内のパソコンも順調に動いていて、買い替えのニーズはなかったので、もともとパソンコンというツールにはあまり興味・関心がないものだから、それっきりで最近まで来たのだった。

ところが家内のパソコンがとうとう駄目になり、自分が使っているノートパソコンのスピードが異常に遅くなってきていたので、新しくデスクトップを買うことにし、家内にはそのノートを使ってもらうように考えたのだった。それでせっかく買うのならやはり新しいOSのほうが良かろうとビスタを選んだのである。

今、その新しいパソコンでこれを作成しているのだが、いやはやその使いにくいこと。このような文章を書くのは未だしも、メールや写真の取り扱いとなると、随分と勝手が違って戸惑うばかりである。ビスタよりもXPの方が安定しているから、そちらを選んだ方がいいのではないかという倅のアドバイスを聞かず、XPはやがて消えて行く運命にあるのだから、とにかく時代遅れにならないようにと考えビスタにしたのだった。まだ不慣れというのも言い過ぎのようなレベルなので、大口は叩かない方が無難だとは思うのだが、どうしてパソコンというのはしょっ中OSを変えたり、グレードアップをしたりするのだろうか?勿論商売の戦略であることは承知しているけど、必ずしもそれは顧客指向ではないように思う。

この業界ほど消費者に無力感を抱かせる所は無い様に思う。とくに年配者、早い話老人にとっては、迷惑極まりない感じがする。ようやく慣れてきて、それなりに使えるようになったと思う頃に、ハイ、又新しいのをつくりましたので、どうぞ、と来る。新しいのなんか要らないよ、といっても何年か後には今使っているのはもう使えなくなりますよというのだから、たまったものではない。たしかに技術革新というかその進歩は止まることは無いのだろうけど、もっとゆっくりで良いのではないか。

TVなどと比べてパソコンの販売価格は下がらない。確かに同額ならばその性能に格段の差があることは理解できるのだが、その性能につられてどうしても新しい製品を買わざるを得なくなってしまうのは、真に困ったことである。せめて10年くらいはじっくりと使いたいなと思っても、それは叶わぬ夢のような気がする。この戦略に歯止めをかけるようなアプローチはできないものなのかと思う。

今、これを書きながら思うのは、こんな愚痴を言ったところで、老人は益々置いてけ堀になるだけであろう。黙っていた方が身のためなのだ、ともう一人の自分が囁く。とにかくこれからしばらくの間は、この新しい仕組みの理解と慣れへの努力を余儀なくされるのである。このパソコンの使い初めは、新しいものへの喜びや感謝ではなく、老人の愚痴となった次第である。

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つくば市という所

2007-10-16 11:20:20 | くるま旅くらしの話

昨日久しぶりにつくば市内を訪ねた。家内のフォークダンスの練習に付き合ってのことだが、勿論のこと、私はその様なダンスなどには一切興味も関心もない。もともとは運転手代わりだったが、この頃は家内も運転するようになったので、運転指導員的な役割と何よりも散歩・散策目的で同行している。

つくば市などと言っても、東北や北海道の旅先では、殆ど無名の存在である。筑波山知ってますか?と話しても、田舎のおじいちゃん、おばあちゃんには、知らんなあ、それ、どこの山?くらいの反応しか示して貰えない。富士山と並ぶ関東の名峰筑波などといっても、それは地元の人の虚勢だけであって、富士山は知っていても筑波山などは知らない人が多いのである。茨城県を茨木と間違え、大阪近くにあるなどと考える人が存外多いのには驚かされるこの頃だ。最近の若者は、地理の勉強などには関心がなく、必要な地名だけわかっていれば、あとは「関係ない!」で済ませているようだ。

つくば市は、茨城県では水戸市に次いで人口第2番目の市である。つい先ほどまでは日立の方が上位だったが、今は追い越したようだ。つくば市については、市のホームページを見れば大概のことはわかる。そう思っている、その様に考えている人は結構多いような気がする。しかし、本当のつくば市は、やはり行って見なければわからない。

つくば市には、理想の実現を目指す3つの像がある。①科学技術都市、②国際都市、③田園都市の3つである。私が見たところでは、①と②は、市街地中心部の研究学園都市のエリアに限られ、市の殆どは③に該当するような気がする。ところで、田園都市というのはあるのだろうか。田園都市とは、都市ではなく田舎そのものを言うように思えるのだが。つくば市は研究学園都市エリアを除けば、田舎であることは明らかだ。

もともと研究学園都市などというものができなかったら、このエリアは関東平野の恵みを最大限に享受できる豊かな田園地帯だったのである。筑波山の山塊エリアを除けば、山は全くなく小高い丘すらも殆ど無いような耕作地帯なのだ。恐らく標高も海抜30mくらいしかないと思われる。研究学園都市ができて、突然田舎のど真ん中に新しい市街地が形成されたのだった。その市街地の中心は元の桜村辺りであろうか。広大な敷地を有する独立行政法人の建物が、元からあった林を取り込んだ中に幾つも立ち並び、日本の国が推進する先端科学の重要な研究機関がここに集中している。そこで何が行なわれているのかはさっぱりわからないが、時々新聞やTVで紹介されるニュースの中に、ここの独立行政法人の名前が挙がるのを見ると、日本の科学技術の未来のかなりの部分がここに付託されているに違いないと思うのである。

研究学園都市と都心の秋葉原を結ぶ、つくば新線(=略称TX)という鉄道が先年開設された。営業開始直前につくば市を訪れた時に、そのターミナル駅が無いのが不思議だった。もう直ぐ運転が始まるのに、駅舎が出来上がっていないどころか、どこにも見当たらず工事の気配すらもないのである。ただ予定されているターミナルの辺りには、立派なバスターミナルだけは完成して運航も開始されていた。後で知ったのだが、何とTXの終着駅は地下なのだ。少しガッカリした。確かに交通渋滞などを考えると、駅舎は地下の方が好都合かも知れない。しかし、街の顔という点では、つくば市はまさに顔なしであるように思う。もっとも現市庁舎も市街の中心部からは遠く離れた田舎にある。これも今のところは顔なしのシンボルのようだ。新しい市なので、これから歴史を刻んでゆく中で、顔を確立してゆくということなのかも知れない。

