今日は完全に愚痴の話です。
タイトルの後楽ですが、持論として旅には3つのステージがあり、それは前楽(又は予楽)、現楽、後楽なのだ、などといっており、それは間違いないという確信があるのですが、この頃はどうも後楽が重荷になり出したような気がします。
後楽というのは、終わった旅を楽しむというものなのですが、これには様々な方法が考えられます。一番幸せな楽しみ方は、旅の報告を素直に一緒に喜んでくれる人に、写真などを見せながら語り、聴いて頂くことでありましょう。しかし心底他人の旅の話を聴いて喜ぶような人はそれほど多くはないと思います。多くの場合は、とりあえず聞いてくれるというレベルでしょう。調子に乗って旅の思い出などを話すと、時にはいい加減にしろ、自分は行きたくても行けないんだ、身勝手にいい気分になるな!と内心嫌がらせをされていると感じている人がいるかも知れません。
それで、私の場合は、誰にも邪魔されず自分でたっぷりと旅の思い出を振り返る方法として、旅の記録を作ることを思い立ったわけです。旅の間に作成したメモ(毎日訪問・滞在先ごとに都度感じたことなどをメモしておく)と写真(毎日印象に残る場面をデジカメで撮影し、タイトルをつけ、日記として保存しておく)と日記(これは長年の習慣)、それにこの頃はブログの投稿記事などを参照しながら、「でこぼこ日記」というタイトルでまとめ、それを自作の小冊子として完成させます。
この方法ですと、かなり丁寧に旅の振り返りができ、写真などではその時のことをありありと思い起こすことができます。何しろ日記なので、毎日時間を追ってその日の出来事を辿る必要があるからです。1ヶ月を超える長旅でも、この方法ですと、思い起こしは可能です。誰にも邪魔されず、一人ニヤニヤしたり深刻ぶったりしながらじっくりと旅の思い出を辿るのは、もしかしたら現楽(=旅の実際)以上の楽しみがあるかも知れません。
しかし、この頃はこの楽しみに少し負担を感ずるようになりました。振り返りはいいのですが、肝心の記録の作成に手間取るようになってきたのです。今年の北海道の旅は、8月末で終わっているのですが、2ヶ月を過ぎようとする今でも記録の方は完成を見ていません。多少野暮用的なこともあって、それが阻害しているのかもしれませんが、何しろなかなかその気が起きないのです。この、その気という奴は、何事においてもとても大切で、集中して何事かを為すためには不可欠です。無理してその気になろうとしても、どっこいそうはゆかないという、厄介な奴なのです。それがこの頃はさっぱり動いてくれないのです。
それでこれは何なのだろうと思いを巡らしてみたのですが、ふと黄落という言葉が思い浮かびました。黄落というのは、黄葉した木の葉が落ちてゆく様、秋の落葉の様子をイメージさせる言葉なのですが、この言葉からは人生の黄葉と落葉が思い浮かび、同時に佐江衆一氏の名著「黄落」を思い起こしたのでした。今まであまり気づかずにいたのですが、その気が起きないというのは、もしかしたら自分に黄落現象が訪れ始めたのではないか、と。
黄葉の始まりがいつ、どのように為されるのか、科学的には説明がつくかもしれませんが、葉っぱそのものは、決して認識はしていないことだろうと思います。気づいたら黄葉が始まっていたというのが普通なのだと思います。そして気づくのが遅ければ遅いほど、黄葉の葉っぱは、落下も早いということになるわけです。
さて、わが身が今どのレベルにあるのかは定かではありませんが、これからしばらくは、なかなかことが進まない度に人生の黄落を考え、やがては弁明に使うようになるのではないかと思ったのでした。それにしても今回は遅れておりますなあ。
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