今日は珍しく講演を聞きに行った。守谷市社会福祉協議会主催の地域ケア講演・映画会というもので、「目で見る認知症ケア」というテーマで、内容は茨城キリスト教大学准教授六角僚子氏の講演と劇団「いくり」による寸劇そして映画「明日の記憶」の上演だった。
実はこの講演をどうしても見なければならない理由があった。それは家内の母が、最近物忘れがひどくなり、診断を受けたところ境界型との結果を知らされたからである。40台の半ば過ぎで夫を事故で失った義母は、それから4人の娘を育て上げ、世に送り出してくれたのだが、20年ほど前、直腸癌を患い大手術の結果人工肛門に頼る暮らしを余儀なくされていた。それでも気丈な義母はオストメイトの会の役員を長い間勤め、一人暮らしで頑張って来てくれていたのだが、この春その役を辞し、家に閉じこもるようになってから急速に物忘れがひどくなったようで、4人の娘たちの心配も心配だけでは済まない状態となっていたのである。
六角先生のお話は実に明快で、認知症というのが何なのかを理解させて頂いた。理論・理屈だけではなく実体験に基づく臨床現場のお話をして頂き、加えて劇団「いくリ」(ひたちなか市のグループホームいくり苑勤務の3名の皆さんで構成する劇団)による寸劇でその実態を教えて頂き、更に渡邊謙・樋口可南子主演の映画「明日の記憶」では49歳にしてアルツハイマー病を発症した夫とそれを支える妻との愛情の物語を通して、認知症の何であるかを知らしめて頂いたのであった。
認知症というのは「一旦正常に発達した知能が、日常生活、社会生活を営めない程度にまで持続的に衰退した病的状態」を言うのであり、それは病の総称を言うのだという。従って病の症状は様々であり、そのレベルも様々ということになる。この病の怖さは、その症状が病かどうかを認めるのが難しいということにある。周囲の健康な人から見れば、ウソやトボケとしか思えないような病の症状をそれと判断するのは極めて困難だ。だからバカにされたと思って言い返したり、正論をぶつけたりして病の患者との関係が急速に悪化したりするのである。また、病と知ってからも正常と異常の間を行ったり来たりしている相手に付き合いきれなくなって、いたたまれなくなるのである。病を病と受け止めにくい症状は、真に厄介だと思う。壊れているのは脳であり、それ以外の身体は正常に機能しているのだから、周囲の人の戸惑いは大きい。
ところで、認知症の話をするのが目的ではない。認知症とは無関係の生き方の道がくるま旅くらしの中にあるという可能性の話をしたい。
何でもそうだけど、病というのは、それに取り付かれてから騒ぐのではなく、取り付かれないようにするのが肝要だと思う。私は糖尿病に取り付かれてしまったが、この病は幸いなことに節制をすれば健康のレベルに引上げてくれ、不節制をするとたちまち病のレベルに引き吊り下ろすという性格のものなので、節制を守りさえすれば健康は保持可能なのだ。不治の病だけど、私のような無謀に走りやすいタイプの人間には、終生のお灸を据えられているようで、却ってありがたいことだと思っている。
私は、旅が間違いなく人間を元気にしてくれると確信している。旅は心も身体も元気にしてくれるのだ。旅に出て心が萎え、身体が衰弱してしまったという人を見たことが無い。むしろその反対で、病を押して旅に出た人が、予想を超えて元気になり健康を回復したという話を多く聞く。私自身も家にいる時よりも旅に出掛けているときのほうが、より刺激的で、生きていることを実感できている。
定年後の人生の長い時間を、毎日同じような過ごし方に明け暮れ、そこに刺激というか生きている実感を強く感じることが少なければ、どんな人でも生きる活力は失われてゆくように思えるのである。認知症という病は、その隙に潜入し少しずつ脳を蝕んでゆくに違いない。脳細胞を活性化する方法を、何時でもどんな所でも自らに課すことが出来れば、認知症とは無縁の世界に生きることが可能のように思うが、それが出来る人はそれほど多くはないと思う。(但し、脳細胞の病的破壊に基づくアルツハイマー症の場合は、これが当てはまらないと思う)
旅は自らに刺激を課さなくても、旅に出るだけで刺激的である。刺激的な環境に身を置くことこそが旅の本質だからである。ここで刺激的というのは、必ずしも興奮を伴うような刺激のことではない。落ち着いた刺激のことをイメージしている。昨日と同じ今日、今日と同じ明日ではなく、昨日と違う今日、今日と違う明日が期待できるのが旅の本質だからである。私は昨日と今日の違いが確認できる自分である限り、認知症などとは無縁の生き方が可能なのではないかと思っている。そしてその生き方は、旅という環境の中に豊かに存在しているように思っている。
六角先生のお話の中に、現在認知症の患者が170万人居り、これは65歳以上高齢者の14人に一人に相当するという。そして約30年後の2035年にはこれが340万人に増え、高齢者の7人に一人が認知症と予想されるということだ。実に恐ろしい想定だが、恐らく現状のまま推移すれば、この想定は違わないのであろう。340万という数値は、この病に係わる人間がその4、5倍は居ることを意味しているのを考えれば、やがてこの世は老人で押しつぶされてしまうようにも思える。
昨日のブログにもくるま旅の環境整備への期待を取り上げたが、このような認知症以外にも老人の無為の生き様がもたらす社会への恐るべき影響を改善するためにも、それがささやかな貢献に過ぎなくても、社会がくるま旅をバックアップするニーズはあるのではないか。講演を聴きながら、家内と二人で、もっと早く母を旅に連れ出せばよかったのかなと反省し、同時に自分たちのこれからの人生に旅が不可欠であることを再確認したのであった。