というように、つくば市はまだまだ未完成の都市なのである。このつくば市に歩きに行くのは、散策の道が充実しているからである。研究機関を結ぶ道にはたくさんの樹木が植えられ、公園も多く、木立ちに包まれた遊歩道も多い。我が守谷市にも遊歩道は多いが、その規模や長さの点ではどうしても見劣りがする。較べて見てもあまり意味は無いが、時々は気分転換につくば市にやって来るのである。

市の中心街から少し外れた所に家内のフォークダンスの練習会場があって、そこ駐車場に車を停めた後、既にゴーストタウン化が始まった初期建設の小規模団地内の小路を通り抜け、市街地の外の田んぼ道の方へと急ぐ。そこには真ん中に花室川という名前だけは美しげなドブ川が流れており、その脇道を上流に向って1時間ほど歩き、今度は左折してつくばエキスポ博のシンボルタワーというかロケットが展示されている記念公園の方へ向って歩く。途中から田舎は終り、突然人工的な公園が出現する。公園で一呼吸入れた後は、国際会議場横の道を真っ直ぐ東に進んで、理想的な林の中の小路を、緑を楽しみながら歩いて、再び郊外に出て左折し、やがて駐車場に戻る、というコースだった。この他にも幾つかのコースを自分なりにつくってあるが、概ね3時間程度の歩きであり、万歩計は2万歩を少し超えたレベルとなる。

つくば市は、不思議な実験都市である。未来志向の部分と過去の豊かさの部分が共生している都市のようにも思う。行政当局は、いみじくも田園都市というような言葉を使われたが、私としては、何よりも田園都市を目指して欲しいなと思っている。科学技術都市とか国際都市などというのは目的ではなく、単なる都市の構成要因の一つでいいのではないか。目指すのは田園都市であって欲しいと願っている。

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ボクシングだけの問題か?

2007-10-15 20:50:10 | くるま旅くらしの話

 このところ文明批判のようなことばかりを旅にかこつけて書いたりしているが、今日は旅とは無関係の腹立ちについて書くことにしたい。それは今日JBCから裁定が下された、先日の世界フライ級タイトルマッチにおける亀田問題である。

 先日珍しくTVの放映を見ていて、それが世界タイトル戦だと知り腰を据えて観ていたのだが、両者共に切れのない冴えない戦いぶりで、何だこれは!とガッカリしながらの観戦となった。しかし、終盤になるにつれて、金髪のアンちゃんの方がボクシングをしているのではなく、ただゴリゴリとグローブを擦りつけてクリンチまがいのことをやっているのが目立ってきた。その内に何だかレスリングのようなことをやりだしたので驚いた。これがボクシングなのか?目を疑いたくなるようなシーンが展開され、レフリーが反則減点を取ったのだが、それが何と2点(ラウンドとしては3点減点)だった。2点で済むような反則内容では無いのではと思った。こんな世界戦を見たのは、初めてである。ボクシングが如何にショウ・スポーツであるとはいえ、ここまで堕落したものかと呆れかえったのだった。

 戦いが終わって金髪のアンちゃんは負け、そそくさとお辞儀もしないままに退場していった。世界戦なら、どんなお粗末な試合でも戦った両者がお互いの健闘を讃えあうのが礼儀というものだろう。その様な形式的なことは無用だ!というのが負けた側の本心であって、その表れがこのような行動なのかも知れない。こんな奴らがのさばってTVの画面を賑わしているような国を情けないと思う。日本人はボクシングにおいて、世界に恥を示したといってもいいのではないか。せめて日本人同士だったということが、嗤(わら)い話としての世界への反響を少なくしてくれるのかも知れない。(あるいはその反対かも)

 亀田一家というのは、ボクシング界にとっては諸刃の剣のような存在だったであろう。特異な人気は業界を盛り上げ、観客動員などにおいてそれなりの貢献をもたらしていると考えられていたに違いない。しかしその人気の本質は邪悪だったということが、解明されたようだ。即ち剣(つるぎ)は正ではなく、邪の働きしかできないものだったということだ。

 戦い以前に相手に対して罵詈雑言を浴びせ、恫喝まがいの行為をとるというショウマンシップスタイルは、例えば彼のモハメッド・アリを思い起こすが、彼の置かれていた社会状況を思えば、ある程度は理解ができるし、我慢も出来るのだが、この亀田一家の振舞いはとてもそれと比較できるものでは無い。当初は邪悪ぶるのを売りにしていたようにも思えるが、それが当ってくるにつれ、思い上がりはいつか本物の邪悪の世界へ足を踏み入れてしまったようである。

 彼らは大口を叩くだけではなく、ひたすらにボクシングでの勝ちを求めて、血の滲むような鍛錬を続けて来たに違いないはずなのだが、少しばかり勝ち奢った結果、勝てば無法行為もまかり通るなどと世の中を舐めてしまっている嫌いがある。今回の処分は、はっきり言って甘い。甘すぎる。リング外の愚劣な罵詈雑言だけならともかく、リングの上でのこの試合における一連の行為は亀田一家の本気の演出だったような気がする。父親の再登場はあり得ないとしても、たった1年のライセンス剥奪では、時間不足で反省も更正もできるはずがないだろう。

 ところで、一つ疑問に思うのは、マスメディアの存在と対応だ。今のマスメディアが人間の持つ興味本位という欲望を刺激し、そこに報道のニーズをより多く見出そうとしていることは明らかだ。犬が人間に噛み付いたのではニュースにならないが、人間が犬に噛み付けばニュースとなる、とは確かにニュースの本質を突いてはいるけど、今の世の中、あまりに興味本位の報道が多すぎはしないか。犬に噛み付く人間を養育しているようなところがある。

