山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

今朝の散歩から:子供たちの未来

2007-10-12 05:01:11 | くるま旅くらしの話

 今日の散歩で、ガッカリ、ビックリ、ドッキリしたことがある。それを書いてみたい。

 いつもと同じように7kmほどを歩いて、我が家近くになると、道を挟んで小学校と中学校が向かい合っている。その横が散策の道となっており、その脇に小さなサツマイモ畑がつくられている。通りすがりにふと見ると、サツマイモの花が咲いていた。珍しいなとカメラに収めたのだが、よく見ると植えられたサツマイモは、どれもが2mにも届かないような成長振りなのに気づきビックリしたのである。秋の収穫期を迎えたサツマイモは、その旺盛な生長力を駆って、普通なら畑を埋め尽くし道の外まで溢れんばかりの葉を茂らせている筈なのに、である。

 確かこの畑は、学校の子供たちが作っている筈だと思い起した。小学校なのか中学校なのかは、標示板が無くなっているので判別できないのだが、子供たちが苗を植え、作っている畑にちがいない。もう植えてから半年近くになるというのに、この惨状は一体どういうことなのだろう。

 その原因は明らかなようだ。植えたままで一度も肥料を与えていないからであろう。更には、最初の植え付けの時も何一つ肥料をやらなかったのではないか。花が咲いているというのも、子孫を残すための根を太らせることができないので、せめて花を咲かせてそこから次世代につないで行こうとする、サツマイモの必死の本能のなせる業ではないか。時々見かけるサツマイモの花は、その様な痩せた態様の畑が多い。

 しばらく畑の傍に佇(たたず)んで、そのあまりの酷さを眺めたのだった。どうしてこのような畑が生まれているのかを考えずにはいられなかった。

 子供たちは、それなりの期待や夢を持って畑を耕し、苗を一本、一本植えたに違いない。秋には豊かに実ったサツマイモが収穫できることを思ったのに違いない。しかし、それはただ結果の良さを思っただけであって、その後の夢を育てるための努力や配慮はすっかり忘れてしまったのか、それとも結果を出すためのプロセスは不要だと考えたのか。とにかくその後は何もせずに放置してきたことは間違いない。

 確かクラス全体で畑を作っていたようだから、一人の子供が手入れを忘れたのではなく、全員が何もしなかったと想像できる。そして当然のことながら子供たちの指導に当る先生が居るはずだから、その先生達も苗を植えること以外は何も指導をしていないのかもしれない。若しかしたら、苗を買っただけで、肥料を買う予算が無なってしまい、それっきりにでもなったのかもしれない。いろいろと思いつく原因を探してみたが、何だか良くわからないのである。

 そして最後に思ったのは、この現象は今の世の中を象徴しているのではないか。そしてもしこの延長線上に子供たちの未来があるとすれば、それは衰退と破滅ではないかということだった。

 農作業というのは、幾つもの辛さを伴うものである。土地を耕す辛さ、堆肥や元肥を施す辛さ、サツマイモの苗を手植えする時の半腰の辛さ、照りつける太陽の下での除草作業の辛さ、などなど幾つもの厳しい労働のプロセスを経て初めて収穫の歓び、それを味わう喜びを得ることができるのである。

  このような当たり前のプロセスを体験することに学習の意義があると思うのだが、今頃の先生は一体何を考えているのだろうか。他のことに追い掛け回されていて、サツマイモのことなど構ってはおれないのだろうか。先生自身がPTAのいじめに会い、その対応に追われサツマイモ育ての指導どころでは無いということなのだろうか。この先、痩せた糸くずのようなサツマイモを、子供たちと一緒に笑い、バカにしながら、収穫だけは済ますのだろうか。原因やプロセスの大切さを考えるのを置き去りにして、ただ夢だけを想うような教育が、子供たちの未来を明るく拓いて行くとでも思っているのだろうか。幾多の疑問が頭を駆け巡ったのだった。

 口先だけ、虚像だけの世界が今の世を相当な領域まで支配し始めているような気がするのである。昨日も書いたけど、携帯やネットの世界の、そこで飛び交う情報は本質的にバーチャル(=仮想)なのだ。実物は手にとって、会って見て初めて本物となるのである。サツマイモは、苗を植えさえすれば思い描く結果が出るものであるなどという考えは、詐欺に等しい。汗を流さずによい結果だけを求めたいという人間ばかりが育ったとしたら、この世の未来は4千年の文明の歴史が積み上げてきた人間社会の在り様を本質的に変えてしまうに違いない。

 批判はともかくとして、痩せたサツマイモの蔓の先に1輪咲いた花を見つめながら、このような世の中を作り出した責任の一端は、我々世代が大きく関わっているのではないかとも思った。このような流れを何とか止められないものだろうか。私には二人の孫娘が居るのだが、彼女たちが大人になった時には、果たしてこの影響をどのようにして払い除けてゆくのだろうか。それができるのだろうか。子供たちの未来には、たくさんの危うさが横たわっているように思えて、ドキリとしたのである。

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