「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行きかふ年も又旅人也。………」は芭蕉の奥の細道の書き出しであり、超有名な文章だが、人はそれぞれに与えられた時間を、その人なりに使いながら生きて行く。それも又旅なのだというこの一文は、「行きかふ」のが『人』ではなく『年』というところに味の深さがあるように思う。人生も又旅であり、たくさんの出会いとその大きさによって、その人の人生の多くが決まってゆくように思う。自分の人生は自分自身が切り開くというような主張は、思い上がりに過ぎないということを、旅をするようになってからしみじみ理解できるようになった。人はお陰様でしか自分の人生を拓けないように思うのである。そしてお陰様とは、出会いのことを言うのである。
ここ1週間、家内が母の介護で家を留守にしている。普段の旅くらしの中で、身の回りのこと、特に食事のことは、自分ひとりで出来るように努めている所為か、倅の食事を用意したりの主夫暮らしに何の不便も感じていない。倅から料理が不味いとは言われたこともなく、概して好評のようである。このままずーっとこの暮らしが続くとなると、そうは行かないとは思うが、………。
考えてみれば、今までの自分たちのくるま旅は全て二人旅だった。リタイア後の人生は、お大師さまならぬ神さんと同行二人というのが当たり前だと思っていたので、二人旅に何の疑問も感じていなかったのだが、こうして家内が不在の時間を過ごしていると、旅というのは本来一人というのが当然なのかもしれないなと、ふと思ったのである。
そういえば、実際の旅の中では、一人旅の男や、女性を結構多く見ている。圧倒的に男の方が多いが、稀に女性を見かけることもある。男の方は、つれあいを亡くされての一人旅の方も居られるが、神さんと考えが合わず、一緒に旅が出来なくてやむなく一人旅というのが案外多いらしい。家内のコメントでは、概して男の一人旅というのはむさ苦しく不潔感が漂っているということだ。確かに立派な旅車でも、車内に洗濯をしない洗濯物が溢れていたり、所かまわず雑多な物が整理も掃除もされずに飛散しているのを見たりすると、さもあらんと思いたくなる。その様な男を夫に持ってしまった女性は、旅先でも食事やら洗濯やら在宅時と同じ仕事を、狭い不便な車の中で強いられ、ゆっくり観光見物も出来はしないと考えれば、くるま旅などは、オオヤダー、ということになるのかも知れない。
ここで少し脇道に逸れて、夫婦二人のくるま旅の必要条件について述べてみたい。夫婦というのは想像もつかないほど複雑な組み合わせがあるので、当て嵌まらないかも知れないけど、自分たちの場合を取り上げることにしたい。
先ず第一は、二人とも旅に出てみたいという思いのようなものが無ければ二人旅は成り立たない。どちらか一方の方は僅かでもいいから、もう一人が強い願望を持っていれば二人旅は成り立つ。人間というのは、弱いものに引っ張られるよりも強いものに引っ張られるのが普通だから、多くの場合は強いものが勝つことになっている。
次に必要なのは、在宅の時と同じくらしの姿、力関係では旅は長続きしないと思う。とくに男性の側が家に居る時と同じように、家事は一切神さん任せで、運転だけしかしないという様な夫婦関係では、よほど旦那に惚れているか弱みがあるかで無い限りは、多くのご婦人は、狭苦しい車の中での旅くらしなど真っ平ご免だと考えるに違いない。従ってこの場合も二人旅は成り立ちにくい。
三つ目は、旅先ではいつも二人一緒に同じ行動をとらなければならないと考え、信じているような夫婦も旅くらしに疑問を持つようになるに違いない。残り少ない人生を二人一緒でずーっと時間を共有できることに無上の幸せを感じている夫婦は別として、そのような夫婦は稀有の存在だと思う(観念的には理解できても、生き物としての人間は我がままなので、自由行動を欲しがるのが普通だと思う)から、旅先では時として別行動をとるのが当たり前という自由さが保証されることが大切のように思う。勿論一緒の行動をとる時の方が多いのは当然であろう。