 今回の亀田一家の事件も、穿って考えてみれば、マスメディアが亀田一家をけしかけて本物の邪悪心を芽生えさせ、育てていたのではないか。そして事件を引き起こさせれば、これがたまらない面白いニュースとなってゆく。昨日までの味方は、亀田一家にとっては最大脅威の敵に変身している。マスメディアは正邪の使い分けが上手である。変わり身も早い。ほんの一握りの悪ぶった連中の先のことなどどうでも良いと考えているのではないか。何だかその様な気がしてならないのである。そう思うと、犠牲者はむしろ亀田一家の方であって、表に出てこない原因系に潜んでいるものを放置しておいてよいのかという思いすらする。しかし、一小市民は無力である。せいぜいこの程度の問題提起しかできない。

 最後に。チャンピオンの内藤君は、亀田一家とは反対の意味で、マスメディアにもみくちゃにされ、使い捨てられる危険性がある。とにかくゆっくり休んで、次の試合に臨んで欲しい。そしてベストを尽くしてチャンピオンの座を守って欲しい。

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化石都市のさ迷い

2007-10-14 01:44:46 | 宵宵妄話

昨日のブログで、旅の話題について触れたが、実はその集まりまでの3時間ほど、上野駅付近から東京駅まで小さな旅をしたのだった。都心を歩くのは現役時代には殆ど毎日だったけど、最近では久しぶりのことだ。たった3時間足らずの短い時間だったが、何だか東京の化石化は急速に進んでいるような気がした。そのことを少し書いてみたい。

自宅近くのバス停から高速バスに乗り、40分ほどで上野駅近くのバス停に到着した。15時を少し過ぎていた。集りは18時から東京駅近くで始まる予定なので、かなり時間がある。勿論最初から久しぶりに歩くことにしてやって来たのである。上野駅は、網目状の歩道橋でつながっている。今頃は、都市の駅前が歩道橋でつながっている所が多い。実に殺風景な情緒のない景色だと思う。車社会ではこのような形が機能的ということなのであろう。先日の幕張新都心も同じ様な感じだった。何時もだと上野からは不忍池に出て、山の手に沿って歩き、湯島天神や神田明神などに参詣しながら秋葉原に出ることが多いのだが、今日は別コースを考えている。

歩道橋を下りて、アメ横の裏道に入り、御徒町方面に向う。高架下のアメ横の中には入らない。ごちゃごちゃしていて、何だか危なげで疲れるのである。昔はここへは登山用具などを求めてよく来たものだったが、今は魅力を感じなくなってしまった。アメ横ファンの方には申し訳ない。

山手線などの高架に沿って10分ほど歩くと御徒町である。御徒町からもガードに沿って歩き続ける。全くの裏町というかコンクリイトで固められた地面が続く、人間の息吹を感じない空間が続く。ガード下の多くは倉庫スペースとして使われているようだけど、何だか良くわからない。わからなくてもいいのだと主張しているような雰囲気がある。ガードを潜って右側の方に出て、住宅街というのか、問屋街というのか、様々な職種・職業が入り交ざっている感じの小さなビルが立ち並ぶ街を通り抜けて、秋葉原近くの大通りに出た。この辺りから高層、超高層のビルが目立つようになった。

秋葉原は、守谷からはTX(つくば新線の略称)で30分ほどの距離の終点駅がある。その電気街は超有名で、世界に知れ渡っているのであろう。今日も外国人が多いようだった。パソコンは買ったばかりだし、今のところここには用がないので、そのままパス。さて、どうするかと少し迷った。未だ1時間も経っていない。よし、久しぶりに神田の古本屋街を歩いてみようと思い立った。東京までをどう歩くかは考えて来なかったのである。

神田の古本屋街は、学生時代からいろいろお世話になっている。お金が少し(多くというのは一度も無かったのだが)溜まると、リュックを背負って本の買出しに来たものだった。電車賃を少しでも安く上げようと、常磐線を往復するのではなく、学割の周遊切符が安くなるので、わざわざ水戸線を使って遠回りしながらの買出しだった。余計に時間がかかっても、安く済むのなら一向に気にならなかった。時間が掛る分、本を読んでいればいいというのが自分の考え方だった。就職後も度々訪れている。どういう訳だか、本が好きなのである。読むよりも本そのものが好きといった方が正しいのかも知れない。今でも一度も開いてみたことがない本がかなりある。

さて、秋葉原からはどう行くのか、実のところ道は良く覚えていないのだ。山手線の内側だから、とにかく右手の方へ行けば、その内何とかなるだろうと歩くだけだった。やたらに信号が多くてその度に歩くのを止めなければならないのが、何とも不満なのだが、無視することは不可能だ。あまりにも行き交う車が多すぎるのだ。須田町からしばらく歩くと、多町(たちょう)の方へ来てしまい、神田の駅が近いようだ。どうも目的地からは遠ざかっているような気がして、思い切って右の方へ行くことにした。その内に大通りに出たので、しばらく歩いていると、九段下方面の標示板が見えたので、多分これを行けば何とかなるだろうと歩き続けた。しばらく歩いていると、三省堂の看板が目に入った。あ、あの辺りが神保町だと判った。

だんだん近づいて行ったのだが、何だか雰囲気が違うのである。古本屋街は歯が抜けたような感じに思えた。いつの間にか周辺を巨大な高層ビル群が取り囲み、早くその商売をやめろ!と脅しているような感じがした。もうここへは5年以上ご無沙汰をしていた。たった5年なのだが、その変わり様に驚かされた。東京は肥大化し、その肥大化は横ではなく上に向って膨らんでいる。その勢いは、5年間のこの周辺の変化を見れば明らかだと思った。新宿や潮留そして東京駅周辺の目立つ建物に気をとられて、それ以外の場所はもう変わりようがないのだと思っていたのだが、それはとんでもない認識不足だったと気づいた。

