昨日は、昔(といってもそれほど遠くはないのだが)の研修(MTPIという日本訓練協会が開催する管理者向け定型訓練のインストラクター養成講座)の仲間の寄り合いがあり、上京した。当時の訓練に参加した、気の合った仲間数人の不定期の集まりで、今回は私が幹事当番だった。忙しい現役の方も居られて、フルメンバーの集りは難しく、今回は4名の出席にとどまった。
当時現役だった人も多くはリタイアされて、今は悠々自適の暮らしの中で、専ら海外旅行を楽しんでおられる方が多い。皆さん超一流企業卒業の方ばかりで、旅の向かい先は地球全域となっている。わが国の企業戦士が、世界の至る所に身を置いてその経済戦争(?)なるものを戦っているのだという想いが、リタイア後の旅の考え方の中に現れているのかなと思ったりしながら、皆さんの話を聴いていた。
この人たちをすごいなと思うのは、旅に出かける前に、旅先の国の人たちとのコミュニケーションがとれる様にするために、その国の言語をかなりの時間をかけて学び、併せて歴史や文化についても知識や情報を仕入れることを怠らない情熱を持っているということである。英語圏については勿論、イタリア、ドイツ、フランス、スペイン等々、ゲルマン、ラテン、スラブ各系の国々の言葉にチャレンジしているのだから驚くばかりである。
旅をより楽しく、味わいの深いものにするためには、旅先についての歴史や文化に対する知識や情報は不可欠だし、そこに住む人たちとのコミュニケーションが上手く取れることが旅の楽しさを層倍にしてくれるというのは、海外によらず、国内のささやかなくるま旅においても全く同じである。しかしそこに費やされるエネルギーの大きさは、旅先がどのような国であれ、日本という島国では想像もつかない異郷の異文化を持っているだけに、国内の旅とは比較にならないと思っている。私自身は、そこまでチャレンジするエネルギーは持ち合わせていないように思い込んでいる。
この思い込みは、20年ほど前に視察という名目でヨーロッパの数国を旅したときに、かなりしっかり固まったように思う。あの時は行く前に、急場しのぎにヨーロッパの文化について書かれた1冊を読み、ヨーロッパの理解のためには、ラテンとスラブとゲルマンのことを知る必要があるという教えを知り、学生時代に使った古い歴史地図などを引っ張り出して眺めながら、彼の地の歴史の興亡などをうろ覚えに復習して出発したのだった。しかし行って見るとロンドンもパリもローマも名所や史跡などはそれを見るだけに止まり、言葉のギャップはあまりに大きく、そこに住む人たちのくらしの感覚は殆ど解らぬままに、点的な移動の繰り返しを余儀なくされたのだった。
本来なら、その時から新たな旅への挑戦が始まるのだと思うが、私の場合はもう手遅れだと思ったのである。何が手遅れかといえば、先ずは語学の習得である。旅だけの為に言葉を覚えるなんてとても無理だ、と。そして日本の自宅に戻れば仕事の現実とくらしの喧騒が待っている。それをクリアして新しい言語を身につける余裕はなかった。それに日本という国も、未だ殆どこの目と耳で確かめてもいない。不便な言語などの習得にエネルギーを使うよりも、自国の言葉が通用する場所をじっくりと旅したいと思ったのだった。
というのも、その頃知人から貰った1冊の本に惹かれていた。それは「チャーリーとの旅 -アメリカを求めて-」という名のスタインベック著の訳本で、著者が1960年に約4ヶ月をかけて、小型トラックを改造した旅車を自ら運転してアメリカを廻った時の記録である。往時は未だ現在のようなモーターホームやキャンピングカーなどというものが出現していなかったのではないかと思う。車を使ったその旅は、ワクワクするほどの魅力に溢れていた。往時のアメリカでも大反響を呼び、一大ベストセラーとなったと聞く。チャーリーという名の愛犬1匹を連れての旅は、まさにアメリカの再発見をスタインベックにもたらしたのではないかと思う。そして、それは多くのアメリカ人に、くるま旅への思いを膨らませることとなったに違いない。
この本は今でも直ぐに手の届く本棚に大切に置いてあるが、その時密かに、いつか自分もくるま旅をしながら日本を廻ってみたいと思ったのだった。そしていつかというのは、使える時間の有り余るリタイア後しかないのである。だから、自分の旅の世界は海外ではなく自国と決めていた所がある。
やがてリタイアの時が訪れ、遅れ馳せながら、自分自身もこの狭い日本という国で、しかも溢れんばかりの人の多いこの国で、しかし人影を探すのが難しいたくさんの地方の町村を巡りながら、似非スタインベックの心境を味わおうとしているのが今の自分なのかも知れない。
旅には様々なスタイルがある。それはその人の自由でよい。どこへ、どのような形で、誰と一緒であろうとその様なことは旅の良し悪しとは全く無関係のことである。大切なのは出会いをどう受け止めるかということだ。感性をどう働かせるかということだ。生き生きと生きて行くための糧を旅の中から拾い上げられるかどうかだと思う。
旅の話を聴く楽しさは、その人が拾った出会いのもたらす感動の大きさに左右されるように思う。単にどこへ行って何を見たという様な話は、あ、そう、で終わってしまう。旅は単なる事実の客観的な受け止めではなく、その人の主観の全知全霊を傾けた、出会いに対する喜怒哀楽の受け止めに意味があると思う。何故なら我々の人生そのものが旅であり、出会いに対する喜怒哀楽の大きさの結果が今の自分をつくって来ていると思うからである。
仲間のお一人は明後日、スペイン小旅行に旅立たれる予定だとか。ご無事を祈ると共に、たくさんの土産話を期待したい。
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