この3つが基本要件だと私は思っている。そしてこれを守り、実行する応用編は無数にあると思う。旅というのは、頭の中で考えるようなものではなく、実際の世の中での実践行動なのだから、二人で良いくるま旅をしようと思うのなら、この3つの要件を行動としてしっかり満たさなければならないと思う。旅先で出会う夫婦2人旅の方たちを見ていると、多くの方がこの要件をきちんと満たしておられるようだ。簡単に言えば、自然に二人が協力し合って、くるま旅という新しい暮らしをつくってゆくという考えの下に、これらの要件を着実に実践するということであろう。
さて、元に戻って、今日もう一つ言いたいのは一人旅のことである。実は私はひとり旅をしたいと密かに思っている。人間は一つの望みが達成されると何時までもそれに浸っていることが出来ないようだ。決して二人旅に飽きたとか言うことでは無いのだが、何故か一人旅がして見たい。今まで一人旅の人をたくさん見てきたが、それを羨ましいと思ったことは一度もなく、むしろ気の毒に思っていたのだが、何故かこの頃は一人旅がして見たいと思っている。
ところが今年の北海道の旅で、調子に乗り過ぎて前後不覚的な酔いの醜態を家内に見られてしまったので、もう一人で旅に出すなどとんでもないとキツク言われてしまったのである。つまり、一人で旅に出たりすると、悪酔いなどして周りに迷惑をかけるだけでなく、自らもとんでもない墓穴を掘るようなことをし兼ねないという訳なのだ。実に拙い失態だったと反省している。事実が証明してしまったことには、弁明の余地がない。この出来事を忘れて貰うには、相当の時間が必要だろう。生きている間はダメなのかも知れない。
一人旅が二人旅の窮屈さから開放される旅だなどとは全く思っていない。一人旅で何か家内には内緒の良いこと(=悪いこと?)をしようなどとも思っていない。もうその様なことをしたいと願うような歳では無い。それにも拘らず一人旅がしてみたいのである。新しい旅の姿が見出せるような気がするのである。
いつも楽しく拝読しております。「出会い」を大切にされる山本様の視点は、常に豊かな示唆に溢れており、時に、心を深く打たれることがあります。
「くるま旅」の先達として、敬愛しております。
その「くるま旅」に関して、いつも山本様に勉強させていただきながら、今日の記事を読ませていただくかぎり、一つだけ、山本様に自慢(?)できるものがあることに気づきました。
エラソーに自慢できる唯一のものは、「一人旅」の頻度です。
私も、遊びでキャンピングカーを使うときは、ほとんど家内と「ふたり旅」ですが、10年ほど昔は、「全国キャンプ場ガイド」を編集していた関係で、取材のために各地のキャンプ場を一人でめぐっておりました。
少しでも効率よくキャンプ場をめぐるために、取材先のキャンプ場を泊まることは少なく、ひとつ取材しては次の取材先に移動するような旅になってしまい、夜はほとんど山奥の石切り場のような所に宿泊しておりました。
窓の外を覗いても明かり一つ見えない真っ暗闇の宿泊先なので、夜は車内で一人酒。
こういうときの孤独を癒してくれるのは、本と音楽でした。
気を紛らわすものの多い文明社会の中にいるのと違い、娯楽のない車内では、読む本の内容が鮮明に心に刻み込まれ、聞く音楽もストレートに心に染み入るように思いました。
家内と旅するときも、車内で音楽は聞きますが、それは会話を広げるための材料で、一人旅で聞く音楽とは違うように感じます。
山本様も、よく書物を読まれていらっしゃいますが、一人旅の読書もなかなかのものです。また、手尺酒と音楽も相性がいいです。
感性の豊かさに恵まれた山本様のこと、たまには奥様を休ませてあげて、好きな本と音楽だけ携え、一人旅されると新しい境地も広がるように思います。
山本様のこと、一人旅で開拓された新境地は、また私などよりはるかに深いものがあるはずなので、そこで得た知見を、何かの機会にご指導いただけると楽しいかな…と思いました。