古いものを押しつぶして破壊し、平然として、新しいものの為に犠牲にしようとする、都市の持つ異常性のようなものを感ぜずにはいられなかった。神田の古本屋街は、世界遺産にでも登録しないと、これから先、生き残って行けないのかもしれない。コンビニの店先で、求める本が簡単に手に入る時代になってしまったのである。本物の古本を売ることができる店以外は、生き残れないのかも知れない。中途半端な古本は、わざわざここまで来なくても、郊外に進出した店で幾らでも手に入れることができる。時代の流れというのは、恐ろしいものだなと改めて思った。

神保町からは内堀通りに出て、お堀の周りの道を皇居の方に向ってしばらく歩いたのだが、右側の堀の中には何年か前と同じく大きな鯉が泳ぎ、所々に住み着いた亀が頭を出し、よどんだ水の中に白鳥が何羽か浮かんでいた。しかし左側は、車の洪水の向こうに、巨大なビル軍が聳え立っていた。明らかに背が高くなっている。かつて目立った東京海上のビルなどは、今ではその赤レンガ風の外壁がなかったら、見落とされてしまうほどの小さな建物に見えた。

和田倉門公園の、石のベンチに腰を下ろし、しばらく噴水と一緒に暮れてゆく大都市東京の雰囲気を味わったが、自分にとって、それは決して心和むものではなかった。巨大な未来の化石が天を衝いて細かな幾つもの灯りをともしているように見えた。私自身が化石人間であることは認めるけれど、今やたらに人が群れ集まるこれらの巨大な建造物は、存外に早く化石化の道を辿るのではないかと思ったのである。

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国内くるま旅と海外の旅

2007-10-13 09:11:01 | くるま旅くらしの話

昨日は、昔(といってもそれほど遠くはないのだが)の研修(MTPIという日本訓練協会が開催する管理者向け定型訓練のインストラクター養成講座)の仲間の寄り合いがあり、上京した。当時の訓練に参加した、気の合った仲間数人の不定期の集まりで、今回は私が幹事当番だった。忙しい現役の方も居られて、フルメンバーの集りは難しく、今回は4名の出席にとどまった。

当時現役だった人も多くはリタイアされて、今は悠々自適の暮らしの中で、専ら海外旅行を楽しんでおられる方が多い。皆さん超一流企業卒業の方ばかりで、旅の向かい先は地球全域となっている。わが国の企業戦士が、世界の至る所に身を置いてその経済戦争(?)なるものを戦っているのだという想いが、リタイア後の旅の考え方の中に現れているのかなと思ったりしながら、皆さんの話を聴いていた。

この人たちをすごいなと思うのは、旅に出かける前に、旅先の国の人たちとのコミュニケーションがとれる様にするために、その国の言語をかなりの時間をかけて学び、併せて歴史や文化についても知識や情報を仕入れることを怠らない情熱を持っているということである。英語圏については勿論、イタリア、ドイツ、フランス、スペイン等々、ゲルマン、ラテン、スラブ各系の国々の言葉にチャレンジしているのだから驚くばかりである。

旅をより楽しく、味わいの深いものにするためには、旅先についての歴史や文化に対する知識や情報は不可欠だし、そこに住む人たちとのコミュニケーションが上手く取れることが旅の楽しさを層倍にしてくれるというのは、海外によらず、国内のささやかなくるま旅においても全く同じである。しかしそこに費やされるエネルギーの大きさは、旅先がどのような国であれ、日本という島国では想像もつかない異郷の異文化を持っているだけに、国内の旅とは比較にならないと思っている。私自身は、そこまでチャレンジするエネルギーは持ち合わせていないように思い込んでいる。

この思い込みは、20年ほど前に視察という名目でヨーロッパの数国を旅したときに、かなりしっかり固まったように思う。あの時は行く前に、急場しのぎにヨーロッパの文化について書かれた1冊を読み、ヨーロッパの理解のためには、ラテンとスラブとゲルマンのことを知る必要があるという教えを知り、学生時代に使った古い歴史地図などを引っ張り出して眺めながら、彼の地の歴史の興亡などをうろ覚えに復習して出発したのだった。しかし行って見るとロンドンもパリもローマも名所や史跡などはそれを見るだけに止まり、言葉のギャップはあまりに大きく、そこに住む人たちのくらしの感覚は殆ど解らぬままに、点的な移動の繰り返しを余儀なくされたのだった。

本来なら、その時から新たな旅への挑戦が始まるのだと思うが、私の場合はもう手遅れだと思ったのである。何が手遅れかといえば、先ずは語学の習得である。旅だけの為に言葉を覚えるなんてとても無理だ、と。そして日本の自宅に戻れば仕事の現実とくらしの喧騒が待っている。それをクリアして新しい言語を身につける余裕はなかった。それに日本という国も、未だ殆どこの目と耳で確かめてもいない。不便な言語などの習得にエネルギーを使うよりも、自国の言葉が通用する場所をじっくりと旅したいと思ったのだった。

というのも、その頃知人から貰った1冊の本に惹かれていた。それは「チャーリーとの旅 -アメリカを求めて-」という名のスタインベック著の訳本で、著者が1960年に約4ヶ月をかけて、小型トラックを改造した旅車を自ら運転してアメリカを廻った時の記録である。往時は未だ現在のようなモーターホームやキャンピングカーなどというものが出現していなかったのではないかと思う。車を使ったその旅は、ワクワクするほどの魅力に溢れていた。往時のアメリカでも大反響を呼び、一大ベストセラーとなったと聞く。チャーリーという名の愛犬1匹を連れての旅は、まさにアメリカの再発見をスタインベックにもたらしたのではないかと思う。そして、それは多くのアメリカ人に、くるま旅への思いを膨らませることとなったに違いない。

