山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

再び亀田問題に思う

2007-10-26 13:17:40 | くるま旅くらしの話

気分転換に朝風呂に入ることにして、沸いたのを知らせるチャイムが鳴ったので風呂場に向かおうとしたら、ボクシングの亀田問題の記者会見が始まった。しばらく風呂のことは忘れてその中継を見た。ジムの会長の話に続いて、5分も遅れた亀田家の長男の謝罪会見が始まった。

この頃はボクシングによらず似たような謝罪画面を見ることが多い。やな世の中になったものだ。謝罪場面をたくさん作り出すことが必ずしも世の中の浄化につながるとは思えない。何故なら謝罪の弁明は、多くの場合二重三重に世の中をだましているからである。それを見ている人々は、その謝罪を認めて彼らの反省を素直に受け入れるよりも、当事者をバカにした挙句、単なる批判者の冷たい優越感に浸って、それで終わってしまうからである。そしてしばらくすると、又同じような謝罪場面が繰り返えされるのである。

亀田興毅の記者会見は、幼い子供がその言葉の意味も解らぬまま、ひたすらにごめんなさいを言い続けているのに似ているような気がした。言い訳はしないという覚悟は立派だと思うけど、大人というのは説明責任を果たす義務があると思う。しかし記者からの質問に対してその責任を果たしているとは到底思えなかった。言い訳をしないというのは、記者の質問に対して「すべておっしゃるとおりです」と認めることであろう。しかし説明が無ければ、質問した方も何だか拍子抜けになってしまう。誘導的な質問は、例え期待通りの回答を引き出したように見えても、本人の言葉ではないのだから、事実関係としてはボヤケてしまうのではないか。

彼が記者からの質問に答える力が無いのは明らかだ。今まではすべてマイペースで、ちゃらちゃら英雄気取りの感覚的な思いつきの言葉しか使っていないのだから、本当に相手に解るように話をするなんて、できるはずも無い。そのような訓練は一切受けていないし、受ける必要も無かった。只ボクシングの試合で勝つという結果を出せばよいということしか教えてもらえなかったし、そのためには相手を傷つけようが、世間の批判を浴びようがお構いなしという経験を積み上げただけなのであるから。

彼らの言動を見ていると、子供の頃から親子4人がマスコミに見初められ、世間という垣根の外で、ボクシングに勝つためには手段を選ばないというような、歪んだ純粋培養のような育てられ方をしてきたように思えてならない。相手を罵倒するのも、愚劣なパフォーマンスも、相手をめげさせて試合での自分を有利に持ってゆくための真剣な行為だったに違いない。見方を変えれば、その恫喝や悪意に満ちたパフォーマンスも、コップの中で踊る操り人形の拙い芸に過ぎないものだったのかも知れない。その意味で彼らは明らかに今の世の犠牲者のグループに仕分けできるのではないか。

しかし、かといって簡単に同情はできない。記者会見では、彼らの親子関係について盛んに質問が飛んだが、興毅君は見当違いのところで親子の絆の大切さに思いを馳せていた。誰がなんと言おうと俺の親父は大事であって、その絆を断ち切ることなんてできない!と。それは当たり前だ。親子の絆などどうでもいいなんて、誰も思わないし、絆無用論を言う人がいたら、それは人間を解らない哀れな偏屈者に過ぎないだろう。

問題は絆ではなく、一人の人間、すなわち社会的な存在として自立できているかということなのだ。簡単に言えば親離れ、子離れができているかということだ。そして自立できているということは、決して親子の絆を脅かすものではない。興毅君はまだそこが解っていない。これから新しい亀田スタイルをつくって行くという意気込みは評価するが、自立が叶わなければ、その実現は相当困難となるに違いない。 どのような人間でも、例えば斯く言う私自身も、親から離れて自分を確立するまでには、相当時間がかかっている。自分には親子べったりなどという感覚は微塵も無かったけど、それでも自立を確信できるまでにはそれなりの時間がかかった。亀田家は、親子だけではなく兄弟同士もべったりであるように見える。よく言えば大へん仲が良いし、悪く言えばもたれあっているに過ぎない。一人ひとりが自立した上での仲の良さであれば素晴らしいと思うが、未だそのレベルには達していないように見える。

