山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

金沢(かねざわ)の柵のこと

2007-06-25 06:44:21 | くるま旅くらしの話

国道13号線の横手市郊外を大仙市に向って走ると、「後三年の役金沢(かねざわ)資料館」の案内板があり、道路脇にその資料館があります。ここを何度も通っているのですが、今までに一度も立ち寄ったことがありませんでした。今回はどうしても寄って見るつもりでおり、それが実現した次第です。

東北を旅していると、何箇所か「○○の柵」という史跡の案内板に出会います。最初は昔の牧場の仕切りでもあったのかな、という程度の認識でしたが、何度も金沢の柵の傍を通って、「後三年」というJRの駅名があるのを知り、そういえば確か前九年・後三年の役とか言うのがあったな、と気づいたのでした。気づいたとは言うものの、その内容は知らず、柵というのは、その戦に何か関係があるものらしいと思っただけで、ずーっと放置してきたのでした。今回はその怠慢を許さず、ちゃんと柵の意味も、その戦に絡む歴史なども知りたいと思ったのでした。

雨降りの中、資料館に入り、VTRを観た後、館内の様々な資料を見学して、ようやく往時の東北地方の様子の輪郭が浮かぶようになりました。しかし、細かな人物関係は複雑で、とてもいっぺんに覚えられるものではありません。

前九年の役というのは、以前NHKの大河ドラマで放映された「炎立つ」の安倍頼時・貞任等安倍一族と中央政権との戦いであり、このときには中央軍に同じ東北の豪族清原一族が味方して、安倍一族を約9年かかって滅ぼしたのでした。そしてそれから20年経って、今度はその清原一族に内紛が起こり、これに再び中央政権が絡んで宗家が滅び一族の中から清原清衡という人が勝利を収めて、姓を藤原と改め、居住地を平泉に遷して、いわゆる藤原三代の平泉の黄金文化を残す礎を築いたという歴史です。

東北の歴史は、中央政権と深く関わっているということを改めて知りました。その昔の坂上田村麻呂に与えられた征夷大将軍という称号も、はるかな遠地にあって、中央のいうことに従わない蝦夷(えみし)の連中を、何とか従わせようと、遠征する将官に与えられたものであり、東北地方あっての称号でした。それは東北が中央政権に取り入れられた後にも、武官の最高称号として明治になるまで機能したわけです。

また、全国にはたくさんの八幡宮がありますが、これらは戦の神様として讃えられた八幡太郎義家を祀ったものだと聞きます。八幡太郎義家、即ち源義家は、まさにこの当時の中央政権の代表である陸奥守として、これらの戦に深く関わり悪戦苦闘してようやく勝利し、名を後世に残したのでした。もしこの時代に東北側が勝利したとしたら、全国に八幡神社は生まれなかったのかも知れません。(このようなことを妄想というのだと思いますが。笑)

言いたいのは、中世の全国統一、つまり大和朝廷が真に日本国を統一できるのは、この後三年の役までかかったのではないかということです。それほどに東北は中央政権にとって、手を焼くエリアだったし、東北に住む人たちから見れば、地方主権を脅かす中央政権への反発は大きかったのだと思います。

これら一連の歴史の流れの中で思うのは、人間というのは権力に囚われ、感情に揺さぶられ、意地を張り、それらを通すためには血のつながりなどは無縁の、非情な存在となり得るものなのだ、ということでした。中央の陰謀策術が個々人の欲と複雑に絡み合い、争いの果てに僅かな小康を得て、然る後に再び同様の欲望が再発して争い、戦となりそれが収まって、又一つの歴史が作られてゆく。そのような感慨を抱かずには居られませんでした。そして、それは今尚世界的なレベルで繰り返されているような気がします。

1時間ほどの見学を終えた後、近くにある金沢公園を歩くことにしました。その昔の柵の跡が公園となっていました。柵というのは、古城というか、城には至らぬ砦のようなものをいうのだというのがわかりました。金沢柵は難攻不落であり、どうしても落ちないため新たに兵糧攻めという戦術が生まれた所でもあるということです。後に秀吉が得意としたこの戦術は、真に陰険な戦法のような気がします。勝つためには手段を選ばないというのが戦だとは思いますが、手段を選んでその結果敗死しても、その手段が戦らしい潔いもの(これはイメージだけの世界で言えることなのでしょうが)であればその方に自分は美学を感じます。その意味では織田信長が今川を討った奇襲戦法は納得行く気がします。しかし、もともと殺し合いの戦などというものはあってはならない存在でありましょう。

公園を歩いていると、景正功名塚というのがありました。説明板によれば、後三年の役に、16歳の初陣ながら大活躍をして、幾つかの功名を立てた鎌倉権五郎景正という人が、将軍義家の命令でここに敵の屍を集めて葬り、その弔いのために塚の上に杉を植えたということです。杉の木は戦後間もない時期に焼失したとのことでした。16歳にして屍を埋め、弔うという行為は、功名を上げるということとどの様に関連するのか、今の世の中では到底理解し得ない不可解な感情が胸を過ぎりました。戦というものは、やはり人間の異常感覚の中でしか行なえないもののような気がしました。

東北には金沢の柵のほかにも幾つかの名のある柵が残っているようです。それぞれの柵にそれぞれの哀しい歴史が埋まっているような気がします。今後も機会があれば、それらを一つずつ訪ねて見たいと思っています。

コメント
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