この本は今でも直ぐに手の届く本棚に大切に置いてあるが、その時密かに、いつか自分もくるま旅をしながら日本を廻ってみたいと思ったのだった。そしていつかというのは、使える時間の有り余るリタイア後しかないのである。だから、自分の旅の世界は海外ではなく自国と決めていた所がある。

やがてリタイアの時が訪れ、遅れ馳せながら、自分自身もこの狭い日本という国で、しかも溢れんばかりの人の多いこの国で、しかし人影を探すのが難しいたくさんの地方の町村を巡りながら、似非スタインベックの心境を味わおうとしているのが今の自分なのかも知れない。

旅には様々なスタイルがある。それはその人の自由でよい。どこへ、どのような形で、誰と一緒であろうとその様なことは旅の良し悪しとは全く無関係のことである。大切なのは出会いをどう受け止めるかということだ。感性をどう働かせるかということだ。生き生きと生きて行くための糧を旅の中から拾い上げられるかどうかだと思う。

旅の話を聴く楽しさは、その人が拾った出会いのもたらす感動の大きさに左右されるように思う。単にどこへ行って何を見たという様な話は、あ、そう、で終わってしまう。旅は単なる事実の客観的な受け止めではなく、その人の主観の全知全霊を傾けた、出会いに対する喜怒哀楽の受け止めに意味があると思う。何故なら我々の人生そのものが旅であり、出会いに対する喜怒哀楽の大きさの結果が今の自分をつくって来ていると思うからである。

仲間のお一人は明後日、スペイン小旅行に旅立たれる予定だとか。ご無事を祈ると共に、たくさんの土産話を期待したい。

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今朝の散歩から:子供たちの未来

2007-10-12 05:01:11 | くるま旅くらしの話

 今日の散歩で、ガッカリ、ビックリ、ドッキリしたことがある。それを書いてみたい。

 いつもと同じように7kmほどを歩いて、我が家近くになると、道を挟んで小学校と中学校が向かい合っている。その横が散策の道となっており、その脇に小さなサツマイモ畑がつくられている。通りすがりにふと見ると、サツマイモの花が咲いていた。珍しいなとカメラに収めたのだが、よく見ると植えられたサツマイモは、どれもが2mにも届かないような成長振りなのに気づきビックリしたのである。秋の収穫期を迎えたサツマイモは、その旺盛な生長力を駆って、普通なら畑を埋め尽くし道の外まで溢れんばかりの葉を茂らせている筈なのに、である。

 確かこの畑は、学校の子供たちが作っている筈だと思い起した。小学校なのか中学校なのかは、標示板が無くなっているので判別できないのだが、子供たちが苗を植え、作っている畑にちがいない。もう植えてから半年近くになるというのに、この惨状は一体どういうことなのだろう。

 その原因は明らかなようだ。植えたままで一度も肥料を与えていないからであろう。更には、最初の植え付けの時も何一つ肥料をやらなかったのではないか。花が咲いているというのも、子孫を残すための根を太らせることができないので、せめて花を咲かせてそこから次世代につないで行こうとする、サツマイモの必死の本能のなせる業ではないか。時々見かけるサツマイモの花は、その様な痩せた態様の畑が多い。

 しばらく畑の傍に佇(たたず)んで、そのあまりの酷さを眺めたのだった。どうしてこのような畑が生まれているのかを考えずにはいられなかった。

 子供たちは、それなりの期待や夢を持って畑を耕し、苗を一本、一本植えたに違いない。秋には豊かに実ったサツマイモが収穫できることを思ったのに違いない。しかし、それはただ結果の良さを思っただけであって、その後の夢を育てるための努力や配慮はすっかり忘れてしまったのか、それとも結果を出すためのプロセスは不要だと考えたのか。とにかくその後は何もせずに放置してきたことは間違いない。

 確かクラス全体で畑を作っていたようだから、一人の子供が手入れを忘れたのではなく、全員が何もしなかったと想像できる。そして当然のことながら子供たちの指導に当る先生が居るはずだから、その先生達も苗を植えること以外は何も指導をしていないのかもしれない。若しかしたら、苗を買っただけで、肥料を買う予算が無なってしまい、それっきりにでもなったのかもしれない。いろいろと思いつく原因を探してみたが、何だか良くわからないのである。

 そして最後に思ったのは、この現象は今の世の中を象徴しているのではないか。そしてもしこの延長線上に子供たちの未来があるとすれば、それは衰退と破滅ではないかということだった。

 農作業というのは、幾つもの辛さを伴うものである。土地を耕す辛さ、堆肥や元肥を施す辛さ、サツマイモの苗を手植えする時の半腰の辛さ、照りつける太陽の下での除草作業の辛さ、などなど幾つもの厳しい労働のプロセスを経て初めて収穫の歓び、それを味わう喜びを得ることができるのである。

  このような当たり前のプロセスを体験することに学習の意義があると思うのだが、今頃の先生は一体何を考えているのだろうか。他のことに追い掛け回されていて、サツマイモのことなど構ってはおれないのだろうか。先生自身がPTAのいじめに会い、その対応に追われサツマイモ育ての指導どころでは無いということなのだろうか。この先、痩せた糸くずのようなサツマイモを、子供たちと一緒に笑い、バカにしながら、収穫だけは済ますのだろうか。原因やプロセスの大切さを考えるのを置き去りにして、ただ夢だけを想うような教育が、子供たちの未来を明るく拓いて行くとでも思っているのだろうか。幾多の疑問が頭を駆け巡ったのだった。

 口先だけ、虚像だけの世界が今の世を相当な領域まで支配し始めているような気がするのである。昨日も書いたけど、携帯やネットの世界の、そこで飛び交う情報は本質的にバーチャル(=仮想)なのだ。実物は手にとって、会って見て初めて本物となるのである。サツマイモは、苗を植えさえすれば思い描く結果が出るものであるなどという考えは、詐欺に等しい。汗を流さずによい結果だけを求めたいという人間ばかりが育ったとしたら、この世の未来は4千年の文明の歴史が積み上げてきた人間社会の在り様を本質的に変えてしまうに違いない。

