山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

旅と歩き

2007-10-02 07:12:08 | 宵宵妄話

急に涼しくなりました。明日からもう一度暑さの揺り戻しが来るらしいですが、もう大丈夫のような気がします。何たって、10月に入っているのですから。我が菜園の花オクラも、咲かせる花の数をめっきり減らして、淋しくなってきました。あと1ヵ月もすれば今度は庭に植えた木立ダリアが大輪の花で天空を彩ってくれると思って、楽しみにしています。

涼しくなって嬉しいのは、毎日の散歩が朝夕だけではなく、日中でも楽しめるようになることです。暑い間は、日中の散策は無理なためどうしても朝夕となります。夏の涼しさは何と言っても朝が一番です。夕方はどうしても昼の暑さを引きずっていますので、楽しみの少ない歩きとなってしまいます。これからはどの時間帯でも歩きを楽しめるようになりますので、ホッとしています。

ところで今日は旅と歩きについて書いてみることにします。このブログの中でも何回か歩きについて書いていますが、今後も時々書くことになると思います。

私はくるま旅くらしを提唱していますが、旅の本質は歩きの中にあると思っています。何故かと言えば、車というのは単なる移動・宿泊手段であって、動いている間に得られるものは極めて少ないと考えるからです。人間の視野や感覚は、移動のスピードが速まれば速まるほど狭く、小さくなり見落としが多くなるように思います。そしてその反対に移動のスピードが遅くなればなるほど視野は広がり、感覚の働きは力を発揮するようになるのです。旅にたくさんの出会いを期待し、感動を求めようとするなら、移動に力を入れ過ぎて動き回ってばかりいると、得るものは却って少なくなってしまうのではないかと考えます。限られた時間の中では、つい欲を出して此処も、其処も訪ねてみようと動き回りますが、その気持ちはわかるとしても、現役時代なら止むを得ないとして、リタイア後のくるま旅では、それは旅の本当の楽しみに気づきにくいスタイルのような気がします。

本当の旅というのは、実はくるま旅ではなく、歩きや止まりの中にあるのだと思っています。歩きは、歩きそのものの中に旅があると言ってもいいほど、たくさんの発見をもたらします。特に人以外のものとの出会いは、多くの場合歩きの中にあるように思います。走っていて美しい景観や見たことも無いような山川草木に出会うのはラッキーですが、多くの場合瞬時の印象として消え去ることが多いのは、その現場に停まることが少なく、大抵は走りすぎてしまうからなのだと思います。

私もくるま旅を始めてかなり長い間走り回ることばかりに気をとられており、特に現役時代は、限られた期間を走り回って日本各地を訪ねていました。旅から戻って、確かにそこへ行ったという実感はあるのですが、しばらく経つとただそれだけのことで終わってしまっていることに気がつきます。単に名所旧跡を見聞しただけの記憶しか残らないのです。

松尾芭蕉や菅江真澄や大町桂月といった人たちの旅の記録から窺えるのは、ただ其処へ行ったという様なものではなく、出会いや発見に対するもっと深い感動を伴ったものだったのではないかということです。無論このような旅の達人と同じ感性を自分が持ち合わせているなどと思い上がってはいませんが、それにしてもただ其処を訪ねているだけという感慨は、何なのだろうと思ったのでした。

よくよく考えてみれば、車を使う利便さにあやかってあっという間にその目的地に到着し、あっという間にその地を見て立ち去り、次の目的地に向かうという。その繰り返しの連続は、旅というよりも旅という名に組み込まれた訪問スケジュールをこなすビジネスを遂行しているようなもので、それがビジネスと違うのは経済活動行為の枠からは外れているということに過ぎない様に思ったのです。

そして昔の旅の先達が残された多くの感動の記録やエピソードは、その旅のスタイルが歩きにあったことが大きく影響しているのではないかと思ったのです。勿論現代もこれからも、新しい移動手段を使っての旅のスタイルは時代とともに変わってゆくのだと思いますが、人間がものを見る力が物理的に変わるわけではないのですから、旅での様々な出会いや感動はやっぱり移動中ではなく、移動先や目的地を歩いている時や止まっている時に得られることが多いのだと思います。

少し理屈が多くなり過ぎました。言いたいのは、旅における出会いや発見は、スピードを落とせば落とすほどチャンスが多くなるということであり、その基本が歩きにあるということです。旅を点の移動から線の移動へ、そして面の広がりへと楽しみを拡大してくれるのは、歩きであり止りであるということです。旅に移動は不可欠ですが、それは旅の楽しみの本質では無く、歩きや立ち止まりの中にこそより豊かな出会いや発見そして感動が用意されているのだと考えます。

私の場合は、何度も書きましたように糖尿病と強制的な付き合いを求められる身体でありますので、実は歩きは毎日の生活の中に組み込まれているのです。もう20年近くも歩きを続けておりますと、歩くのが当たり前となり、歩かない安逸よりも歩く厳しさの方により多くの喜びを感ずるようになっています。現代人は100m先のコンビニへ行くにも車を使いたいと願う人が多いようですが、私はその意味では現代から完全に取り残された化石人なのかもしれません。しかし、この化石人は、家に居るときの歩きも嬉々として出かけるのですが、旅先での歩きの楽しみは、在宅の層倍であり、それを味わいたくて旅に出掛けるのかもしれません。

雨も止んでいるようです。これから散歩に出かけます。今日は隣町(つくばみらい市)の田んぼを横切り、小貝川に架かる沈下橋を渡って、しばらく堤防を歩いてTX守谷駅の辺りを通って、最後に借りている菜園をチエックして2時間近く、約8kmほどを歩く予定です。このような毎日の小さな旅が、家に居る時の最大の楽しみなのです。

コメント
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