今回の一連の事件では、考えさせられることが多かった。単なる興味本位ではなく、今の世の中の核心に触れる問題を内包しているように思った。その最大のものとして二つあるように思う。

その一は、個人と社会とのつながりが認知できない人間が増えていることだ。社会的な成功は、それがどのような分野であれ、個人と社会、即ち私と世の中の関係をきちんと理解認識していない限り、やがては崩壊する。それは当然のことだ。何故なら個人という存在が、社会との関係において成り立つのが人間世界だからである。この意味において、興毅君はもとより彼の尊敬するその父親もまたこのことを認知も理解もしていなかった。そしてそのような人間は彼らだけではなく、今の世に満ち溢れているように思う。

もう一つは、このような人間を大量生産しているこの世のあり方である。その要因としては様々なものが考えられるが、今回の事件との関連ではマスコミのあり方が極めて大きいと思う。視聴率などという損得の物差しで世間を興味本位の話題へ誘導し、人々の善悪の判断をさえ狂わそうとしているような気がする。そして都合が悪くなると頬被りして済まそうとする。今回の報道では、最も関係の深かった放送局が、記者会見を中継しなかったのをどう見るべきなのか、すっきりしないものが残る。マスコミは画像や文字を通して世間に計り知れない影響を及ぼしているということを、もっともっとまじめに考えて仕事をして欲しいと思う。報道の品性において、あまりに落差の大きなやり方をしないで欲しいと思う。世の中をダメにするのではなく、安心して元気が出るような働きをして欲しいと思う。

何はともあれ、出直しを期す若者の決心は支持したい。そして、これから指導に関わる人たちは、彼らを本当に強いチャンピオンに育てて欲しい。本当に強いチャンピオンは、相手の弱さを思いやる心の余裕が無ければならない。それをなくして思い上がった時、その生命は絶たれるのである。歴史上の人物の多くがそれを証明している。信長も秀吉も、思い上がった結果が滅亡の端緒となっているのだ。

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旅の反省(寸感)

2007-10-26 07:10:22 | くるま旅くらしの話

北海道の旅から戻って2ヶ月が経とうとしている。その記録を10月になってから書き始めて、さらに1ヶ月が近づいている。今回は2ヶ月の旅だったので、必然的に枚数も多くなってしまう。あまり多くならないようにと考えすぎると、唯の記録メモとなってしまいそうで、迷いながら書き続けてきたのだが、どうやらそれも終わりに近づいた。結果的には100頁を超えてしまいそうである。

書いていて時々思うのは、後楽などと言いながらも前の年とあまり変わっていない暮らしぶりにあきれ返って、いっそ「今年も去年と同じこと」と書いて締めてしまおうかなどということである。確かに2ヶ月間の時系列を追って、何処で何をして、誰と何処であって何を話し、等など旅の出来事は一通り振り返ることはできるのだが、くらしの本質にはあまりインパクトがないなあと気づくのである。記録自体がだんだん精彩を欠いてきているような気がしてならない。別に取り立てて良いものを書こうとも思っていないし、そのような能力があるとも思っていないのだが、時々このような思いに駆られるのはどういうわけなのだろう。

どのようなことにもマンネリ化は付きものだとは思うが、常に新鮮で活き活きと取り組める旅のテーマは無いものだろうか。旅の経過だけを書くのではなく、旅そのものの中にやりがいや生きがいを見出せるようなものが欲しくなるのである。蕉翁には俳句があった。山頭火には句の限界を超える言葉があった。そして多くの絵描きには旅は必需品となっている。自分の今のような旅だけでは、マンネリ化は進む一方のような気がするのである。

今までの旅のあり方の中に何かを付加し、それが柱となるような新しい何かを見つけ出さなければならないなと思った。少し時間がかかるかも知れないけど、このままでは旅の認知症の世界に埋没して行ってしまいそうな感じがする。

そう思いながらも、やっぱり旅の記録は残しておかなければならないだろう。それが単なる自己満足のためであっても、生きている証を自分自身で確認できる材料としては、意味があるように思うのである。いささか連日の書く作業に疲れての愚痴となってしまったようだ。

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