 批判はともかくとして、痩せたサツマイモの蔓の先に1輪咲いた花を見つめながら、このような世の中を作り出した責任の一端は、我々世代が大きく関わっているのではないかとも思った。このような流れを何とか止められないものだろうか。私には二人の孫娘が居るのだが、彼女たちが大人になった時には、果たしてこの影響をどのようにして払い除けてゆくのだろうか。それができるのだろうか。子供たちの未来には、たくさんの危うさが横たわっているように思えて、ドキリとしたのである。

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昨日の話

2007-10-11 03:06:52 | 宵宵妄話

キンモクセイの香り漂う季節となった。散歩道の至る所からのその香りに酔いながら家に戻り、机に坐ってメールの画面を見ると、先日のシンポジウムの要録原稿のチエック依頼が来ていた。さっそく自分の分のチエックを終えたのだが、同じ守谷市内に住むKさんの発言内容分のチエックをしたいので、住まいやメールのアドレスを教えて欲しいとのことだった。Kさんもシンポジウムに来場され、会場から参加発言頂いたのであった。

Kさんとは、実は今年の北海道の旅で初めて知り合ったのである。別海町のキャンプ場に滞在していた時、入ってきたキャンピングカーのナンバーが、何と「つくば」だったのだ。つくばナンバーというのは、日本で一番遅れてスタートしたご当地ナンバーなのだ。他所の県では去年の秋にスタートしたのだが、茨城県は事情があって今年の2月に始まったのである。従って日本で一番新しいナンバーであるとも言える。私共もご当地ナンバーの発足にあやかり、引越し以前の多摩ナンバーを変更したのだった。88歳までのくるま旅の実現を祈願して「88-55」という数字を選択したのだった。

そのつくばナンバーのピカピカのキャンピングカーが入って来て、それが女性の運転だったので二度びっくりし、伺えば、何と同じ守谷市内在住の方だったので、これまた三度驚いたのである。同じ街に住まいを持つ者同士が、はるばると故郷を1000kmも離れた所で、初めて出会うというのも、旅ならではの不思議な縁である。同じ守谷市にくるま旅を楽しまれている方が何人居られるのか知る由もないけど、少なくともKさんが居られることを知って、妙に嬉しくなってしまった。Kさんは、別海でのその時は2泊ほどされて次の目的地に出発されたが、帰宅してからの再会を約してお別れしたのだった。

帰宅してドタバタしていて、Kさん宅訪問は叶わぬまま時間が流れ、その内にシンポジウムが開催されたのだが、その会場にKさんが見えられたのに気づいた時はびっくりした。シンポジウムの翌日、お礼のご挨拶にお宅をお訪ねし、親近感はいや増したのである。

そのKさんへの連絡はメールの方が良かろうと、未だ伺っていなかったアドレスを電話でやり取りして実際にテスト発信をしてみたのだが、これが何度やってもうまく行かないのである。私のアドレスには致命的とも言える間違いやすい箇所があって、そのことをお話して確認しながらやっていたのだったが、どうしても上手く行かない。考えてみれば車なら5分ほどで行ける距離なのに30分以上もかかってしまっている。これは行った方が早いと気づいて直ぐにお宅を訪問し、一件落着となったのであった。

実に他愛ない話なのだが、昨日お宅にお邪魔し1時間ほどくるま旅についてあれこれ話し合ったのだが、Kさんの旅への思いをいろいろお聞かせ頂いて、益々嬉しくなってしまった。共通の話ができる人を見出したというか、その様な方に巡り会えたということが何よりも嬉しいのである。

守谷市に越してきてから3年を経過しているが、親しく話ができる人は皆無に等しかった。隣近所の方とは挨拶程度に留まっており、少し淋しい思いを余儀なくされていた。新しく開発された住居区画では、戸建てもマンションも「隣は何をする人ぞ」と言う雰囲気が強くて、近隣内においての会話や対話の機会は滅多にないのである。

今の世は、高度情報化社会といわれるように、コミュニケーションのツールは異常に発達していると思うけど、生身の人間同士のコミュニケーションは廃れて、本当に理解し合う力が激減しているように思えてならない。本当の気持ちを表しえない言葉だけが電波や電流に乗って飛び交い、生き物としての人間が、顔と顔を合わせて話をするという基本動作のようなものが、どこかに置き忘れられているような気がする。携帯電話やインターネットは、本当に人間に幸せをもたらすツールなのだろうか? 何年か前「ケータイを持ったサル」という京大の正高教授の本を読んで、いろいろ考えさせられることが多かった。この本では現代の若者にスポットを当てながら、その親達やそれを取り巻く社会のあり方にメスを入れての問題提起がなされていたと思うが、それを読んで何だか危うい世の中になりつつあるような気がしてならなかった。

少し脱線したけど、旅での人との出会いは、それらのギャップや失望を埋めて有り余る喜びや感動をもたらしてくれる様に思う。人工5万6千人の守谷市の中に、3年以上も住んでいて、家族を除いて本当に楽しく、嬉しい本物のコミュニケーションが取れる人が、今までたった一人も見出せなかったという現実は大いに反省しなければならない。その不幸な現実を変える突破口となったのが、遠い旅先でのKさんとの出会いであった。旅には人が閉ざしている心を解き放つ不思議な力があるような気がする。私は、これからの人生の活力源をこの不思議な力に目一杯依存したいと思っている。

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元海中の異常都市

2007-10-10 08:08:15 | 宵宵妄話

昨日と一昨日の両日、家内の亡父の命日の供養で千葉の実家へ行った。お盆には旅に出ていて墓参りは殆どしたことがなく、彼岸の時にもご無沙汰しっ放しで、義父は彼方の世界で婿の不義理を苦笑しているかもしれない。というのは、この世界に生きているものの詭弁であることは承知している。久しぶりの墓参は、雨の中だったが、むしろそれが相応しい天候であるような気がした。

何年かぶりに家内の実家に泊まって、翌朝早朝散歩に出かけた。6時少し過ぎである。家内の実家は幕張にあって、かの幕張メッセは、歩いて30分ほどの距離にある。この辺の散歩といえば、40年前のその昔なら、遠く沖まで浅瀬の続く海岸線をどこまでも歩いたものだった。しかし、今はかつての波打ち際に国道14号線が走り、その波打ち際は、4kmも彼方に強制的に持ち去られて、その跡に新都心と称される人工都市が出現している。

久ぶりにメッセ辺りまで行ってみようと出かけたのだった。電車や車ではしょっちゅう来ているのだが、歩いてこのエリアを訪ねたのは23度しかない。人工都市というのは、人がのんびり歩くことなど殆ど想定してはいないようである。電車や車から降りたら、直ちに目的地まで最短距離を直行、往復し帰路につくといった雰囲気がある。寄り道して散策を楽しむというのは、よほどの奇人か暇人の取るに足らない行為であって、話題に取り上げるようなことでは無いようだ。

家を出て、国道14号線に沿ってしばらく歩くと、道脇に舟溜り公園というのがあった。ここは40年前、正確にはもう少し前になると思うが、幾つもの漁船を繋ぐ小さな港があった所である。漁船の多くは、漁と言うよりも海苔の養殖などに使われていたように記憶している。沖まで遠浅の海が続き、干潮になると海は遙か彼方まで遠ざかって、一大砂浜が出現する。そして春のシーズンともなれば、その砂浜に棲むアサリ貝を求めて何千、時には万を越す人たちが群れるのだった。JR総武線の幕張駅から砂浜まで行列の往復が終日続くのに驚いたのを覚えている。帰路につく人は、皆アサリの一杯入った網袋を提げていたのだから、この浜に如何に多くのアサリが棲んでいたのかと驚かされる。今ではアサリといえば輸入したものをバラ撒いて観光客の機嫌をとっている所が殆どになってしまったようだ。僅か40年ほどの間の落差は想像を絶するものがある。

しかし、時間の流れの最前に位置する今という時間は、その落差の意味を考える余裕もなく、怪しげな未来に、ばら色の期待の夢を見ながら脇目も降らずに進んでいるように思える。コンクリイトと鉄と石とガラスとその他どのような材料が使われているのか想像もつかないけど、無機質の物質で造られた空間は、人間の叡智の結晶というよりも、さまざまな欲望の表現アートのように思える。

かつての小さな漁村の舟溜り跡を通り過ぎて、地上ではなく、2Fか3Fに相当する人工地上に植えられたマテバシイや楠やイヌマキなどのかなりの大きさの樹木の間を歩きながら、回想と疑念は果てしなく広がり、やがてそれでも人間という奴は簡単には憎めぬ哀しくも愛すべき存在なのだなと、いつもの諦めというか結論に辿り着くのである。

早朝のメッセは人影もなく、銀色の屋根を昨夜の雨に燻ぶらせてひっそりと佇(たたず)んでいた。イベントのある日中には、此処に何万という人たちが行き交うとは想像もできない静けさである。現代文明の建造物が、古代ピラミッドのようにこのあと何千年も先まで残るのかふと疑問を覚えた。多くの人々の命の犠牲の上に、たった数人の王と呼ばれる人のための墓という巨大なモニュメントを造り上げたエネルギーは、人力の塊だったように思うが、現代のそれは、人間に代わる機械類を多用した手軽な作品のような気がしてならない。メッセもマリンドームもたくさんの超高層ビル群も、4千年の時間に耐えられるほどの人間の魂のエネルギーが籠められているようにはどうしても思えないのである。時間が過ぎて使い古しになれば、破壊をして新しく造りかえればいいという発想というか思想が現代の経済思想の根底にあるような気がする。それは今の我々の暮らしの基盤である大量生産・大量消費という考え方の流れを汲むものであろう。幕張新都心が、千年を超えるような建物で造られているとはとても思えないのである。しかし、そのことを批判する資格は自分には無い。

7時近くになって、早出の通勤の人たちの群れが電車から降りてくるようになった。何となく懐かしい思いをもって、彼らの行き交いを見ていた。多くの人たちは自分の勤務先へ向うのではなく、先ずはコンビニに立ち寄り、或いはコーヒースタンドに立ち寄って軽食を用意したり、摂ったりして職場に向うようである。もはや味噌汁とご飯などという朝食メニューは、このような超近代の街では過去のものとなってしまったのか。そういえば、同じ屋根の下に暮らす倅が、朝食を摂るのを見たことがない。やはりこの人たちと同じような暮らしぶりなのであろう。不断考えたこともなかったけど、今日は改めて都市という世界で過ごす人たちの暮らしぶりの断面を見たような気がした。それは質素というよりも淋しい潤いのない景観に思えた。しかし、もし自分が今現役でこのような場所に通って居たなら、やはり同じような暮らしぶりとなるのであろう。暮らしというのは、否応なしにそこの環境が決めることが多い。どんな環境の中でも自分の信念を通すことは困難なのだ。今、様々なしがらみから開放されて、このような傍観者になり得ていることを感謝しなければならないと思った。

1時間ほどかけて新都心なるエリアの一部を横切って往復して戻った。やはり此処は異常都市だなと思った。都市というものは本来成長の歴史を持つものだと思う。そのスピードは様々だが、突然出現した都市空間には、歴史というものが見えない。今住む守谷市近くのつくば市の研究学園都市もその様なエリアである。そこへ行くと異次元の空間の中に入ったような錯覚を覚えるのである。その異次元の空間のさ迷いの旅から戻り、ボロ屋の玄関を踏み越えて入って、何だかホッとしたのだった。

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一人旅と二人旅

2007-10-07 10:29:54 | 宵宵妄話

「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年も又旅人也。………」は芭蕉の奥の細道の書き出しであり、超有名な文章だが、人はそれぞれに与えられた時間を、その人なりに使いながら生きて行く。それも又旅なのだというこの一文は、「行きかふ」のが『人』ではなく『年』というところに味の深さがあるように思う。人生も又旅であり、たくさんの出会いとその大きさによって、その人の人生の多くが決まってゆくように思う。自分の人生は自分自身が切り開くというような主張は、思い上がりに過ぎないということを、旅をするようになってからしみじみ理解できるようになった。人はお陰様でしか自分の人生を拓けないように思うのである。そしてお陰様とは、出会いのことを言うのである。

ここ1週間、家内が母の介護で家を留守にしている。普段の旅くらしの中で、身の回りのこと、特に食事のことは、自分ひとりで出来るように努めている所為か、倅の食事を用意したりの主夫暮らしに何の不便も感じていない。倅から料理が不味いとは言われたこともなく、概して好評のようである。このままずーっとこの暮らしが続くとなると、そうは行かないとは思うが、………

考えてみれば、今までの自分たちのくるま旅は全て二人旅だった。リタイア後の人生は、お大師さまならぬ神さんと同行二人というのが当たり前だと思っていたので、二人旅に何の疑問も感じていなかったのだが、こうして家内が不在の時間を過ごしていると、旅というのは本来一人というのが当然なのかもしれないなと、ふと思ったのである。

そういえば、実際の旅の中では、一人旅の男や、女性を結構多く見ている。圧倒的に男の方が多いが、稀に女性を見かけることもある。男の方は、つれあいを亡くされての一人旅の方も居られるが、神さんと考えが合わず、一緒に旅が出来なくてやむなく一人旅というのが案外多いらしい。家内のコメントでは、概して男の一人旅というのはむさ苦しく不潔感が漂っているということだ。確かに立派な旅車でも、車内に洗濯をしない洗濯物が溢れていたり、所かまわず雑多な物が整理も掃除もされずに飛散しているのを見たりすると、さもあらんと思いたくなる。その様な男を夫に持ってしまった女性は、旅先でも食事やら洗濯やら在宅時と同じ仕事を、狭い不便な車の中で強いられ、ゆっくり観光見物も出来はしないと考えれば、くるま旅などは、オオヤダー、ということになるのかも知れない。

ここで少し脇道に逸れて、夫婦二人のくるま旅の必要条件について述べてみたい。夫婦というのは想像もつかないほど複雑な組み合わせがあるので、当て嵌まらないかも知れないけど、自分たちの場合を取り上げることにしたい。

先ず第一は、二人とも旅に出てみたいという思いのようなものが無ければ二人旅は成り立たない。どちらか一方の方は僅かでもいいから、もう一人が強い願望を持っていれば二人旅は成り立つ。人間というのは、弱いものに引っ張られるよりも強いものに引っ張られるのが普通だから、多くの場合は強いものが勝つことになっている。

次に必要なのは、在宅の時と同じくらしの姿、力関係では旅は長続きしないと思う。とくに男性の側が家に居る時と同じように、家事は一切神さん任せで、運転だけしかしないという様な夫婦関係では、よほど旦那に惚れているか弱みがあるかで無い限りは、多くのご婦人は、狭苦しい車の中での旅くらしなど真っ平ご免だと考えるに違いない。従ってこの場合も二人旅は成り立ちにくい。

三つ目は、旅先ではいつも二人一緒に同じ行動をとらなければならないと考え、信じているような夫婦も旅くらしに疑問を持つようになるに違いない。残り少ない人生を二人一緒でずーっと時間を共有できることに無上の幸せを感じている夫婦は別として、そのような夫婦は稀有の存在だと思う(観念的には理解できても、生き物としての人間は我がままなので、自由行動を欲しがるのが普通だと思う)から、旅先では時として別行動をとるのが当たり前という自由さが保証されることが大切のように思う。勿論一緒の行動をとる時の方が多いのは当然であろう。

この3つが基本要件だと私は思っている。そしてこれを守り、実行する応用編は無数にあると思う。旅というのは、頭の中で考えるようなものではなく、実際の世の中での実践行動なのだから、二人で良いくるま旅をしようと思うのなら、この3つの要件を行動としてしっかり満たさなければならないと思う。旅先で出会う夫婦2人旅の方たちを見ていると、多くの方がこの要件をきちんと満たしておられるようだ。簡単に言えば、自然に二人が協力し合って、くるま旅という新しい暮らしをつくってゆくという考えの下に、これらの要件を着実に実践するということであろう。

さて、元に戻って、今日もう一つ言いたいのは一人旅のことである。実は私はひとり旅をしたいと密かに思っている。人間は一つの望みが達成されると何時までもそれに浸っていることが出来ないようだ。決して二人旅に飽きたとか言うことでは無いのだが、何故か一人旅がして見たい。今まで一人旅の人をたくさん見てきたが、それを羨ましいと思ったことは一度もなく、むしろ気の毒に思っていたのだが、何故かこの頃は一人旅がして見たいと思っている。

ところが今年の北海道の旅で、調子に乗り過ぎて前後不覚的な酔いの醜態を家内に見られてしまったので、もう一人で旅に出すなどとんでもないとキツク言われてしまったのである。つまり、一人で旅に出たりすると、悪酔いなどして周りに迷惑をかけるだけでなく、自らもとんでもない墓穴を掘るようなことをし兼ねないという訳なのだ。実に拙い失態だったと反省している。事実が証明してしまったことには、弁明の余地がない。この出来事を忘れて貰うには、相当の時間が必要だろう。生きている間はダメなのかも知れない。

一人旅が二人旅の窮屈さから開放される旅だなどとは全く思っていない。一人旅で何か家内には内緒の良いこと(=悪いこと?)をしようなどとも思っていない。もうその様なことをしたいと願うような歳では無い。それにも拘らず一人旅がしてみたいのである。新しい旅の姿が見出せるような気がするのである。

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